豊姫神社(ゆたひめじんじゃ)は 元々は東上村に鎮座していた社殿を大正十四年(1925)五月三日 本山天満宮(ほんざんてんまんぐう)に合祀して後日石祠を建立し 本山天満宮の境内に遷座したものです 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社となっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
豊姫神社(Yutahime shrine)〈天満宮境内〉
本山天満宮(Honzan tenmangu)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県久留米市上津町2077-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
天満神社《主》菅原神(すがわらのかみ)
豊姫神社《主》豊比咩命神(とよひめのかみ)
或は 高良玉垂命神の配偶神゛豊姫(ゆたひめ)゛とも
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『福岡県神社誌』中巻〈昭和20年〉に記される内容
【抜粋意訳】
村社 天満神社
三井郡上津荒木村大字 上津荒木(こうだらき)字本山
祭神 菅原神
由緒 不詳、明治六年三月十四日村社に定めらる。字本山無格社天満神社を明治四十三年十一月二日合併許可、祭神同一なるを以て合霊す。
例祭日 十一月五日
神饌幣帛供進指定 大正十三年十月三十日主なる建築物 神殿、拝殿、社務所
境内坪数 三千五百十三坪 官有地
氏子区域及戸数 二百八十戸境内神社
水神社、水大神社、北原神社、豊姫神社、淡島神社、佐屋神社
【原文参照】
【由 緒 (History)】
天満宮由来
当社は字問の神様として知られる菅原道真公を祭神とし敷地境内併せて九千㎡の森の中(こ鎮座しています
寛文十年(1670今より317年前)当社の宮司、河内、宮内及び当村庄屋、市右衞門が有馬藩に提出した報告書によると当社は上津荒木村(千束・本山•上津•二軒茶屋•野添)の氏神で社殿は二間に三間の茅葺き
陰暦十一月十五日村中で祭礼を行いお供え上げ御酒を備え御神楽相つとめたとあります
鎮座の時期については同書上でも不明としていますが中世までさかのぼることは確かと思われ 又境内は古代遺跡で縄文石器弥生石器も採集されています現在の社殿の建立の時期についても不明ですが 鳥居・こま犬等の刻銘から文政の頃かと推定されます。
本殿東奥に三つの祠があり、中央が豊姫宮(別名 乙姫宮)向かって右は若宮八幡宮 左は大神社です 共に上村(上津)区域に鎮座していたものを大正十四年現在地に移転したもので 中央の祭神は女の神 安産の神「豊比咩命神」で高良の神(玉垂命神)の配偶神だと云われています この神は一説によれば天長四年(827年)の勧請ともいわれその後 玉垂命神と並んで神階を授けられ 寛平九年(897)には正四位上に叙されています 正史上の豊比咩神は玉垂命神と同殿か或いは両宮相並んで鎮座していたもののようです
「教育委員会発行誌より」現地案内板より
石祠
天満宮裏手に数基の石祠があるが、中でも若宮八幡宮 豊姫神社 天神社の三石祠は巨大さと華麗さで瞠目すべきものがある。
最大規模の豊姫宮の石祠は、殿部の高さだけでも150センチメートル近くあり規模の大きさでは市内随一である。下から壇石•床石・殿部・天井石•屋根石と組み重ね屋根は唐破風付き入母屋型で、華美な花紋をあしらった彫刻を施す。殿部は背面と両側面を八個の板石を組んで構成し、前面に二枚の扉石を立てる。特徴的なのは、扉前に二本柱を立て貫をさし渡して鳥井型の造り出しを設けたことで豪華な宮殿を模している。これだけ規模が大きくなると各部の用材も一石で処理することがかなわず、数石の組み合わせで構築される。他の二石祠もやや小型ながら、類型である。大正十四年長野の石工棟梁 池田竹次郎・内山佐次郎の力作で近代石造工芸品の中でも異彩を放っている。現地案内板より
天満宮と子の日の松
当天満宮は御井町の高良大社と深い関わりを持っています。
古代より毎年旧正月初子(ね)の日に氏子中にて同天満宮境内或いは付近の高良台より小松三本を根堀りし高良大社前に運び植えたといわれています。
その後明治維新の頃に中断し昭和十三年高良社の要望もあって再興されたが現在再び中断されています
元来「子の日の松」とは 正月初めの子の日に野山に出て小松三本を根引きし若菜を若菜を引いて遊び国家安泰を祈り延命息災を祝って宴遊する平安貴人公卿らの遊びであり宮中でも当日は「子の日の松」を賜る例がありましたこの平安貴族の遊びがどうして高良山と当地を結ぶ行事として行れたか興味深いものがあり その起源は不明ですが古支書、高良社に残る画緣起等により古い伝統をもつ行事であったと思われます
高良山のかつての名木の松はすべてこの「子の日の松」の成長したものであり高良内村社の用材となつた七本松・豊臣秀吉が旗を結びつけたと伝えられる仐松等はともに「子の日の松」の姿であったと云われているが残念ながらいずれも今は残っていません
この由緒ある郷土の伝統行事を地元住民の皆様により平成十二年旧正月初子の日よ復活致しました久留米市教育委員会発行「ふるさとの歴史を訪ねて」より
現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・北原神社
北原神社
祭神 大名持命 少彦名命
少彦名命(すくなひこなのみこと)体が小さくて敏捷忍耐力に富み、大國主命(大名持命で素戔嗚尊の子)と協力して國土の経営にあたり医薬禁厭(まじない)などの法を創めたという。
・豊姫神社の他 石祠多数あり
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に封戸 並びに位田が充てられています
【抜粋意訳】
卷九 天安元年(八五七)冬十月丁卯〈三〉
○丁卯 在に筑後國に從三位 高良玉垂命名神 從五位下豐比咩(トヨヒメノ)神等 充封戸(フツフゴ)并位田を 又請ふ僧六十人を於冷然院に限て三ケ日を轉に讀 大般若經
【原文参照】
天安元年(857)5月に豊比咩神社の社殿を焼失した際 高良玉垂宮にも被害があった記録が記されています
【抜粋意訳】
卷十 天安二年(八五八)夏五月甲戌〈十四〉
○甲戌 雨終夜不止 先是より 高良玉垂神 及び 比咩神 等の正殿遇く失火 位記皆被に燒損 仍今日勘て舊文を案 更に令書之 玉垂〔但彦〕神 本位從三位 今授に正三位を 比咩神本位從五位下 今授に從四位下を 又同神殊に授くに封廿七戸を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
豐比咩神が 官社に列したことが記されています
【抜粋意訳】
卷三 貞觀元年(八五九)秋七月七日庚申
○七日庚申 筑後國 從四位下 豐比咩神 列を於官社に
【原文参照】
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷九 貞觀六年(八六四)七月廿七日〈辛亥〉
○廿七日辛亥 勅曰 去年七月(フミツキ)廿五日 頒下五畿并に伊賀 伊勢 志摩 遠江 相摸 上総等國に云 鎭護國家を消伏す災害を 尤も是れ敬ひ神祇を 欽むの祭禮を之所なり致す也 是を以て格制頻り下し 警告慇懃なり 今諸國の牧宰不愼制旨を 專任て神主禰宜祝等に 令神社を破損し 祭禮疎慢なら 神明由て其發し祟を 國家以て此を招く災を 今欲す令に諸社を一時に新たに加んと華餝し 而經月を踰て年を 未有に修造 宜早く加に修餝を勿る致す重怠を
進に筑後國 從二位 高良玉垂命の神階を加に正二位を 從四位下 豐比咩神に從四位上を 武藏國 從五位下 若雷神に從五位上 右京の人無位民の首(ヲフト)方永に賜姓を眞野臣と 天足彦國忍人命之後也
【原文参照】
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十六 貞觀十一年(八六九)三月廿二日庚辰
○廿二日庚辰 進に筑後國 正二位 高良玉垂命の神階を加に從一位を 授に從四位上 豐比神に正四位下 但馬國從五位上養神 石見國從五位上物部神並正五位下 豐後國无位西寒多神從五位下 令に下総國非違使を帶劔を把笏を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・豊比咩神社 一座 巳上 筑後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後國 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 豊比咩神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](とよひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Toyohime no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社について
・豊姫神社〈天満宮境内〉(久留米市)
・豊比咩神社(久留米市北野町)
・赤司八幡宮(久留米市北野町)
・高良大社(久留米市)に合祀
〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉
・新開宝満神社(高田町北新開)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西鉄久留米駅からR3号経由で南下 約4.7km 車15分程度
本山天満宮(久留米市上津町)に参着
天満宮の本殿の裏手に出ました
拝殿にすすみ 賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 拝殿 幣殿 本殿が一体となっています
境内は綺麗に清掃されています
本殿右後ろ 境内の東側に鳥居が建ち 石祠が祀られています
豊姫神社〈天満宮境内〉に参着
左右の狛犬の奥にも 石祠が沢山祀られています
中でも中央に祀られている 三宇の石祠〈右に若宮八幡宮 中央に豊姫神社 左に天神社〉は巨大さと華麗さで目を引きます
その中央が 豊姫神社で 式内社 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社となっています
石祠にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 豊比咩神社について 祭神・所在は不明と記しています
久留米志の説として三説を挙げています
一、今は廃絶している
一、御井郡上津荒木村有に小祠 乙姫社
一、御原郡塚島有に石蒙 豊比咩
【抜粋意訳】
豊比咩神社
豊は 登與と訓べし、比咩は假字なり、
〇祭神 明か也
〇在所詳ならず久留米志云、古昔天子數授に位 豊比咩神、或充に封戸、或更、書記等、文徳實錄、三代實錄所載皆謂に此神也、今廃に失其地、或云、御井郡上津荒木村有に小祠、稱に乙姫社、是其神、或又云、御原郡塚島有に石蒙、稱に豊比咩、即此、未知に是否、〔考証云、豊玉姫命乎、郡名 三井坐に與井同訓、蓋以に三神坐名地歟、此三坐前後海神陰神、而中日陽神也、此表に水中含陽生物云々例の論に足らず泥むべからず、〕
類社
豊前國 田河郡 豊比咩命神社神位
古文書、〔同前〕嘉祥三年十二月廿九日、奉授に從五位下、
文德實錄、天安二年五月甲戌、先是、高良玉垂神、及比咩神等正殿遇に失火、位記皆被に燒損、仍祐今日勘に舊文案更令書之、〔中略〕比咩神本位從五位下、今授に從四位下、
三代實錄、貞観六年七月廿七日辛亥、奉授に筑後國從四位下 豊比咩神從四位上、〔但 貞観正廿七にも見ゆ、今古文書に據る〕、同十一年三月廿二日庚辰、授に從四位上豊比咩神正四位下、古文書、〔同前〕寬平九年十二月三日、奉授に正四位上、官社
三代實錄、貞観元年七月七日庚申、筑後國從四位下 豊比咩神列に於官社、封戸 位田
文徳實錄、天安元年十月丁卯、在に筑後國 從五位下 豊比咩神、充に封戸並位田、同二年五月甲戌、同神殊授に封廿七戸、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 豊比咩神社について 高良の御手洗山にあり と記しています
この高良の御手洗山とは・高良大社(久留米市)に合祀〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉のことです
【抜粋意訳】
豊比咩(トヨヒメノ)神社
今 高良の御手洗山にあり、〔筑後神社改正調べ〕 豊比咩命一名淀姫と申す、蓋 海神 豊玉姫神を祀る、〔肥前風土記、神名帳頭注、土人口碑、〕
文德天皇 嘉祥三年十二月壬す、蓋海神豊玉姫神を祀る、〔筑後國神名帳〕
天安元年十月丁卯、封戸位田を充奉り、〔文徳実録〕二年五月甲戌、從四位下を加へ、〔文徳実録、筑後國神名帳〕
清和天皇 貞観元年七月庚申、官社に預り、〔三代実録〕六年七月辛亥、從四位上を給ひ、〔〇按 三代實錄、本年正月甲申、既に此叙位を載る者、恐らくは桁也、今筑後國神名帳に據て之を削る、〕十一年三月庚辰、正四位下を授け、〔三代實錄、筑後國神名帳〕、
醍醐天皇 寬平九年十二月甲辰、正四位上に叙され、〔筑後國神名帳〕、
延喜の制、名神大社に列る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 豊比咩神社について 高良神社同域内 (三井郡御井町高良玉垂神社域内 )〈現 高良大社(久留米市)に合祀〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉〉と記しています
【抜粋意訳】
豊比咩神社 名神大
祭神 豊比咩神
今按 社傳に海神の女豊玉姫命を祀るとあれと豊前國田川郡豊比咩神社 肥前國佐喜郡與止日女神社とみえ 肥前風土記に此川上在 石神名謂世田姫海神之長女也とあれと 必ずしも豊玉姫命と云へき證もあらねば式の神名によりて 豊比咩神」と記すそ正しかるへき故今社傳に從はす
神位
仁明天皇 嘉祥三年十二月廿九日奉授從五位下〔天慶七年解文〕
文德天皇 天安二年五月辛酉朔甲戌 雨終夜不止先是 高良玉垂神 及 比咩神等正殿遇失火位記皆被焼損仍今日勘舊文案更令書云々 比咩神本位從五位下 今授從五位上 貞観元年七月七日庚申 筑後國從四位下 豊比咩神列於官社 同六年七月廿七日辛亥奉授 筑後國從四位下 豊比咩神從四位上 同十一年三月廿二日庚辰 授從四位上 豊比咩神 正四位下 寬平九年十二月三日奉授正四位上〔寬平以下天慶七年解文〕祭神
社格(縣社)所在 高良神社同域内 (三井郡御井町高良玉垂神社域内 )
今按 神社明細帳本社遺跡や詳ならすされと鎭坐地は高良山中なりし事は天安二年玉垂命神社及び比咩神等の正殿火災ありて位記みな焼損すと古文書に見えたる如く 神社同く火災にかかり 又 今現存する神位記も」紙に記されたるにても知られ 長保五年の十講念縁起文に両宮権現九王子とある両宮そ卽 玉垂命と當社にはおはしける 又 足利家の判物に當社姫神とあるも同し御事にて其頃まては疑はしき事もなかりしものと見えたり さて此姫神 今何處に坐すそと云んに高良社の相殿にます 八幡宮其御正體なる事知へし 其八幡と云故は 中古以來 此神を八幡の御叔母とも御妹とも云説あるよりの事なる事疑なし 故に今假に山中の新清水の地を祓清めて祭奠を修むと云る如くなるへし
【原文参照】