浮幣神社(うっぺいじんじゃ)は 浮鯛神社(うきだいじんじゃ)とも呼ばれます これは『日本書紀』に記される 神功皇后が 三韓征伐に向かわれた時 お召船の周囲に集まった鯛(タイ)に酒を注いだところ 鯛が酔って浮いた「浮ダイ」となった故事に由来します それ以後 能地(のうじ)の海には毎年春になれば鯛(タイ)が浮かぶようになったと云われていました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
浮幣神社(Uppei shrine)
【通称名(Common name)】
・浮がみさん(うきがみさん)
・浮鯛神さん(うきだいがみさん)
・浮鯛神社(うきだいじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
広島県三原市幸崎能地1丁目11−19〈三原市幸崎能地2774〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》神功皇后(じんぐうこうごう)
《配》上筒男神(うわつつをのかみ)・中筒男神(なすつつをのかみ)・底筒男神(そこつつをのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
口伝によると
゛浮幣社゛は 神功皇后の創建と伝わります
4月5日 浮鯛祭(うきだいまつり)
【由 緒 (History)】
郷土の文化 三原市史跡 幸崎町 浮幣社
能地の浮ダイ
幸崎町の能地の地先には、古くから「浮ダイ」という珍しい現象が見られる。現在はタイの資源が減ったので殆どこの珍現象は見られないが、明治の終わりごろまではこの浮ダイを漁獲する専門の漁夫がいて、その頃の記録によると、一漁期に五、六十貫の浮ダイかとれたという。
この浮ダイについては次のような史実がある。神功皇后が三韓征伐に向かわれた時お召船がたまたまこの能地の地先を通過した。するとお召船の付近にタイがたくさん集まってきたので、幸先がいいという事になり、おそば者が四斗ダルをぬいて海中に投じた。すると多くのタイがその酒に酔って海面に浮かびあがった。それ以後、この能地の地先には毎年春ともなればタイが浮かぶようになったといわれている。
これについて、この浮ダイをもじって、茶山はつぎのような狂歌を書いている。
水底に酒がめありと聞くからに 浮きたいよりは こちゃ沈みたい
ところでこの「浮ダイ」なる現象は、純然たるタイの生理現象で、つまり春季 外海より産卵を目的に瀬戸内海に入ってくるタイが急潮に流されて体の自由を失い深い所より浅瀬に押し流される結果、うきぶくろのガスが膨張して浮かび上がるのです。
浮幣社
幸崎町にあり、そこには一メートルほどの俎石(まないたいし)と称する石が有り、神功皇后にさしあげる浮ダイを、この石の上で料理したと伝えられ現在も御祭がおこなわれています。
『社団法人 三原青年会議所新聞1978』昭和53年6月20日発行より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・俎石(まないたいし)
社殿の手前にある上面が平らな石
神功皇后に差し上げた゛浮ダイ゛を この石の上で料理したと伝えられる
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
幸崎神社(さいざきじんじゃ)について
口伝によると
゛浮幣社゛は 神功皇后の創建と伝わり
同時に創建したのが゛幸崎社゛とされます
御祭神
《主》神功皇后,応神天皇,比咩大神
《配》稲倉魂神,和久産巣日神,宇気母智神
神社が鎮座する山の下を瀬戸内さざなみ線のトンネルが抜けています
『幸崎神社』
【鎮座地】三原市幸崎町能地
【祭礼日時】九月二三日
幸崎の能地のなかほどの海に面した丘陵上に鎮座する。祭神は八幡三神ほか三神を祀る。
境内社として天満神社ほか四社が鎮座する
明治四二 (ー九〇九 )年竪岩神社を合祀。
「安芸国神名帳」の佐江崎明神に比定される。口伝によると、神功皇后が浮幣社と当社を同時に創建したと伝える。
能地村•渡瀬村の産土神で、古くは才崎八幡宮・佐江崎八幡宮とも称した。社家蔵の棟札写によると、文安三(ー四四六)年 窪田重久、明和八年久津城主 浦熙氏、天文 (一五三三 )二年 平興氏、万治二(一六五九 )年 浅野長治などによって再建された。旧暦一月二七日・二八日 (現在は三月の第一土・日)に行われる字大西の常磐 神社の祭には、字中村の老婆社と当社とでダンジリの練合いや獅子太鼓の奉納がある。
(広島県の地名 )
『広島県神社庁報 双葉 第127号』平成27年8月25日より抜粋
老婆社(うばくしゃ)について
〈由緒〉
能地(のうじ)付近の漁民が出漁の際携えた『浮鯛系図』に記される伝承には
神功皇后が 渟田門(ぬたのと)に停船された時 海神に幣を手向けた その幣が流れ寄った所に建てられた社
今も 正月に幣を奉じて 酒を捧げる浮幣祭を行う
〈祭神〉
神功皇后が 船の周囲に集まった鯛に酒を注いだところ酔って浮いた「浮ダイ」を皇后に献じた老婆を祀ると云う゛老婆社(うばくしゃ)゛
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
浮鯛抄(うきたいしょう)について
「浮鯛抄(うきたいしょう)」に記された伝説では 神功皇后(じんぐうこうごう)が 能地沖で酒を撒き それに酔った鯛が浮かんできたとされています
又「浮ダイ」を地元の老婆が皇后に献上したところ 神功皇后から 国中のどこでも漁をすることを許す証として“浮鯛抄”を賜ったとも伝
「浮鯛抄」は 日本書紀にあった浮鯛の記述を基に江戸時代に書かれたものです
< 歳 時 記 >幸崎「浮鯛抄」と「能地八景」
幸崎町 行長 啓三
古く中世では才崎あるいは近世においては佐江崎と表記されていた幸崎は, 少なくとも歴史に登場する時代から鯛漁を生業とする漁業の地であったことは, 浮鯛に関する伝説(日本書紀巻八)によっても明らかである。
浮鯛というのは, 毎年立春(節分頃)の四十日後から, 立夏(八十八夜頃)の数日前まで, 春先二ヶ月ばかりの間の大潮の日を中心に前後七日間くらいに, 能地浮幣社の前の海に, 鯛が波間に浮かんで流れることを言う。これは, 幸崎町久和喜と宇和島との沖にある有龍島西の能地堆で, 豊後水道から産卵のため瀬戸内海に入った鯛が, 大久野島沖の深海から能地堆への潮流のため,急上昇させられ, 水圧の激変のため浮袋を口の外にはみ出し, 一種の昏睡状態におちいり浮遊する現象を言う。
漁民は, この漁体を横にして波間に浮かび流れる鯛をタモですくいとる漁業権を持っていたのである。
「浮鯛抄」の成立は, この「能地の浮鯛」に由来し, 古歌の題材となったり, 文士の遊びに使われた。また, 江戸時代中期頃より,家船(えぶね)によって長く海上漂泊し, 瀬戸内海沿岸の各地に枝村を残し, 日本の漁民史上, 特異な性格をもつ能地漁民が, その由諸を巻物にして持ち, 渡りの職業集団として, いわゆる身分を誇示するお墨付きとして使用したという。
この「浮鯛抄」に「能地八景」(能地=幸崎)の記載がある。 日本各地にみられる八景にならい文人が選んだものと考えられる。その八景にあげられたのは, 「高根の朝霞」「越智の積雪」(大三島の400m級の山々)「安直潟の漁舟」(現幸陽ドック埋め立て前の干潟)「葉多岡川の蛍」(幸崎小中学校横現畑岡川)「宮山の秋月」(現幸崎神社)「東浜の一船」(現幸崎漁港)「天満の梅林」「鐘ヶ崎(カンザキ)の客船」(現セブンイレブン店北側丘陵)である。
幸崎再発見の手がかりに, この「浮鯛抄」「能地八景」を活用できないものかと考えていた矢先, 歴観メンバーと「三原(旧)一周膝栗毛コースの整備」で浮鯛神社(浮幣社)の草刈作業中に取材を受けた, 中国新聞のコラムニスト(中国新聞毎週月曜日掲載「街に会う旅を歌う」H23.10.24「浮鯛の宮」)との出会いは, 故郷の歴史を再考させるよい機会となった。
『会報「わが町三原」 H24年3月号』より抜粋
https://genki365.net/gnkm07/pub/sheet.php?id=11740
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
安芸幸崎駅からR185号を東へ約550m 徒歩8分程度
埋立地に建つ造船所を目指します
かつては海だった埋立地に 今治造船(株)広島工場があり 高い塀が続いています この高い塀沿いにR185号が通っています
古は 海岸線だったのでしょう 石垣の上に神社が祀られています
浮鯛神社(三原市幸崎能地)に参着
鳥居は建ちませんので 下で一礼をして 石段を上がります
境内には 古木の切り株があり かつては鎮守の杜があったと想われますが 今は伐採されています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後ろには 一段高く本殿が祀られています
社殿に一礼をして 石段を下がります
古は 此処に波が打ち寄せていたのでしょう
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
゛皇后は 角鹿(ツヌガ)から発して 濘田門(ヌタノミナト)に着き 船上(ミフネ)で食事をされた
その時 海鯽魚(タイ)が 船の傍に多く集まった 皇后は 酒を鯽魚(タイ)に注がれました 鯽魚はすぐに酒に酔って浮かびました゛
この地が 現在の浮鯛神社(三原市幸崎能地)と伝承されています
【抜粋意訳】
日本書紀 第八 足仲彦(タラシナカツヒコノ)天皇〈仲哀天皇〉
〈即位二年〉三月癸丑朔丁卯〈三月十五日〉
天皇は南国を巡狩(メグリミソナハ)〈巡幸〉され 皇后と百寮(ツカサツカサ)〈官僚〉を留めおかれ 駕に従っている二〜三人の卿大夫(マヘツキミタチ)〈家臣〉と官人(ツカサツカサ)数百人とで 軽やかに出かけられた
紀伊国(キノクニ)に到着し 德勒津宮(トコロツノミヤ)に滞在したこの時 熊襲が叛(ソム)いて朝貢を奉らなかった 天皇はそれで熊襲国を討とうとされ すぐに德勒津(トコロツ)を発って 浮海(ミフネ)して穴門(アナト)に行かれた その日に使いを角鹿(ツヌガ)〈敦賀〉に遣わし 皇后に詔した
「すぐに その津〈港〉から発(タ)て 穴門で逢(アウ)たまへ」〈即位二年〉夏六月辛巳朔庚寅〈夏六月十日〉
天皇は 豊浦津(トユラノツ)に泊まられた
また 皇后は 角鹿(ツヌガ)から発して 濘田門(ヌタノミナト)に着き 船上(ミフネ)で食事をされた
その時 海鯽魚(タイ)が 船の傍に多く集まった 皇后は 酒を鯽魚(タイ)に注がれました 鯽魚はすぐに酒に酔って浮かびました
その時 海人(アマ)は 沢山のその魚を得て喜んで言った
「聖王(ヒジリノキミ)からたまわった所の魚です」それで その土地の魚は 六月になるといつも 口をパクパクと動かして酔ったようになる それはこれが由縁です
〈即位二年〉秋七月辛亥朔乙卯〈秋七月五日〉
皇后は 豊浦津に泊まられた
この日 皇后は如意玉(ニョイノタマ)を海中から得ました〈即位二年〉九月
宮室(ミヤ)を穴門(アナト)に興されて居住された
これを 穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)という
【原文参照】
上記『日本書紀』に記される゛穴門豊浦宮゛とは
゛〈即位二年〉九月
宮室(ミヤ)を穴門(アナト)に興されて居住された
これを 穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)という゛
穴門豊浦宮とは 現在の・忌宮神社(下関市長府宮の内町)長門国二之宮です
・豊功神社(下関市長府宮崎町)
上記『日本書紀』に記される゛角鹿(ツヌガ)゛とは
゛その日に使いを角鹿(ツヌガ)〈敦賀〉に遣わし 皇后に詔した゛
・氣比神宮(敦賀市)越前国一之宮
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
浮鯛神社(三原市幸崎能地)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)