梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は 延喜式内社「山城國 葛野郡 梅宮坐神四社(むめのみやにますかみ よやしろ)〔並名神大月次新嘗〕」で 祭神四座〈酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神〉はいずれも名神大 二十二社に列した官幣中社です 〔奈良時代前期〕縣犬養三千代の創建と云い その子 橘諸兄により橘氏の氏神となり〔平安時代前期〕橘嘉智子(檀林皇后)により現在地に遷座しました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
梅宮大社(Umenomiya taisha shrine)
【通称名(Common name)】
梅の宮神社(うめのみやじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市右京区梅津フケノ川町30
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈本殿四座〉
《主》酒解神(さかとけのかみ)〈 大山祇神(おほやまづみのかみ)〉
酒解子神(さかとけこのかみ)〈木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)〉
大若子神(おほわくこのかみ)〈 瓊々杵尊(ににぎのみこと)〉
小若子神(こわくこのかみ)〈 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)〉
〈相殿四座〉
《配》嵯峨天皇(さがてんのう)〈第52代天皇〉
仁明天皇(にんみょうてんのう)〈第54代天皇 嵯峨天皇皇子〉
橘嘉智子(たちばなのかちこ)〈嵯峨天皇(檀林皇后)仁明天皇の御母〉
橘清友公(たちばなのきよともこう)〈橘嘉智子の父〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
梅宮大社(うめのみやたいしゃ)
奈良時代の政治家であった橘諸兄(たちばなのもろえ)の母・懸犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)が、橘氏の氏神として現在の綴喜郡(つつきぐん)井手町付近に創建したのが始まりといわれる。
平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)(檀林皇后 たんりんこうごう)によって現在の地に移された。
酒解神(さけとけのかみ)(大山祇神(おおやまずみのかみ))、大若子神(おおわくこのかみ)(瓊瓊杵尊(ににぎのみこと))、小若子神(こわくのかみ)(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))、酒解子神(さかとけこのかみ)(木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと))の四座を祭神とする。
酒解神の御子・酒解子神は大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから、歓喜して、狭名田(さなた)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造り、これを飲んだという神話から、古くから安産と造酒の神として有名である。
また、皇子に恵まれなかった檀林皇后が、本殿の横に鎮座する「またげ石」をまたいで子どもを授かったことから、この石をまたげば子宝に恵まれると伝えられ、その下の白砂は安産のお守りとされている。
現在、本殿、拝殿、幣殿、廻廊、中門などがあるが、これらは元禄十三年(1700)の再建によるものである。
庭園は、杜若(かきつばた)や花菖蒲(はなしょうぶ)の名所として知られるほか、梅、八重桜、椿、つつじ、あじさいが美しい。
京都府 現地立札より
【由 緒 (History)】
御由緒
当社は今から凡そ千三百年前、橘氏の祖・諸兄(モロエ)公の母、県犬養三千代(アガタイヌカイミチヨ)が、橘氏一門の氏神として始めてお祀りした神社です。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(ヤマシロノクニソウラクグンイデノショウ)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられています。
其の後、天平宝字年中、千二百五十年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂〔ムチマロ)夫人の牟婁(ムロ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(タチバナノカチコ<檀林皇后>)によって現在の地に遷しまつられました。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われましたが、神前で雅楽が奉納されましたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は四月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めました。
仁明(ニンミョウ)天皇は、千百五十年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中にお加えになり、醍醐天皇の御代に定められました延喜式(エンギシキ)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(トシゴイマツリ)・月次祭(ツキナミサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)には朝廷からの幣帛(ヘイハク)を新饌台(シンセンダイ)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもってまつられることになりました。
更に日本中で特選された二十二の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられました。
相殿四座がおまつられになりましたのは、文徳(モントク)天皇の仁寿年中で、千百年ばかり前のことです。
代々橘氏の長者がお仕へしていましたが、県犬養三千代夫人が橘氏の祖でありますと共に、藤原不比等公の夫人となられました御関係から、藤原氏の摂政又は関白の家筋の方が橘氏長者を代行され、此の神社に藤原氏の氏神の春日神社と同様の崇敬を捧げられました。
このように橘氏は橘・藤原の二氏が長者となりましたので、特に此の氏(橘氏)に限って長者の事を是定(ゼジョウ)と呼ばれていました。もって橘氏の家格の尊さと梅宮大社の神威の偉大さがうかがわれます。
梅宮大社公式HPより
http://www.umenomiya.or.jp/engi.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・若宮社《主》伊弉諾尊,《配》橘諸兄
・護王社《主》橘氏公,《配》橘逸勢
・稲荷社《主》宇賀御魂神,猿田彦命
・西梅津神明社《主》天照大神、豊受大神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・境外末社8社(幸神社、天皇社、愛宕社、薬師社、住吉社、厳島社、春日社、天満宮)
現在は 本社の瑞垣の中に8社を合祀した末社社殿が鎮座〈平成19年(2007)〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
園神社一座
韓神社二座〈已上坐宮内省〉賀茂別雷神社一座
賀茂御祖神社二座
松尾神社二座
稲荷神社三座
貴布祢神社一座
鴨川合神社一座
御井神社一座
葛野月読神社一座
木嶋坐天照御魂神社一座
平野(ヒラノノ)神社四座
梅宮神社 四座
乙訓神社一座
酒解神社一座〈亦号山崎神〉〈已上山城国〉
・・・
・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)葛野郡 20座(大14座・小6座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 梅宮坐神四社(並名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](むめのみやにますかみ よやしろ)
[Old Shrine name](Mumenomiyanimasu kami yoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
祭神 四座〈酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神〉の神位について
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷五 承和三年(八三六)十一月壬申〈七〉
○壬申
奉授に 无位酒解(サカトケ)神に從五位上无位大若子(オホワカコ)神小若子(コワカコノ)神には 並に從五位下を 此三前は坐に 山城國葛野郡梅宮(ウメノミヤ)社に
讃岐國 水主神 奉授從五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十三 承和十年(八四三)四月己未朔
○夏四月己未朔
楯列陵守等言。去月十八日食時。山陵鳴二度。其聲如雷。即赤氣如飄風。指離飛去。申時亦鳴。其氣如初。指兌飛亘。遣參議正躬王加検校。伐陵木七十七株。至楉等不可勝計。便即勘當陵守長百濟春繼上奏矣。
坐す梅ノ宮を正五位下 酒解ノ神 從五位下 大若子ノ神 從五位下 小若子ノ神 三前に並に奉授に 從四位下を
從五位下 自玉手祭來酒解神 一前には 正五位下をさへに 並に預らしむ名神に
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道の諸ノ神に 進階(くらいを)及ひ新(あらたに)に叙つ 惣(すへ)て 二百六十七あまりの社なり 奉授に
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命二品・・・
・・・山城國
正二位勳二等松尾神從一位 葛野月讀神 平野 今木神並正二位 正四位下稻荷神 三前並正四位上
正四位下大若子神 小若子神 酒解神 酒解子神 並正四位上
平野從四位下 久度古開神從四位上 正五位上貴布禰神 正五位下乙 訓火雷神 從五位上水主神等 並從四位下
正五位下合殿比咩神正五位上 從五位下樺井月讀神 木嶋天照御魂神 和攴神 並正五位下
從五位下祝園神 天野夫攴賣神 岡田鴨神 岡田園神 樺井月神 棚倉孫神 許波多神 出雲井於神 片山神 鴨川合神等 並從五位上
正六位上與度神 石作神 向神 簀原神 鴨山口神 小野神 久我神 高橋神 雙栗神 水度神 伊勢田神 无位小社神並 從五位下・・・
・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷二十七 貞觀十七年(八七五)五月十四日乙未
○十四日乙未
太白晝見經天。即歴軒轅。留宿少微。
是の日 梅ノ宮正四位上大若子ノ神 小若子ノ神 酒解ノ神 酒解子ノ神に 並に授く從三位を
【原文参照】
『二十二社註式』によれば
【原文参照】
梅宮
延喜式曰 山城国葛野郡梅宮坐神四座
酒解神 大若子神 小若子神 酒解子神
右鎮座年紀不分明
・・・・
・・・・御位記
人皇八十代 髙倉院治十二年 治承四年(1180)十二月 正一位
使 橘氏五位一人幣四
【原文参照】
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
阪急嵐山線 松尾駅から東へ 桂川を渡り約800m 徒歩11分程度
松尾駅を下りると 目の前には゛松尾大社゛があります
・松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)
嵐山方面を眺めながら 桂川を渡ります
梅宮大社前で左折〈北へ〉すると 表参道となっていて 鳥居が建ちます
コンクリート製の鳥居の扁額には゛梅宮゛
梅宮大社(京都市右京区梅津フケノ川町)に参着
鳥居をくぐり参道を進むと 社頭には朱色の大鳥居があり扁額には゛梅宮゛
続いて立派な隋神門が建ち くぐり抜けます
正面に見えている舞殿のような建屋は 神社の案内では拝殿とのことです
境内の向かって左手〈西〉には 酒殿とその横には手水舎があり 清めます
その横には社務所があります
拝殿にすすみますが 拝所は設けられていません
本殿前の神門に拝所があり すすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
振り返ると 拝殿 隋神門 社頭の鳥居が 南を向いて一直線に並んでいます
境内の西側には 神苑があります
社殿に一礼をして 隋神門を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
梅宮坐神四社(並名神大月次新嘗)
梅宮は 宇女乃美也と訓ペし
〇祭神
酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神、
〇西梅津村に在す、〔山城志〕
例祭 月日
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕山城國梅宮神社四座、
〇江家次第云、祈年穀奉幣、梅宮、〔橘氏五位〕廿二社注式云、〔下八社〕梅宮〔使橘氏五位一人、幣四前〕
豊秋津島卜定記云、帝居乃末中仁当天、第三乃瓊々杵乃后宮木花開耶姫神、同父大山祇並仁、瓊々杵火々出見乃神達鎮仁守利玉布、其誓常仁婦乃産仁最悪木事於愍玉天、偏仁如此人乎助玉利、彼開耶姫和酒解子神社奈利、大山祇和酒解社也、瓊々杵和今乃若子宮奈利、小若子社古曽火々出見尊仁天渡世玉也、とあるは、平野社の四座を云々といふと同じ僻言也、
廿一社記云、梅宮社、井手左大臣橘諸兄ノ霊也、云々、、仍至于今橘家長者官領也、(廿二社本縁同)又云、檀林皇后立奉宮社奉崇之事在、と云るも後に起こる説也、
名勝志云、社記云、•嵯峨天皇初爲ニ親王ノ時、納橘氏韓(嘉智子)為夫人、後立為皇后、無太子、因茲皇后憑神代幽契、祈梅宮祠、即感応有妊孕、遂以当宮清砂敷御座下居ニ其上生児、所謂仁明天皇是也、至文徳天皇如神代併祭、是相伝之神也、と云るは、舊き傳へのある事なるべし、
抑 當社を橘氏の祖神と申すは、三代實録、元慶三年十二月六日辛酉の條に、梅宮祠者、仁明天皇母 ,文徳天皇祖母、太后橘氏之神也、と云るぞ起本なる、〔頭注云、梅宮、仁明帝母、太皇太后橘嘉智子也、橘姓神也とあるは、疎漏に書れしなるべし、〕
按るに姓氏録、(左京皇別上)橘朝臣、敏達天皇子難波皇子男贈從二位粟隈王男、治部卿從四位下美努正、娶從四位下縣犬養宿禰東人女正一位縣犬養橘三千代大夫人、生左大臣諸兄、云々、和銅元年11月己卯、大嘗會、25日癸未、曲宴、賜橘宿禰姓於大夫人、天平8年12月甲子、詔参議從三位行左大弁葛城王、賜橘宿禰、(諸兄初名號葛城王)とあれば、
橘氏の始祖は諸兄公にして、酒解等の神には拘はらねども、故故有て當社相殿に諸兄公の霊を祭り、橘氏の神社とせしが、竟に相殿のかた主となりて、元よりの四座は然のみ聞え給はず、共に橘氏の祖神とのみなれるも、橘氏の時勢によれるならん」三僧記第十云、入道兵部卿云、橘氏ノ氏神ナリ、但此モ社務ハ昔親王ナリ、親王御座マサデ、後橘氏氏人ニ被付ケルニ、以長(以政父)ガ我許社務ハ叶ハジトテ、寄進字治入道殿、其後永一所ニ付テ御沙汰アリ、云々、
年中有事歌合に、「神まつる卯月の榊をりそへて梅の宮居にたつる御幣、」
判詞云、梅の宮はもろ兄公をいはひたる社なれば、橘氏の祖神なるべしといひ、前に引る廿一社記等も同説なるは、本を失ひたるもの也、
〇是定の事は、公事根源云、是定といひて、摂家の人の管領する社にて侍るにや、抑此是定の、一の人の家につたはりし事は、橘氏の公卿絶えて後、正月5日の叙位に、氏の爵の事を行ふべき人なきによりて、寛和の頃、中関白道隆、大納言と令申侍りし時、宣旨をかうぶり給ひて、氏の爵の事を申し行ひ侍りし也、中關白、粟田關白、御当関白、此三人の母は、摂津守藤原中正といひし人のむずめ也、かの中正の室は、中納言橘澄清卿のむすめ也、中関白には外祖母也、かやうの由緒侍るによりて、是定は藤氏の家に相伝し侍るとかや
神位 名神
續日本後紀、
承和三年十一月壬申、奉授無位酒解神從五位上、無位大若子神、小若子神、並從五位下、此三前坐山城國葛野郡梅営社、同10年4月己未、坐梅宮、従五位上酒解神、從五位下大若子神、從五位下小若子神三前、奉授從四位下、並預名神、同年5月辛亥、奉授従五位下酒解子神、從四位下、同年10月壬申、梅宮從四位下酒解子神一前、預之名神、三代実録、
貞観元年正月廿七日甲申、奉授正四位下大若子命、小若子命、酒解神、酒解子神等、竝正四位上、同17年5月14日乙未、梅宮正四位上大若子神、小若子神、酒解神、酒解子神、並授從三位、日本紀略、
延喜十一年二月二日、詔授ニ梅宮坐梅宮神正三位、廿二社注式云、
治承四年十二月、正一位、官幣
三代実録、貞観十二年十一月七日乙丑、分遣支社諸社奉鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、梅宮社使大監物從五位下橘朝臣茂生、同14年3月23日癸巳、今春以後、内外頻見怪異、由是各遣使者諸神社、奉幣、参議正四位下行右兵衛督兼近江守源朝臣勤為梅宮社使、元慶2年3月9日乙巳、是日分遣使者、奉幣馬於梅宮社、
祭祀
貞観儀式云、梅宮神四座、
三代実録、貞観元年十一月十日辛酉、・・・・・
諸神記云、一條院 寬弘二年十一月、・・・・
公事根源云、梅宮祭・・・・造営
新後拾遺集、神祇 梅宮立柱の日よめる、権少僧都慶有、さらにまた花さく梅の宮はしらたててぞ千世のさかえをもみむ
雑事
三代實錄、貞観十二年十一月十七日乙丑、是日分ニ遣使者諸社、奉鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、梅宮使橘朝臣茂生
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
【抜粋意訳】
梅宮坐神四社(並名神大月次新嘗)
今 葛野川頭西梅津村にあり、
酒解神、酒解子神、大若子神、小若子神を祭る、
〔續日本紀、三代実録〕〔〇按 豊秋津烏卜定記に、酒解神を大山祇命、酒解子神を木華開耶姫命、大若子神を瓊瓊杵尊、小若子神を火々出見尊を祭ると云ひ、
梅宮社記には、大若子神小若子神を伊勢度遇神神主遠祖と云るは、共に信じがたし、・・・・
唯社記に、橘皇后太子なきを思玉ひて、酒解二神に祈り、妊孕ありしかは、當社の清砂を御座の下に敷て、御兒を生坐き、仁明天王是也、嵯峨天王 其神惠を思して、外祖清友を酒解社に、檀林皇后を酒解子神に配せ、瓊瓊杵尊御父子を若子二社に配せて、橘氏祖廟とすとある、瓊瓊杵尊火々出見尊を配祭の事は、諾ひ難けれど、其・・・・〕嵯峨天皇の大后橘氏の氏神也、
初 神社 相樂郡峠山 圓堤寺にあり 諸兄の母 縣犬養(アガタイヌカヒ)橘三千代(タチハナノミチヨ)大夫人之を祀る、仁明天星の御世に及て、此神 天皇に崇り坐 由御卜に出て、復宮人に託(カカリ)て宣(ノタマリ)はく、我は天子(スメラミコト)の外家(ミハハカタ)の神なるに、大幣に預らしめ給はさるは如何(イカガ)ぞやと告給ひしかは、天皇甚く畏み奉り、大社に准(ナソラ)へて、嚴(イカ)く神社を造り、年毎に崇奉らむとせしを、橘嘉智子大后聽し給は、唯國家に崇る事 畏(カシコ)しと詔て、近く葛野川ノ頭に移祭り、自ら其地に幸して、拜(イツキ)祭り給ひき、是今の梅宮祭なり、・・・・
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【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
梅宮坐神(ウメノミヤニマスカミ)四社(並名神大月次新嘗)
祭神
酒解(サカトケノ)神
大若子(オホワカコノ)神
小若子(コワカコノ)神
酒解子(サカトケノコノ)神今按 豊秋津島と定記に酒解神を大山祇命 酒解子神を木華開耶姫(コノハナサクヤヒメノ)命 大若子神を瓊瓊杵尊 小若子神を火々出見尊を祭ると云ひ 神社啓蒙に引る梅宮社記も酒解神 酒解子神は上説に伺じけれど 大若子神は伊勢ノ度遇(ワタラヒ)ノ神主ノ遠祖 加夫良居(カブラコノ)命 小若子神は其弟を祭ると云るは共に信難し 且 酒解と云義詳ならねど 大山祇神と開耶姫を酒解神と稱へたる故も明かならす 瓊瓊杵尊の御父子の間を大若子小若子と稱へ申さんもいかがなり・・・・
・・・・神位
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祭日
正月元日 四月十一日上酉日
社格
官幣中社
所在
梅津本郷西梅津村 (葛野郡海津村大字西梅津)
【原文参照】