都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社久慈川沿いに3社が鎮座と呼ばれました 

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

都々古別神社(Tsutsukowake Shrine)
(つつこわけじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

八槻都々古別神社(Yatsuki Tsutsukowake Shrine)

 [別名(Another shrine name)]

近津明神(千勝明神)(chikatsu myojin)

【鎮座地 (location) 

福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)
《配》日本武尊(yamatotakeru no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・交通安全 Pray for Traffic safety
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・商売繁昌 Pray to God that the business will flourish

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(名神大)
・「陸奥国一之宮(mutsu no kuni ichinomiya)
・「別表神社」

【創  (Beginning of history)】

 
当都々古別神社は延喜式神名帳(延喜年間に書かれた書物)に登載されており陸奥国白河郡唯一の明神大社であり奥州一宮であります。
御祭神 味耜高彦根命は御父君大国主命の偉業を助けて東北の荒地を開拓農業の道を教え蕃殖せしめました。
民衆は恩恵を受けましたので 命の徳を尊崇、農業の神として崇め祭祀したのであります。
日本武尊を配祀したのは討伐の時 八溝の夷賊を討ち 民がその尊の徳に尊崇したのであります。

境内案内板より

【由  (history)】

御祭神は 味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。
味耜高彦根命は 御父君大国主命の功業を補翼し 東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので 郷民其徳をしのび 当地に奉祀されたと伝えられる。

延喜式内名神大社で延喜式神名帳に名神大社奥州一宮と称される。
日本武尊 強夷征伐の時 千度戦って1000度うち勝って 凱旋(がいせん)された御神徳をたたえ、その御神威に感動した八幡太郎義家が奥州征伐の時 千勝大明神と改められたのもまことに故あることである。

なお引き続き 足利時代に白河結城氏 並びに水戸佐竹氏より数度寄進あり、以来 豊臣秀吉より直筆、石田三成の書あり、佐竹氏より社頭3000貫並びに書類あり。
後、徳川光圀公の尊崇厚く 御神宝の奉納あり 社殿修復の際には白銀200枚を寄進された。
又、斉昭公は 嘉永6年 夷狄退散国家安全を祈ったと伝えられる。

交通安全・五穀豊穣・家内安全・商売繁昌祈願の参拝者も多く、奥州一宮として広く知られている。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から

【境内社 (Other deities within the precincts)】

境内図

本殿向かって右側

皇朝工祖神社(Kocho Koso Shrine)
 《主》聖徳太子(shotokutaishi)
熊野神社(Kumano Shrine)

・金毘羅神社(Konpira Shrine)
・北野神社(Kitano Shrine)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThe shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 都都古和気神社(名神大)
[ふ り が な  ](つつこわけの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

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都都古和気神社(名神大)
(tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の4つの論社について

4つの神社について 各々創建からの伝承を纏めました 詳しくは各神社の記事をご覧ください

論社として著名な 2神社について

①・馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地から その後 大同2年(807年)に「坂上田村麻呂(sakanoeno tamuramaro)」が 現在の棚倉城跡(位置)の地に社殿を造営し 日本武尊を相殿に配祀した そして現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

現在の棚倉城跡(旧 鎮座地)

馬場都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

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➁・八槻都々古別神Yatsuki Tsutsukowake Shrine)(当社)

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が
八溝山の蝦夷の大将を討ち果たした際に 守護として示現した3神
「天之御中主神(amenominakanushi no kami)」
「高御産巣日神(takamimusuhi no ka )」
「神産巣日神(kamimusubi no kami)」
が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に 東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地(箭津幾:やつき)として神社を創建した
下って「源義家(minamotono yoshiie)」が 奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)明神(chikatsu myojin)」と改称したと伝わります

馬場と八槻の2つの神社の間には 延喜式内社の激しい論争がありますが いずれが本来の式内社 都都古和氣神社であるかは 現在も結論は出ていません

八槻都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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その他の論社 2社について

➂・奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地「建鉾山(武鉾山)」(江戸期までは入山禁足)は山頂にあり 当社は 麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われた奥院と伝わります

都々古和氣神社(奥院)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

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④・都々古別神社(玉川村 南須釜)

 社伝では 第40代天武天皇の御代「藤原鎌足(fujiwarano kamatari)698-720」公が 常陸國の国司に任じられて この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

都々古別神社(玉川村 南須釜)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(玉川村南須釜)

都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられた 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公〈698-720年〉が この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

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御田植祭について

 農耕を司る神「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」が祀られ 毎年旧暦1月に奉納される能・狂言風の舞「御田植祭」は 五穀豊穣を祈る神事として国指定の無形民俗文化財となっています

その他にも

霜月大祭その年の新籾をツトッコという「藁苞(籾入れ)」に入れて奉納し その折に他者のツトッコをいただいて帰る風習(籾の交換(品種交換とされている))を行う風習があった 桝廻しの神事などの存在は 農耕神の性格を物語ります

国指定無形民俗文化財

都々古別神社の御田植(つつこわけじんじゃ の おたうえ)

平成16年2月6日指定

旧暦(きゅうれき)1月6日の午前10時から、拝殿(はいでん)を舞殿(まいでん)として行われ、古くは夜に行われたと伝えられている。八槻(やつき)都々古別神社は、平安(へいあん)時代に編纂(へんさん)された「延喜式(えんぎしき)」にも記載される神社で旧社号(きゅうしゃごう)を近津大明神(ちかつだいみょうじん)といい、奥州一宮(おうしゅういちのみや)と称している。かつての氏子(うじこ)は県南地方一帯を占め、信仰の広さと厚さでは県内でも指折りの神社であった。御田植は古くから神社に奉仕する社家(しゃけ)と呼ばれる人々が楽人(がくじん)となって、拝殿で演じる稲の豊作を祈念(きねん)する芸能で、伝来の時期は不明だが、その形態から室町(むろまち)時代以前から行われていたとされている。
祭典(さいでん)と神楽(かぐら)に続いて、拝殿や太古を田に見立て、餅(もち)の鍬(くわ)や早苗(さなえ)に見立てた松の小枝などを持って、田植えまでの作業過程をせりふと簡単な所作(しょさ)で模擬的(もぎてき)に演じていく。田植え終了後、水口祭(みなくちまつり)として鍬を肩にかついだ天狐(てんこ)による舞があり、最後に中飯(ちゅうはん)として参列者に切餅(きりもち)を蒔(ま)いて終わる。
古くから社家が演じて来ただけに、能(のう)や狂言(きょうげん)のように良く洗練されている。演目ごとに楽人が掛け合う口上(こうじょう)は丁重(ていちょう)で、堀をさらる演目での、「ガリ、ガリ、ガリ・・・ガリ」や畔(くろ)ぬりを演じる際の、「ガンブリベタリ、ドロリベッタリ」など、演じながら発する独特擬音(ぎおん)も特徴的である。

棚倉町教育委員会

境内案内板より

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近津駅から 県道176号経由 南に約800m 徒歩10分程度

八槻都々古別神社(Yatsuki Tsutsukowake Shrine) に到着

石造りの明神鳥居が建ちます

社号碑には「國幣中社 都都古別神社」とあります

一礼して鳥居をくぐり境内へ

苔生す石畳の参道

狛犬のすぐ後ろ 参道左手に手水舎(大きな自然石をくりぬいた手水鉢)があり 清めます

参道左手にある縁結びの夫婦杉

夫婦のように寄り添って立つ杉が「縁結びの杉」として信仰されています

秋の参拝でしたので 参道の正面には 菊花が彩りを添えて 朱塗り随神門が建ちます

扁額には「奥州一宮」とあり

平成の天皇陛下・皇后陛下から賜った幣饌料の木札が建てられています

隋神門をくぐり抜けるとすぐ前に 拝殿が建ちます

拝殿にすすみます

拝殿扁額には「都々古和氣神社」と「別」ではなく「和氣」の文字があります

賽銭箱にある御神紋「二つ引両」です

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿から向かって右横の垣に小さな出入口があります

垣の外へ出ると社殿全体が見えます 本殿周りの敷地は一段高く土盛りされているのでしょうか 御垣の下の部分が石垣になっています

本殿を仰ぎます

真横からですと 拝殿とは 渡り廊下で繋がっている様子です

少し離れて眺めると じつに奥行のある社殿です

境内の右奥には 境内社があり お詣りをします

瓢箪(hyotan)のような形をした池があります

池越の辺りから社殿を眺めます 拝殿と本殿のバランスが取れた美しい社殿です

社務所に立ち寄り ご朱印などを受領します

再度 社殿を眺めます

鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和8年(841)正月と同年の3月癸巳(22日)条に記される伝承

承和8年(841)正月と同年の3月癸巳(22日)条に
どちらも「勲十等 都都古和氣神 従五位下」と表記が全く同じです

それぞれ別の「都都古和氣神」を指すとも 誤記や重複とも云われています

承和8年(841)正月癸巳(22日)条

「奉授坐 陸奥国 白河郡 勳十等 都都古和氣神 従五位下」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

『続日本後紀(shoku nihon koki)』3月癸巳(22日)条に記される伝承

「奉授 陸奥国 勲十等 都都古和氣神 従五位下」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

八槻都々古別神社(Yatsuki Tsutsukowake Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

「近津三社(久慈川沿いに並び鎮座)」の記事をご覧ください 

・〈上宮〉馬場都々古別神社 

 

・〈中宮〉八槻都々古別神社(当社) 

 

・〈下宮〉下宮近津神社 

 

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-全国 一の宮("Ichinomiya" all over Japan)
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