身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大穴持美代神社Onamochimishiro Shrine)
おおなもちみしろじんじゃ

 [通称名(Common name)]

身代神社(みしろじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

石川県羽咋郡志賀町梨谷小山10-273

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大穴牟遅神(Ohonamuchi no kami)
   少名毘古那神(Sukunahikona no kami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

創祀年代不詳

【由  (History)】

由緒

創祀年代不詳であるが
古来より延喜式内大穴持像石神社と称せられ、天正年中兵乱の際、社殿神器旧記等すべて焼失した。

同郡 町村産神と社名同名のため天明年中より社号争論おこり論議決せず、
明治6年4月身代神社と改称を仰せつけられる。

出雲国より舟に乗りて当村に着かれた大真石が御神体として仰がれている。

石川県神社公式HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j1192/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

菅原神社《主》菅原道真

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

2つの式内社の論社とされています

能登國 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 久麻加夫都阿良加志比古神社
[ふ り が な ]くまかぶと あらかしひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](kumakabuto arakashihiko no kamino yashiro)

能登國 羽咋郡 大穴持像石神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大穴持像石神社
[ふ り が な ]おほあなもちのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohoanamochinokataishi no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古」の論社は 2神社あります

・阿良加志比古神社(七尾市)

身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

スポンサーリンク

能登国を平定した 2柱の大神〈大国主神 少彦名命〉を像石(カタイシ」として祀る神社が 能登国にはあります 

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります

大穴持像石神社(羽咋市)

身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

八千鉾神社(羽咋郡志賀町)

天神神社(羽咋郡志賀町)

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります

・宿那彦神像石神社(中能登町)

・宿那彦神像石神社(七尾市)

・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)

・阿良加志比古神社(七尾市)

スポンサーリンク

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

羽咋から R249号を北上 約19km 車30分程度
志賀町の米町川のたもとに社号標「村社 身代神社」があり 森に添って進みます

Please do not reproduce without prior permission.

そのまま細い道沿いに石灯籠と鳥居が建っています
大穴持美代神社Onamochimishiro Shrine)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

車道とは別に 階段があり 車を一旦降りて 一礼してから鳥居を抜けます
狛犬が構える参道は うねるように緩やかに上っています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

参道の先の右手に 狛犬が座し 境内地に社殿が建っています 

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

境内の狛犬は 高い位置から参拝者見下ろすように座していて 迫力があり 一礼をしながら会釈して通過します

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

境内の下草は綺麗に刈られていてとても気持ちがよく 拝殿にすすみます
拝殿の扉には 神紋の桜が飾り付けられています

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿を左右から 眺めます 一礼をして境内から戻ります 帰りの参道には ちょうど東側の山から 朝日が差し込んでいます

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

鳥居まで戻ると 目の前の米町川の土手には 眩しい朝陽が照らしていました

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

官社に列したと記されています

【意訳】

貞観2年(860)6月9日 戊子の条

能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)

宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

Please do not reproduce without prior permission.

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条について 考察されています

【意訳】

大穴持像石(オホアナモチノカタイシノ)神社

三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

〇信友 按〈考えるに〉
能登郡に 宿那彦神石神社(スクナヒコカタイシノカミノヤシロ)とある例えにて
大穴持神像石---神の字がない

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

Please do not reproduce without prior permission.

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

所在について 不明だと記されています

【意訳】

大穴持像石神社

大穴持像石は 於保奈牟知加多伊志(オホナムチカタイシ)と訓ずべし

〇祭神 明らかなり
〇在所詳らかならず

官社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

寺家の「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています
他の論社は 10年程の間に改称などをしていて疑わしいと記しています

【意訳】

大穴持像石神社

祭神 巳貴命
相殿 少彦名

官社
清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

祭日 4月1日 9月30日
社格 村社 明細帳 縣社とあり(縣社)

所在 一宮寺家村 (羽咋郡一ノ宮村大字 一宮寺家)

今 按〈考えるに〉
氣多神社 明応8年(1499)神社目録に30荷 在一宮 大穴持前犬か田と号
寄進と載ているのは この社地の辺なる田畑なりと云い

往古以来 氣多神社の摂社にて 氣多の旧神官より 宮司に補せらるる例えなり云い
今尚 神像石は 社前の道辺に存在し 方5尺許にて 偶不潔のことあれば 禍(マガ)を得る者が往々ありて 威霊を現したまい
又 この社を俗に オナヂの宮と称するも その由あれば この地なること疑いなし 

旧来 同郡 町村と梨谷小山の両社を像石神社として 互いに争論ありしかど
寛延2年(1749)社号帳に町村は 住吉大明神 小山村は三代大明神と記していたのを 
寶暦10年(1760)の帳には 町村を大穴持社 天明後は 同所を八千鉾社とし 小山村を大穴持身代社と記せるなど 甚だ疑わしければとらず 

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

寺家の「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています

【意訳】

石川県能登国羽咋郡一ノ宮村 大字一宮 寺家(ジカ)

縣社 大穴持像石(オホアナモチカタイシノ)神社

祭神 大穴牟遅(オホナムチノ)命
相殿 少彦名(スクナヒコナノ)命

本社は 神名帳に大穴持像石神社とある神社にして 同考証に「清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す」と見え

又 三代実録にも 右の由を記せり
同神は即ち 巳貴神のことにして 何故に当所に創立せられしか その所以を明らかにせず

能登国名勝志に 当社は一ノ宮の山頂にありと 即ち 一ノ宮は国幣中社 氣多神社の事にして 今も尚 当社は その摂社として その地に鎮座し 土民の崇敬極めて隆なり

始め当国の領主 畠山義元 明応8年12月24日 田地2910刈 畑4か所等を寄進し 且つ 本殿及び大門通路に至る営繕あり
その後 又 領主 前田家に於いて代々 氣多神社と同様 社殿 鳥居等の営繕ありし事 当社記録 及び明細帳に記せり

而して 当社は 往古より 氣多神社 摂社にして大穴持像石神社と称し来たりが 明治6年 石川県に於いて 頂社と改称し 明治10年3月21日内務省より更に氣多神社摂社と確定せられ 社号も又 旧に復せり
建物は 社殿 拝殿 幣殿 神饌所あり
境内393坪を有し 参詣人 常に絶える事なし  

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』

大穴持美代神社Onamochimishiro Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る        

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

error: Content is protected !!

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.