建部大社(たけべたいしゃ)は 近江国一之宮です 神社の東側では 近江国庁跡も発掘されています 社伝によれば 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃・布多遅比売命(フタジヒメノミコト)が神勅により 日本武尊を「建部大神」として 神崎郡 建部郷 千草嶽(現・東近江市の箕作山)に祀ったのが始まりとされ 天武天皇4年(675)近江の守護神として 現在地の栗太郡 勢多へ遷座しました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
建部大社(Takebe Taisha)
(たけべたいしゃ)
[通称名(Common name)]
たてべさん
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県大津市神領1-16-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
本殿
《主》日本武尊(Yamato takeru no mikoto)
相殿
《配》天明玉命(Amano akarutama no mikoto)
権殿
《配》大己貴命(Ohonamuchi no mikoto)
〈天平勝宝7年(755)孝徳天皇の詔により 大和国一之宮大神神社から勧請〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・出世開運の神
・除災厄除の神
・商売繁盛の神
・縁結びの神
・医薬醸造の神
・等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 近江国一之宮(Oumi no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
近江一の宮 建部大社
御祭神
本殿 日本武尊
相殿 天明玉命
権殿 大己貴命由緒
当社は近江国の一の宮と称えられ、景行天皇46年(西暦316)4月神崎郡 建部郷 千草嶽に、日本武尊の御神灵を建部大神としてお祀りしたのが創りである。
天武天皇 白鳳4年(675)4月に近江国府のあった瀬田の地にお迂し、此の国の守護神として仰ぎ奉られる様になった。天平勝宝7年(755)には 孝徳天皇の詔により 大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿に奉祭せられ現在に至っている。
例大祭 四月十五日
船幸祭 八月十七日境内案内板より
【由 緒 (History)】
近江一の宮 建部大社 御由緒
御祭神
本殿 日本武尊
相殿 天照皇大神
権殿 大己貴命(大国主神)■摂社(四社)
・聖宮神社 日本武尊の御父 第十二代景行天皇
・大政所神社 景行天皇の皇后
・藤宮神社 日本武尊の御妃
・若宮神社 日本武尊の御子 建部稲依別命■末社(八社)
・行事神社 吉備臣武彦 大伴連武日
・弓取神社 弟彦公
・箭取神社 石占横立 尾張田子之稲置 乳近之稲置
・蔵人頭神社 七掬脛命 (膳夫神社) 料理の神
・大野神社 草野姫命(地主神)
・稲荷神社 稲倉魂命
・八柱神社 素盞之男命 他七柱命
・桧山神社 大山祇命 他四柱命御由緒
当社は古来 建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又 近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ 全国屈指の古社である。
御祭神 日本武尊は御年 僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野に於て崩御されたが、父君 景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名代として建部を定め その功名を伝えられた(日本書紀に記されている)これが即ち建部の起源である。景行天皇の46年(約1860余年前)神勅により御妃 布多遅比売命(父は近江安国造)が、 御子 稲依別王と共に住われた神崎郡 建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後 天武天皇 白鳳4年 当時 近江国府の所在地であった当 瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の当大社である。
歴朝の御尊心篤く、武門武将の崇敬 枚挙に遑なく、就中 源頼朝は、平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160)3月20日 当社に参篭して前途を祈願した事が 平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190)11月 右大将として上洛の際 再び社前に額き 襄年の祈願成就の神慮助に対し、幾多の神宝、神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。
爾来 当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以である。
明治18年4月官幣中社に、同32年7月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和50年4月15日 御鎮座 壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂により 御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。
御神徳
昭和54年4月「建部大社」と御社名が改称され名実共に御祭神を同じくする全国二千数百社の代表社と認知されたことは神社史上 淘に意義深い次第である。氏子崇敬者は これを祝し、入口、大社号石柱が建立され 併せ、大内号大社号額が奉納され永らく御神威を後世に伝え宝物
女神像三躯、石灯籠一基 文永7年(1270)在銘(重文)境内地
約三万平方メートル、社有地九万平方メートルに及ぶ境内案内看板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
社殿の左右(東西)に境内社が並びます 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に関係する神を祀ります
社殿の向かって左手(西側)
・聖宮(ヒジリノミヤ)神社
《主》大足彦忍代別命〈景行天皇(日本武尊の父神)〉
・大政所(オオマンドコロ)神社
《主》播摩稲日太郎媛〈景行天皇の皇后・日本武尊の母神〉
・行事(ぎょうじ)神社
《主》吉備臣武彦・大伴連武日〈日本武尊の家臣神〉
・蔵人頭(クロウドカシラ)神社
《主》七掬脛命〈日本武尊の膳夫(料理)の神〉
社殿の向かって右手(東側)
・藤宮(フジノミヤ)神社
《主》布多遅比売命〈日本武尊の妃神〉
・若宮(ワカミヤ)神社
《主》稲依別命〈日本武尊の御子神〉
・弓取(ユミトリ)神社
《主》弟彦公〈日本武尊の家臣神〉
・箭取(セントリ)神社
《主》石占横立・田子之稲置・乳近之稲置〈日本武尊の家臣神〉
境内の東側 左手より
・八柱神社
《主》藤時平
《合》融大臣,事代主命,市杵島姫命,素盞男命,豊玉彦命,櫛名多姫命
・稲荷神社《主》稲倉魂命
・大野神社《主》草野姫命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
境内北方にある御旅山に鎮座
・桧山神社《主》伊邪那美命,大山祇命,息長足姫命,武内宿禰大臣,住吉大神
建部大社旧社地の伝承地
・建部神社(五個荘伊野部町)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える小野神社二座 日吉神社一座 比叡神同 佐久奈度神社一座
建部(タケヘノ)神社一座 川田神社二座 御上神社一座 奥津島神社一座
伊香神社一座 水尾神社二座 或水作三 已上 近江国
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江国 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)栗太郡 8座(大2座・小6座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 建部神社(名神大)
[ふ り が な ](たけへの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[Old Shrine name](Takaihe no kamino yashiro)(Myojindai)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
瀬田の唐橋(セタノカラハシ)について
琵琶湖から流れ出た瀬田川を渡る〈瀬田の唐橋〉は 東海道・東山道(中山道)方面から京都方面へ向かう時 最短の行路となります
この橋を渡らないとすると 琵琶湖を船で渡るor南北いずれかに大きく迂回が必要となってしまいます
こうした地理上の特性から
日本の古代歴史上でも重要な拠点で 壬申の乱〈天武天皇元年(672)〉では 大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となったことでも有名です
『日本書紀』巻第9 気長足姫尊 神功皇后の条には
「神功皇后摂政元年(201)香坂皇子と忍熊皇子が反乱して 忍熊皇子は神功皇后(第15代 応神天皇の母)の家臣の武内宿禰(タケノウチスクネ)の軍に攻められて 瀬田の渡し で入水して自害した」と記されています
『日本書紀』巻第28 天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 上の条には
「壬申の乱で 大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった場所で 大友皇子方が 橋板を外し 大海人皇子方を待ち受けたが 突破されて滅んだ」と記されています
『続日本紀』巻第25 淳仁天皇の条には
「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)天平宝字8年(764)宇治から近江を攻めた恵美押勝に対して 孝謙上皇方は 田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りした そして これを焼くと 押勝は 琵琶湖西岸の高島郡を北上したが敗死した」と記されています
その他沢山の史実と逸話があります
瀬田の唐橋 俵藤太「ムカデ退治伝説」の案内板
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京阪石山坂本線の唐橋前駅から 旧東海道を東へ約1km 徒歩15分程度
琵琶湖から流れ出た瀬田川を渡る瀬田の唐橋を渡ります
そのまま進むと道路に大きな石の社号標「官幣大社 建部神社」が建っています
すぐに 参道の起点に さらに大きな社号標「近江国一之宮 建部大社」と 一の鳥居が建っています
建部大社(Takebe Taisha)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐり 参道を進みます 参道はその先で ほぼ直角に左方向(北)へ折れています 境内図参照
折れた先には 砂利が敷き詰められた松並木の参道で 二の鳥居が建ち 風情があります
一礼をして 二の鳥居をくぐると 燈籠の並ぶ参道の正面に神門が見えて 左手には手水舎があり 清めます
透かし塀で囲われた神域には 檜皮葺の神門から入ることになります 正面には御神燈 両脇に建部大社と名入りの提灯が掛けられています
神門をくぐると すぐ前に拝殿が建っています
その拝殿前に立つ三本杉は 大己貴命が権殿に祀られた際に〈天平勝宝7年(755)孝徳天皇の詔により 大和国一之宮大神神社から勧請〉 一夜にして成長したと伝わる神木です 当社の神紋にもなっています
拝殿にすすみます 拝殿の両脇には 狛犬が座します
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 奥から 並列する流造の本殿〈西〉と権殿〈東〉が鎮座していて 幣殿 拝殿と連なっています
本殿〈西〉と権殿〈東〉は 透かし塀で覆われていて その前には狛犬が座し 拝所が設けられていますので 改めて お詣りをします
本殿の裏には 菊花石(きっかせき)が置かれています
境内は 小砂利が敷き詰められていて 更に美しく手入れがされていて ホウキノ目が入れられています 踏み荒らすのが気がひけますが 境内社にお詣りをします
境内社の・八柱神社には 陶器の狛犬が座しています
境内に湧き出る霊水には病気平癒のご利益があるとされます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)』〈和銅5年(712)編纂〉 に記される伝承
第12代 景行(ケイコウ)天皇〈在位AD 71~130年頃〉の条に
ヤマトタケルの命の系譜があり 近淡海〈琵琶湖〉の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の娘で〈建部神社を創建した〉布多遅比売(フタジヒメ)を娶り 生まれた子が 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱で 建部君(タケルベノキミ)の祖先であると記されています
【抜粋意訳】
中巻 景行天皇記 ヤマトタケルの命の系譜 の条
この倭建命(ヤマトタケル)が 伊玖米天皇(イクメノスメラミコト)の女(ムスメ)布多遅能伊理毘売命(フタジノイリビメノミコト)を娶して生みましし御子は 帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)一柱
また その海に入りたまひし 弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)を娶して生みましし御子は 若建王(ワカタケルノミコ)一柱
また
近淡海の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の祖(オヤ)
意富多牟和気(オホタムワケ)の女(ムスメ)
布多遅比売(フタジヒメ)を娶して生みましし御子は 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱
また
吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)の妹 大吉備建比売(オオキビタケヒメ)を娶して生みましし御子は 建貝児王(タケカイコノミコ)一柱また 山代(ヤマシロ)の玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)を娶して生みましし御子は 足鏡別王(アシカガミワケノミコ)一柱
また ある妻の子 息長田別王(オキナガタワケノミコ)
凡(スベテ)その倭建命の御子等 并(アワセ)せて六柱なり
かれ 帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)(仲哀天皇)は天の下治らしめき次に
稲依別王(イネヨリワケノオウ)は 犬上君(イヌカミノキミ)・建部君(タケルベノキミ)の祖先なり
【原文参照】『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
第12代 景行(ケイコウ)天皇〈在位AD 71~130年頃〉の条に
ヤマトタケルノミコトの功績を伝える者として「武部(タケルベ)」を定めたとあり
更に ヤマトタケルノミコトが 娶って妃としたのは 建部神社を創建した「兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉」で その子息として「武部君(タケルベノキミ)」の始祖である「稻依別王(イナヨリワケノミコ)」を生んでいると 記しています
【抜粋意訳】
景行天皇記 白鳥陵 の条
その時(ヤマトタケルノミコトが能褒野陵に葬られたとき)に
白鳥(シラトリ)となって 陵(ミサザキ)から出て
倭国(ヤマトノクニ)を目指して飛びました
群臣等(マヘツキミタチ)はその棺櫬(ヒツギ)を開いて見ると、
明衣(ミソ)〈神官の衣服・死装束〉だけが空しく残って屍骨(シカバネ)は無かった
それで使者を派遣して 白鳥を追い求めましたすると倭(ヤマト)の琴弾原(コトヒキノハラ)に留まりました
それで そこに陵(ミササギ)を造りました
白鳥は さらに飛んで河内(カウチ)に到り 旧市邑(フルイチノムラ)に留まりました その土地に また陵を造りましたそれで その時代の人は この三つの陵を名付けて 白鳥陵(シラトリノミサザキ)といいます
しかし ついに(白鳥)は高く飛んで天に昇っていかれました
そこで 衣冠(ミソカガフリ)を(代わりに)葬りました
その功名(ミナ)〈日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の功績〉を録(ツタ)えようと 武部(タケルベ)を定められました
この年は 天皇が踐祚(アマツヒツギシロシメシテ)〈皇位年月〉43年です
【抜粋意訳】
景行天皇記 日本武尊の妃と子女の条
これより先のこと
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は 兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉を娶って妃とし
稻依別王(イナヨリワケノミコ)を生みました
次に
足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)
布忍入姫命(ヌノシイリビメノミコト)
稚武王(ワカタケノミコ)です兄の稻依別王(イナヨリワケノミコ)は
犬上君(イヌカミノキミ)
武部君(タケルベノキミ)の二族の始祖なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
建部公(タケベノキミ)について 日本武尊の子孫と 記されています
【意訳】
右京(ミギリノミサト)第四巻 皇別の条
建部公(タケベノキミ)犬上朝臣(イヌカミアソン)と同祖(オナジキオヤ)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)
続日本紀合
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
建部神(タケベノカミ)が 官社に列格されたこと 神階の奉授が 記されています
【意訳】
貞観2年(860年)3月1日 辛亥 朔の条
近江国(オウミノクニ)の
建部神(タケベノカミ)を
列(レツ)に於(オイテ) 官社(カンシャ)に
貞観5年(863)6月8日 巳亥の条
授(サズク)に
武蔵国(ムサシノクニ)
従5位下 氷川神(ヒカワノカミ)に 正5位下
甲斐国(カイノクニ)
従5位下勲12等 物部神(モノノベノカミ)美和神(ミワノカミ)に 従5位上
近江国(オオミノクニ)
正6位上 建部神(タケベノカミ)に 従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『類聚国史(Ruiju Kokushi)』〈延喜元年(901年)頃〉に記される伝承
建部神(タケベノカミ)に 神階の奉授が 記されています
【意訳】
貞観10年(868年)7月11日 壬寅の条
授(サズク)に
近江国(オオミノクニ)
建部神(タケベノカミ)に 従4位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『類聚国史』延喜元年(901年頃) 編者:菅原道真[数量]57冊[書誌事項]写本[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047745&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『諸国一宮巡詣記抜粋(Shokoku Ichinomiya Jumpaikibassui)』〈著 橘三喜 1675~1697年〉に記される伝承
近江国の一之宮として記されています
【意訳】
近江国(オウミノクニ) 一宮(イチノミヤ)
栗太郡(クルモトノコオリ) 建部社(タテベノヤシロ)※鳥居に「近江宮」とも記されています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋 乾』(1675年~1697年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039344&ID=M2014090119552785625&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
六国史から神階の奉授が 記紀神話等から 武部君(タケルベノキミ)の始祖について記されています
【意訳】
建部神社 名神大
三代実録 貞観2年(860年)3月1日 辛亥 朔の条・・官社に列す
又曰く 貞観5年(863)6月8日 巳亥の条・・従5位下
又曰く 貞観10年(868年)7月11日 壬寅の条・・従4位上日本紀略 慶和2年6月9日 乙未の条・・正3位
日本書紀 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は 兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉を娶って妃とし 稻依別王(イナヨリワケノミコ)を生みました 武部君(タケルベノキミ)の始祖なり
古事記 近淡海の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の娘で 布多遅比売(フタジヒメ)を娶り 生まれた子が 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱で 建部君(タケルベノキミ)の祖先である
続日本紀 神護景雲2年(768)7月 巳卯の条 近江国 志賀園大穀少 初位上 建部公 伊賀広呂賜姓 朝臣
新撰姓氏録 建部公(タケベノキミ)犬上朝臣(イヌカミアソン)と同祖(オナジキオヤ)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)
扶桑見聞私記 18壽永2年7月23日の条 当国 一ノ宮 建部社の森中に棟あり
〇一宮の勢田橋の東に在り
永万記 建部社 神祇官菖蒲進
明座7年9月 伯家の所伝古文書 江州 勢田郷 建部明神
和抄 ・美作国 真島郡 建部 ・備前国 津高郡 建部
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
六国史から神階の奉授が 記紀神話等から 武部君(タケルベノキミ)の始祖について記されています
【意訳】
建部神社 名神大
建部は 多祁邊と訓ずべし
〇祭神 大己貴命 一宮記 或いは云う 天明玉命 蕃神注
〇神領村に在す
〇延喜式三巻 臨時祭 名神祭285座 中略 近江国 建部神社一座
〇当国 一之宮なり
〇永万記 建部社 神祇官菖蒲進日本書紀 景行天皇巻に 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は 兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉を娶って妃とし 稻依別王(イナヨリワケノミコ)を生みました 武部君(タケルベノキミ)の始祖なり
又云う
ヤマトタケルノミコトが能褒野陵に葬られたとき その功名(ミナ)〈日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の功績〉を録(ツタ)えようと 武部(タケルベ)を定められました古事記 ヤマトタケル命が 近淡海〈琵琶湖〉の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の娘で〈建部神社を創建した〉布多遅比売(フタジヒメ)を娶り 生まれた子が 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱で 建部君(タケルベノキミ)の祖先である
先代旧事本紀 同上
新撰姓氏録 建部公(タケベノキミ)犬上朝臣(イヌカミアソン)と同祖(オナジキオヤ)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)
神位
三代実録 貞観2年(860年)3月1日 辛亥 朔の条・・官社に列す
又曰く 貞観5年(863)6月8日 巳亥の条・・従5位下
又曰く 貞観10年(868年)7月11日 壬寅の条・・従4位上
日本紀略 慶和2年6月9日 乙未の条・・正3位雑事
伯家部類に 江州 勢田郷 建部明神事
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
祭神は 日本武尊(ヤマトタレルノミコト)に訂正すると断言して 記しています
【意訳】
建部(タケベノ)神社 名神大
祭神 日本武尊(ヤマトタレルノミコト)
今 按〈考えるに〉
一宮記に祭神 大己貴命とあり 又 一説に天明玉命ともあれど
日本書紀に「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は 兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉を娶って妃とし 稻依別王(イナヨリワケノミコ)を生みました 武部君(タケルベノキミ)の始祖なり」古事記に「近淡海の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の娘で 布多遅比売(フタジヒメ)を娶り 生まれた子が 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱で 建部君(タケルベノキミ)の祖先なり」
とある安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の近江に由ある
又 犬上君の祖は 日本武尊なるべし
それは 新撰姓氏録に「建部公(タケベノキミ)犬上朝臣(イヌカミアソン)と同祖(オナジキオヤ)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)」とある証とすべし 故に今のを訂正せり神位
清和天皇 貞観2年(860年)3月1日 辛亥 朔の条・・官社に列す
又曰く 貞観5年(863)6月8日 巳亥の条・・従5位下
又曰く 貞観10年(868年)7月11日 壬寅の条・・従4位上
日本紀略慶和2年6月9日 乙未の条・・正3位祭日 4月 二の牛日(改め4月15日)
社格 縣社(明治18年4月22日列 官幣中社)(官幣大社)
所在 神領村(栗太郡 瀬田村 大字神領)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
建部大社(Takebe Taisha)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)