東京都
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谷保天満宮(国立市谷保)
谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています
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天神社(府中市宮町)〈大國魂神社 境外末社〉
天神社(あまつかみのやしろ)は 競馬場に面した小高い゛天神山゛に北向き〈本社 大國魂神社と同様〉に鎮座する珍しい社 かつて競馬場が移転以前は 東方まで延びていた天神山〈現在の倍以上の丘で〉は 一説には国造の墳墓跡とも云われ〈別名 国造山・丸山とも云う〉丸山とは 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)の鎮座する山の意です
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大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 景行天皇41年(111)大神の託宣によって創立と伝わり 武蔵国の守神として大國魂神が祀られます 平安時代には各諸神を合祀゛総社゛となり 平安時代末期頃 武蔵国の著名な六所の神社を合祀゛武藏總社六所宮゛と称されます 社伝には 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)とも伝わります
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天満社(八王子市北野町)
天満社(てんまんしゃ)は 創建の年代は不祥ですが 『武蔵演路(むさしえんろ)』〈安永9(1780)年起稿〉には 延喜式内社(927年)武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)であるとも記載されています 鎮座地 北野の地名は 横山党の一族(平安時代後期~鎌倉時代)が京都北野天満宮をこの地に勧請したことによるとされています
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武藏御嶽神社(青梅市御岳山)摂社・末社について
武藏御嶽神社 摂社・末社について 詳細を記載しています
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武藏御嶽神社(青梅市御岳山)〈延喜式内社 大麻止乃豆乃天神社の論社〉
武藏御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は 崇神天皇7年(AD.91)創建 又 日本武尊が白狼の先導によって難を逃れたとも伝わる古社 天平8年(736)行基が 蔵王権現の像を安置以来 東国の修験の聖地゛御嶽蔵王権現゛と称され 明治時代に式内社゛大麻止乃豆乃天神社゛と改称し゛御嶽神社゛武藏御嶽神社゛と社号変更 現在に至ります
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大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〈延喜式内社の論社〉
大麻止乃豆乃天神社(おおまとのずのてんじんじゃ/おおまとのつのあまつかみのやしろ)は 『延喜式神名帳』に所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつの あまつかみのやしろ)の論社です 江戸時代には 丸宮明神(まるみやみょうじん)と称されたので 式内社の「麻止乃宮(まとのみや)」と訛り生じた説が有力です
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古天神遺跡〈古天神公園〉(調布市布田)
古天神遺跡(ふるてんじんいせき)は 文明九年(1477)多摩川の洪水を避けて この地から現在地〈布多天神社(調布市調布ケ丘)〉へ遷座した『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 多磨郡 布多天神社の旧鎮座地゛古天神の地゛です 遺跡の発掘調査では 1万年位前の旧石器・4、5千年前の縄文時代の人々の生活跡・5世紀頃の墓、7世紀の堅穴住居などが発見されています
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布多天神社(調布市調布ケ丘)
布多天神社(ふだてんじんしゃ)は 社伝によれば 創建は第11代 垂仁天皇の御代(BC29~AD70年頃)と伝わる古社 御祭神は天津神の 少名毘古那神(すくなひこなのかみ)を祀る゛延喜式内社゛です 文明九年(1477)多摩川の洪水をさけ 古天神という所から現在地へ遷座 その折 相殿に 菅原道真公を配祀され現在に至ります
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磐井神社(大田区大森北)
磐井神社(いわいじんじゃ)は 社伝には第30代 敏達天皇二年(573)八月鎮座とあり 六国史『三代実録』には 貞観元年(859)゛武蔵国 従五位 磐井神 官社に列す゛と記される由緒を持ちます 神宝゛鈴石゛があり鈴森八幡宮とも呼ばれる武蔵國の八幡総社でした 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 荏原郡 磐井神社(いはゐのかみのやしろ)とされています
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阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)〈延喜式内社〉
阿豆佐味天神社(あづさみてんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 阿豆佐味天神社(あつさみの あまつかみのやしろ)とされます 創建は不詳ですが 口碑に 寛平4年(892)桓武平氏の祖・上総介高望王の造営と伝わり その子孫 村山党〈多磨郡村山郷の武士団〉の氏神〈殿ヶ谷の地名は 村山党の居館があったことに由来〉
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久が原西部八幡神社(大田区久が原)
久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は 社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります
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久が原東部 八幡神社(大田区久が原)
久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります
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鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)
鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています
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六郷神社(大田区東六郷)
六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません
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三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります
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青渭神社(稲城市東長沼)
青渭神社(あおいじんじゃ)は 昔 この付近に大きな青い沼があり その神霊を祀ったことが起源とされ・大沼明神・青沼大明神と称していました 弘仁年中(810~824)創建との伝承があり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社となっています
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青渭神社(調布市深大寺元町)
青渭神社(あおいじんじゃ)は 社前にケヤキの老樹がそびえます 往古は社前の湧き水が大池となり青波を湛えていたので 青波天神社と呼ばれたことから 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社ともされています
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青渭神社 里宮(青梅市沢井)
青渭神社 里宮(あおいじんじゃ さとみや)は 社伝によれば創建は第10代 崇神天皇の御代とされ 又 天慶年間(938~947)平将門の乱の時 鎮守府将軍 源経基が青渭神社と社号を名付け社殿を建てたとします 『延喜式神名帳927 AD.』所載社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の里宮とされます
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御田八幡神社(港区三田)
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています