大分県
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宇奈岐日女神社(湯布院町川上)〈延喜式内社 豊後國 速見郡 宇奈岐日女神社〉
宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)は 社伝には第12代 景行天皇〈日本武尊の父〉が 征西の際に速津媛に迎えられ 勅をして創祀と伝り 又 由布院の盆地の開拓神話として゛蹴破伝承゛〈太古には湖であったとする伝説〉もあります 『六国史』に神位の奉授・『延喜式神名帳』に豊後國 速見郡 宇奈岐日女神社と所載されます
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六柱神社(大分市佐賀関)
六柱神社(むはしらじんじゃ)は 早吸咩女神社の社伝には 神武天皇の東遷の時 地主神の二神〈黒砂(いさご)真砂(まさご)〉が神劔〈御神体〉を献じ 天皇みずから建国の請願を立てたと云う 創建の地゛古宮゛と伝わります 早吸咩女神社が遷座(701年)後も 里人が祠を建てて祀ってきました
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椎根津彦神社(大分市佐賀関)
椎根津彦神社(しいねつひこじんしゃ)は 住古 神武天皇は 東征の途 豊國 早吸の門に到りし時 海上に釣垂れていた賤しからぬ人品の男 珍彦(うずひこ)〈国津神〉に水先案内を仰付け 椎根津彦(しひねつひこ)の名を下した 以来 命は功をたてて論功行賞の恩典として 初代 大和國造となった 里人は かくの如き祖先を輩出した郷土の誇りとして 小祠を祀りて奉った
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早吸日女神社(大分市佐賀関)
早吸日女神社(はやすひめじんしゃ)は 社伝には 神武天皇の東遷の時 地主神の二神〈黒砂(いさご)真砂(まさご)〉が神劔〈御神体〉を献じ 天皇みずから建国の請願を立てたと云う 創建の地は 西方1.8kmの古宮〈当社と同じ祭神を祀る 現在の六柱神社の場所〉と伝わり その後 現在地へと遷座 式内社 早吸日女神社(はやすひめの かみのやしろ)の論社です
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西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
西寒田神社(ささむたじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社です・『豊後国志』・『太宰管内志』では こちらが本祠であって 応永15年(1408)3月に大友親世が現在地〈西寒多神社(大分市寒田)〉に遷座したと伝えています
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西寒多神社(豊後大野市犬飼町)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊後國 大野郡一座大 西寒多神社であり 文化九年(一八一二) 白川神紙伯の「鎮國一宮 西寒田神社」の社号をうけていると伝えています 式内社の論社でもあり 豊後国一之宮の論社でもあります
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柞原八幡宮(大分市上八幡三組)
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は 天長四年(827)延暦寺の名僧・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り 柞原山に勧請したのを 当宮の創設起源とします その後も 国司の厚い崇敬を受け 一方 皇室も厚く尊崇せられた豊後国一之宮とされます
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豊前国 式内社 6座(大3座・小3座)について
豊前国(ぶぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 豊前国 6座(大3座・小3座)の神社です
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豊後国 式内社 6座(大1座・小5座)について
豊後国(ぶんごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 豊後国 6座(大1座・小5座)の神社です
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健男霜凝日子神社 里宮〈神幸所〉(竹田市神原)
健男霜凝日子神社 里宮〈神幸所〉は もともとは 祖母山の神・山頂の上宮・遥拝所の下宮・穴森神社の神幸所でした 國幣小社への昇格の為 昭和9年(1934)相応規模の社殿が建築され とても立派な里宮の形式をとっています 終戦により計画は中断し 神幸所として現用されています
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穴森神社(竹田市神原)
穴森神社(あなもりじんじゃ)は かつて神池があり その池底にあった岩窟をご神体としています 姥嶽大明神(祖母山)の化身である大蛇が住んでいたとされた岩窟からは 元禄16年(1703)大蛇の骨が発見され 藩命で宝永2年(1705)現在の岩穴に神体として祀ったと伝わります 『平家物語』には 岩窟〈穴森神社〉に住んでいた大蛇 姥嶽大明神(大蛇)と華御本姫(はなのおもとひめ)との神婚伝説(神と人との婚姻説)が記されています
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健男霜凝日子神社 下宮(竹田市神原)
健男霜凝日子神社 下宮(たけおしもこりひこじんじゃ げくう)は 上宮が鎮座する「祖母山(ソボサン)山頂」と対面する山の南面の中腹に鎮座しています 参拝には 山麓から約240段の石段を上ります すると山肌に巨大な岩窟があり その岩窟中に社殿が建っています 第36代 孝徳天皇 白雉2年(650)当所に社殿を建立し 下宮と称し遥拝所とされたと伝わります 延喜式内社の論社です
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西寒多神社(大分市寒田)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば 第15代 応神天皇の勅命により 応神天皇9年(278)4月 西寒多山(本宮山)に 祠を建立したと伝わり その後 応永15年(1408)3月 南北朝~室町時代に守護大名 大友親世公により現在地に遷座されました 豊後国一之宮として信仰されています
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護王神社(宇佐市)
護王神社(ごおうじんじゃ) は 皇統が守護された聖跡"大尾山"鎮座します 和気清麻呂公が 八幡大神の御託宣を受けたのは山頂〈摂社 大尾神社が鎮座〉で このご神託を受け 弓削道鏡の野望はくじかれます 当社は 山頂から少し下った中腹に 和気公を祀り鎮座します 宇佐神宮の境外末社です
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椎根津彦神社(椎宮)
椎根津彦神社(しいねつひこじんじゃ)(椎宮)は 紀元前667年に東征を開始した神武天皇が 海を導く者として任命した国津神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を祀ります この場所が 神武天皇一行の宇佐への上陸地点であると伝えられています
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大尾神社(宇佐市)
大尾神社(おおおじんじゃ)は 天平神護元年(765)から約15年間 宇佐神宮の「上宮」として鎮座していました この時「弓削道鏡の事件」が起きましたので 八幡大神が 国体擁護の御神教を授けた霊地とされています 宇佐神宮からは 東に位置し 朝陽を迎えるかの如く 真っ直ぐに延びる参道の先 宇佐三山の一つさされる大尾山の頂上に鎮座しています 奥宮の「御許山(大元神社)」への古道の出発点とされる霊地でもあります
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小山田神社(宇佐市)
小山田神社(おやまだじんしゃ)は 養老4年(720)小山田に鎮座していた八幡大神が 隼人征伐の神託を下し 御進発した時の 宇佐神宮の前宮とされています 現在の社殿が建つ鎮座地は 明治6年 神社合祀施策によって 貴布祢神社の境内西にあった小山田神社を 貴布祢神社の境内に遷座し 合祀し 社名を小山田神社として祀られています
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妻垣神社(安心院町)
妻垣神社(つまがきじんしゃ)は 宇佐大神(八幡大神)の神託により 天平神護元年(765)閏十月八日 社殿が造営されたのが始まりと伝わります 神武天皇の東征記にある「足一騰宮」との伝承を持つ磐座もあります
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大根川神社〈矢立宮〉(宇佐市佐野)
大根川神社(おおねがわじんじゃ)〈矢立宮〉は 昔 八幡大神が この地で大根を食したので「大根河(おおねがわ)」と呼ぶと伝わります 養老4年(720)大隅・日向の隼人反乱の征伐のために 朝廷から任命された大友旅人が この地で矢を立てて必勝祈願をしたことから 矢立宮とも呼ばれています
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乙咩神社(宇佐市下乙女)
乙咩神社(おとめじんじゃ)は 昔 八幡大神が 辛島の酒井泉社から この地に移られました この時 辛島勝乙目(からしまのすぐりおとめ)が 浜辺で泉を掘って 八幡大神の洗浴に関する奉仕をされました その泉水を「乙咩水(おとめのみず)」と呼び 現在も境内入口の南側に御霊水の井戸が 八幡大神の御霊幸の跡として残っています