穴森神社(竹田市神原)

穴森神社(あなもりじんじゃ)は かつて神池があり その池底にあった岩窟ご神体としています 姥嶽大明神(祖母山)の化身である大蛇が住んでいたとされた窟からは 元禄16年(1703)大蛇の骨が発見され 藩命で宝永2年(1705)現在の岩穴に神体として祀ったと伝わります 『平家物語』に 岩窟〈穴森神社〉住んでいた大蛇 姥嶽大明神(大蛇)と華御本姫(はなのおもとひめ)との神婚伝説(神と人との婚姻説)記されています

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

穴森神社(Anamori Shrine)
(あなもりじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

大分県竹田市大字神原1432

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大蛇の霊(おおへびのたま)
《配》彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
   鵜鵜葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

〈合祀神〉
明治41年(1908)合祀 栃長迫(とちながさこ)に祀られていた
大山祇尊おおやまつみのみこと・菅原神すがわらのかみ・市杵島姫尊いちきしまひめのみこと

明治41年(1908)合祀 振顔野(ふるがおの)に祀られていた
伊弉諾尊いざなぎのみこと・大巳貴命おおなむちのみこと・市杵島姫尊いちきしまひめのみこと・菅原神すがわらのかみ・大山祇尊おおやまつみのみこと

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・岩窟内に置かれた箱から 子宝石(子授石)を持ち帰ると子宝に恵まれ
・祈願成就のお礼参りには 子宝石(子授石)を返すならい

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社
・ 健男霜凝日子神社摂社

【創  (Beginning of history)】

穴森神社(あなもりじんじゃ)と大蛇伝説

穴森神社は、古くは池明神(いけのみょうじん)や池社(いけしゃ)と呼ばれ、社殿裏の窟は水をたたえた池であったと言われています。
池の中には大蛇が住んでおり御神体として崇められていました。
江戸時代初期に岡藩三代藩主 中川久清の命により 池に穴を開けて水が抜かれ、元禄16年(1703)には池の底の洞窟から大蛇の骨が発見されたと伝えられています。
また、源平合戦での緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)の活躍が書かれた「平家物語(へいけものがたり)緒環(おだまき)」の章には、惟栄が「怖(おそ)ろしき者の末裔(まつえい)」であると紹介され、姥嶽大明神(うばだけだいみょうじん)(大蛇)と華御本姫(はなのおもとひめ)との神婚伝説(神と人との婚姻説)が記され、大蛇が住んでいた窟が穴森神社であるとされています。

平家物語「緒環(おだまき)」伝説

昔々、豊後国の山里(大分県豊後大野市清川町宇田枝とされている)に美しい娘(華御本姫)が住んでいました。
いつの頃からか、娘のもとに素性の知れぬ男が夜な夜な通ってくるようになり、やがて、娘が身ごもったため
母が不審に思い娘に問い尋ねると、娘は、「男の来るときは私の目にも見えるが、帰るときは何も見えない」と話しました。
母は娘に男が帰るとき針で「緒環」(糸巻き)を通して、そっと男の襟に刺しなさいと教え、娘は教えどおり、男の襟に針を刺し、何も知らずに帰った男のあとをたどると、日向国(宮崎県)の境にそびえる嫗嶽(祖母山)の麓(ふもと)にある大きな岩屋の中に糸が続いていました。

 岩屋の奥では、異様な唸る声がしていたので、娘は「一度お姿をお見せ下さい」と言うと、奥から「わしは人間ではない、見ない方がよいだろう」と返事がありました。
それでも娘は「見たい」と重ねて求めると、声の主が奥から初めて姿を見せました。
それは嫗嶽の主と思われる巨大な大蛇で、針が喉笛に突き刺さっていました。
大蛇は「お前の腹の子は男の子であり、弓矢打物を取らせば九州二島に並ぶ者はあるまい」と告げました。
 間もなく娘は、大蛇の予言どおり男子を出産し、母方の祖父大太夫は、自分の名に因み大太と名づけました。大太は 夏冬にも手足にアカガリ(あかぎれ)ができたので、アカガリ大太と呼ばれました。
緒方三郎惟栄は、このアカガリ大太の五代の孫であり、このように恐ろしいものの末裔とし、九州の武士たちはみな惟栄に従いました。

境内案内板より

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【由  (History)】

由緒

古くは池の明神、窟大明神、近代(1703)に至り、穴森大明神と唱される。
往古、この地に冬でも青葉繁り、満々と水をたたえる1町歩ばかりの池があり、その中には大蛇が棲んでいた。里人はこれを御神体と崇め、四季の祭を行なっていたが、一度でも祭が粗末に行われると天候急変し、里人を苦しめる禍が起きた。
岡藩主 中川久清公はこれを憂慮し、「住民を困らす神」があるはずはないと奉行に命じ、大暴風雨の中数日を要して「池さらえ」を為し、今日の態様にしたと伝えられている。以後、禍は皆無となった。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

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生目神社(いきめじんじゃ)
《主》藤原景清公(ふじわらのかげきよこう)

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粟島神社(あわしまじんじゃ)
《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

穴森神社は 健男霜凝日子神社の摂社となっています

・健男霜凝日子神社 下宮(竹田市神原)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊後国 6座(大1座・小5座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)直入郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 建男霜凝日子神社
[ふ り が な ]たけをしもこりひこ かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takeoshimokorihiko no miko no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
豊後國 直入郡 健男霜凝日子神社」の論社について

・建男霜凝日子神社 上宮(祖母山 山頂)

・健男霜凝日子神社 下宮(竹田市神原)

・健男霜凝日子神社 里宮〈神幸所〉(竹田市神原)

・穴森神社(竹田市神原)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

豊後竹田駅から 県道639号経由 約17km 車35分程度
神原川が神原で二手に分流しますが 神原川を上流に向かうと 一の鳥居が建っています 徒歩の場合はこちらから

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そのまま道なりに車道を迂回しながら山へと上がる 社号標「穴森神社」があり 整備された参道と駐車場 社頭に白い鳥居が建ちます
穴森神社(Anamori Shrine)に参着

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異様な神氣or霊気を感じます 一礼をして鳥居をくぐります 木立の中を真っ直ぐに参道は延びていて 朱色の鳥居が見えています

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朱色の鳥居の前には 注連縄の巻かれた御神木と 朱色の文字で「穴森神社」と記された社号標があり 一見すると立派なのですが 異様な感が拭えません
ああ 朱色の鳥居の先は 下り参道だと 合点がいきました 明らかに社地は下っています 全国的にも一般に下り参道は少なく ほとんどが祟り神を鎮めている神社とされています

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鳥居をくぐり抜けて進むと 案内看板「穴森神社(あなもりじんじゃ)と大蛇伝説」があり 下り参道の意味がうっすらと承知できました 参道は 二手に分かれていて 何故か右手の境内社に先にお詣りをしておこうと朱色の小さな鳥居をくぐります

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境内社は大石の横に石祠が2宇生目神社《主》藤原景清公(ふじわらのかげきよこう)粟島神社《主》少彦名命(すくなひこなのみこと) その横に七福神が祀られています お詣りをします

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玉垣に囲まれた 穴森神社ご神域に進みます 社殿の前面の社地はコンクリート敷きになっています

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拝殿があり 本殿は見えませんが 左手には「穴森神社」と立札もありますので 拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 本殿はなく ガラス張りになっていて 奥の下の方に祠らしきものが見えています

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拝殿の裏に回り込むとすべてが判りました
そこは 異様な窪地があります かつて池であり 池の水を抜いた後 池の底に 岩窟が現れて 大蛇の白骨が出現した大蛇伝説の岩窟に祠が祀られていたのです

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穴森伝説の概要

この洞窟は 嫗嶽大明神の化身である大蛇の棲息した処と謂われ 往古は水を湛えていたが 中川藩主が現在の如く水を放出し民心を鎮む。
元禄1610月この洞窟より大蛇の骨が発見され 宝永2年藩命で現在の岩穴に神体として祀る。(往古は池の明神、中古は窟(いわや)大明神又は穴森大明神と唱う)
この大蛇は 大神姓の神婚伝説の主役であり 平家物語、源平 盛衰記に見ゆる緒方三郎惟栄の遠祖(いとおそろしきもの)と謂われている。
この度 子宝神授の神の鎮守された この神聖な洞窟内に照明の設備を行い縁故参拝者並に一般参拝者の利便に供す。
昭和54年正月 穴森神社社務所

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岩窟は コインを入れると照明がついて 中に入れるようになっていますが ここまでの下り宮の奥までは 立ち入ることは 気がひけてとても出来ませんてしたので 祠によくよくお詣りをして 拝殿の裏に設けられた急勾配の石段を上がり戻ります

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改めて この地が豊かな水を湛えた神秘の神池であった頃を想像して 石段の上から 再び振り返り一礼をします

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朱色の鳥居まで戻り 下り参道で有る訳が全て合点がいったような想いで この神池の底の岩窟を御神体とする穴森神社を振り返ります

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真っ直ぐな木立の中の参道を社頭の白い鳥居へと戻ります 鳥居越しから改めて感じるのは いかに山深い地であるかです そこに謎のような神の池があったの不思議な神社です

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『平家物語(Heike Monogatari)』〈鎌倉時代(1185~1333)に成立〉に記される伝承

平家物語に記される「緒環(おだまき)」伝説です

祖母山の北麓は 大和国の大神氏(おおみわうじ)の傍流とされる豊後(ぶんご)大神氏(おおがうじ)のもとで発展したと伝わります 
豊後大神氏の祖(おや)は 大神惟基おおがこれもと)と伝わり 5代孫が
『平家物語』に活躍とその出自が記された緒方惟栄おがたこれよし)とされています

緒環(おだまき)の条」は の出自が「おそろしき者もののおそろしき末すゑなり」と語られ 祖母山大明神であると里の姫の神婚譚(神と人との婚姻説)で 大神氏に伝わる大和国の大神神社(おおみわじんじゃ)の三輪山伝説と同様と考えられています

抜粋意訳】

巻第八 緒環(おだまき)の条

 豊後国(大分県)は 刑部卿三位 藤原頼輔卿の領国であった 子息 頼経朝臣を代官として置いていた

京から頼経のもとへ

「平家は神にも見放され申し 法皇にも捨てられ申して 帝都を出て 波の上に漂う落人となった そうであるのに 九州の者どもが引き受けてお世話をしているというのは けしからんことである 豊後国においては従ってはならない 心を同じく協力して追い出すべきである」という内容の伝言をおっしやって遣わされたので、頼経朝臣はこれをこの国の住人 方三郎義に下命した

この維義は 恐ろしき者の子孫であった 具体的には 豊後国の片田舎に 昔 女がいた ある人の一人娘で 夫もなかったその者のもとへ 母にも知らせずに 男が毎晩通っている間に 年月も重なった頃に 身ごもってしまった 母はこれを怪しんで

「お前のもとへ通ふ者は何者か」と問うと

「来るのを見るけれども 帰るのを知らない」と言った

「それでは 男が帰ろうとするとき 印を付けて 行方をつけてみなさい」と教えたので
娘は母の教えに従って 朝帰りする男が水色の狩衣を着ていたが 狩衣の襟に針をさし 倭文の苧環という糸の輪を付けて 通って行くあとをついて行くと 豊後国でも日向国との境 優婆岳(うばがだけ)という山のふもとにある 大きな岩屋の中へ(糸が)つながって入り込んでいる

女は 岩屋の入口にたたずんで聞くと(何者かが)大きな声でうなっている

「私はここまで尋ねて参りました お目にかかりましょう」と言ったところ

「私は 人の姿をしている者ではない お前は姿を見れば肝 魂も身体についていられないほどになるであろう すぐにに帰れ お前が妊娠している子は男子であるにちがいない 弓矢 刀を取って 九州と2島壱岐 対馬)に並ぶものはないであろうぞ」と言った

女が 重ねて申したことは「たとえどのような姿であっても この日頃の親しい交わりをどうして忘ることができましょう 互いに姿を見せて 見せもしたいのです」と言われて

「それでは」といって
岩屋の内から 高さ5~6尺、長さ14~15丈もあろうかと思われる大蛇であって ぐらぐらと動いて這い出てきました 衣の襟にさしたと思った針は つまり 大蛇の喉笛にさしていたのであった
女は これを見て 肝 魂も身体にない 引き連れていた従者10余人は 倒れ 慌てふためき 喚き叫んで 逃げ去った

女は帰って 間もなく出産したが 男子であった
母方の祖父の大太夫が 「育ててみよう」といって育てると
まだ 10歳にも満たないうちに 姿形は大きく 顔は長く 背は高かった
7歳で元服をさせ 母方の祖父を大太夫というので これを大太と名付けたのである

夏も冬も手足か大きなあかぎれで隙間なく割れていたので あかがり大太と言われた

例の大蛇は 日向国で崇められている高知尾明神の御神体である この緒方三郎は あかかり大太にとっては五代目の子孫である このように恐ろしい者の子孫であったので 国司の命令を院宣と称して 九州 壱岐 対馬両島に廻文をしたところ 相当な武士どもが維義に従いついた

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『平家物語』鎌倉時代に成立 出版 刊本 万治02年  [旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000042961&ID=M2014052621274461233&TYPE=&NO=

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『続日本後紀(Shoku nihon koki)』〈貞観11年(869)完成〉に記される伝承

健男霜凝日子 比咩神(タケオシモコリヒコ ナラビ ヒメノカミ)として ヒコ神とヒメ神の2柱に 神階の奉授が記されています

【意訳】

承和10年(843)9月 甲辰の条

始置(ハジメテオク)に
陸奥国(ムツノクニ)鎮守府(チンジュフ)に
掌一員を令に 帯びるて 刀(ツルギ)を把笏(ハシャク)せなり

対馬島(ツシマシマ)
(ムイ)雷命神(イカヅチノミコトノカミ)


豊後国(ブンゴノクニ)
(ムイ)健男霜凝日子 比咩神(タケオシモコリヒコ ナラビ ヒメノカミ)

無位(ムイ)早吸比咩神(ハヤスヒメノカミ)

日向国(ヒュウガノクニ)
無位(ムイ)高智保皇神(タカチホノカミ)
無位(ムイ)都濃皇神(ツノノカミ)

(ナラビ)に(タテマツ)れ (サヅク)に 5位下

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承

凝神(タケオシモコリノカミ)に神階の奉授が記されています

【意訳】

元慶7年(883)9月2日の条

・・・・・
・・・・・
授(サズク)に
豊後国(ブンゴノクニ)
従5(ジュゴイウエ)
凝神(タケオシモコリノカミ)

早吸咩神(ハヤスフミノカミ)
宇奈支比咩神(ウナギヒメノカミ)

 並(ナラビ)に 5位下(ショウゴイゲ)を

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

神階と鎮座地について記しています

【意訳】

建男霜凝日子(タケヲシモコリヒコノ)神社

続日本後紀 承和10年(843年)9月 甲辰の条・・5位下
日子神  比咩神 二座 

三代実録 元慶7年(883)9月2日の条・・正5位下

 

九重(クジュウヤマ)に坐す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

社家注進には 上宮の所在を嶽山(ウバダケヤマ)〈祖母山(そぼさん)〉と記しています

【意訳】

建男霜凝日子神社

建男霜凝は 多祁袁志毛呉利訓ずべし 日子は仮字なり
〇祭神 明らかなり 咩神相殿に坐すべし

嶽山(ウバダケヤマ)に在す 社家注進
嶽明神と称す 今 上宮 下宮 2所に奉祀す

神位
続日本後紀 承和10年(843年)9月 甲辰の条・・5位下
三代実録 元慶7年(883)9月2日の条・・正5位下

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

鎮座地として 下宮を記しています

【意訳】

建男霜凝日子神社

祭神 彦五瀬命 旧 嶽明神(ウバダケミョウジン)

神位
仁明天皇 承和10年(843年)9月 甲辰の条・・5位下
陽成天皇 元慶7年(883)9月2日の条・・正5位下

祭日 6月26
社格 郷社(縣社)
所在 井手上村(明細帳神原村字下宮とあり)(直入郡 嶽村 大字 神原

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

様々な書伝記載せ 豊后國志に一書 彦五瀬命となすは、嶺南に五固川あるに附会せるもののみ、最も洞察を要す」とも記しています

【意訳】

大分豊後国 直入(ナホイリ)郡 嶽村 字 神原 字 井手ノ上

縣社 建男霜凝日子(タケヲシモコヒコノ)神社

祭神 建男霜凝日子(タケヲシモコヒコノ)
   豊玉(トヨタマヒメノ)
   彦五瀬(ヒコイツセノ)

創建年代詳ならすと雖も、
神名帳考証に云、「建男霜凝日子神社、大八洲霊、古事記云、波邇夜須毘古神、大和國健土安神社、日本紀云、処々小島皆是潮沫凝成者矣、按霜輿島言通、霜凝日子者洲壌之霊乎」と見え、
神社覈録に云建男霜凝は多祁袁志毛呉利と訓べし、日子は假字也、祭神明か也(比咩神も相殿に坐すべし)嫗嶽山に在す、嫗嶽明神と称す、今 上宮 下宮 二所に奉祀す。神位、続日本後紀、承和109月甲辰、無位 建男霜凝並比咩神 奉授 從五位下、三代実録、元慶792日乙丑、授 豊後國 從五位上 建雄霜起神 正五位下とあり、
神祇志料に云、建男霜凝子神社、今 大田郷 井手上村 神原山の嫗嶽にあり、嫗嶽大明神と云、建男霜凝日子及比咩神を祀る(按、豊後国志云、彦五瀬命、豊玉比咩命を祭ると云へり、然れども文書の他に徴する者なきを以て、其果して然るや否を決め難しと雖も、其日子比咩二神を祭る事、続日本後紀と自ら符合るに似たり、故今附て考に備ふ云々と見え、共に直入郡式の小社に列せり、社記に依れば、孝徳天皇 御宇 白雉2年の艸創なりと云」、又
豊後國志に「在 入田郷 神原村山中、延喜神祇式曰、健男霜凝日子神社 即是、以 豊玉媛命、配祀 彦五瀬尊、爲 嫗嶽神、故称 嫗嶽明神、孝徳天皇 白錐2年所創、続日本後紀曰、承和109月甲辰 無位 健男霜凝日古並比咩神、奉授日從五位下、三代実録 元慶792日乙丑、授豊后國 從五位上 健男霜起神 正五位下、其爲山、素翠蔚云々、巨岩窟中、有祠、嫗嶽本祠也、祠傍有路、達嫗嶽之嶺々有一石祠、后世所造、天正中廃、寛永中再修、里人以称上宮、以本祠爲下宮、又下隔一渓、曰波具合村有叢祠、名穴森、昔者有巨蛇潜焉、平語、盛衰記、以爲嫗嶽明神誤矣、豊以淫神事、涜明神徳哉」
と云へり、而して 亀山随筆にも「此白雉2 創造の由棟札に明かなり、又 白雉の旧材今も残れり、比咩社は 下宮の御神 五瀬尊の御組母神 豊玉姫を祀る、故に神を比咩神と申し 山を嫗嶽と云、と見え、而して 神徳の顯著なるは「此社の神宝に鰐口あり、銘に永和4年正月吉辰、願主 神孫 日向國 臼杵郡 三田井小太郎十三歳敬白」とあるを以て知るぺし、又 亀出随筆に、神田一段二畝は領主 中川家より寄附し、神官 相馬氏なりとあるを以て、如何に士民崇敬の厚きかを察すべし、
地名辞書に云く、「嫗嶽神社、神祇志料は 以て 霜凝日子神社に充つ、或は云此山即ち 高千穂峯なり」、と云ひ、
かくて豊后國志に、「按嫗嶽を豊玉媛を祀ると云、其所以たきに非ず、此山九州の大嶽にして臼杵の高千穂とも称す、降臨の霊跡を伝へ豊玉媛を祀れる歟、而して 豊後國 志肥後志並此祠を以て 延喜式 霜凝日古神となす、男女の相異あり、続紀に拠れば 本来古比咩二神鎮座し 天孫に坐しますと、推想すれば火々出見尊、並豊玉媛命なるべし、一書 彦五瀬命となすは、嶺南に五固川あるに附会せるもののみ、最も洞察を要す」と云へり、
記して後考に備ふ、先是 文禄3 中川秀成 入封 以後 崇敬も厚く、数次社殿を修築し 該て 神領若干を寄附し、維新の際に迫るまで以て恒例とす、明治6年郷社に列し、同12 縣社昇格す。
社殿は 本殿・幣殿、拝殿、神楽殿、渡殿、社務所等にして、境内311坪(官有地第一種)あり、老木森々社域神厳なりと云ふ。

例祭日 9月13

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

穴森神社(Anamori Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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豊後国 式内社 6座(大1座・小5座)について に戻る

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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