延喜式神名帳
-
浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉
浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です
-
雲見浅間神社(松崎町雲見)
雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)は 伊豆半島の最西端の雲見海岸に聳える烏帽子山(162m)に鎮座します ・山麗には「拝殿」・中腹には「中之宮」・山頂付近には「本殿」があり 全国の浅間信仰の神社(約1,300社)の中でも 祭神として「磐長姫命(いわながひめのみこと)」一柱のみを祀る 大変珍しい祭祀形態の神社です
-
坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】(三宅島 坪田)
坪田観音(つぼたかんのん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の由緒(格式ある歴史)を持っています 現在は「二宮神社(坪田)」に合祀されている「伊波比咩命神社(いはひめのみことの かみのやしろ)」の当初の鎮座地であると云われる「伊波耶観音神社(いわのかんのんじんじゃ)」の旧蹟です
-
伊豆田神社(土佐清水市)
伊豆田神社(いつたじんじゃ)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される由緒(格式ある歴史)を持っています 土佐国に鎮座しますが 伊豆の名を持つ 不思議な古社です
-
廣瀬神社(伊豆の国市)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります
-
荒島神社(三宅島 阿古)
荒島神社(あらしまじんじゃ)は 富賀神社(Toga Shrine)の旧鎮座地です もとは 雄山の八合目あたりの地に鎮座しましたが 噴火により本殿を焼失し その後 古錆浜にある荒島神社の二島山(ニシマヤマ)あたりへ移り さらに現在の富賀神社の地へ遷座したと伝わっています
-
二宮神社(三宅島 坪田)
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
-
王子神社(南伊豆町)&(八幡神社(長鶴村))
王子神社(おうじじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「穂都佐氣命神社(Hotsusake no mikoto no kamino yashiro)」の論社です 御祭神の別名は「満寧子(manneiko)」or「酒王子(Shuoji)」と呼ばれます 神社名称の「王子(おうじ)神社」とは ここから来ているのだと思われます
-
久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)
久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである
-
三島神社(南伊豆町入間)
三島神社(みしまじんじゃ)は 『豆州志稿(ずしゅうしこう)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に 鎌倉時代末(1320年頃)修復の棟札がある と記されている古社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の 伊豆国 賀茂郡 穂都佐氣命神社(ほつさけのみことの かみのやしろ)の論社ともされています
-
走湯神社(下田市大賀茂)
走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています
-
富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉
富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります
-
志理太乎宜神社(片瀬白田)
志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています
-
波夜多麻和氣命神社(下田市 相玉)
波夜多麻和気命神社(はやたまわけのみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 由緒(格式ある歴史)があります しかし 御祭神「波夜多麻和気命(Hayatamawake no mikoto)」は謎の神とされます 鎮座地の相玉は 辺りは山深い郷ですが 古くは「大井 (おほゐ) 」と呼ばれ豊かな水があって栄えていたであろうことは 稲生沢川(inozawa gawa)を挟むような相玉の郷の田園風景を一望すれば 推測はできます 稲生沢川は 下田の港に流れ込みますので これを遡れば この辺りの交通の便は良かったのであろうと想像は出来ます 下田から 海上ルートで容易に その先の伊豆諸島と繋がります「三島(御島)の神々」なのかも知れません
-
子安宮(三宅島 神着)
子安宮(こやすのみや)は 三宅島の神着 字 門ノ原に 通称「バンバ山」という小丘があり ここに母体を像どる石神の側に陰陽を表わす二個の石が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「夜須命神社(Yasu no Mikoto Shrine)」の旧鎮座地とも 遥拝所ともされています
-
御嶽神社 跡(三宅島 坪田)
御嶽神社 跡(みたけじんじゃあと)は 由緒(格式ある歴史)を持っ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている「夜須命神社(やすのみことの かみのやしろ)」の元の鎮座地とされています 昭和29年(1954)に「二宮神社(にのみやじんじゃ)」に合祀されていて 現在は旧鎮座地となり 鳥居が残ります
-
物見処遺跡【后神社 旧鎮座地】(三宅島 伊豆)
物見処遺跡(もれんど いせき)は おおよそ中世から近世にかけての遺跡と考えられています 仏教的な経塚信仰と 三宅島在来の積石信仰が融合した特殊な施設遺跡です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「伊豆國 賀茂郡 伊賀牟比賣命神社(Ikamuhime no mikoto no kamino yashiro)」の比定社とされる「后神社(Kisaki Shrine)」(三宅島 伊ヶ谷に鎮座) の旧鎮座地だったと伝わり 室町時代の文明3年(1471) 伊カ谷部落を創設するときに 「后神社」は現在地へ遷座したとされます
-
椎取神社(三宅島 神着)
椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています
-
后神社(三宅島 伊ヶ谷)
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
-
二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着東郷)
二宮神社【旧地】山ノ神(にのみやじんじゃ【きゅうちんざち】やまのかみ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「加弥命神社(かみのみことの かみのやしろ)」の旧鎮座地とされています 当初は神着 首山の「カミイノ宮」に鎮座 その後神着 東郷の「山の神(二宮神社)」〈当社〉に遷座したと伝わり さらに 明治7年(1874)の噴火で この地から 御笏神社の境内西の奥にへ遷座し 現在は 御笏神社の本殿に合祀されています