延喜式神名帳

佐々伎神社(豊岡市但東町)

佐々伎神社(ささきじんじゃ)は 社伝によれば 第10代 崇神天皇11年(BC 87年頃)但馬国の開拓の祖神(オヤガミ)である少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ったのが始めとしていて 一説には天平19年(747)3月 出石小領に任じられた佐々貴山君(ササキヤマノキミ)が 祖である大彦命(オオヒコノミコト)を佐々貴山に祀ったとあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社です

沙沙貴神社(近江八幡市安土町常楽寺)〈延喜式内社〉

沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は 遠く神代に少彦名神を祀り 古代に沙沙貴山君(ササキヤマノキミ)が大彦命を祀り 景行天皇が 志賀高穴穂宮の遷都の時 大規模な社殿を造営と伝わり やがて 宇多天皇と皇子の敦實親王が 宇多源氏の祖 佐々木大明神として祀られ それ以降 佐々木源氏の氏神とされて子々孫々が篤く崇敬しています

別雷神社(静岡市)

別雷神社(わけいかづちじんじゃ)は 社伝によれば 創建を 第15代 応神天皇4年(273年頃)とする古社で 大宝3年(703)に創市の「安倍の市(静岡)」と称する物資交流の中心地の守護神とされていて 祭神は別雷神(ワケイカヅチノカミ)と玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を祀ります 静岡市葵区の七間町に鎮座する(927年12月編纂)『延喜式神名帳』所載社の論社です 

大酒神社(京都 太秦)

大酒神社(おおさけじんじゃ)は 元の神社名称は「大避(おおさけ)」あるいは「大闢(ダイビャク)」とされていて この「大闢」は 中国(China)ではキリスト教の「ダビデ」を意味するとも伝わります 祭神はなんと 秦始皇帝(シンノシコウテイ)です 秦氏に纏わる諸説がある謎多き神社となっています 京都 太秦(うずまさ)の土地神で 元々は 広隆寺の寺内に鎮座していましたが 明治の神仏分離政策で現在地に遷座しています

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています

建穂神社(静岡市葵区建穂)〈延喜式内社 建穂神社の論社〉

建穂神社(たきょうじんじゃ)は かつて隣村の服織(はとり)〈現 静岡市葵区羽鳥(はとり)〉の「木枯森(コガラシノモリ)」の辺りに 境内を構えていたとされます この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハトリorハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)から発祥しています 駿府の「秦氏(Hata uji)」の拠点であったところです

諏訪大社 下社 秋宮(下諏訪町)

諏訪大社 下社 秋宮は 諏訪湖北側の下諏訪町に位置しています 下社は「春宮と秋宮」に分かれていて「半年ごとに神様が遷座して移る」という特徴があります ご祭神は2月から7月まで春宮に鎮座し 8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し 翌2月1日に春宮に帰座されます 又 厳冬の諏訪湖で見られる「御神渡り」では 上社の御祭神の男神(彦神)が 下社の女神に通った「神様の通り道の跡と」されています

諏訪大社 下社 春宮(下諏訪町)

諏訪大社 下社 春宮は 諏訪湖北側の下諏訪町に位置しています 下社は「春宮と秋宮」に分かれていて「半年ごとに神様が遷座して移る」という特徴があります ご祭神は 2月から7月まで春宮に鎮座し 8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し 翌2月1日に春宮に帰座されます 又 厳冬の諏訪湖で見られる「御神渡り」では 上社の御祭神の男神(彦神)が 下社の女神に通った「神様の通り道の跡」とされています

諏訪大社 上社 本宮(諏訪市)

諏訪大社 上社 本宮は 全国に1万以上の御分社をもつ諏訪神社の総本社です 諏訪湖を挟んで 南に上社「本宮・前宮」北に下社「秋宮・春宮」があり この4宮を諏訪大社と呼びます 上社本宮は諏訪湖の南東に佇む守屋山の麓に位置し 参道は 北と東から2つ参道がありますが 正式な参拝路は 前宮から続く東参道とされています

諏訪大社 上社 前宮(茅野市)

諏訪大社 上社 前宮は 4つの諏訪大社の中でも 諏訪の祭祀の発祥地とされます 古来より諏訪明神の住まう所で 現人神とされた諏方の大祝(オオホフリ)の居舘があり 上社の祭祀の中心地でした 神長官(ジンチョウカン)の守矢氏が 神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして 諏訪明神の重要な祭祀・神事を取り行った聖地とされています

二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)

二宮神社跡は 伊波乃比咩命神社の 旧鎮座地です 三宅島では 度重なる火山活動によって 多くの神社で遷座が繰り返されています 当神社も 当初の鎮座地「坪田観音(Tsubota kannon)」から 坪田村小倉山「当地〈二宮神社跡〉」に遷座して 現在は 二宮神社(三宅島 坪田)に合祀されています

青沼浅間神社(甲府市)

青沼浅間神社(あおぬませんげんじんじゃ)は 社伝によれば「貞観7年 平安初期 西暦865年に山梨郡 稲門東青沼村 現在地に建立す」とあります 延喜元年(901年)成立の『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』に記されている「山梨郡に祀られた浅間明神」とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社でもあります

一宮浅間神社(市川三郷町)

一宮浅間神社(いちみやあさまじんじゃ)は 地元の言い伝えによれば 貞観6年(864)に始まった富士山の大噴火の時に 浅間の神である 木花咲耶姫命を 現鎮座地の南方にある正体山に噴火の難を逃れるために遷ったのが始まりと伝わります 明治27年(1894)鳥居原狐塚古墳(市川三郷町大塚)から中国の呉の年号である赤烏元年(238年)の銘がある銅鏡「神獣鏡」1面が出土し奉納され 国の重要文化財に指定(現在東京国立博物館展示)されています

河口浅間神社(富士河口湖町)

河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)は 貞観6年(864)に始まった富士山の大噴火〈貞観の大噴火〉を鎮めるために 勅命により 甲斐国に浅間名神を祀ることになったのが創始とされています この大噴火では 富士山の北麓にあった広大な湖「剗の海(セノウミ)」の大半(現在の青木ヶ原樹海)が 溶岩で埋め尽くされて 西湖と精進湖が僅かに 現在に残ったとされています

静岡浅間神社(静岡市)

静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)は 神部神社・淺間神社・大歳御祖神社の3つの本社と4つの境内社を総称して 静岡浅間神社(通称 おせんげんさま)と言い 古くから駿河国総社として崇敬を受けています 徳川家康公(幼名 竹千代)が 元服式を行ったので 幕府の崇敬が厚く 現在の社殿は 江戸時代に60年の歳月をかけて再建され 総漆塗り極彩色の豪壮華麗な建築群で 大拝殿の高さは25mの大建築物です 社殿26棟の全てが国の重要文化財に指定されています

神明神社(沼津市西浦江梨)

神明神社は 『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉には 神社名を「文梨神社(Fumunashi no kamino yashiro)」「八幡(ハチマン)神明(シンメイ)あわせ祀る」と記されています 

子神社(伊豆市加殿)

子神社(ねのじんじゃ)は 大正初年(1912)境内より4世紀頃の神獣鏡(仿製鏡)が出土しています 古代からの祭祀場であったのかもしれません『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の所載「伊豆国 田方郡 輕野神社(かろのの かみのやしろ)」の論社でもあります 

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軽野神社(伊豆市)

軽野神社(かるのじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』応神天皇 5年10月の条 に「伊豆国に造船を命じた 長さ十丈(約30m)試しに海に浮かべると 軽くてよく走るので その船を『枯野(カルノ)』と名付けた」とあり これが狩野(カルノ)郷の語源であると言われています

満宮神社(田方郡函南町)

満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます

浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉

浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です

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