延喜式神名帳

鹿嶋神社(白河市大鹿島)

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 社伝によれば 光仁天皇の御代 宝亀年間(770~780)この地に祭られ 弘仁2年(811)坂上田村麻呂が東夷征伐の際 改めて常陸国鹿島大明神を勧請した神社〈白河以北を守る武神〉とされます 延喜式内社 陸奥国 白河郡 白河神社(しらかはの かみのやしろ)の論社でもあります

白河神社(白河市旗宿関ノ森)

白河神社(しらかわじんじゃ)は 社伝によれば 第13代 成務天皇五年(135年)白河國造命と天太玉命を奉祀し 勅命により鎮座 のち白河の関設置に当たり 関所南北に住吉 玉津島明神を祀る と伝わります 二つの式内社①伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)②白河神社(しらかはの かみのやしろ)の論社となっています

磐戸別神社(白河市関辺丸沢)

磐戸別神社(いわとわけじんじゃ)は 白河の関山に鎮座します 延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の旧鎮座地とも 三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器〉のように・白河神社(白河市旗宿関ノ森)・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)・都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の三社を以て 伊波止和氣神社とも云うと伝わります

伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)

伊波止和氣神社(いわとわけじんじゃ)は 江戸時代には゛戸隠大明神゛と呼ばれていましたが 慶應年中(1865~1868年)に 神主の鎌田光雄が 兼務の時 この松尾社〈境内社か?合祀社か?〉を伊波止和氣神社と云ったとあり 延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の論社となっています

稲宮神社(伊豆市土肥)

稲宮神社(いなみやじんじゃ)は 室町時代に稲宮神社の神主が神社の傍で微温湯に正月初頃 試に稻種を浸し発育をまち 社前に設けた神饌田に移植すると 水温適し 霜雪虫害の患もなく発育し結実良好 土用前〈6月〉には収穫ができたといいます 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 稲宮命神社(いなみやのみことの かみのやしろ)の論社です

神明神社(伊豆市八木沢)

神明神社(しんめいじんじゃ)は 一時廃頽し所在不明であった『伊豆国神階帳(1343年)』所載゛みかたま姫の明神゛『延喜式神名帳(927年)』所載の゛甕玉命神社(みかたまのみことの かみのやしろ)゛の論社です 又 鎮座地の八木澤は 昔゛米澤゛の地名であったので式内社 稻宮命神社(いなみやのみことの かみのやしろ)との説もあり 現在 二つの式内社の論社となっています

瓺か神社〈みか神社〉(美里町広木)

瓺か神社〈みか神社〉(みかじんじゃ)は 創建は不祥ですが 延喜式内社 武蔵国 那珂郡 瓺神社(みかの かみのやしろ)であるとされています 江戸時代の享保八年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ 宝暦八年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とあります 古来 旧那珂郡の総社と称されています 

谷保天満宮(国立市谷保)

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています

天神社(府中市宮町)〈大國魂神社 境外末社〉

天神社(あまつかみのやしろ)は 競馬場に面した小高い゛天神山゛に北向き〈本社 大國魂神社と同様〉に鎮座する珍しい社 かつて競馬場が移転以前は 東方まで延びていた天神山〈現在の倍以上の丘で〉は 一説には国造の墳墓跡とも云われ〈別名 国造山・丸山とも云う〉丸山とは 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)の鎮座する山の意です

大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 景行天皇41年(111)大神の託宣によって創立と伝わり 武蔵国の守神として大國魂神が祀られます 平安時代には各諸神を合祀゛総社゛となり 平安時代末期頃 武蔵国の著名な六所の神社を合祀゛武藏總社六所宮゛と称されます 社伝には 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)とも伝わります

天満社(八王子市北野町)

天満社(てんまんしゃ)は 創建の年代は不祥ですが 『武蔵演路(むさしえんろ)』〈安永9(1780)年起稿〉には 延喜式内社(927年)武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)であるとも記載されています 鎮座地 北野の地名は 横山党の一族(平安時代後期~鎌倉時代)が京都北野天満宮をこの地に勧請したことによるとされています

武藏御嶽神社(青梅市御岳山)摂社・末社について

武藏御嶽神社 摂社・末社について 詳細を記載しています

武藏御嶽神社(青梅市御岳山)〈延喜式内社 大麻止乃豆乃天神社の論社〉

武藏御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は 崇神天皇7年(AD.91)創建 又 日本武尊が白狼の先導によって難を逃れたとも伝わる古社 天平8年(736)行基が 蔵王権現の像を安置以来 東国の修験の聖地゛御嶽蔵王権現゛と称され 明治時代に式内社゛大麻止乃豆乃天神社゛と改称し゛御嶽神社゛武藏御嶽神社゛と社号変更 現在に至ります

大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〈延喜式内社の論社〉

大麻止乃豆乃天神社(おおまとのずのてんじんじゃ/おおまとのつのあまつかみのやしろ)は 『延喜式神名帳』に所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつの あまつかみのやしろ)の論社です 江戸時代には 丸宮明神(まるみやみょうじん)と称されたので 式内社の「麻止乃宮(まとのみや)」と訛り生じた説が有力です

不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉

不動寺(ふどうじ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て゛小被神゛を祀った〈式内社 小被神社の旧鎮座地〉とされ 平安時代末期には この地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡であったとも 男衾氏・横瀬氏の館跡とも云われています

小被神社(寄居町富田)

小被神社(おぶすまじんじゃ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 郡内鎮護のため創祀と伝承されます 当初の鎮座地は 現在の不動寺(寄居町富田)の境内地辺りでしたが 天正年間(1573~1591年)この地に遷座しました 延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)とされます

御穗神社(静岡市清水区三保)〈駿河国三之宮〉

御穗神社(みほじんじゃ)は 世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の内『芸術の源泉』としての構成資産゛三保松原(みほのまつばら)゛に含まれます その創建は古く〈927年12月編纂〉『延喜式神名帳』所載 駿河國 廬原郡 御穂神社(みほの かみのやしろ)です 「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く 朝野の崇敬をあつめてきました

妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)

妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました  その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています

大我井神社(熊谷市妻沼)

大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています

調神社(さいたま市浦和区岸町)

調神社(つきじんじゃ)は 社伝『調宮縁起』によれば 第九代 開花天皇乙酉三月 所祭奉幣の社として創建 第十代 崇神天皇の勅命により 神宮斎主 倭姫命が参向 此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられたと伝わります 延喜式内社 武蔵國 足立郡 調神社(つきの かみのやしろ)とされます

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