洲宮神社(すのみやじんじゃ)は 元々は南側の魚尾山(とおやま)山上に鎮座しましたが 文永10年(1273)火災により古書などを焼失して現在地へ遷座します 明治5年(1872)教部省が式内社と認定しますが 翌6年(1873)洲崎神社を式内社であると覆し 式内社論争となります 両社とも近代社格制度では縣社に列格されました
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 5 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 5.1 『古語拾遺(kogojui)』〈大同2年(807年)〉に記される伝承
- 5.2 『続日本後紀(Shoku nihon koki)』〈貞観11年(869)完成〉に記される伝承
- 5.3 『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』〈元慶3年(879年)完成〉に記される伝承
- 5.4 『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
- 5.5 『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
- 5.6 『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
- 5.7 『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
- 5.8 『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
- 5.9 洲宮神社(Sunomiya Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
- 6 「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
- 7 『安房國の式内社〈6座〉について』に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
洲宮神社(Sunomiya Shrine)
(すのみやじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
千葉県館山市洲宮921
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天比理乃咩命(Ameno hirinome no mikoto)(天太玉命の后神)
相殿 天鈿女命(Amenouzume no mikoto)
天冨命(Amenotomi no mikoto)(天太玉命の孫神)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社 大社
・ 安房國一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
社伝では 神武天皇元年(紀元前660年) 天富命が魚尾山に神社を創建し 当時 海辺にあったことから「洲神」や「洲宮」と呼ばれたと伝わります
洲宮神社縁起(すのみやじんじゃえんぎ)
館山市有形文化財(書籍典籍等)市指定:昭和44(1969)年2月21日
洲宮神社は 安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神である天太玉命(あめのふとだまのみこと)の妃神、天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀っています。そのためか、神社に伝えられる縁起では 忌部(いんべ)一族による安房の開拓や、安房神社、洲宮神社、下立松原神社の創建の由来などが語られています。本文のうち3分の1は、失われた『安房古風土記』ではないかと推定されています。
この縁起の成立年代は不明ですが、『古語拾遺(こごじゅうい)』(807年成立)からの引用があり、平安時代以降と推定されます。別紙となっている奥書に、慶長2(1597)年に虫食いのため元の本から写したと記してありますが、現存の縁起は それを更に後世写し取ったものと考えられています。洲宮神社御田植神事(すのみやじんじゃみたうえしんじ)
館山市指定無形民俗文化財 市指定:昭和44(1969)年2月21日
毎年元日に洲宮神社前で、その年の豊作を祈って行われる儀礼です。羽織袴姿の作男が唱える言葉に従って、まず氏子が竹の鍬で田を耕す所作をします。続いて牛役の者が代(しろ)かきを行い、作男が籾(もみ)まきをします。最後に早苗も模した松葉を手に氏子が田植の所作をして終わりとなります。
祭祀用土製模造品(さいしようどせいもぞうひん)
館山市有形文化財(考古資料等)市指定:昭和44(1969)年2月21日
洲宮神社の旧社地と伝えられる魚尾山(とおやま)から出土した、手づくね土器と鏡・勾玉(まがたま)・有孔円板(ゆうこうえんばん)の土製模造品(器物を土で模して作ったもの)などです。古墳時代後期のものと考えられます。この時期安房では、土製模造品を使用した神まつりが盛んに行われており、これらの出土品はそうした安房独自の祭祀の形態を表すものです。
木造天部像(もくぞうてんぶぞう)
館山市有形文化財(考古資料等)市指定:昭和44(1969)年2月21日
一木造(いちぼくづく)りですが、右腕は失われ、左手もひじより先がなく、顔が損傷しているため像容は不明です。四天王から二天王のうちの一体、あるいは毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)と考えられています。像高は76.5cmです。細部は省略されたところもあり、南北朝期から室町時代前期にかけて制作されたと考えられます。
境内案内板より
【由 緒 (History)】
洲宮神社
洲宮神社は 神戸村洲宮のほぼ中央にあり、境内272坪、宮山の麓 老杉森々として神厳を極む中に鎮座す。
神殿は 間口一間半 奥行き又同じ 中殿は間口二間半 奥行き三間 境内に左の三社あり。イ.子安神社
ロ.神明社
ハ.日枝神社由緒
社傳に曰く、神武天皇 元年 四月中卯の日、天富命 社殿を魚尾山の上に建立し、后神天比乃理刀咩命を祭る。山は村南の海濱に在り。故に洲神又は洲宮と称し、其の鎮座の所を洲宮村と云ふ。
文永10年癸酉10月15日 夜火災に遭ひ 神殿焼失す。建治3年丁丑3月 社地を今の所に移し、社殿を再建す。
洲宮・藤原の二村の氏神にて、例祭を毎年8月11日とす。東鑑に須宮 或いは洲崎社に作る。之を按ずるに本祠に二殿あり。拝殿を一ノ宮と云ひ、洲崎村の御手洗山に在り。奥殿を二ノ宮と云ひ、洲宮村の魚尾山に在り、二殿にして一社號なりしを、後今の如く改めたるなり。明治18年4月17日 倶に 縣社に列せらる。『千葉県安房郡誌(Chibaken Awa Gun Shi)』〈大正15年(1926)著〉に記される伝承
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『千葉県安房郡誌』大正15年(1926)著者 千葉県安房郡教育会 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980721映像利用
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・子安神社・神明社・日枝神社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安房国 6座(大2座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安房郡 2座(並大)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名 ] 后神天比理乃咩命神社(大・元名洲神)
[ふ り が な ](きさきのかみ あめのひりのめのみことの かみのやしろ)
[How to read ](kisakinokami ameno hirinome no kamino yashiro)
【原文参照】
「后神天比理乃咩命神社」もう1つの論社 洲崎神社の記事をご覧ください
・洲崎神社(館山市洲崎)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
洲宮(スノミヤ)神社 の旧社地について
現在の 洲宮(スノミヤ)神社 の南側 参道は南東に向かって伸びている その参道の先に続く 魚尾山(トオヤマ)と呼ばれる丘陵の上に鎮座していたようです
写真は 社殿から見た参道の先にある 魚尾山(トオヤマ)
袋畑遺跡 -館山市洲宮-
神社の境内(けいだい)、あるいは旧社地と伝えられる地から祭祀(さいし)遺物が発見される例は多く、
袋畑(ふくろはた)遺跡も 式内社(しきないしゃ)「后神天比理乃咩命(きさきのかみあめのひりのひめのみこと)神社」の論社(ろんしゃ)(参照)である洲宮(すのみや)神社の旧社地にあります。
そこは、現在の洲宮神社の南側にある魚尾(とお)山と呼ばれる丘陵の上で、手捏(てづくね)土器と土製模造品(鏡形・有孔円板(ゆうこうえんばん)・勾玉(まがたま)形・丸玉形)が出土しています。館山市立博物館HPより
http://history.hanaumikaidou.com/archives/7929
安房の式内社〈6座〉について
安房國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 安房國の6座(大2座・小4座)の神社のことです
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安房國の 式内社〈6座(大2座・小4座)〉について
安房國(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 安房國には 6座(大2座・小4座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
館山駅から R410号を南下 約7km 車15分程度
R410号に面して境内地があります
社号標には「洲宮神社 式内」と白文字で記されています
洲宮神社(Sunomiya Shrine)に参着
真っ白な鳥居が建ちます 一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
社殿の建つ境内地は一段高い所にあり 階段を上がります
階段を上がると右手には 手水舎
左手には 上部は伐られていますが イチョウの大木があり 乳のように垂れ下がる乳根が見事で ご神木であろうと お祈りをします
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参道を戻り 振り返り一礼をします
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古語拾遺(kogojui)』〈大同2年(807年)〉に記される伝承
神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(ameno tomi no mikoto)が 肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸して開拓したその後 さらに肥沃な土地を求めて 阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したと記されています
古語では 麻を総(フサorヌサ)と言います 現在の上総・下総の2国の名です
【意訳】
天富命(ameno tomi no mikoto)は 更に肥沃な土地を求めて 阿波の斎部(imbe)を分けて 東の国に率いて往き 麻(nusa)・穀(kaji=木綿)を播き殖えました 良い麻(nusa)が生育しました 故に この国を總国(fusa no kuni)と言います
穀穀(kaji=木綿)・木の生育したところは これを結城郡(yufuki no kori)と言います 古語に麻(nusa)を總(fusa)といい 今 上總(kamitsu fusa)・下總(shimotsu fusa)の2国がこれです
阿波の忌部(imbe)が居るところを 安房郡(awa no kori)と言いいます 今の安房の国がこれです
天富命(ameno tomi no mikoto)は その地に「太玉命の社」を建てました 今は安房社(awa no yashiro)と言います それで神戸(kamube)に斎部氏(imbe uji)が在ます
【原文参照】
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