側高神社(そばたかじんじゃ)は 古来 御祭神は神秘として口にすることを許されず 俗に言わず語らずの神とのみ伝えられ 香取神宮の旧記には「起請することあれば必ずこの神に質(ただ)す」とあります 香取神宮の第一摂社ですが 創建は神宮と同じ「神武天皇十八年戊寅歳始建」とあり 造営についても 本宮と共に常に朝廷の造立されたと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
側高神社(Sobataka shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
千葉県香取市大倉1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
古来 御祭神は 神秘密なりと云傳ふ
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・香取神宮 第一摂社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝には香取神宮と同じ神武天皇18年の創建と伝わる
側高神社
また脇鷹とも書く、香取郡大倉山にあり、神宮第一の摂社にして古来御祭神は神秘密なりと云傳ふ、或は云 側高神 即ち経津主命の后神なりと。
『香取神宮志』著者 香取神宮社務所〈昭和13年(1938)〉より
【由 緒 (History)】
側高神社 (ソバタカジンジャ)
《旧社格》 郷社
香取 支部 本務神社御祭神 側高大神
御由緒
香取神宮の摂社。社伝に、神武18年の創建という。古来、祭神は神秘として口にすることを許されず。俗に言わず語らずの神とのみ伝う。香取神宮の古い差定に「以側高天神為大行事可令糺定」とあり、また旧記にも「起請することあれば必ずこの神に質す」と見えるなど信仰の歴史が偲ばれる。境内には老杉が生い茂り、裏山よりは、筑波山、利根川、鹿島の森を一望に見はるかし風光絶佳である。社殿は慶長年間に改築されたもので、桃山時代の建築様式は県の有形文化財になっている。例祭日 12/07
神社のひろば | 監修 千葉県神社庁より
http://www.jinja.ne.jp/ycDB/Board.cgi/001/db/ycDB-pc-jinja_detail.html?mode:search=1&search:method=1&search:field=jinja_id&search:expr=^$&search:word=7071
側高神社
社殿修改築記念側高神社は 遠く古代の創建にして、由緒は正に幽遠深秘なり 祭祀を継承せる世々の跡は、文献に明らかなる処、上古より中世に亘る式年の改造は、総て国司の沙汰に依れりと云ふ、寛文五年改築になる本殿は、桃山時代の地方的特色を遺す建造物なりと 昭和五十七年 県有形文化財の指定を受く 大宮造りの機運高まれる折柄とて 程無く県、市に修復の許可を求む・・・・
・・・・・
・・・・・平成元年十二月七日 宮司 石田 直昭 撰文
現地記念石碑より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・毘沙門天〈別当寺 千手院観音の守護神〉&夫婦杉〈樹齢500年〉
・御神木「千年杉」
・四箇の甕(四季の甕)
四箇の甕の由来
此の四箇の甕を、俗に「四季の甕」と言う。石段の側から 春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕、と称して夫々の甕の水量が、四季折々の降水量を示すとも言われる。自然に溜まった雨水の量を以って占いの基礎としたものであろう。
神験に依って、その年の豊凶や、生活の吉凶を知ろうとした古人の純朴な信仰が偲ばれる。昭和六拾参年参月拾参日
四季の甕・玉垣の奉納者(氏名・・・・)現地案内板より
・梛(なぎ)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
側高神社は 香取神宮の第一摂社です
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
創建は 香取神宮と同じ「神武天皇十八年〈BC.643頃〉戊寅歳始建」
香取神宮の第一摂社ですが 創建は神宮と同じ「神武天皇十八年戊寅歳始建」とあり 造営についても 本宮と共に常に朝廷の造立でした
香取遺産vol.193
言わず語らずの神をまつる側高神社
大倉地区に鎮座する側高(そばたか)神社は、古来より香取神宮の第一摂社とされ、創建を同じとする由緒ある神社です。
香取神宮では「起謂(きしょう)することあれば、必ずこの神に質(ただ)す」(「香取私記」久保木清淵)とされるなど、関係の深い神社です。旧記などでは「脇鷹」「側鷹」「曽波鷹」神社とも記されており、表記は一定ではありません。祭神(さいじん)は深秘となっており明らかにされておらず、千葉県神社庁には側高大神(そばたかのおおかみ)として届けられています。
側高神社で行われる例祭に、火たき神事などと呼ばれる祭礼があります。「香取志」(小林重則)によると、かつては旧暦の霜月(十一月)七日の夜に脇鷹祭としてさまざまな祭礼が行われました。香取神宮の大禰宜や大宮司などの神官が、神宮の馬場から騎乗して側高神社に赴き祭礼を行いました。その帰路には丁子にて堀祭(ほりまつり)、津宮の忍男社(おしおしゃ)では白状祭(はくじょうさい)を行い、戻った後に団子祭(現・団碁祭 だんきさい)などの祭礼も同日に行われたといいます。
周辺には「ソバタカ」と読める神社が数多く分布しており、現在確認できるだけでも20ヵ所以上に及び、その表記も実にさまざまです。市内では丁子の側高神社や岩部の祖波鷹神社などがあり、市外でも栄町の素羽鷹神社、茨城県小美玉市の側鷹神社、埼玉県吉川市の蕎高神社などがあります。霞ヶ浦や印旛沼を含む、かつての内海である香取の海沿岸とその周辺の河川沿いの台地上を中心に分布しています。
言わず語らずの神とも称される祭神を祭る側高神社は、香取神宮と関係が深いながらも、謎多き神社です。
歴史に思いをはせながら神社林に囲まれた境内を訪れてみてはいかがでしょうか。問 生涯学習課 ☎(50)1224
香取市役所 市民のひろば より抜粋
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
側高(そばたか)神社の祭事について
四箇の甕(四季の甕)について
四箇の甕(かめ)の由来
此の四箇の甕を、俗に「四季の甕」と言う。石段の側から 春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕、と称して夫々の甕の水量が、四季折々の降水量を示すとも言われる。自然に溜まった雨水の量を以って占いの基礎としたものであろう。
神験に依って、その年の豊凶や、生活の吉凶を知ろうとした古人の純朴な信仰が偲ばれる。昭和六拾参年参月拾参日
四季の甕・玉垣の奉納者 平山曻 井口喜八郎現地案内板より
髭撫祭(ひげなでまつり)の由緒について
髭撫祭(ひげなでまつり)由緒
毎年一月第二日曜日に行われる髭撫祭は今から七百六十余年以前の建保二年(鎌倉時代)に始められたと伝えられ、大倉村中の氏子を氏族別に十八組に分け、十八当番の各組が毎年交互に二組づつ祭当番・請当番として奉仕するしきたりで祭当番引き継ぎの行事として執り行われる。当日神前に注連縄(しめなわ)を張り、鶴亀遊ぶ蓬莱山(ほうらいさん)を飾り両当番は西と東に分かれて酒豪を競う。紋付羽織袴という古式の礼装に威儀を正し荒筵(あらむしろ)の上に着座し二人づつ交互に出て七引き合いの杯事を行い初献より七献目(満献)まで一杯・三・五・七・七・五・一杯と定められている。しかし興至れば定められた杯数を超え髭を撫で、相手側に酒をすすめる。髭を撫でると定まった
杯数に一杯新たに加わるのである。(請当番側が髭を撫でると逆撫(さかなで)といって三杯の追加となる)旧記にも 強いて三杯飲ましむる例なり- と見え俗に「ひげなでさんばい」とも言われる所以(ゆえん)である。
思うにひげをなでるこのあたりがこの祭典の妙味(みょうみ)であり、神の感応(かんのう)を示す絶頂点である。見事に飲み干すた度に勇者をほめはやすときの声が新年早々の側高山に湧(わ)き上がり、今尚昔ながらの手振り床(ゆか)しく五穀豊穣(ごこくほうじょう)、子孫繁栄(しそんはんえい)を祈念して引き継がれているのである。
側高神社社務所現地案内看板より
側高神社
(1)神秘の宿る社奇祭「髭撫祭(ひげなでまつり)」で知られる側高神社は、香取神宮第一の摂社です。香取神宮の祭神である経津主命と縁故の深い神を祀った神社ですが、その主祭神は神秘とされて明らかにされていません。
鳥居をくぐって拝殿へと向かう石段の脇には、「四季の甕」と呼ばれる石段が並んでいます。石段の側から春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕といい、夫々の甕の水量が四季折々の降水量を示すとされています。
この神社は利根川を見下ろす台地に建立されていますが、はるか昔は香取ヶ浦と呼ばれる広大な内海が眼下に広がっていたであろうと想像されます。そして境内には樹齢500年を超えるといわれる夫婦杉があり、さらに太さ7.4mもの杉のご神木も見事に聳え立っています。
本殿は寛文五年(1665)の建立で、独自の構造を持つ本殿は当地域ではほかに例がなく、昭和57年に千葉県の有形文化財に指定されました。(2)ひげなで祭り
毎年1月第2日曜日に行われる髭撫祭は今から約800年前、鎌倉時代の建保二年(1214年)に始められたと伝えられています。大倉村中の氏子を氏族別に18組に分け、18当番の各組が毎年交互に2組ずつ祭り当番・請当番として奉仕するしきたりで、祭当番引き継ぎの行事として執り行われます。当日、神前に注連縄(しめなわ)を張り、鶴亀遊ぶ蓬莱山(ほうらいさん)を飾り、両当番は西と東に分かれて酒を飲み合います。年番のみが髭をつけています。紋付羽織袴という古式の礼装に威儀を正し、荒筵(あらむしろ)の上に著座し、二人ずつ交互に出て七引き合いの杯事を行い、初献より七献目(満献)まで、一杯・三・五・七・七・五・一杯と定められています。この定められた杯を飲み干したのち、年番は請年番に酒を勧めるため立派なひげを撫でます。これは「もっと飲め」という合図で、請年番は断れないしきたりになっています。これが「ひげなでまつり」といわれる所以です。見事に飲み干す度に勇者を褒めはやす鬨(とき)の声が新年早々の側高山に湧き上がり、今なお昔ながらの手振り床しく、五穀豊穣、子孫繁栄を祈念して引き継がれているのです。貴重な伝統文化であり、昭和52年に市の無形民俗文化財に指定されました。
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東関東自動車道 佐原PAのすぐ隣に位置しますが まだETC出口はありません
JR鹿島線 香取駅から東へ約2km 車5分程度
R356号からJR成田線の踏切を渡ります
社頭には側高神社の社号標が建ちます
側高神社(香取市大倉)に参着
参道を進むと 石段があり その先に鳥居が建ちます
鳥居の手前には 手水舎があり 清めます
一礼をして 鳥居をくぐります
鳥居の先に在る石段の上には 狛犬が座します
何とも小さな狛犬があります
歩んできた参道は ここから南方向の社頭まで伸びていますが
社殿は同じ南向きですが ここから進む参道は斜めに伸びています
社殿の隣は 社務所〈授与所〉
拝殿にすすみます
扁額には 側高神社
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には透塀が廻され 本殿が祀られています
本殿についての説明は
千葉県指定有形文化財
側高神社本殿(そばたかじんじゃ ほんでん) 一棟
昭和五十七年四月六日指定
この神社は、香取神宮第一の摂社であり、古来より永く尊崇されてきた。
本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、屋根は現在銅板葺であるが、もとは茅葺。主屋正面及び側面は切目縁(きりめえん)、はね高欄(こうらん)。組物は連三斗(つれみっと)、軒は二重 繁垂木(しげたるき)である。向拝(こうはい)部分の彩色文様や蟇股内部の彫刻には桃山建築様式の特色が見られる。神社本社の造替修理との関係や建築様式から、慶長年間に畿内出身の名工に学んだ工匠の手になる地方色の強い建築物として貴重である。また、この地は古く香取郡と海上郡の郡界の地であり、香取神宮第一の摂社が鎮座していることは歴史的にも重要である。
昭和五十九年二月一日 千葉県教育委員会 香取市教育委員会
現地案内板より
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『香取郡誌〈明治33年8月(1900)〉』に記される伝承
側高神社に残る伝承として 昔 側高神が香取神の命によって 陸奥の馬2,000疋を捕らえ帰り 霞ヶ浦の浮島まで達した所 敵神〈陸奥国の神〉が馬取返しに追って来た そこで側高神は 霞ヶ浦に水を満たし敵神を防ぎ 下総の牧野に渡らせた 本州の各地の諸野に放った 各地に牧場があるのはこれが始まりである 敵神は 満潮で渡れない為 この地に残った 側高神社の対岸にある追手明神(おってみょうじん)今 追島明神なるものは敵神を祀っているものとの伝承を記しています
白状祭について「其事を白状に書し祭詞と為すに由る」としています
この白状祭は「香取神宮 摂社の側高神社の神が 香取の神に命じられ 奥州から馬を連れ帰ってこの地に放した との故事に因ちなんだ神事」で 明治時代頃までは 津宮の忍男神社の神事として祭行されていたと伝わります
【抜粋意訳】
巻之二 神社誌
側高(ソバタカ)神社
大倉村字側高に在り縣道に沿ひし山頂に鎮座す域内五百四坪 往古或は脇鷹神社と称す 香取志 天日鷲命を祀る祭日一月十日社傅に曰く神武天皇 紀元十
八年戌寅の創建なりと
本社の祭神は往時神秘として其神名を知るものなく 或は曰く伊弉諾尊 天照大神 神功皇后を祀る 又曰く髙皇産霊尊を祀ると 香取志 後定めて今の祭神とす香取御宮の摂社となり神宮と共に武家の改造を同ふし 慶長元禄両度 徳川氏の造営あり 明治の初郷社に列す 利根の古式に白状祭及び撫鬚祭と称するあり 社地は森然たる高丘にして北に利根の碧流れを瞰し秀霊の氣凛として人に迫るを覚ゆ 社麓に御手洗池及び社司石田氏裔蔵碑あり
傅へ曰ふ 側高神(そばたかのかみ) 香取大神の命を奉じ睦奥に至り 荒野を巡り 牝牡馬二千疋を捉へ得て帰り 常陸國霞浦浮島に達す 彼国の神之れを追跡し至る 側高神急に水を濟(わた)り本郡の地に達す 其地を馬渡と称す 敵神亦濟らむとす側高神 満珠を出す潮水忽ち満ち渡るを得ず 其地を玉落と称す 尋て川を濟り岩崎に至り 其地を乗越洲い云 馬を香取の境 牧野の牧に繋き遂に之を本州の諸野に放つ 故に牧場の本州に多きは此時に初まる
敵神 遂に國に還るを得ずして此地に止まる 側高神社と相對するころの追手明神 今追島明神なるものは其神を祀れるものにして 今馬渡乗越洲 今新川と称す 牧野釜塚隠井玉落笠塚等の地名は之に基因すと
白状祭は 其事を白状に書し祭詞と為すに由る 祭は十一月七日なり 説必ずしも確信すべからざるも記して參證となす清宮秀堅曰く 此神は香取神宮に深き所以の神なるべきか香取の祠員大祭事に興れば一百日間此社を拝するを故實とす 朔望の参拝も怠るとなし白状祭は江家次第に見うる春日のことと同じさまなり 馬を陸奥より率き来るよしなれば 此神当時馬政を講せられしとありしを訛まり傳へしなるべし 常陸國行方郡小高村にも側高の影祀あり
常陸風土記に同郡男高社有 栗家池北有 香取神子社とあり 土人今呼んで側高と云へば 此 側高等並に香取神の御子にてありしならむ云々と
鹿鳥日記に 側高明神 年毎に髭撫の祭といふあり 其は酒宴の席を設けて神酒を汲みかはし 若し口のあたりの髭なでし者あれば強ねて三杯のますならはしなりと云へりとぞ 説は伊藤泰歳の記事に詳悉し大八洲雑誌に掲げたり一説に曰く 近江國日吉神社大行事と云へるは 此神を祀れるものなり 斯て我神官神楽新嘗祭の重き神事を掌り物せる年に當りては 神符を受けで慎んで斎き祀れり 其文に以 脇高天神為大行事可令糺定と云へるに 本づくなるべし此社前は山林相連なり後は香取浦にして 昔は此社の後岸に至るまで浪打寄せて水清かりし 故 祓除するものは皆此處に於てせり 然るに今は数里の間悉く水田となり 僅に小流を通じ 古昔の状に似ずと雖も古例に因り神官等尚此處に至りて祓除すること古の如しと
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
香取神宮の第一摂社であるが 創建は神宮と同じ「神武天皇十八年戊寅歳始建」で 造営についても 本宮と共に常に朝廷の造立であった と記されています
【抜粋意訳】
○千葉縣下總國香取郡大倉村大字大倉
郷社 側高(ソバタカノ)神社
祭紳 天日鷲(アメノヒワシノ)命
当社は香取神宮第一摂社なり、(利根川圖志)本宮香取神宮の創立は、正和五年大禰宜寶長註進状に「神武天皇十八年戊寅歳始建」、と見えたり、当社創立亦其時なり、造営の如き、本宮と共に常に朝廷の造立に係れり、
下總國舊事考に云く。
「本宮祠員大祭事ニ興レバ、初一百箇日コノ社ヲ拝スルコトヲ 故實トス、ソノ後モ 朔望ノ参拝怠タルコトナシ、起請スルコトアレバ、必此神ニ質ス、本宮祠員ノ内ニ、コノ社領ノ祠氏一人アリテ、社ノ側ニ家シテ、毎日ノ祀辞ヲ奉シ、正月十日、二月初酉ノ日ヲ祭日Iシ、十一月七日二ハ、本宮ノ祠員不残参向シテ祭事アリ。」
と、以て当社と本宮との関係、第一の摂社たる所以を知るべし、
明治六年九月郷社に列す、社殿は一宇、境内は五百四坪(官有地第一種)蓋、本宮を距ること一里、大倉村山の頂に在りて、老樹蒼蔚として昼尚暗く、参者自ら敬虔の念増すと、新編常陸國志云、側高の社地、大江に臨み、涯岸蛸立す、以てソバタカと称せるなりと。
鹿島日記に云く。「側高明神といふあり、年ごとに鬚撫(ヒケナデ)の祭といふことあり、そは酒宴の席を設て賢酒(ニゴリザケ)をくみかはし、もし口のあたりの鬚なでし者あれば、しひて三杯のまするならはしなりといへり。」
【原文参照】
側高神社(香取市大倉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・香取神宮(香取市)の境内社・境外社
香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について 続きを見る
香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社