松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)

松崎八幡宮跡(まつざきはちまんぐうあと)は 平安時代末鎌倉時代初めに 京都石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり 元暦2年(1185)源頼朝の下文に「松崎別宮」と記されます 江戸時代に境内 たけい社を『延喜式神名帳927 AD.記載 多家神社名神大おほいえの かみのやしろ)であると主張して総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社合祀されて廃社となった松崎八幡宮の旧跡です

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

松崎八幡宮跡(Ruins of Matsuzaki Hachimangu Shrine

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

広島県安芸郡府中町宮の町5-4

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

八幡神が祀られていました

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の論社の旧跡

【創  (Beginning of history)】

歴史の散歩道

松崎八幡宮跡(まつざきはちまんぐうあと)
Ruins of Matsuzaki Shrine

 松崎八幡宮は、京都の石清水八幡宮の別宮(べつぐう)として源頼朝(みなもとのよりとも)の下文(したぶみ)にみえている。鎌倉時代の中頃には、国衙領(こくがりょう)内で年貢(ねんぐ)を納めなくてもよい免田(めんでん)が20町余りあり、戦国末期の毛利氏の検地では100石余りの社領が認められていた。また、別当寺(べっとうじ)として玉勝院(ぎょくしょういん)・神前坊(しんぜんぼう)・神力院(じんりきいん)・法寿坊(ほうじゅぼう)・行専坊(ぎょうせんぼう)の五か寺が属していたと伝えられるなど、中世を通じて栄えた神社である。江戸時代には、境内(けいだい)のたけい社を「延喜式(えんぎしき)」に記された多家神であると主張して総社との争いが絶えず、明治7年(1874)、現在の多家神社に合祀された。

府中町教育委員会

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【由  (History)】

松崎八幡跡(まつざきはちまんあと)

京都石清水八幡宮の別宮として平安時代末から鎌倉時代初めにかけて創建されたといわれ、源頼朝の下文〔元暦2年(1185年)に「松崎別宮」としてその名を見ることができます。

 五つの末寺を抱える神仏混淆の神社で、免田・社領を認められるなど、中世、近世を通じて栄えました。しかし、安芸郡の地に造営されながら長くその所在がわからなくなっていた「多家神」をめぐって総社氏子との争いが絶えず、明治7年(1874年)総社とともに廃社とされ、多家神社に合祀されました。

 府中中学校へ上がる道の入口に跡地が残り、石段、玉垣などのほか、神武天皇が東征の折りに腰掛けたという「御腰掛岩」があります。

府中町役場HPより抜粋

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・神武天皇御腰掛岩

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条

○廿七日甲申 京畿七道諸神(くらい)をひ (あらた)につ て 二百六十七社なり
奉授に 淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
・・・・・
・・・・・
・・・・・

安藝國
正五位下 伊都岐嶋神(いつきしまのかみ)
從五位上 速谷神(はやたにのかみ) びに 從四位下
從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上

・・・

卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日壬子〉の条

○廿七日壬子
くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

名神祭 二百八十五座

・・・
・・・

多家(おほいへの)神社 一座  巳上 安藝國
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安芸国 3座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安芸郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 多家神社(名神大)
[ふ り が な ]おほいえの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohoie no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 多家神社(名神大)(おほいえの かみのやしろ)の論社について

式内社 多家神社(名神大)(おほいえの かみのやしろ)の論社であった・総社・松崎八幡宮の両社を明治6年(1873)に廃止し 「誰曽廼森(たれそのもり)」に多家神社社殿を造営しました

・多家神社(安芸郡府中町宮の町)

・総社旧跡石標(安芸郡府中町本町)

・松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)

初代 神武天皇 御東征の伝承地

多家神社(安芸郡府中町宮の町)由緒書きには
この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(あきのくに)(安芸国 あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が年坐(いま)すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。」とあります

初代 神武天皇の東征の軌跡について 神社史研究会神武天皇東遷の軌跡をたどる」が明解ですので参照してください

広島 多家神社埃宮)が 当旧跡松崎八幡跡〉になります
境内には 神武天皇が東征の折りに腰掛けたという「御腰掛岩」があります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

安芸郡府中町宮の町 丘陵にある府中中学校の下〈西側〉に鎮座します

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かつての参道石段と案内板があります

松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)に参着

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石段を上がります

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石段には 大きな切り株があり かつての八幡宮は立派なものであったろうと想像します

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石段の縁には 「松﨑神社址 府中村」と彫られた古い石碑が置かれています

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石段の上には「神武天皇御腰岩 府中村」と刻まれた石碑が建ちます

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丘陵斜面に整地された境内地には かつての社殿があったのであろう高檀の場所が 西を向いて玉垣に囲まれています

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境内の北側に 玉垣内へと続く石段があります

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一礼をして 樹木に覆われた玉垣内へと 石段を上がります

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樹木の下に かつての社殿跡があり「松崎八幡阯」と刻まれた石碑が建てられています 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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振り返ると 眼下に広島の町が広がっています
太古には 府中町一帯は海であったと云われていますので この高台で 神武天皇が休憩されたとされるのもうなづけるような景色です

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境内の中央には 案内板がありますが 何が書かれていたかは不明
よく この様な形状の案内板には”車馬乗り入れ事 禁ず”のような「定書」が記されていますが 何が書かれていたのでしょうか?

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境内の南側にも 玉垣で囲われた場所があります

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こちらには 神武天皇御腰掛岩 と刻まれた石碑があり 玉垣内に岩が祀られています

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一礼をして 境内から下ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内 多家神社について 厳島神社の地御前とも 府中村の八幡とも 府中村の埃宮 諸説を挙げて記しています

【抜粋意訳】

多家神社

多家は假字詳ならず・印本 オホイエ・古本 タケ・又一説 オホノミ
〇祭神詳ならず
〇在所詳ならず
〇当国三宮なり 考証
〇式三 臨時祭 名神祭 二百八十五座 中略 安藝國 多家神社 一座

藝洲志に 在 佐西郡 海濱 去 厳島海面一里許 是亦 市杵島命也 一説 市杵島命之御母也
然則 合祭 天照大神 須佐之男尊 者乎 中略 今考之 埃宮恐謂 地御前宮乎 また到 今 厳嶋造営之日 地御前共改に造之 然則 多家為 地御前也 果為必者乎 と云ふは両説を挙たるか詳ならず
また府中村 八幡宮也という説もあり 埃宮は府中村 地御前は地御前村に在り」
古事記傳 巻十八に 今 府中村に在て惣社といふ この多家は意富能美と 此 惣社の神主世々 大呑(オホノミ)氏なるを証にして 家を能美と云例は 伊勢國壹志郡に今も新家(ニヒノミ)村といふあり 是らなりといへるは 例の志ひごとなるべし 當れるや否志られず もし地御前なる時は 此例たたずやあらん

神位
三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
安藝國 從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上

卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日壬子
くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内 多家神社について 所在は 府中村と記しています

【抜粋意訳】

多家神社

神位
三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
安藝國 從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上

卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日壬子
くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下

社格 縣社
所在 府中村(安藝郡府中村大字府中)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

廣島縣 安藝國 安藝郡府中村大字准曾廻森

縣社 多家(タガノ)神社

祭神
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれこのみこと)

伊邪邪岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
天照大御神(あまてらすおほみかみ)
天之菩卑命(あめのほひのみこと)
天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
字氣母智神(うけもちのかみ)
市寸島比賣命神(いちきしまひめのみこと)
熊野久須昆命(くまくすびのみこと)
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)
多紀都比責命神(たぎつひめのみこと)
神御産巣日神(かみむすびのかみ)
咲耶毘賣命(さくやひめのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
奥津日子神神(おきつひこのかみ)
神功皇后(じんぐうこうごう)
大穴牟遅神(おほあなむちのかみ)
奥津日賣神(おきつひめのかみ)
玉留魂神(たまつめむすびのかみ)

相殿
御饌津神(みけつのかみ)
生魂神(いくたまのかみ)
大宮乃賣神(おほみやのめのかみ)
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
和久産巣日神(わくむすびのかみ)
火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)
屋船句々廼智神(やふねくくめちのかみ)
屋船豊宇氣比賣神(やふねとようけひめのかみ)
大直日神(おほなほびのかみ)
八十禍津日神(やそまがつびのかみ)
・・・・・
・・・・・

創建年代詳ならず、藝洲志に曰、在 佐西郡海濱 去厳島海面一里許と見え、往昔延喜の制 名神大社に列す、

三代実録に、
貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
安藝國 從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上

卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日壬子
くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下とあり、

多家の訓オホイエ(印本)、タケ(藝藩通志、神祇志料)、オホノミ(古事記傳、地名辞典)等いひて一定せず、

通志に曰く、
「土佐國安藝郡にも多氣神社といふあり、多家 多氣 同音にしてタケとよめり、又按に、古事記に神武天皇の行宮 多を載せたり、も氣家と同じく古書皆ケとよめり、理はたけの伸音なり、倭姫世紀にも皇大神の御杖代として多氣宮造ることあり、(伊勢多氣郡に竹宮あり)、因て考ふれば上古質朴にて假宮など竹を用いて造りたるが、後に社号となりしにてもあらむか

地名辞典に曰く、
「今按に、多家(オホノミ)は古言 三宅(ミヤケ)と同じかるべし、また大家(オホヤケ)といふにも同じ、この多家を古代の屯倉(ミヤケ)なりと論断せらるる因由は、この地は神武天皇駐師の形勝にして、又、国府の要衝にあたる古代屯倉の有りしことも物の当然なり、
但 安閑紀に「虚城郡連枳喩獣 安藝國過戸虚城部屯倉以贖女罪」とあり、過戸舊訓コベシとありてその地を知らず(虚城郡は本州佐伯郡にあり)、又備後の膽年部膽殖の屯倉を和名抄 安那深津の二部に各 大家(オホヤケ)と挙げたる例を以て、過戸屯倉は必定この多家神社の邑とす、大家(オホヤケ)多家(オホノミ)その名義相通じて戻らず、こは寶にこそと想はる、文字の上より多理に類似すればとて埃宮址といふは決して信ずべからず、

往時は三宮と称せり(神名帳考証、神社覈録、厳島道芝記、神祇志料、地名辞書)文禄年間 毛利氏廣島に入城以来、社殿を造営せられ、但社領若干を寄附せられ、今に其古文書を蔵すといふ、(地誌)明治四年郷社に列し、同七年縣社に昇格す。

境内神社 貴船神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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安藝国 式内社 3座(並大)について に戻る

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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