大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は 神功皇后が新羅征討の際 住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載されるのが起源とされている 式内社 大依羅神社 四座(おほよさみの かみのやしろ しくら)(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)に比定される古社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大依羅神社(Ohoyosami shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
大阪府大阪市住吉区庭井2-18-16
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)〈第九代開化天皇第四皇子〉
底筒之男命(そこつつのをのみこと)
中筒之男命(なかつつのをのみこと)
上筒之男命(うわつつのをのみこと)
《配》大巳貴命(おほなむちのみこと)
月讀命(つきよみのみこと)
垂仁天皇(すいにんてんのう)
五十猛命(いそたけるのみこと)
《明治40年(1907)合祀》
・草津大歳大神(くさつおほとしのおほかみ)(苅田)〈式内社 旧鎮座地〉
・奴能太比売大神(ぬのたひめのおほかみ)(杉本)〈式内社 旧鎮座地〉
・建速須佐男大神(たけはやすさのをのおほかみ)(我孫子 我孫子神社)
・大山咋大神(おほやまくいのおほかみ)(庭井 大山咋神社)
・奇稲田媛大神(くしなだひめのおほかみ)(杉本 八坂神社)
・八柱御子大神(やはしらみこのおほかみ)(杉本 山之内神社)
・素戔嗚命(すさのをのみこと)(杉本)
・素戔嗚命(すさのをのみこと)(山之内)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・浄化
・必勝祈願
・勝利へと導くご神徳
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御祭神
建豊波豆羅和氣王
底筒之男命
中筒之男命
上筒之男命由緒
本社は国史上顕著なる式内の古社にして神功皇后征韓とは重要なる交渉を有す
是を以て歴朝の御崇敬浅からぬ大社にして則ち 人皇第四十八代 稱徳天皇 神護元年 攝津備前十八戸を大依羅神社に充て奉る 第五十四代 仁明天皇 承和十四年七月大依羅神社を修造して官社に預からしめ給う 第五十七代 陽成天皇 元慶三年六月十四日神財を奉らしめ給う 四時祭七十七座相嘗祭 及 臨時祭二百八十五座の名神祭 同八十五座祈雨祭 特に八十島祭にも預からしめし事史に載せられたり
古事記、日本書紀、三大実録、延喜式等の国史は元より 其他の古書に載せられざるはなく 往時神域の規模の廣大なりしことは今に至るも二ノ宮、四ノ宮、酒造田、宮添等の小字名の存するをみて明かにして 昭和六年十月一日府社に列格 この年創史以来一千七百六十有余年を経る古社なり神事
四月十六日 春大祭
七月第二日曜日 夏大祭
十月第二日曜日 秋大祭大依羅神社
社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
~由緒 略記~
当社は創建1800有余年を遡る『古事記』・『日本書紀』・『三代実録』・『延喜式』等の国史書に記載されている式内の古社で、当地の豪族であった依羅吾彦一族が、その祖先である第9代開化天皇の第四皇子「建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)」をお祀りしたのが起源とされています。
古代より豪族の治めていたこの地域には、皇室と関係の深い記述として広大な依網池の造営、天皇直轄領である屯倉が設置されていたことが記紀等国史書に残されています。
依網池については『日本書紀』崇神天皇62年10月条,「冬十月、依羅池を造る」推古天皇15年冬条,「依網池を造る。亦国毎に屯倉を置く」とあり、また『古事記』崇神天皇段,「又是の御世に、依網池を作り」、仁徳天皇段にも「又丸邇池(わにのいけ)・依網池を作り」と記されています。
依羅屯倉については『日本書紀』仁徳天皇43年9月条依羅屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕らえて,天皇に奉り、天皇はこれが鷹であることを知られて飼育を命じたとの記載があり、また皇極天皇元年5月条に河内国の依網屯倉にて、百済の王子で日本に亡命してきた翹岐(ぎょうき)らをよんで、「射猟」(うまゆみ)を見せたとそれぞれ記述されています。
このことから依羅池の灌漑による水田を支配し、屯倉を預かっていたとみられています。
神功皇后が新羅征討の際、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載(下記※参照)されており、依羅吾彦一族が古代より有力な氏族として、また祭主の役割を『日本書紀』にも残しているところからも、朝廷とも関わる祭祀に深く関係していたと考えられています。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・末社 御祭神 依網吾彦男垂見尊
・ご神木[八衢の木(やちまたのき)]
・道祖神社《主》八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)・久那土神(くなどのかみ)
・稲荷社《主》宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
・龍神社
・イト大神
・末社 菅原道眞大神
・末社 白龍社
・末社 御祭神 天照大御神・豊宇氣毘賣大神
・末社 御祭神 息長帶姫命
・末社 龍神井戸社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
二つの式内社〈草津大歳神社・努能太比賣命神社〉が合祀されていて 両社とも跡地が 式内社の旧鎮座地として伝わっています
・〈旧鎮座地〉式内 草津大歳神社趾(大阪市住吉区苅田)
・〈旧鎮座地〉式内 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
攝津國 大依羅社と肥後國 阿蘇郡 國造神社を修理して官社に列すと記しています
【抜粋意訳】
巻十七 承和十四年(八四七)七月丁卯〈四〉の条
〇丁卯
修造 攝津國 大依羅社 肥後國 阿蘇郡 國造神社を 爲に官社焉。
減省日向國俘囚祿料稻一萬七千六百束。以俘囚死盡。存者員少也。
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉京畿七道諸神267社と共に 神階の奉授が記されています
貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉遣使にて幣を奉り 風雨の祈りが捧げられています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進 階及新叙。惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國 三品吉備都彦命二品
・・・
・・・
攝津國
從三位勳八等 廣田神 正三位。
正五位上勳八等 生田神。
從五位上勳八等 長田神。
從五位上 垂水神。
從五位下勳八等 大依羅神。
難波生國魂神。
下照比女神。
坐摩神。
從五位下勳八等 新屋天照御魂神 並從四位下。
從五位下 名次神 正五位下。
從五位下 中臣須牟地神。
伊射奈岐神。
伊和志豆神、並 從五位上
・・・
・・・巻三 貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉の条
○八日庚申
山城國 月讀神。木嶋神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神。
大和國 大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。廣瀬神。龍田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。當麻山口神。大坂山口神。膽駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神。
河内國 枚岡神。恩智神。
和泉國 大鳥神。
攝津國 住吉ノ神。大依羅(オホヨリミ)ノ神。難波ノ大社神。廣田ノ神。生田ノ神。長田ノ神。新屋ノ神。垂水(タルミ)ノ神。名次ノ神 等に 遣使を奉る幣を。爲めに風雨の祈る焉。
【原文参照】
『日本紀略(nihonkiryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
延喜九年(909)九月十三日の条
奉授 摂津國 大依羅神 正二位
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
【抜粋意訳】
巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭
相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座大依羅(おほよさみの)社 四座
絹(キヌ)八疋、絲(イト)十二絇、綿十二屯、調布十二端、庸布六段、木綿六斤八両、鮑二斤八両、腊(きたい)〈干し肉〉五升、堅魚八斤十両、海藻八斤八両、凝海藻八斤十両、塩四斗、筥四合、瓼(サラケ)、缶(モタイ)、水瓫(ホトギ)、山都婆波、小都婆波、筥瓶【瓦+并】、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、筥坏、小坏、陶臼各八口、酒稲二百束、〈正税、〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にひなへのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3』〈延長5年(927)〉神祇 祈雨神祭について
祈雨神祭 八十五座(並大)の中 摂津國に大依羅(おほよさみの)社 四座と記されています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭
祈雨神祭(あまこひのかみのまつり) 八十五座 并大(ならびにだい)
賀茂別雷社一座 賀茂御祖社二座 松尾社二座 稲荷社三座 水主社十座 樺井社一座 木嶋社一座 羽束石社一座 乙訓社一座 和岐社一座 貴布祢社一座〈已上山城国〉
大和社三座 大神社一座 石上社一座 太社二座〈或作多社、〉 一言主社一座 片岡社一座 広瀬社一座 龍田社二座 巨勢山口社一座 葛木水分社一座 賀茂山口社一座 当麻山口社一座 大坂山口社一座 膽駒山口社一座 瞻駒社一座 石村山口社一座 耳成山口社一座 養父山口社一座 都祁山口社一座 都祁水分社一座 長谷山口社一座 忍坂山口社一座 宇陀水分社一座 飛鳥社四座 飛鳥山口社一座 畝火山口社一座 吉野山口社一座 吉野水分社一座 丹生川上社一座〈已上大和国〉
枚岡社四座 恩智社二座〈已上河内国〉
大鳥社一座〈和泉国〉 住吉社四座 大依羅(おほよさみの)社 四座 難波大社二座 広田社一座 生田社一座 長田社一座 新屋社三座 垂水社一座 名次社一座〈已上摂津国〉
座別ニ 絹五尺、五色ノ薄絁各一尺、絲一絇、綿一屯、木綿二両、麻五両、裹薦(つむこも)半枚、毎ニ社調布(つきのぬの)二端、〈軾料、〉夫一人、丹生川上社(にふのかはかみのやしろ)、貴布祢社(きふねのやしろ)各加ラル黒毛ノ馬一疋ヲ、自餘ノ社ニハ加ニ庸布一段ヲ、其霖雨不止祭ノ料モ亦同シ、但シ馬ハ用白毛ヲ、
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3』〈延長5年(927)〉神祇「八十島祭」について
八十島祭(やそしままつり)〈八十嶋祭/八十島神祭〉は 平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として 難波津を祭場とした祭祀〈計22回が確認されています〉
『延喜式』には 八十島祭は 難波津の地主神〈住吉神四座(住吉大社)・大依羅神四座(大依羅神社)・海神二座(不詳)・垂水神二座(垂水神社)・住道神二座(中臣須牟地神社)〉に幣帛が供えられる規定が記されています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 八十嶋神(やそしまのかみの)祭〈中宮准此〉
五色帛各一疋二丈、絁一疋二丈、絲卅絇、綿卅屯、倭文一端三丈八尺、木綿、麻各卅斤、庸布十段、紙二百張、挿幣木一百廿枝、麁御服八具料庸布八段、御輿形卌具覆料紫帛四丈、鍬卌口、銭三貫文、〈二貫文散料、一貫文雑鮮魚菓子直、〉金銀人像各八十枚、金塗鈴八十口、鏡八十二面、〈二面五寸、八十面一寸、〉玉一百枚、大刀一口、弓一張、矢五十隻、胡籙【竹+禄】一具、黄蘗八十枚、瓫、堝各廿口、坏八十口、米、酒各一石、糟八斗、缶六口、鰒、堅魚、腊、海藻各八籠、鮭五十隻、塩五籠、槲二俵、稲廿束、席、薦各八枚、食薦八枚、輿篭五脚、明櫃四合、匏十柄、祝詞料絁二疋、調布二端、
巻3神祇 臨時祭 東宮八十嶋祭
五色帛各二丈、絁二丈、絲八絇、綿八屯、倭文二丈、木綿、麻各八斤、庸布四段、紙五十張、麁服八具料庸布四段、輿形廿具覆料紫帛二丈、鍬八口、銭六百文、〈二百文散料、四百文鮮魚菓子料、〉挿幣帛木六十枝、金銀人像各卅枚、金塗鈴卅口、鏡卌面〈二面径五寸、卅八面径一寸、〉大刀一口、弓一張、矢五十隻、胡籙【竹+禄】一具、黄蘗廿枚、瓫、堝各八口、坏卌口、米、酒各四斗、缶二口、鰒、堅魚、腊、海藻、塩各二篭、鮭十隻、槲廿把、稲四束、席、薦各二枚、食薦二枚、輿篭二脚、明櫃二合、匏二柄、夫四人、祝詞料絁一疋、調布二端、
巻3神祇 臨時祭 住吉神四座、大依羅神四座、海神二座、垂水神二座、住道神二座、
座別五色帛各五尺、絹五尺、絲一絇、綿一屯、倭文一尺、裹料布三尺、住吉社神主料絹一疋、祝并大依羅祝料各布二端、垂水社祝布二端、海神住道社祝布各一端、生嶋巫各絹二疋、布二端、擔夫十人、⇒右八十嶋祭御巫、生嶋巫、并史一人、御琴弾一人、神部二人、及内侍一人、内蔵属一人、舎人二人、赴難波津祭之、
【原本参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
住吉神社 四座
大依羅神社 四座
難波生國魂神社 二座
比賣許曽神社 一座 亦号ニ 下照比賣
新屋神社 三座
垂水神社 一座
廣田神社 一座
生田神社 一座
長田神社 一座 已上 摂津國
・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
①本社と二つの式内社〈②草津大歳神社・➂努能太比賣命神社〉が合祀されていて 両社とも旧鎮座地が伝わっています
①本社〈大依羅神社(大阪市住吉区庭井)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 大依羅神社 四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)
[ふ り が な ](おほよさみの かみのやしろ しくら)
[Old Shrine name](Ohoyosami no kamino yashiro)
②大依羅神社に合祀〈苅田鎮座の大歳神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 草津大歳神社(鍬靫)
[ふ り が な ](くさつをほとしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kusatsuohotoshi no kamino yashiro)
➂大依羅神社に合祀〈杉本鎮座の奴能太比賣神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 努能太比賣命神社
[ふ り が な ](ぬのたひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nunotahime no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式(えんぎしき)巻3』〈延長5年(927)〉神祇「八十島祭」の祭場となる神社
八十島祭(やそしままつり)〈八十嶋祭/八十島神祭〉は 平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として 難波津を祭場とした祭祀〈計22回が確認されています〉
・難波津の地主神(住吉神四座(住吉大社))
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
・大依羅神四座(大依羅神社)
・大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
・海神二座(不詳)〈大海神社とも須牟地曾禰神社とも〉
・大海神社〈住吉大社境内 摂社〉(大阪市住吉区)
・露天神社(大阪市北区曾根崎)
・垂水神二座(垂水神社)
・垂水神社(吹田市垂水町)
・住道神二座(中臣須牟地神社)〉
・中臣須牟地神社(大阪市東住吉区矢田)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の論社について
・〈旧鎮座地〉式内 草津大歳神社趾(大阪市住吉区苅田)
・〈合祀先〉大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
・大歳神社〈住吉大社 境外摂社〉(大阪市住吉区住吉)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の論社について
・〈旧鎮座地〉式内 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)
・〈合祀先〉大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大坂メトロ御堂筋線 あびこ駅から 南東へ約750m 徒歩10分程度
大和川の北岸に大阪府立阪南高等学校があり その隣に鎮座
社頭は境内の北側にあります
狛犬が座して 鳥居が建ち その奥に神門が構えています
社号標には 式内 府社 大依羅神社と刻字されています
大依羅神社(大阪市住吉区庭井)に参着
参道の途中に参拝者用の駐車場が設けられています
玉垣に囲まれた参道を進むと 注連縄柱が見えてきます
注連縄柱に近づくと 狛犬の間を抜けて進むものと注連縄柱へショートカットする参道の二股になっています
なぜ二股の参道なのか 判らないので 狛犬に一礼をして 参道を進むことにします
狛犬を過ぎて左手には 境内社があり お参りをします
注連縄柱の手前で立ち止まり 再び一礼をして くぐり抜けます
正面〈南側〉には神門が見えています
すぐに手水舎があり 清めます
これは 手水舎と呼ばずに 井戸屋形 と呼ばれるようです
境内・社殿は東向きで建てられていて 境内社 依網吾彦男垂見尊の鳥居もあり 御神木の脇には境内社 八衢比古大神・八衢比賣大神・久那斗大神も 東向きに祀られています
境内社の鳥居の隣には 境内社 息長帶姫命が祀られています
南側の神門の先には まっすぐに参道が伸びています
南の先には かつての依網池址 現 大和川があります
本来は こちらが表参道なのでしょう
西を向くと社殿となり 参道の右手には 御神木 参道の中央には 百度石があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』神功皇后の段に記される伝承
大依羅神社(大阪市住吉区庭井)創祀は 神功皇后が三韓征伐の際に住吉三神の神託により その御霊を祀るために依羅吾彦男垂見が神功皇后に任じられ祭祭主を務めたことによるとされます
『日本書紀』神功皇后三韓を伐ち給ふ時、住吉神の和魂玉體に著きて寿命を守り、荒魂は先鋒として、師船を導き奉らんと教へ給へるにより、依羅吾彦男垂見を神主として祀らしめ給ふと、日本書紀に在り、是当社の創祀なり(神祇志料)
【抜粋意訳】
神功皇后九年 秋九月十日の条
諸国に令して 船舶を集め兵甲(つわもの)を錬成された
その際、軍卒(いくさひとども)が集まりにくかった
皇后は 言われた
「これは神のお心なのだろう」
すぐに大三輪社(おほみわのやしろ)を立て 刀矛(たちほこ)を奉られた
すると、軍衆(いくさひとども)が自然に集まった
吾瓮海人烏摩呂(アヘノアマオマロ)と云う人を派遣し 西の海に出て 国があるかと視察させました
還って答えるには「国は見えません」
又 磯鹿海人(しかのあま)〈志賀島の人〉である草(くさ)人を遣わして見させた
何日か経って還ってきて言うには
「西北方に山があり 帯雲が横たわっています きっと国があるのでしょう」
そこで吉日を占い 出発される日を決めた
そのとき皇后は 自ら斧鉞(おのまさかり)〈刑罰の斧鉞〉をとって 三軍(みたむらのいくさ)に令して云われた
「金鼓節無(かねつつづみわきだめなし)〈鐘鼓の音が乱れ士気が無くなり〉に 旌旗(はた)が乱れるときには 士卒(いくさひとども)が整わず 財(たから)を貪り 物を欲しって 私欲ばかりを思い 自分たちのことばかり考えて 全てを敵に取られるだろう 敵が少なくとも侮ってはならない 敵が多くても怖気付いてはならない 暴力で婦女を犯すのを許してはならない 自ら降参する者を殺してはならない 戦いに勝てば 必ず賞(たまいもの)がある 背を向けて走り逃げる者は処罰される」と仰せられた
すでに而して 神の教えがあった
「和魂(にぎみたま)は王身(みついで)に従って寿命(みのいのち)を守り 荒魂(あらみたま)は 先鋒となって師船(いくさふね)を導くであろう」
和魂は珥岐瀰多摩(ニギミタマ)と読みます。荒魂は阿邏瀰多摩(アラミタマ)と読みます神の教えを頂いて 皇后は 拝礼(いやま)された
依網吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)を 祭の神主(かんぬし)とした
そのとき たまたま皇后の開胎(うむがつき)〈臨月〉にあたりました
皇后は 石をとって腰に挟み お祈りして 言われた
「事が終って還る日に ここで産まれて欲しい」
その石は今 伊都縣(いとあがた)〈筑前怡土郡〉の道のほとりにあります
こうして 荒魂(あらみたま)を招き寄せて軍の先鋒とし 和魂(にきみたま)を頼み 王船の守り鎮(しず)めとされた神功皇后九年 冬十月三日の条
和珥津(わにのつ)〈対馬の鰐浦〉から出発された
そのとき 飛廉〈風神〉は風を起こし 陽侯〈波の神〉は波を挙げて 海中の大魚(おほいお)はすべて浮かんで 船を助けた
大きく風順(おいかぜ)が吹き 帆舶(ほつむ)は 波のままに進んだ
㯭楫(かじかい)〈舵や櫂〉は苦労せずに 新羅(しらぎ)に到着した
そのとき 船潮浪(ふななみ)〈船をのせた波〉は遠く 国の中程にまで及んだ
すぐにわかった 天神地紙(あまつかみくにつかみ)の全てのお助けがあると
新羅(しらぎ)の王は 戰々慄々(おじわななき)厝身無所(せむすべしなし)〈怖気付きなすべきを知らなかった〉
多くの人を集めていうのに
「新羅(しらぎ)の建国以来 かつて海水(うしお)が国の中に登るとは聞かない もし天運が尽きて 国が海となるというのか」
その言葉も終らない中に 船師(ふないくさ)〈軍船〉が海に満ち 旌旗(はた)は日に輝き 太鼓・笛の音が鳴り 山川の全てが震えた
新羅(しらぎ)の王は 遥かに眺めて 非常〈思いの外〉の兵(つわもの)が 我が国を滅ぼそうとしていると想った 恐れて 失神した
やっと目を覚まして言った
「私は聞いたことがある 東に神の国があり 日本(やまと)という 聖王(ひじりのきみ)があり 天皇(すめらみこと)という きっとその国の神兵(みいくさ)であろう とても兵を挙げて防ぐことはできるわけがない」
すぐに素旆(しろはた)をあげて降伏し 素組(しろくみ)を面縛〈両手を縛り土下座する〉
図籍〈地図や戸籍〉をまとめて 王船の前で降伏した
そして 頭を地面にすりつけて言った
「今よりは 長く乾坤〈天地〉と同じく服従して 飼部(みまかい)〈馬飼い〉となります 船柂(ふなかじ)を乾かない程に 春秋には馬梳(うまはたけ)〈馬洗いの刷毛〉や馬鞭(うまのむち)を奉ります また海から遠くても求められることなくても 毎年 男女の労働者を献上します」
重ねて誓って言った
「東に昇る日は 西に昇ることは無い また阿利那礼河(ありなれかわ)〈閼川〉が 逆に流れ 川の石が天に上って 星辰(あまつかみほし)〈北極星〉となることがない 春秋の朝貢を欠き怠り 梳(くし)や鞭(むち)の貢物を怠ったら 天神地祇(あまつかみくにつかみ)は一緒になり 討つであろう」
そのとき ある人は「新羅(しらぎ)の王を殺そう」というのもあった
皇后は言った
「まず神の教えを受けて 金銀(こがねしろがね)の国を授かろることになった 三軍(みたむらのいくさ)に号令して私は言った「自ら服従する者を殺してはならぬ」と 今 既に財(たから)の国を得た 人は自ら降伏した 殺す理由はない」
それで その縛(ゆわいつな)〈拘束〉を解いて 飼部(みまかい)〈馬飼い〉とされた
その国の中に入り 重宝(たから)の府庫(くら)を確保し 図籍文書(しるしのふみ)〈地図や戸籍〉を手に入れた
皇后が持つ矛を 新羅王の門に立てて 後葉〈後世〉の印とした
その矛は今もなお 新羅王の門に立っています新羅(しらぎ)の王の波沙寝錦(ハサムキム)は 微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を人質とし 金(こがね)、銀(しろがね)、彩色(うるわしきいろ)、綾(あやきぬ)、羅(うすはた)、嫌絹(かとりきぬ)を沢山の船にのせて 官軍に従いました
それ故 新羅王(しらぎおう)は 八十船(やそふね)〈多くの船〉で 貢物を日本(わがみかど)に献上するようになった これがその由縁である高麗(こま)、百済(くだら)二つの国の王は、新羅(しらぎ)が図籍文書(しるしのふみ)〈地図や戸籍〉を差出して 日本に降ったと聞いて 密かに軍勢(みいくさのいきおい)を伺いました すぐに勝てないことを知り 陣営(いおり)の外に出て 頭を地面に擦りつけて言った
「今より後は 永く西蕃(にしのとなり)(西の未開の国という意味の中国語)と称して 朝貢(みつきたてまつり)を絶やさず行います」
それで内官家屯倉(うちつみやけ)を定めた
これがいわゆる三韓(みつのからくに)である
皇后は新羅から還られた
【原文参照】
『摂津名所図会(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承
大依羅神社と依網池(よさみのいけ)などを詳細に記しています
草津大歳神社は 合祀以前の苅田村鎮座の頃の記載で 石燈籠に大同二年の勧請と銘が刻まれている と記しています
【抜粋意訳】
大依羅(おほよさみの)神社
住吉の東南三十町許 大和川北堤の下庭井村にあり
延喜式曰 大依羅神社四座 大月次相嘗新嘗祭神 大己貴命 月夜見尊 垂仁天皇 五十師宮の四座なり
日本紀曰 神功皇后九年 即ち神の教を得てこれを拝禮ひたまふ 因って依羅吾彦男垂見を以て神主と為す云々
続日本後紀曰 承和十四年七月 摂津国 大依羅杜を修理す云々
三代実録曰 大依羅神に従五位下勲八等を授け奉る
同巻曰 元慶三年六月十四日癸酉使を摂津国住吉大依羅等神社に遣して神財を奉ると云々
今庭井村の土民 例年八月十八日神事を勤む これを宮座と云ふ依羅(よさみの)杜
この宮居の杜(もり)をいふなるべし
依羅原(よさみのはら)
神籬(ひもろぎ)のめぐりの野をいふなるべし
拾遺愚草
君が代はよさむの杜(もり)のとことはに松と杉とや千たびさかへむ 定家万葉
あをみづらよさ見の原の人にはへるかもいしばしる淡海のかたのものがた梨せむ 人丸依網池(よさみのいけ)
羅を又 網とも書す 依羅原にあり
日本紀曰 崇神天皇六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔に曰く 農は天下の大本なり 民の恃む所以て生るなり(中略)其多に池溝を開き以て民業(たみのわざ)を寛めよ 冬十月依網地を造る
同紀に云 推古天皇十五年 依網池を作る云々
後世 三分の二 新大和川となる 今世の広さ六百六十余畝 上古 土人 崇んで御依網池と称す これを音に呼んで御依網(みえもう)といふ 後世なほ訛って味右衛門地(みえもんのいけ)といひ また謬つて 今は仁右衛門池(にえもんのいけ)とよぶ依羅井(よさしのい)
神前にあり 清潔にして寒暑に涸れず 炎暑に田園旱天の時 この井を汲んで神供とす 忽雨降りて潤沢す
依網里(よさしのさと)
今庭井村をいふなるべし
夫木 袖かはす人もなき身をいかにせんよさむの里にあらしふくなり 顕仲
同 もろともになき明かしたるきりぎりすよさむの里の草の枕に 仲実
同 きくままに鼠ふきそふ秋とてや依羅の里の衣うつらん 式賢門院御匣
草津大歳神社(くさつをほとしのじんじゃ)
苅田村にあり
延喜式出 今 牛頭天王と称す
社説には 生根(いくね)神社とす 生根神は住吉に有りて 奥の天神と称す
石燈籠の銘に曰 大同二年の勧請と云々 證不詳
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大依羅神社四座の所在は 庭井村〈現 大依羅神社(大阪市住吉区庭井)〉として 祭神の四座については諸説あり〈住吉三座、猿田彦大神〉〈月読尊、大已貴命、五十師命、垂仁天皇〉を載せています
式内社 草津大歳神社と式内社 努能太比売命神社については 現 大依羅神社(大阪市住吉区庭井)〉に合祀前の旧鎮座地について記しています
【抜粋意訳】
大依羅神社四座 並名神大月次相嘗新嘗
大依羅は於保與佐美と訓べし、和名鈔、(郷名部)大依羅、(仮字上の如し)また河内国丹比郡依羅、(與佐美)
〇祭神 住吉三座、猿田彦大神、(比保古)〇日本紀通証云、伝嘗所祭 月読尊、大已貴命、五十師命、垂仁天皇也、」群談云、所祭大已貴命孫天八現津彦命、共に今從はす、)
〇庭井村に在す、今吾孫子毘沙門と称す、庭井吾孫子両村産土神、(摂陽群談)
○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、大依羅社四座、(坐摂津國)」
同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津国大依羅神社四座、」
祈雨祭神八十五座、(並大)云々、大依羅社四座、
〇日本紀 神功皇后巻云、九年九月庚午朔己卯、既而神有誨曰、和魂服玉身而守寿命、荒魂為先鋒導師船、即得神教而拝禮之、因以依網吾彦男垂見為祭神主、
○古事記、(開化段)建豊波豆羅和気王者、依綱之阿毘古等之祖也、』
姓民録、(摂津國皇別)依羅宿禰、日下部宿根同祖、彦坐命之後也、
神位 官社 修造
続日本後紀、承和十四年七月丁卯、修造摂津国大依羅社、為官社焉、
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授撮津國從五位下勲八等大依羅神從四位下、」
日本紀略、延喜九年九月十三日、奉授 摂津國 大依羅神正二位、
官幣 神財
三代實録、貞観元年九月八日庚申、摂津國大依羅神、遣使奉幣、為風雨祈焉、』
元慶元年六月十四日癸未、大依羅祈甘雨也、
同三年六月十四日癸酉、遣使於大依羅神社奉神財、氏人
続日本紀、天平十八年閏九月戊子、正六位上依羅我孫忍麻呂授外從五位下、」
天平勝宝二年八月辛未、摂津國住吉郡人外從五位下依羅我孫忍麻呂等五人、賜依羅宿禰姓、神奴意支奈、祝長月等五十三人、依羅物忌姓、
連胤云、当社は八十島祭の一処也、式文住吉神社の條下に記す、見合すべし、
草津大歳神社 鍬靱
草津は久佐都、」大歳は於保登志之訓べし、
○祭神 大年神歟
〇刈田村に在す、(摂津志)
類社
山城国乙訓郡 大歳神社の條見合すべし努能太比売命神社
努能太は假字也
〇祭神明か也
○杉本村野々太池側に在す、(摂津志)連胤云、鄙民は布(ヌノ)を野々(ノノ)といへば、此池をも野々太といふも、かの俚諺の移れるなるべし、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
大依羅(オホヨサミノ)神社 四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 大己貴命 月夜見(ツキヨミノ)命 五十猛(イタタケルノ)命 活目入彦五十狭芽(イクメイリヒコイサチノ)命〈垂仁天皇〉とあれど疑わし
姓氏録に摂津神別 我孫大己貴命ノ孫 天八現津彦(アメノヤラツヒコノ)之後也とあるによりたるにて 本社に由ありなれど 本社に仕ふる依羅我孫(ヨサミアビコ)は開化天皇の皇子 彦坐ノ命の後なれば 大己貴命を祭るべきにあらず
垂仁天皇を祭れるも更につきなし
書紀 神功皇后巻に九年九月巳卯 住吉神のことを「既而、神有誨曰「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。」和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。卽得神教而拜禮之、因以依網吾彦男垂見(ヨサミアヒコヲタルミ)、爲祭神主」とあり
後々までも依羅我孫姓の人 此神社に仕ふるを思ふに此村の故事によりて此地にも住吉三神を祭り我祖神をも合せて四座とし祭れるものなるべし神社覈録に比保古を引いて 月読尊 大已貴命などの四座を祭れる傳をとらずして祭神 住吉三座 猿田彦大神と云る 猿田彦神にはまさで依羅我孫の祖ならん
古事記 開化天皇段「建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケノミコ)は・・・依網(ヨサミ)の阿毘古(アビコ)等の祖なり」とみえ
姓氏録 摂津皇別に依網(ヨサミノ)宿禰は 日下部(クサカベノ)宿禰 同祖 彦坐命(ヒコイマスノミコト)之後也
續日本紀 天平勝寶二年八月辛未「摂津国 住吉郡人外 従五位下 依羅我孫忍麻呂等五人。賜ニ依羅宿禰姓。神奴意支奈。祝長月等五十三人、依羅ノ物忌(モノイミ)ノ姓ヲ。」とある神奴また祝また物忌と云るにて 此神社に仕奉りしことしるく 神社の号を大依羅と申せるにて 専から依羅氏の故事によりて祭れること明らかに八十島祭に住吉神と大依羅と同神を祭るはいかがとも云へけれど 住吉は往来(ユキカウ)船を着そなはさんと詔へる如く 海上往来の舟人を守り玉ひ 大依羅は其の號霊を島の八十島国の八十国に及ぼし玉ふ故にて 同神にはませども其の祭る次第に各異なる所ある故なる處ある故なるべし神位
貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条○廿七日甲申 京畿七道諸神 進 階及新叙。惣二百六十七社 奉授 攝津國 從五位下勳八等 大依羅神。
巻三 貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉の条○八日庚申 攝津國 大依羅神 遣使奉幣 爲風雨祈焉祭日 六月十一日並十四日
社格 郷社
所在 庭井村字依羅(東成郡依羅村大字庭井)草津大歳(クサツオホトシノ)神社(鍬靫)
祭神 大歳ノ神
祭日 六月八月十一月並十六日
社格 村社
所在 苅田村(東成郡依羅村 郷社 大依羅神社に合併)努能太比賣命(ヌノタヒメノミコトノ)神社
祭神 努能太比賣命
祭日
社格
所在 杉本村 字奴龍太(廃絶せしならん 明細帳になし 杉本村には八坂神社一社あるのみ)今按〈今考えるに〉
摂津志杉本村 野太(ヌノタ)池ノ側とみえ 注進状廃絶の部に杉本ノ村耕地内 奴能太(ヌノタ)と唱ふる所に凡十五坪餘の塚あり 古来神社ありしが何の頃よりか大破に及びたるを以て村中氏神社へ移さるとあり 又 奴能太塚の地図をみるに塚の四邊の田地を野々田と云ふ由記せれば此地 努能太比賣命神社なること著し
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
大依羅神社(大阪市住吉区庭井)の祭神について 諸説を記しています
【抜粋意訳】
〇大阪府 摂津國 東成郡 依羅(ヨサミ)村大字庭井
郷社 大依羅(オホヨサミノ)神社
祭神
大己貴(オホナムチノ)命
月讀(ツキヨミノ)神
垂仁天皇(スイニンテンノウ)
五十猛(イタケルノ)命祭神四座数説あり、度会延経神名帳考証には表津少童(うはつわたつみの)命、中津少童(なかつわたつみの)命、底津少童(そこつわたつみの)命、息長足姫(おきながたらしひめ)といひ、
神社覈録には 底筒男(そこつつのをの)命、中筒男(なかつつのをの)命、表筒男(うはつつのをの)命、猿田彦大神(さるたひこおほかみ)となし、
神祇志料には 建豊波豆羅利気王(たけとよはつらりけのみこ)を主として、住吉三神を祭るとせり。
創祀は 神功皇后三韓を伐ち給ふ時、住吉神の和魂玉體に著きて寿命を守り、荒魂は先鋒として、師船を導き奉らんと教へ給へるにより、依羅吾彦男垂見を神主として祀らしめ給ふと、日本書紀に在り、是当社の創祀なり(神祇志料)、
之れ建豊波豆羅和氣王を主神としての説なり、建豊庚披豆羅和気王は依羅(よさみ)の吾毘古等の祖なればなり(古事記)、当依羅村の一邑に我孫子(あひこ)あり、吾孫子氏の住みたりし地なり、我孫子氏は神別にして大己貴命の後なり(姓民録)、
之に依れば此神社は其氏の人が創祀せしにて、主神は大己貴命なりと定むべきが如し、称徳天皇 神護元年 摂津備前十八戸を神封に充て奉り(新抄格勅符)、
仁明天皇 承和十四年七月 神社を修営し官社に預らしめ(続日本後紀)、
清和天皇 貞観元年正月甲申 從五位下勲八等 大依羅神を從四位下に進められ、九月庚申、雨風の祈により幣帛を奉り、陽成天皇 元慶元年六月癸未、幣を奉りて甘雨を祈り、三年六月癸酉神財を奉る(三代實録)、
醍醐天皇 延喜の制 四座並に名神大杜に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の官幣、及祈雨の幣帛に預り、又住吉神と同じく八十島祭に預る(延喜式)、
同九年九月乙巳正二位を授け(日本紀略)、
一條天皇 正暦五年四月戊申、中臣氏の人をして宜命使として幣を奉る、疫疾火災の御祈によりてなり(本朝世記、日本紀略参取)、
八十島祭の事は 露天神社の祭を参照すべし、猶当時相嘗祭大依羅神四座に、絹八疋、糸十二絢、綿十二屯。調布十二反、庸布六反、木綿六斤八爾、飽二斤八両、膿五升、堅魚八斤十両、海藻八斤八両、擬海藻八斤十両、塩四斗、筥四合、瓶缶水瓶山郁婆小都婆波筥、瓶酒、垂区、等呂須伎、高盤、短女杯、筥杯、小杯、陶面各八口酒稻二百束を供ふ、
此儀後大に頽廃し、社殿も廃滅せんとす、後西院天皇萬治二年八月近村協力して修営す、之れ今の社殿とす、
明治九年二月十二日郷社に列す、境内1408坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿等を備ふ。
【原文参照】
境内 龍神井についての伝説について
龍神井についての伝説
境内西南の一隅に、龍神井と称する雨乞井がある。
里傳によれば、依羅池中に龍蛇住み、或日河内の一農夫池の北堤を通行中、美女に呼びとめられ、我が身は池中の龍神なるに、先頃鐵を沈めるものあり、これに触れて傷を受けた故、池中の鐵を取り除いて欲しいと懇願、農夫は哀れに感じたが泳ぎを知らぬ故、池底に潜ることはでぎぬと述ベて行き過ぎようとしたところ、婦人はさらに呼びとめ、自分の力で水辺まで波をもつて打ち出す故、水辺に現はれたならば取り除かれよと云つて水底に消え失せた。待つほどに俄かに天地晦瞑、暴風起り、波は池水を捲いて天を衝き、恐ろしい状を呈したが、やがて風波鎭まり、天地晴朗に復したと思うと婦人再び現れ来て、あれなる鉄が自分の申していたところのもの、持去つて再び池中に入らぬやうにしてはしいと云い、難儀を救つてくれた恩に対し、萬の幸を得させよう、水乏しきときは此の井水を汲み大神の御前に供へて甘雨を祈れば必ず水を得させようと云つて清水の井戸に入つた。農夫は其の鐵を見るに農具の萬鍬であつたといふ。爾來旱天に際しては此の井を開いて大依羅神社に祈雨祭を行へば必ず甘雨沛然として至るといひ、近年に至る迄、旱魃に際しては村民集つて此の井を開き、七日間参龍祈雨を行ふを例とした。
大依羅神社(大阪市住吉区庭井)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)