大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 景行天皇41年(111)大神の託宣によって創立と伝わり 武蔵国の守神として大國魂神が祀られます 平安時代には各諸神を合祀゛総社゛となり 平安時代末期頃 武蔵国の著名な六所の神社を合祀゛武藏總社六所宮゛と称されます 社伝には 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)とも伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大國魂神社(Ohokunitama shrine)
【通称名(Common name)】
・明神
・六所さま
・武藏總社六所宮
【鎮座地 (Location) 】
東京都府中市宮町3-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈中殿〉
《主》大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ)〈大国主神と同神〉
《配》国内諸神
〈天下春命,瀬織津比咩命,倉稲魂命,国常立尊,須佐之男命,稲田姫命,大己貴命,八意思金命,知知夫彦命,天之御中主神,天照大神,素戔嗚尊,日本武尊,五十猛命,大日孁貴命,太田命〉
《配》御霊大神(ごりょうおおかみ)
〈東殿〉
《主》一之宮:小野大神
二之宮:小河大神
三之宮:氷川大神
〈西殿〉
《主》四之宮:秩父大神
五之宮:金佐奈大神
六之宮:杉山大神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・福神・縁結び・厄除け・厄払いの神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧官幣小社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
当社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものである。出雲臣天穂日命[いづものおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて武蔵国造[むさしのくにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる。
大國魂神社公式HPより抜粋
https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/
武蔵惣社(むさしそうしゃ)
大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)当神社は、大国魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祀った神社である。
第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵惣社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六所明神」「六所宮」とも称された。
鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。(例大祭五月五日)
大国魂神社・府中市観光協会
現地掲示板より
【由 緒 (History)】
大国魂神社 おおくにたまじんじゃ
東京都府中市宮町。旧官幣小社 (現、別表神社 )。
本殿はー棟三殿の流造りで都重要文化財。中殿に大国魂大神•国内諸神・御霊大神・向って左の東殿にーの宮小野大神•二の宮小河大神・三の宮氷川大神、右の西殿に四の宮秩父大神・五の宮金左奈大神・六の宮杉山大神を祀る。創祀は景行天皇四一年五月五日と伝え、当時は国造が代々奉仕したが、大化の改新により国府がこの地に置かれ、国司が奉仕するようになり管内神社の祭典を行う便宜上、ーカ所に集め奉祀された。これが武蔵国総社といわれる起源で、左右の相殿に国内の一の宮より六の宮までの著名神社を合祀したので六所宮・六所明神とも称された。
源頼朝は、寿永元年 (一一八二 )夫人の安産祈願のため奉幣、源武蔵守義信をして社殿を修造し、北条•足利両氏もまた罵く崇敬した。
徳川家康は江戸開幕にあたり神領五〇〇石を寄進し、社殿その他の建物を改築した。明治元年(一八六八)神祇官直支配の準勅祭社に列した。古来崇敬者は非常に多く、武蔵国は勿論関東一帯にわたり数一〇万に及ぶ。
例祭は五月五日で、神前の祭儀の後、浦野細谷両氏による御饌催促の儀・神楽七座の舞・八基の神輿渡御等があり、国造代は摂社坪宮 (国造神社とも称す )に参向、神輿渡御の由を奉告後、御旅所で神與に奉幣を行う。神與渡御は、府中の闇夜祭と称され非常な殷賑を極める。
特殊神事は四月三十日=品川海上禊祓式、五月二日=御鏡磨祭、五月三日=競馬式、五月四目=御綱祭、八月一日=相撲祭、九月二七、二八日=秋季祭 (くり祭 )とあるが、特に七月一二、一三日の 青袖杉舞祭は源頼朝が文治二年 (一一八六 )武蔵国内の神職に天下太平の祈祷を命じ、以来参会し摂社 宮之咩神社に青袖舞を、本社に杉舞を奉仕したのに始まると伝える。七月二〇日の李子祭は源頼義•義家父子の奥州征伐の戦勝報賽に由来すると伝えられ李子•栗飯が供えられる。当日烏扇が授与され、この扇で扇ぐと豊作・病気平癒の霊験があるといわれる。
狛犬一対(重文)をはじめ、仏像本地仏五体・古鏡四面•六韜三略の 古写本ほか古文書•刀剣及び石器・土器等多数あり宝物殿に展示されている。馬場大門欅並木は、国の天然記念物に指定されている。→国魂神社•六所神社 (土 肥 )
『神社辞典』〈1990年初版〉より抜粋
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
神社の境内については 公式HPに詳しく掲載されています
https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・天神社(大國魂神社東方約500m)
〈延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)の論社〉
・天神社(府中市宮町)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大麻止乃豆乃天神社
[ふ り が な ](おほまとのつのあまつかみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohomatonotsuno Amatsu kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)の論社について
・大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)
・武藏御嶽神社(青梅市御岳山)
・北野天満社(八王子市北野町)
・大国魂神社(東京・府中市宮町)
・天神社(府中市宮町)
゛武藏總社 六所宮゛と呼ばれる起源について
孝徳天皇(596-654)の御代 大化の改新(645)の後 この地に武蔵國の国府が置かれ 大國魂神社を国司が奉仕して国内の祭務を総轄する国衙の斎場にあてられました
又 国司は その国に任命をされると 国内神社の奉幣巡拝 神事執行等を執り行う為 その交通などの便により国内諸神を配祀する総社を設けました
武蔵國では 大國魂神社が総社とされたので これにより武蔵総社とも呼ばれます
その後 本殿の両側に武蔵国内の著名神〈六所 ろくしょ〉(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して 六所宮とも呼ばれるようになりました
大國魂神社 本社に奉祀られる六所宮について
平安期に武蔵総社となった後 本殿の両側に武蔵國の国内 著名神 六所明神(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して 鎌倉時代には 六所宮とも称せられるようになりました
明治以降は 明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ 同7年(1874)県社に列し 同18年官幣小社に列せられて〈『神道集』(南北朝時代)に記載される゛武州六大明神゛〉を基にして武蔵国の一之宮から六之宮を祀る形態としています
の
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京王線 府中駅でもJR府中本町駅でも どちらでも徒歩すぐ
車で向かう場合は 参道の左手〈東側〉に有料駐車場があり 境内社の宮乃咩神社辺りから 参道の途中へ出ます
雨の日にもかかわらず 参道には多くの人が 参拝に訪れています
大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉に参着
参道の右手には゛手水舎゛があり 清めます
境内の西側には゛宝物殿゛があります
参道に戻り 一礼をして゛随神門゛をくぐります
随神門の扉には 御神紋゛十六八重菊゛
参道の東側には 嘉永7年(1854)再建の゛鼓楼(ころう)゛
つづいて゛廻廊(かいろう)゛
゛中雀門(ちゅうじゃくもん)゛があり 一礼をしてくぐります
境内の東側には ゛社務所(しゃむしょ)゛があり 御朱印はこちらで受けます
参道の正面には ゛拝殿(はいでん)゛
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透塀に囲まれて 本殿〈三殿一棟の特異な構造形式〉(東京都有形文化財)
〈寛文7年 四代将軍徳川家綱の命により再建〉
本殿の左右には 境内社が祀られていますので 順にお参りをします
存在感のある御神木の゛大イチョウ゛
樹齢は約千年と伝わり 乳銀杏として信仰されています
それは 変わった伝承で
゛かつて この大銀杏の根元に 蜷貝がいたと云う゛
産後の乳が出ない時 この蜷貝を煎じて飲むと乳の出が良くなる信仰があった
現在は゛大銀杏に手を合わせ拝み゛産後の肥立ち〈妊娠・出産した女性が元の体に回復する〉を願う とされます
※私たちの知っている 蜷(にな)貝は 海に生息しますが
漢字は「蜷」「にな」などの言葉は 巻貝を差す言葉らしく
古典では 淡水に棲息するカワニナなどの巻貝のことを「にな」と言ったらしい
社殿には奉献酒 東京の地酒
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『武蔵演路(むさしえんろ)』〈編著者 大橋方長他 安永9(1780)年起稿〉に記される伝承
『式内社調査報告』に゛武蔵演路゛が引用されているが 式内社の比定は難しいとの所載あり
式内社 大麻止乃豆乃天神社について 北野村の天神宮〈現 天満社(八王子市北野町)〉と記し 今 菅原道真公を祀る゛天満宮゛としているのは 誤りで 天神である とも記しています
【抜粋意訳】
武蔵演路 第五 〇多摩
八王子宿 天神宮
北野村 八王子 六十宿
別当 大義寺或いは云う
式内 大麻止乃豆乃天神社之 祭神未考今 菅神とするは誤りなり
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 大麻止乃豆乃天神社について 大和国 櫛真知命神社との関連を示唆し 所在地としては 府中六所大明神三殿の中央 大己貴命〈現 大国魂神社(東京・府中)〉もしくは 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉と記しています
【抜粋意訳】
大麻止乃豆乃(オホマトノツノ)天神社
〇大和国 櫛真知命神社 元名 大麻呂井天和神
三実 作大麻等 野知神
惣風 大麻止乃智天神 圭田67束6毛田所祭 大己貴命也 安閑天皇乙卯年始尊官社 花時以花祭之 新稲之時以新稲祭之
〇当郡 布田村人 大八木範並云 当郡 府中六所大明神三殿の中央 大己貴命 景行天皇の世 祭り始むと云う 当社 春時 花を以って祭り 秋時 新稲を以って祭る式あり これこの大麻血乃知天神社ならんと云えり
式考 御岳山御岳大明神之 少彦名命
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉について 社伝には式内社 大麻止乃豆乃天神社である と記されています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之九十二 多磨郡之四 府中領 六所社領
六所社
社地 三町八段二畝十歩 甲州街道の南にあり 石の大鳥居を建つ 往還に臨めり 総社六所観やといへる額を掲ぐ 筆者細井廣澤なり それより又 七八歩にして石鳥居あり 慶長年中宮の修造のよしを彫たる文字見えたり 今 断折したれど分明なり
当社祭る所 六神 素盞嗚命 大己貴尊 布留太神 共に一殿 是を中殿とす
瓊瓊杵尊 伊弉册尊 大宮女命共に一殿 是を西殿とす
外に 瀬織津比咩 天下春命 稲倉魂太神共に一殿 是を東殿とす
三殿合せて一社とす 是を本社と云 七間半に三間余
幣殿 三間余に三間
拝殿 八間余に三間半 其中に就て 左右を分ちて唱へをなす 左を般若席といひ 右を神楽席といふ 四方に瑞離を繽らせり社傳に 景行帝の御宇 大己貴尊 小川郷小野里に降臨ありしを 里人 私に祠を立て祀れり
成務天皇の朝に及て 兄多毛比尊国造を賜て 此地に来り 国府を開かれし時 大己貴尊に素盞嗚尊等の五神を配して 始て宮社を建て祭れり これを六所宮と称せりと(一説 六神は 大己貴尊 少彦名尊 事代主命 健御名方尊 武甕槌命 経津主尊なり 又 近来 大己貴尊 去来册尊 眼狭雄尊 布留太神 大宮賈命 亜肖気命を以 六神に充るものあり いまだ孰れが是なるをしらず 今姑く 社傳に従ふ)
又 社傳に 総命けて 大麻止乃豆天乃神といへりと云て 式内の神にあつるものあるは覚束なき説なり 今採用せず
東殿の三神は 樹扉に印記して 一乃宮小野 客来三所 瀬織津比咩 天下春命 稲倉魂神とあり 一乃宮は即ち 多西の一之宮村 祭神天下春命なりと云ふ 小野は 本宿村 小野神社 祭神 瀬織津比咩なり 今なを二社各村に其祠宇あり 何の故ありて 何れの世 神坐を当社に移して 合殿に祭しや其来由を詳にせず 社傳 粉々たりといへども 顛末造かならざれば 亦敢て据用しがたし
おもふに 当社は後世 鎌倉将軍家の崇敬盛なるに従て 神威も日月に愈栄へ 彼二社は 従て衰微に及びし故 総社の因を以て ここに併せ遷し 別に一殿を添て 合せて九神一社となせしものなるべし 故に樹扉に客来のよしを勅して 当社の舊主に別てるならん 客来の内 稲倉魂いづれより遷座なりしといふこと詳かならず 或は云 もと小野神社 配祀の神なりとも 又 自ら一社にして 遷座の舊祠を失ひしものと 未其定説をきかず
当社後に 本地佛を建て 釈迦 聖観音 毘沙門を中殿三神の本地とす 西殿は弥勒地蔵不動 東殿は薬師文殊十一面観音なり
抑当社の古へを訪ぬるに 康平五年 源将軍頼義 奥州安倍の貞任を追伐のため 東国へ下りし時 六月十九日 当社へ一宿して戦功を祈り 翌日 彼地をさして發向す 果して軍勝利ありし故 凱旋の後 社木干樹を植られしとぞ 今 鳥居内 両邊の大木是なりといへり
今に 年々六月廿日 天下太平の神事あるも 又 其因みとかや 治承の昔 源頼朝兵を起し 分倍河原に於て 関東の軍勢をめし集めしきさみも 当社に参詣ありて 神馬上詣矢を捧げしよし傳へたり 寿永元年八月十一日 御臺所産に臨み 祈祷のため 伊豆箱根を初め 近国の宮社に幣使を立られし時も 葛西三郎清重 当社に至れり 社傳に文治二年 宮祠造営を加へられしよしをいへり 按に 東鑑 文治二年六月廿九日の條に 二品神社佛寺興行の事 日来の恩顧 且は 京都に申され 東海道に於ては守護人等に仰せ 其国の総社并に 国分寺破壊 及 尼寺顛倒の事を注せらる 是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば 是年 当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし
又 建久三年五月八日 法皇四十九日の佛事を修せられ 百僧供あり 其僧衆に六所宮二口と見ゆ さればこの祠の社僧預りしことなるべし 其後 寛喜四年二月 拝殿破壊に因て修理の議あり 武藤左衛門尉資頼奉行すと云々 此等に据れば 其頃 将軍家の崇敬自らしるべし 上杉家 関東に威を振ひし頃に至ても 代々武州の守護にてありし故にや 伊豆の国 国清寺に当社を勧請せりといふ
ただし 永禄四年 上杉景虎 当社へ参詣せしことものに出たり 是は 崇敬の故にはあらずときこゆ 此時 小田原を責んとの計策相違して 鎌倉を引拂ひ 上州へ帰る時 なをもいきをひをしめさんとて この社参ありしなり このきさみ北條家人 中條出羽守等景虎が 小荷駄奉行 柿崎某を追くづし 荷物を悉く奪ひければ 景虎 府中に逗留して民家を追捕し 兵糧をととのへて上州へと帰なん 御開国に及んでも 当社を尊信せさせたまふ事浅からず 先規に任せて神領を附せらる
慶長十五年 宮者 及 楼門 鳥居 諸末社 以下倉庫等に至るまで 造営を加へらる この時 大久保石見守長安奉行せり かの石見守奉納の銅燈籠今に存せり 元和三年 東照宮の尊骸 日光山へ遷御の時 この地に一日御逗留あり 因て 社地に神靈を崇祀したてまつる 翌四年 御宮并に三重塔鼓楼等新宮を命ぜられ 且四月十七日の祭奠を許容せらる
しかるに 正保三年十一月 本町より出火して 社殿残らず燼となる(この時の焼餘なりとて 朱髪の殿扉六枚 楼門の格子戸四枚 今猶 蔵して神庫に在)因て 寛文七年 再営の命ありて 久世大和守廣之其事を奉行す 今の宮社是なり 楼門以下三重塔鼓楼等はみな略せらる 其後 享保中 社殿大破の由訴へ上ければ 白銀百錠を下され 并に助費の勧化を許さる 是より宮の修理を停られ 後是を例とすといふ
例祭は 年々五月五日なり この日 申の刻ばかりより神輿を仮殿に遷し 奉幣の礼を行ふ この時 里民等ことごとく燭をあくることを禁ぜり それより野口の仮殿に遷し 献酬の礼ありて 又 もとの仮殿にかへりて 流鏑馬の式あり ここに至りて 始て燭をあけ 神輿本社に遷れり このほか 年中の祭儀はたびたび有れど略せり
東照宮神殿
九尺四方瑞垣を続らせり 本社の西に建築あり宮姫
本社九尺に一丈二尺 拝殿二間に三間 二の鳥居内東の方にあり 祭神 須勢理比咩 稲田比咩 木花開耶比咩 例祭 七月十二日 鎮座の来由詳ならず 或云 国造の始て祀る所なりと本地堂
三間四方 釈迦 地蔵 十一面観音三体を安す 釈迦を中尊とす 長二尺 地蔵長一尺六寸 観音長九寸 中尊の左右に列す護摩堂
本社の東にあり 不動を安す 木の坐像長二尺ばかり炊屋
五間に三間 護摩堂の傍にあり神輿舎
三間に五間 本地堂の前に在随身門
三間に四間 内に番所あり水屋
随身門にあり膳殿
二間に三間 本社の西南にあり鐵佛一体
弥陀の坐像なり 長七尺余覆屋あり 此鐵佛 国分寺の舊物なるべしと云 其故は 国分寺より一丁程西南の谷よりほり出したるを 後この社地に移せりといふ 其谷を鐵谷といへるも 此佛 出し故なるか 或云 戀ヶ久保村にありしもの移せりと
銘あり左の如し銘曰
大勧進念阿弥陀佛 明達大工藤原助近右志物 過去二親行厳新發意 乃至法界衆生平等利益 奉鋳一丈二尺佛身也
建長五年癸丑二月十八日丙寅彼岸初日今はこの銘文 磨滅してみがたし
末社
八幡社
除地 三丁三畝十歩 小社 本社より四丁程東にあり
此邊呼て 八幡村と云ふ 鳥居あり 街道に臨めり 鳥居より社前に至るまで左右松樹を列す 例祭 年々八月十五日天神社
除地 二段 小社 本社より東一丁余にあり
祭神 少彦名命 例祭 毎年二月廿五日滝神社
本社より八丁程東にあり 小社 稲倉魂太神を祀れりといふ
例祭 年々四月初巳日 社前に爆水あり 六所 五月の祭儀神職以下この瀧に於て御祓をなすといふ石塚社
除地 四段五畝十五歩 小社 本社の東六丁程にあり
祭神 磐筒男命 磐筒女命 例祭 年々正月十五日制札
二ヵ所にあり 一は鳥居の傍にたつ この所に昔し 馬市たちしかば その法制書をせし高札今も存せるなり
ここに馬市のたちしは その由て来ることいと久きことなり 今社地の内に古馬場と唱ふる所あり これは往古 此邊に御牧ありし時 その馬をここに集めて擇ひし所なるよし云傳ふ それより今に土人の言に 細馬謳馬の語あり 細馬は 善馬の古言なりと かかりし故を以て 夫より遥かの後までも 馬市たちて 甲斐 信濃 陸奥等の野馬をここにて擇びしと云
御打入の後 関ヶ原 及び 大坂の役に用いられし軍馬も ここにて擇ばれしとぞ 因て 大坂凱旋の後 一の鳥居の左右に於て 三百歩の馬場に埓を寄附せられ ここにて馬市を立たり その後 享保年間に この市を江戸麻布に移されしより 此地には廃せり されど古への例によりて 今も年々 十月江戸馬喰町の名主高木源兵衛 及 石町の名主山本傳右衛門官の御馬をひき来りて この馬場にて調し それより本社 及び 御宮に参拝す これを吉例の御馬と称せりと云 この制札は 馬場御寄附の時 定られし掟書なり
其文左に記す掟
一此所ニおゐて馬町立之事、
五月三日駒くらへより初め、九月晦日限るへし、彌堅此おもむきを相守へし、
若違背之輩於有之者、曲事たるへき者也、依而下知如件、
月 日
奉行一は 社地の竹木を伐採 及び 牛馬の通行等のことを禁ぜられし掟書にて 寛文七年と記せり これも鳥居のほとりにたてり
馬市
この所に馬市のたちしは由て来ること甚だ久し 往古は総て 諸国に御牧ありて 国造国司等に諭して撰で奉らしむ
延喜式左馬寮に武蔵国牧四ヵ所を載たり 石川 由比 小川 立野と云々
武蔵風土記に 小野神社を小川郷にかけり 此書信用しがたしといへども 古書なることは論なければ 此等姑く取るべきに似たりといへども
和名抄に載て 当郡に小野郷小川郷并に其余十箇の郷名あれば 此所は全く小野郷にして 小野神社は古へより本宿村にありしものならん 小川郷をそらくは他所なるべし 又 近村に小川村などあれど 是は新墾の地にして 中古まで武蔵野の廣原を開かれ 其開墾せし民の氏を小川と称するに因て 村名とせし地なれば 舊跡にかかわらず 和名抄に載たる小川郷の遺名ともすべきは 小宮領に小川村あり 其邊の二ノ宮社頭へ応永十九年大般若経勧進せし文に 多西郡小川郷と書たるものあれば 此等 古く小川郷にて 秋川 多摩川の流れも固循し 又 村内に藍染川など云小流 二ノ宮社頭の御手洗と号する沼地など有て 水早の便もあれば 小川牧と称するは 彼土なること疑ふべくもあらず 又 拾芥抄に 八月廿日壹武蔵小野御馬 廿五日壹武蔵立野馬云々 然るに 延喜式に小川ありて 拾芥抄には小野と載たり 按に小野は 古へ懸号にて 殊に上古 府庁を置れし地なれば 御牧の別当 牧監より府庁へ牧馬を送りしを 国司郡司等 細馬を撰びたてまつりしを 拾芥抄にのする小野御馬とあるは このことならん されば小川牧 或は小野牧とも混じていへるならん神職猿渡近江盛章
姓は藤原 世々社務の長なり 其 舊家なることは辨をまたずしかるに 天正中 三河守盛政 北条氏 照に属して瀧山落城の時 戦死す 邸舎も兵火に罹りて神寶 家記等も皆鳥有せる 故に今に至りては その家系の詳なることを しることあたはず 或いは傳ふ 國造の後裔なりと 又 東鑑に猿渡藤三郎なといふもの見えたり もしくはこれか 今詳なる傳へなし かの戦死によりて 一旦・・・・・・・・・
・・・・・
・・・・・禰宜一人織田出雲 社家四人
佐野数馬 鹿嶋田隼人 中善寺某 田村右善等なり社人三十五人 社僧七人
惣行寺 明王院 円福寺 花光院 妙法寺 安楽院 泉蔵寺以上七院 皆 天台宗にて 宿内安養寺末なれども 祀事においては 神主の配隷に属す その寺 及び 宅地は皆 神領の内 社邊に居れり
【原文参照】
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
大國魂神社(府中市宮町)について 式内社 大麻止乃豆乃天神社であると記しています
【抜粋意訳】
江戸名所圖會 三之巻
武蔵國(むさしのくに)総社(そうしゃ)六所明神(ろくしょみょうしん)社
府中驛路(ふちゅうのえきろ)の左側にあり 延喜式内(えんぎしきない)大麻止之豆之天神社(おおまとのつのてんしんのやしろ)是(これ)なり
後世(こうせい)に至(いた)りて 同じく式内(しきない)小野神社(おののじんじゃ)を合(あわ)せ祭(まつ)る 故(ゆえ)に今(いま)両社一社(りょうしゃいっしゃ)の称(しょう)あり
神主は 猿渡氏(さるわたりうじ)其餘(そのよ)社司社僧等 奉祀す本社祭神 大己貴命
相 殿 素戔嗚尊 伊弉諾尊 瓊瓊杵尊 大宮女大神 布留太神
以上 六神これを 俗に六所明神(ろくしょみょうじん)と称せり天下春命 瀬織津比賣命 稲倉魂大神
以上 三神これを客来(きゃくらい)といへり九神合わせて共 六所宮(ろくしょのみや)と称す
此の三神のいちは 一宮に小野神社との条下に詳(つまびらか)なり延喜式神名帳曰 武蔵國 多磨郡八座 大麻止之豆之天神社 云云
・・・・・
・・・・・【原文参照】
〈挿絵の注〉
府中六所宮(ふちゅうろくしょのみや)
小野宮(おののみや)と分倍(ふんばい)の境(さかい)府中(ふちゅう)より関土(せきど)へ行道(ゆくみち)は、往昔(むかし)奥州(おうしゅう)より鎌倉(かまくら)への通路(つうろ)にして、これを陣海道(じんかいどう)と称はえるは、元弘(げんこう)より永享(えいきょう)の間(あいだ)屡(しばしば)戦争(せんそう)の地(ち)にてありしかばかくは字(あざな)せるとなり
当社(とうしゃ)随神門(ずいしんもん)より外(そと)の列樹(れつじゅ)には、鵜(う)或(あるい)は鷺(さぎ)其余さまざまの水禽(みずとり)巣(す)を作(つく)り栖(すみか)す
日毎(ひごと)に品川(しながわ)等(とう)の海濱(かいひん)より其(その)巣(す)へ運び其雛(ひな)を育(いく)せり
然(しか)れども随神門(ずいしんもん)より内(うち)へは一羽(いちわ)といえども入(いる)事(こと)なきを当社(とうしゃ)七奇事(きじ)の一とす。又、寒中(かんちゅう)に至(いた)れば一羽も宿(やど)る事なく 翌(あく)る年(とし)の寒明(かんなけ)に至(いた)り又来(きた)ってねくらせり【原文参照】
〈挿絵の注〉
其二
【原文参照】
〈挿絵の注〉
其三
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=
〈挿絵の注〉
六所宮田植(ろくしょのみやたうえ)
五月六日は御田植(みたうえ)の神事(しんじ)にて武蔵国(むさしのくに)の人民(じんみん)早苗(さなえ)を携(たずさ)え来(きた)りて 神田(しいでん)に是(これ)を挿(はさ)めり
郷童(きょうどう)白鷺(しらさぎ)の形(かた)の造(つく)り物(もの)ある葢鉾(かさほこ)をささげて せんはいこうしの傘(からかさ)と唄(うた)ひ詳は 又ありてものは これものく唄(うた)いて 今(いま)植並(うえなら)し田(た)の中に下(くだ)り立(たち)て 早苗(さなえ)を踏(ふみ)しだき こひぢ〈泥田〉にまみれて 踊舞(おどりまう) 故(ゆえ)に有(あり)しにも似(に)ず ひぢ〈泥田〉の中にしずみはえるが 一夜(いちや)のうちにいとめて度(たた)起立(おきたち)て葉末(はすえ)に露(つゆ)むすびなんとしてうるわしき事かぎりなし【原文参照】
六所宮御旅所・・・・・
御田・・・・【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉と記しています
祭神については 大和国 十市郡 天香具山坐 櫛真知命神社 元名 大麻止乃知神とある同名なので 本来は 櫛真知命が正しいのではないだろうか とも記しています
【抜粋意訳】
大麻止乃豆乃天神社
大は 於保と訓べし、麻止乃豆乃は假字なり
〇祭神 日本武尊 大己貴命 少彦名命、地名記
〇御嶽山に在す、地名記
〇惣國風土記七十七残存云、大麻止乃智天神 圭田六十七束六毛田 所祭 大己貴命也 安閑天皇乙卯年始尊官社 花時以花祭之 新稲之時以新稲祭之連胤 按るに〈考えるに〉大和国 十市郡 天香具山坐 櫛真知命神社 元名 大麻止乃知神とある同名なれば 櫛真知命を祀れるにはあらざるか 尚考ふべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 大丸村に在り丸宮大明神〈現 大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〉で 祭神は天櫛眞知命 と記しています
【抜粋意訳】
大麻止乃豆乃天神社(オホマトノツノアマツカミノヤシロ)
今、大丸村に在り、丸宮大明神し云 蓋是也、
蓋 天櫛眞知命を祀る
凡 其祭 八月十五日之を行ふ
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉という説があるが 疑わしい 大丸村〈現 大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〉が正しいとして 大丸村の村名は もと大麻止を大円など書いてオホマルと訛り 終いに大丸とも書くこととなったと記しています
【抜粋意訳】
大麻止乃豆乃天神社
祭神 櫛真知命
祭日 八月十五日
社格 郷社
所在 大丸村 字大圓山(南多摩郡稲城村大字大丸)
今按〈今考えるに〉
御嶽山御嶽神社を大麻止乃豆乃天神社と云えれど明証なければ信じがたし擁書漫筆に 大丸村の丸宮大明神は 本社にその名かよいて聞ゆと云るに就て 黒河春村が この説よろしく聞ゆ
大丸村は 玉川の岸にあり 大麻止乃豆は大眞門の津にて 玉川の渡津に由あるが
大和国 櫛真知命神社 元名 大麻呂井天和神とあるを 古本には大麻等乃知神社とあるも同義にて 埴安池邉にます神かとおほし
とあるを合せ考ふるに
村名の大丸は もと大麻止を大圓など書るよりオホマルと訛り 終に大丸とも書くこととなりし なるべく社地の字を大圓山と云は 古名の遺れるものと思しく かたがた證ありて聞ゆれば之に従う
【原文参照】
大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)