六嶽神社(むつがたけじんじゃ)は 宗像三女神が初めて降臨した゛六嶽 崎門〈サキト〉峰゛と伝わる地に上宮が鎮座 その後 宗像三女神は 第7代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸したと伝わり 第13代 成務天皇七年〈西暦137年頃〉里宮〈下宮〉として創建され ゛前戸(サキト)神社゛と称していたと『宗像神社末社記』に載る由緒ある古社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
六嶽神社(Mutsugatake shrine)
【通称名(Common name)】
・六嶽宮(むつがたけぐう)
【鎮座地 (Location) 】
福岡県鞍手郡鞍手町室木1207
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》田心姫之神(たごころひめのかみ)
湍津姫之神(たぎつひめのかみ)
市杵島姫之神(いちきしまひめのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・安産・交通安全の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
〈宗像三女神降臨の地〉
【創 建 (Beginning of history)】
六嶽神社由来
紀元前七百年ノコロ 皇女三神 霊山六嶽崎門峰二御降臨アリ 此地ヲ上宮卜定メ 室木ノ里二下宮ヲ建立シ 安産交通安全ノ守護神トシテ鎮守ノ杜トス
御祭神
田心姫之神
湍津姫之神
市杵島姫之神大祭日
春季大祭 四月八日
秋季大祭 十月十二日六嶽神社々務所
現地案内板より
【由 緒 (History)】
郷社 六嶽神社
<祭神>
田心(たごころ)姫命 湍津(たぎつ)姫命 市杵島(いちきしま)姫命
<由緒>
この地は宗像三女神が初めて降臨したといわれるゆかりの地で、
成務天皇七年の時、室木の里長・長田彦が神勅により崎門山上に神籬(ひもろぎ)を建てたのが初めという。
延喜七年菊花を神社の神紋と定め、文中三年足利戴満が社殿を造営し、宝永二年に社殿が再建された時には、黒田長清が木材を寄進した。
明治五年十一月三日に郷社となり、明治四十三年に六嶽上宮(宗像三女神最初御影向(ようごう)の霊地)及び貴船神社と八幡神社を合祀した。
また、六嶽神社は安産の神様として古くより安産祭を春の大祭に行い、境内繁茂する神木(力柴)の枝を用いて安産を祈る。<六嶽神社祭典日>
1月1日歳旦祭 1月3日年始祭 4月8日(前後)春季大祭
7月(田植後)御獅子祭 9月(彼岸のうち)社日祭(上宮祭)
10月17日(前後)秋季大祭 11月23日新嘗(にいなめ)祭
12月31日除夜祭神社配布紙より
六嶽神社(むつがたけじんじゃ)と室木神楽(むろきかぐら)(町指定無形文化財)
六嶽神社は三女神を祀る近郷で最も由緒古い神社である。 筑前風土記逸文(ちくぜんふどきいつぶん)の中に「宗像の大神天より降り崎戸山(さきとやま)(六岳の古称)に居ましし時云々」とある。室木神楽は江戸に直方多賀神社宮司 青山雅楽頭(あおやまうたのかみ)が京都より宮中に伝わる神楽を伝え帰り、鞍手地域に拡めた優雅な神楽である。はじめは神社人が舞い奉納していたが、 明治以降は別に神楽座(かぐらざ)が組織されるようになり郡内に三・四座あったが今日は室木のみに残っている。
歴史を守る会(くらじの会)
社頭の案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・稲荷社・天満神社《主》菅原神
・貴船社・貴船社
・八幡社・貴船社
・御神木・八幡社
・八幡社・八幡社
・手水舎
・注連柱
・須賀神社《主》素盞嗚命
・御神木・参道
・四の鳥居
・三の鳥居
・二の鳥居
・一の鳥居
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・六ヶ岳(むつがだけ)
〈旭岳、天冠岳、羽衣岳、高祖岳、崎戸岳、出穂岳〉
※『筑前風土記逸文(ちくぜんふどきいつぶん)』の中に「宗像の大神天より降り崎戸山(さきとやま)(六岳の古称)に居ましし時云々」とある崎門山(さきとやま) 六ヶ岳の古称です
・六嶽上宮(鞍手郡鞍手町 六ヶ岳山頂付近)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宗像郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 宗像神社三座(並名神大)
[ふ り が な ](むなかたの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Munakata no kaminoyashiro mikura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 宗像神社 三座(並名神大)(むなかたの かみのやしろ みくら)
「宗像社縁起」
「宗像三女神は 初め 室貴(室木 鞍手郡鞍手町室木)の六ヶ嶽に御着になり その後 此の地・津丸神輿村に著き給ふ この村において初めて天神威を輝かせらる その後三所の霊地(・田島・大島・沖ノ島)に御遷座あり」
〈宗像三女神降臨の地〉
・六嶽神社(鞍手町室木)
〈宗像三女神遷幸の地〉
・神興神社(福津市津丸)
〈霊地・田島〉
・宗像大社 辺津宮(宗像市田島)
〈霊地・大島〉
・宗像大社 中津宮(宗像市大島)
・宗像大社 沖津宮遥拝所(宗像市大島)
〈霊地・沖ノ島〉
・宗像大社 沖津宮(沖之島)〈一般参拝は不可〉
この五つの神社が古代に祀られていた斎場の位置関係について
宗像神〈三女神〉を祀る゛延喜式内社゛と゛国史見在社゛について
現在 全国に宗像神〈三女神〉を祭る神社は3500社を超えると云います
この内 本来の゛宗像神〈三女神〉゛と゛厳島系で宗像神〈三女神〉のみを祀る゛神社は 950社を超えると云います
更に『宗像神社史』一覧表には 90社が挙げられています
古代から 続いている神社として ゛延喜式内社゛と゛国史見在社゛に記載のある 宗像神〈三女神〉を祭る神社は 50社の記載があります
詳細は
宗像神〈三女神〉を祀る神社について
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR筑豊本線 筑前植木駅から西へ約7.3km 車15分程度
社頭は 神社の西側を流れている小川と九州縦貫自動車道の高架下辺りです
六嶽神社(鞍手町室木)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり参道を進むと 石段があり上がります
振り返ると こんな感じ ちっぴり息が切れるかも
石段には゛神様とんぼ゛と呼ばれる黒い羽根のトンボ⇒「ハグロトンボ」の番い(つがい)〈オスはお腹がemerald green メスは羽もお腹も全身black〉
石段を上がると 平坦な参道が 数段の石段で少しづつ上がって行くイメージです
境内地と同じ高さまで上がると 参道の先に社殿が見えてきます
昔ながらの参道が神秘さを奏でます
境内の入口には 注連柱と手水舎があります
手水舎の横には ゛郷社 六嶽神社゛の社號標
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿本殿が鎮座し その周囲には境内社の石祠が祀られていますので お参りをします
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『風土記』〈岩波書店,昭和12〉に記される伝承
宗像社の社説として『筑前國風土記逸文』に載せられる一節に 宗像(むなかた)の謂れについて記されています
その一文に「宗像の大神、天降(あまくだ)りまして崎門山(さきとやま)に居給ひし時」とあり 宗像三女神が崎門山(さきとやま)〈現 六ヶ岳(むつがだけ)〉に降臨したと記されています
【抜粋意訳】
風土記逸文
第一類〔何國風土記と明記し ,大體原文の儘に引用したと認められるもの〕筑前國〈宗像(むなかた)の郡〉身形(みなかた)の郡
(社記あり。その中に、)
西海道風土記に曰はく、宗像の大神、天降(あまくだ)りまして崎門山(さきとやま)に居給ひし時、
靑蕤(あをに)の玉〔一本に八尺累蕤玉とあり。〕を奥津宮(おきつみや)の表(かたち)に置き、八尺瓊(やさかに)の紫の玉を中津宮(なかつみや)の表(かたち)に置き、八咫(やた)の鏡を邊津宮(へつみや)の表(かたち)に置きて、この三つの表(かたち)を神體(かみ)の形(みかたち)と成して三つの宮に納め、すなはち納隱(かく)り給ひき。
因りて、身形(みなかた)の郡といふ。後の人改めて宗像(むなかた)といひき。其の大海(おほあま)の命の子孫は、今の宗像朝臣等なり云々。
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
六嶽神社(鞍手町室木)について 宗像大社の三女神が最初に降臨した地 であると記し 最初は 六嶽の山上に鎭座し その後 下宮として六嶽の西北の麓に鎮座しているのが当社であるとし
南北朝時代 正平廿三年(1368)の「宗像神社正平廿三年の祭祀次第」には「当社の正月の行事には宗像大宮司奉仕せる由」が記されている という
【抜粋意訳】
〇福岡縣 筑前國 鞍手郡西川村字室木
郷社 六岳(ロクダケ)神社
祭神
田心姫(タゴリヒメノ)命
市杵島姫(イチキシマヒメノ)命
湍津姫(タギツヒメノ)命當社は 舊と前戸(サキト)神社と稱し 宗像神社末社記に載せられたる神社なり、
其名義は筑前風土記に「宗像大神自天降居ニ崎門山云々」とある、崎門の地名によれりといふ、崎門山また六嶽といふ、當社の創建年月詳ならねど、最初は六嶽の山上に鎭座し給ふ、六嶽は宗像大神 最初御降臨の地にして、
宗像神社文安元年の縁記に「三處大菩薩 最初御影向地の事、富貴六嶽仁有御著」とあり、後光巖院應安七年足利義満より當社殿の建立ありしと云ふ、次いで後土御門天皇明應六年、及正親町天皇永録九年造営あり、かくて東山天皇寶永二年に再営せしか、當時黑田長清用材を寄附せり、〔棟書及び社傳等に據る〕
古來より室木村の産土神として土民の崇敬頗る盛にして、明治五年十一月に至り、宗像仲社の末社を離れ郷社に列す、社殿は本殿・中殿、拜殿を備へ、境内三百五十餘坪(官有地第一種)六嶽西北の麓に在り、所謂下宮にて、上宮は石殿 にて山上にあり、正月朔日の神事は、宗像神社正平廿三年の祭祀次第にも載せられ、當時 宗像大宮司奉仕せる由にて、頗る盛大を極めしといふ。
境内神社 須賀神社 天満神社
【原文参照】
『福岡県神社誌』上巻,大日本神祇会福岡県支部〈昭和20年〉に記される伝承
宗像三女神最初降臨の地で 第七代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸した
創建は 成務天皇七年と記しています
【抜粋意訳】
郷社 六嶽神社
鞍手郡西川村大字室木字下方
祭神
田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、高龗神、闇龗神由緒
宗像三女神最初降臨の地にして孝霊天皇の御宇に宗像三所に遷幸ましまし
宗像大神顕れ玉ふ其の后 成務天皇七年室木の里長 長田彦 神勅を蒙て崎門山上に神籬を建つ 是れ御社の始也 延喜七年菊花を以て御社の御紋に定め賜へり 文中三年足利義満 社殿を造営し 宝永三年御社再建の時 黒田長清 材木を寄附せらる 明治五年十一月三日郷社に被定同大字字六嶽 無格社六嶽上宮として由緒 宗像三女神最初御影向の霊地にして 成務天皇七室木里長々田彦神勅を奉て此山上に神籬を営みける 是れ社御社の初め 往古は堂々たる社殿なりしも 享禄年中に炎して 殿舎悉亡せしかば 神躰を下宮に移し 其後社殿の再営なく今僅に石殿一宇を存するのみ
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰は 同大字字若原宮原 無格社八幡神社として 仁治二年斎祀る社にして若宮と称せり 今此の所を若宮原と称するも此の故也と云へり。
祭神 高龗神、闇龗神は同大字字森上 無格社貴船神社として 由緒不詳
同大字字下方 無格社貴船神社として祭祀ありしを 明治四十四年四月二十九日合併許可同一祭神は合併と同時合霊せり。社説に述ぶる所次の如し、宗像三神最初御降臨の霊蹟なり。
(イ)筑前国風土記。宗像大神自天降居崎門山之時以青薤玉置奥津宮表以八尺紫薤玉置中津宮表以八咫鏡置辺津宮表以此三表成神体形納置三表隠之因曰身形郡後人改宗像
(ロ)風土記附録。初めは六嶽の山上に鎮座し給ひしといふ、六嶽は崎門山、朝日峯、羽衣峯、出穂峯、高租峯、天冠峯也崎門山は宗像大神の最初降臨の地なり宗像宮の記に見えたり云々。
(ハ)宗像宮録記。三所宮最初御影向地事「室木六嶽仁有御着則神輿村仁着玉此於此村初天被輝神威故仁神輿村止号之其後三所之霊地仁有御遷座」
(ニ)太宰管内誌。前戸神社。宗像神社末社記に前戸神社とあり前戸は佐支等と訓べし御名義は風土記に宗像大神自天降居崎戸山云々とある崎門の地名によれり(中略)され前戸神社は鞍手郡室木村六ヶ嶽西北の麓に在りて今は六嶽神社といふ三女神を祭る云々。
(ホ)福岡県地理全誌。六嶽神社。村の西南宮山に在り宗像七十五社の一なり祭神宗像三神祭日九月十九日宗像宮末社記には室木若宮又前戸明神とあり初は六嶽の山上にあり社記に孝霊天皇の御宇六嶽より宗像三所に遷幸ましまし宗像大神と現れ玉ふ(下略)
(ヘ)六嶽神社縁記。孝霊天皇の御宇に此六嶽より初て宗像三所に遷幸ましまし宗像大神と顕れ玉ふ所謂沖津宮中津宮辺津宮是也凡此山を六嶽と称し且崎門の名有る事、古来より宗像大神御鎮座ましませば宗像宮縁記に風土記の赴にも附合しぬれば最初影向の霊地なること疑ふべきにあらず。当社縁記に據りて 其の沿革を見るに 成務天皇七年 筑紫国造 田道命の子孫室木里長々田彦 神勅を奉じて六嶽(崎門峯)山上に神籬を樹て三女神を奉祀す(爾来文中三年まで一千二百余年間不明)
文中三年 足利義満建立(此棟書焼失せしに依り次の棟書に転記せらる)明応六年改築
(棟札)宗像郡室貴村第二宮棟書
一、中興後光厳院慶安七年八日征夷大将軍源義満公建立 再興明応六年九月三日棟上宗像大宮司興氏 支配当参殿上衆池浦法眼良興大法師高向兵部卿良舜大法師同供奉人
許斐新左衛門大和四郎左ヱ門占部彌三郎同彌四郎。右造営雖為公方役今者依有別願而池浦法眼以勧進建立之。公方御奉行高向兵部卿良舜社司藤原致貞
享禄年中社殿炎上爾来神体を下宮に遷し上宮再建なし永禄年中宗像氏貞下宮再興之棟書曰。宗像郡室木村第二宮御社殿。長吏大宮司宗像朝臣氏貞建立之。永禄二年九月代官石松加賀守秀兼寛永二年(附記、明細帳には寛永三年とす)改築、領主黒田長清公材木を寄附せらる。
明治二十七年改築。現在の神殿也
古来当社は 貴賤武将等の尊信極めて篤し、今其の事歴の二三を挙ぐれば
元正天皇養老三年 宇佐宮の禰宜、辛島の勝波豆米と云人、故有りて此御社に詣てりけるに室木長田彦の斎彌室木国彦と云者、禰宜辛島に出合ひ、三神此山に御遷幸の故事 其外神威の著しき事共委しく語りしかば、辛島愈々敬信を興し、此宮吾宇佐宮に均しければ日本三所の姫大神の御廟なるべし、然らば今より宜しく第二宮〔とは次の意にあらず中つ宮の心なるべし〕と称し奉るべしと云へり。
是より第二宮室木六嶽神社と唱へ来りしとなり。清氏親王 宗像大宮司職に任じ給ひ、筑前に下り給ひし後、延喜七年菊花を以て御社の御紋に定め給ひしより御殿の棟に菊花を画けり。
仁治二年 宇佐蓮台寺の僧寂可と云者、此御社に来りて室木山の麓に一刹を創立し御社の寺院とす、則宇佐寺と号す。此時又八幡の社を営み作りて 若宮と称し奉る此所を若宮原と云。又西の岡に尼寺を建て尼僧数十人を居らしめき、其寺を伏原寺と号す。
北条時頼。御嵯峨院康元元年十一月北条左近将監時頼(法名道崇最明寺と号す)落飾し、諸国を巡回して此国に到りける時此御社に詣て和歌を詠じ奉献し給ひ永く御社に伝はりしが享禄の頃上宮炎上の時焼失しけり。
足利氏数代尊氏、義満、義持、義量の如きは特に崇拝措かず 或は社殿を造営し 或は下行料を献じたりと。
又一般民衆の尊信篤く 殊に安産の守護神として地方民の信仰深し。(縁記に)「成務天皇の御宇 此御社造立の時 山の麓に大なる櫲樟有り 両枝南北に差し覆ひ四方に伸て欝々として林の如し 其許に芙蓉繁茂して数十歩の間に蔓れり 花の時は艶美の色甚しく人の目を喜ばしむ 櫲樟芙蓉二つに分れて互に栄行末を争へるが如し 時の人 此木を名付けて諸木(モロキ)といふ。よつて地の名とす、今は室の字を用て室木といふ。
是によりて婦人女子戯れに縁結びとて紙を結び付けて夫婦の縁を求む 果して其しるし掌を指すが如し、又芙蓉の枝を折て産屋の軒にさしはさみて生産安泰を祈るに其しるしあらずと云事なし 故に此芙蓉を泰産木と称しけると也。特殊祭事 安産祭。(四月八日)
往古芙蓉の枝の故事に拠り古くより此祭行はる、今は境内に繁茂せる神木「力柴」の枝を請ひて安産を祈る例祭日 十一月十六日
神饌幣帛料供進指定 大正九年十一月二十五日主なる 建造物 神殿、中殿、拝殿、神饌所、社務所、倉庫、参籠殿
境 内 坪 数 三千一百十九坪
氏子区域及戸数 大字室木 百二十戸境内神社
須賀神社(素盞嗚命)
天満神社(菅原神)
【原文参照】