三谷神社(みたにじんじゃ)は 約500年前に紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)から勧請し 上来原の大神谷の山上に祀られました 元禄5年(約300年前)池ノ内の干拓があり それまで同地 杓子山にあった式内社〈阿須利神社の古社地〉を三谷山上に遷した機会に いっしょに三谷の地に奉遷し合祀したので 式内 三谷大明神と呼ばれました 明治5年(1872)阿須利神社は独立し分離 その後 昭和37年に現在地に遷座して今日に至っています
目次
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記733 AD.』
➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳927 AD.』
➂最後に『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社(現在の神社)となっています
①【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
明治5年(1872)独立以前は 阿須利社を合祀 もしくは境内社として祀る
國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 神門郡(kando no kori)
神祇官社(jingikan no yashiro )
【社名】阿須理社
【読み】(あすり)のやしろ
【How to read】(asuri no) yashiro
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➁【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
明治5年(1872)独立以前は 阿須利社を合祀 もしくは境内社として祀る
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 神門郡(kando no kori)
【社名】阿湏利神社
【読み】あすりの かみのやしろ
【How to read】Asuri no kami no yashiro
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➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
三谷神社(Mitani shrine)〈阿須利神社の古社地〉
【通称名】(Common name)
【鎮座地】(location)
島根県出雲市大津町字西谷
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《主》健磐龍命(たけいわたつのみこと)
【御神格】(God’s great power)
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』所載社 の旧鎮座地
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社 の旧鎮座地
【創建】(Beginning of history)
由緒
当神社は戦国時代の初め(約500年前)、紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)からお迎えして、上来原の大神谷(俗称おおかめだん)の山上にまつり、
元禄5年(約300年前)、池の内の干拓に伴い、それまで同地の杓子山にあった阿須利神社を三谷山上に遷した機会に、いっしょに三谷の地に奉遷し、社号も三谷神社と改めましたが、
明治3年、版籍奉還に伴う神社整理によって相殿の阿須利神社を山廻りの方へ遷すことになったため、それ以後はこの来原地区における唯一の守護神としてまつりきたったものを、昭和37年未曾有の水害により、現在地に三遷して今日に至ったものであります。御祭神 健磐龍命は神武天皇の御皇孫で、殖産興業の守護神であり、いかなる困苦にもうち勝つ、強い御魂を備えたまう大神であります。
例祭に奉納される獅子舞は、出雲古来の投げ獅子の型を伝えるもので、出雲市無形文化財、島根県無形民俗文化財に指定されています。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由緒】(history)
阿須理社(あすり)のやしろ
風土記鈔に「来原村 権現 而在に阿世理池側」とある。今は大津の街にある八幡宮の境内の龍王権現に、阿須理社の名をもって居る。
今の大津村来原(くりはら)に於いて、斐伊川の水を鹽治村へ導く堀の通って居る所に、池ノ内(いけのうち)といふ所があるが、これが阿世理池(あせりのいけ)の跡である。
その池ノ内の西部に杓子山といふ小丘がある。その所にもともと阿須理社があった。
元禄十三年に、この阿須理社を大神谷のもとの三谷神社の境内に移した。阿須理社は事代主命を祀り、三谷神社は建磐龍命(即 阿曾津彦命)を祀る。これとは別に、大津の町に龍王権現といふ社があって、その祭禮は随分賑やかなものであったが、明治より少し前に、この社を兼ね司っていた大津の八幡宮の神職が、社格を高めようといふ考から、この地の総社である所の、鹽治八幡宮の神官 秦氏から「阿利社」といふ名を貰ひ、謝礼に酒二升を贈った。然るに、明治の初め、神社取調係が、阿利社は阿利原にあるべきものである、大津に於いてならば、寧ろ「アリ」の音の間に「ス」を入れ、阿須理とした方がよかろうといった。
そんな相談はたやすく纏まったが、さて その名を公にするに至って、三谷神社の神官より呼称を申立て、終に裁判沙汰となった。
ところが、それまで三谷神社の神官は杵築に居て、阿須理社等の社務を八幡宮の神官に取扱はせて居たから、証拠に関することは八幡宮の神官に有利となり、その方が勝公事(かちくじ)となって、明治五年に、県庁より、阿須理社を八幡宮と共に、龍王社に合祀せよといふ指令があった。その以前には阿須理社は八幡宮と一所ではなかった。『出雲国風土記考証〈大正15年(1926)〉』より
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
現在の阿須利神社(出雲市大津町)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)について
三谷神社の鎮座する杓子山といふ小丘は 四隅突出型墳丘の9号墳と呼ばれています
西谷墳墓群は 弥生時代終わり頃から古墳時代にかけての大墳墓群です 墳丘墓の数は 27基 にも及び その他土羨墓・石棺墓 5基 も確認されています
中でも弥生時代の墳丘墓は全国的にも希有な巨大さを誇るもので 被葬者達の権力の大きさを知ることができます
詳しくはこちらから
『西谷墳墓群』1999年7月 出雲市教育委員会より
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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
出雲市大津町にある「西谷墳墓群史跡公園 出雲弥生の森」から北東へ約200m程度にある「9号墳」の上に鎮座します
三谷神社〈阿須利神社の古社地〉(出雲市大津町字西谷)に参着
一礼をして鳥居をくぐります 扁額には「三谷神社」と刻字
石段を上ると 途中に二の鳥居があり その上が境内です
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
それぞれの文献では 次のように伝承しています
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
三谷神社〈阿須利神社の古社地〉の社伝にある「旧記に 夜牟夜淵あり この所なり 出雲の振根 弟の飯伊利根を殺せし時 血流れて池中に入る 故に阿世利池といふ 延喜式に血をもって汗と称す 即ち血入池と書くべき」について 記しています
この出雲振根(イズモノフルネ)の誅殺事件から 勅によって 出雲で鏡〈天照大御神〉が祀られたとも記されています
【意訳】
神宝〈第10代 崇神天皇の御代〉
六十年秋七月十四日
群臣(くんしん)に詔みことのりして
「武日照命(タケヒナテルノミコト)
〈ある書には 武夷鳥(タケヒナトリ)又 天夷鳥(アメヒナトリ)と云う〉
が 天より持ってこられた神宝(カムタカラ)を 出雲大神(いずものおおかみ)の宮〈出雲大社〉の蔵に収められている これを見たい」矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の遠祖の武諸隅(タケモノロスミ)
〈ある書には 別名を大母隅(オオモロズミ)なり〉を遣わして奉らせたこのとき 出雲臣(イズモノオミ)の遠祖 出雲振根(イズモノフルネ)は 神宝(カムタカラ)を管理していた
しかし 筑紫国(ツクシノクニ)に行っていたので会いあえなかった
その弟の飯入根(イイイリネ)が 皇命を承り 神宝を弟の甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)と子の鸕濡渟(ウカツクネ)に託し 献上し奉った
それから 出雲振根(イズモノフルネ)が 筑紫から帰って来て 神宝を朝廷に献上したと聞いて その弟の飯入根(イイイリネ)を責めて言い「数日(しばし)待つべきであった 何を恐れたか たやすく神宝を渡してしまったか」
それから年月を経たが なお恨みと怒りは懐にあり 弟を殺そうと思った
それで弟を欺き
「この頃 止屋(やむや)の淵に 菨〈水草〉が生い茂っている 一緒に行って見て欲しい」と言った
弟は兄について行った
是より先に 兄は密かに木刀を造っていました 形は真剣にそっくりです その木刀を自分が帯刀し 弟は真剣を帯刀しました
淵のそばに行って兄が弟に言った 「淵の水が 清冷(イサギヨシ)〈きれいだ〉一緒に游沐(カアミ)〈水浴び〉しよう」
弟は兄の言葉に従い それぞれが差していた刀を抜いて 淵の端に置き 水の中で沐(カハアム)〈清め〉しました
兄は 先に陸にあがり 弟の真剣を取って 帯刀しました
後に弟は 驚いて兄の木刀を取った
互いに斬り合うことになったが しかし 弟は木刀で抜くことが出来ず 兄は弟の飯入根(イイイリネ)を撃ち殺しました
時の人は 歌に詠んで言った
八雲立つ 出雲梟帥(イズモタケル)が 佩(ハ)ける太刀(タチ)
黒葛(ツヅラ)多(サホ)巻き さ身無しに あはれ出雲梟帥(イズモタケル)が 佩はいていた太刀は 葛を沢山巻いてはいたが 中身がなくて あわれであった
ここに 甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)・鸕濡渟(ウカヅクネ)は 朝廷に参上して 詳しくその様子を報告しました
そこで 吉備津彦(キビツヒコ)と武淳河別(タケヌナカワワケ)とを遣わして 出雲振根(イズモノフルネ)を殺しました
出雲臣(イズモノオミ)らは このことを恐れるあまり しばらく出雲大神(いずものおおかみ)を祭らないでいました
丹波(タニワ)の氷上(ヒカミ)に 氷香戸邊(ヒカトベ)という人がいました
氷香戸邊(ヒカトベ)は 皇太子の活目尊(イクメノミコト)〈後の垂仁天皇〉に申し上げて
「わたしには小さな子があります 自然と(何も教えないのに)こう言いました
『玉菨鎭石(タマモノズシシ)』
出雲人の祭る 真種(マタネ)の甘美鏡(ウマシカガミ)
押し羽振(ハフ)る 甘美御神(ウマシカミ)
底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)
山河(ヤマカワ)の水泳(ミククル)御魂(オンタマ)
静かかる甘美御神(ウマシミカミ)
底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)
菨は毛(モ)と読みます《出雲の人が祭る 立派な大事な鏡が すばらしい神が 水の底に眠っています
神霊が山河の水に沈んでいます 静かに掛けて祭らなくてはいけない立派な鏡が 玉藻の中に静かに眠っています 水の底に沈んでいます》これは小児(ワクゴ)の言葉ではありません
もしくは(神が)託(ツ)いて言っているのでしょう」
そこで皇太子は 天皇に報告しました
天皇は詔して 鏡を祭らせることにしました
【原文参照】
『雲陽志(unyo shi)1835AD.』神門郡 石塚 にある伝承
旧社地の 三谷神社と阿世理池(あせりのいけ)について記しています
『雲陽志(unyo shi)』では
石塚「三谷権現」と記され
「この所を久留原といふ 毎年九月中の卯の日 宮中旗を立て 弓箭をかざり 神事をつとむ 本社の左より潤水流出し神門出雲両郡の大河へ入る」
「阿世利池」と記し
「里民相伝 昔 八岐大蛇この池に入りてあせり祟りといふ これをもって池の名とせり 土俗伝倒するをあせるといふ
旧記に 夜牟夜淵あり この所なり 出雲の振根 弟の飯伊利根を殺せし時 血流れて池中に入る 故に阿世利池といふ 延喜式に血をもって汗と称す 即ち血入池と書くべき」 と記しています
【原文参照】
『出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)1906AD.』 にある伝承
旧社地の 三谷神社と阿世理池(あせりのいけ)について記しています
【意訳】
阿須利神社
風土記に同じ 塩治郷内 石塚村久留原といふ所に社あり 三社権現といふ祭神社家の説なり 大穴持命 建岩滝命 奥津日子神を祭るといふ
この社の近辺に 阿世利ノ池あり 今 土俗 澤利池(さはりがいけ)といふ
里俗伝えに云う
八岐大蛇 池にいりてあせりたまうといふ これ以って 池の名とせりといいでるが誤りなり
書紀に止屋淵といへる 即ち この池なり
出雲振根 弟の飯入根を殺せし時 血流れて池に入りし故 阿世利といふ汗入(あせいり)の号なり 忌詞を血と汗といいへし
今 池の形少し残り 今 人止屋淵は餘(ほか)にありといふは偽説なり この血入池より三社権現 近くあり 按に 飯入根耳美韓日狡要停を祭れたるにより歟 阿須利阿世音通へり 祭日 九月中卯日・・
【原文参照】
『出雲国風土記考証(Izumonokuni fudoki koshiyo)〈大正15年(1926)〉』に記される伝承
江戸期末から明治初頭の神社の歴史が 俗人的に記されています
【意訳】
阿須理社(あすり)のやしろ
風土記鈔に「来原村 権現 而在に阿世理池側」とある。今は大津の街にある八幡宮の境内の龍王権現に、阿須理社の名をもって居る。
今の大津村来原(くりはら)に於いて、斐伊川の水を鹽治村へ導く堀の通って居る所に、池ノ内(いけのうち)といふ所があるが、これが阿世理池(あせりのいけ)の跡である。
その池ノ内の西部に杓子山といふ小丘がある。その所にもともと阿須理社があった。
元禄十三年に、この阿須理社を大神谷のもとの三谷神社の境内に移した。阿須理社は事代主命を祀り、三谷神社は建磐龍命(即 阿曾津彦命)を祀る。これとは別に、大津の町に龍王権現といふ社があって、その祭禮は随分賑やかなものであったが、明治より少し前に、この社を兼ね司っていた大津の八幡宮の神職が、社格を高めようといふ考から、この地の総社である所の、鹽治八幡宮の神官 秦氏から「阿利社」といふ名を貰ひ、謝礼に酒二升を贈った。然るに、明治の初め、神社取調係が、阿利社は阿利原にあるべきものである、大津に於いてならば、寧ろ「アリ」の音の間に「ス」を入れ、阿須理とした方がよかろうといった。
そんな相談はたやすく纏まったが、さて その名を公にするに至って、三谷神社の神官より呼称を申立て、終に裁判沙汰となった。
ところが、それまで三谷神社の神官は杵築に居て、阿須理社等の社務を八幡宮の神官に取扱はせて居たから、証拠に関することは八幡宮の神官に有利となり、その方が勝公事(かちくじ)となって、明治五年に、県庁より、阿須理社を八幡宮と共に、龍王社に合祀せよといふ指令があった。その以前には阿須理社は八幡宮と一所ではなかった。
【原文参照】
三谷神社〈阿須利神社の古社地〉(出雲市大津町字西谷)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)