三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉)〈延喜式内社〉

三坂神社(みさかじんじゃ)は 元々ここから西南約350m程の地に鎮座しましたが 浸水の為 長享元年(1487)現在地に遷座 天保元年(1830)炎上 嘉永3年(1850)再築と伝わります 古老の口碑傳説などによれば 天之御中主尊 三坂神社として大柿 (豊地)に鎮座まします 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)とされます

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三坂神社(Misaka shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県三木市細川町豊地(とよち)589

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)

《配》中筒男命(なかつつのをのみこと)
   大山咋命(おほやまくひのみこと)
   市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
   斎主命(いはいぬしのみこと)
   日本武尊(やまとたけるのみこと)
   大己貴命(おほなむちのみこと)


東社殿〈天御中主尊、中筒男命、大山咋尊、斎主命、市杵嶋姫命、日本武尊〉
西社殿〈天御中主尊、中筒男命、大貴巳命〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由 緒

 創立年月不詳。

 長保5年(1003)、悪疫流行の時、冷泉家より再建。
 長享元年(1487)、簀子橋西南の地に浸水ありて、今の地に遷座。
 明和2年(1765)、社殿を改築。
 天保元年(1830)、炎上。嘉永3年(1850)、再築。
 明治7年(1874)、村社に列せられる。
 大正5年(1916)、幣殿、拝殿を改築。

2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6310058.html

【由  (History)】

三坂神社由緒

 當 三坂神社は昔 播磨國三木郡細川之庄大柿簀子橋(現在の豊地橋)西南(現在の細川町公民館付近)に御鎮座ありし由にて、今に宇宮西とて雑木林存在せり。然るに此の地は川端にて、且つ地所低きため出水の際は浸水すること時々なれば神威を慮り長享元年 (一四八七年)現今の位置に御遷座し奉る。

 當社は創建最も古く寶物其の他書類数多くありしかども 天保元年 (ー八三〇年 )寅十一月十五日 火災に罹りて悉皆焼矢せり。播磨鑑、播磨風土記等の記事及び古老の口碑傳説などによれば天之御中主尊 三坂神社として大柿 (豊地)に鎮座まします。 (播磨風上記に三坂に鎮座ありと記す)

 尚細川之庄と称せしは其の創始詳かならざれども 源実朝公 藤原朝臣定家卿を和歌の師範とせられ其の爲に播磨國細川之庄を和歌詠領として給はりしことあり。

 藤原朝臣定家卿  奉額和歌寫

はるごとに  色そふ松を  みやしろの
 神も嬉しと  おぼしめすらん

美嚢郡誌』より

現地案内板より

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由緒

創立年月不詳にして傳へいふ 長保5年悪疫流行の時 冷泉家より再建し 長享元年 簀子橋西南の地 浸水の憂あるにより今の地に遷座せらる 明和2年社殿を改築し 天保元年炎上せしかば 嘉永3年再築す 明治7年2月村社に列し 大正5年幣殿、拝殿を改築せり。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

三坂神社 本殿〈東本殿・西本殿〉

写真は 西本殿側から

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三坂神社 拝殿〈拝所は東西2ヶ所

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・拝殿〈向って右 東本殿拝所〉・狛犬

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・拝殿〈向かって左 西本殿拝所〉・狛犬

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・舞殿

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舞殿の中の神輿

〈天保元年(1830)流行病が蔓延した これを神慮に背いた為として 神輿を舞殿に奉納したと云う〉

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・境内社

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・屋台蔵〈拝殿の向かって左手前〉

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・隋神門

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・忠魂碑・お堂〈三坂神社の東側の隣接地

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・旧鎮座地〈長享元年(1487)簀子橋西南の地 浸水の憂あるにより今の地に遷座せらる

社伝には(現在の細川町公民館付近)に御鎮座ありし由 とあります

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)美嚢郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 御坂神社(貞)
[ふ り が な ]みさかの かみのやしろ
[Old Shrine name]Misaka no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)について

『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛志深里(しじみのさと)三坂社の神゛の伝承

志深里に 三坂社の神が坐(まし)ます と記されています

【抜粋意訳】

志深里(しじみのさと)

三坂社の神が (まし)ます
大物主葦原志許(おほものぬしあしはらしこを)が 国固めをなされた 三坂岑(みさかのみね)天下りなされた 八戸挂須御諸命(やとかけすみもろのみことです

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

播磨国風土記美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)の許曽社(こそのやしろ)が記され 続いて・志深里(しじみのさと)の三坂社の神についても記されています これは 御坂神社(三木市志染町御坂)が該当します

しかし 三木市には「みさか神社」(御坂 三坂 美坂 御酒)と呼ぶ社が 市内に8ヵ所あります 何れも 式内論社の可能性があり 比定しきれていません

延喜式 御坂神社の論社の位置関係について

延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社について

・御坂神社(三木市志染町御坂)

・美坂社(三木市別所町東這田)

・三坂神社(三木市加佐)

・三坂神社(三木市細川町豊地)

・御酒神社(三木市細川町垂穂)

・御酒神社(三木市別所町石野)

・御坂社〈境内社 八幡社〉(三木市志染町安福田)

・篠原神社(三木市口吉川町殿畑)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

神戸電鉄栗生線 三木駅から県道20号経由で北東方向へ約6.0km 車で10分程度

三木市立豊地小学校の北側です 星陽中学校跡の西面 大柿公民館の裏手の道を入るとすぐです

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大柿公民館の裏手に駐車場があり 拝借して参拝を始めます
神社の周囲は 瓦屋根のある漆喰の白壁で囲まれています

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三坂神社(三木市細川町豊地)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 隋神門をくぐり抜けます

境内には ちょうど舞殿の脇を抜けて拝殿のまで石畳みが敷かれています

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石畳みなりに 拝殿にすすみます
拝殿には 入口の階段が二ヶ所あり 拝所も二ヶ所設けられています

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拝所が 二ヶ所なのは 本殿が2社〈東本殿・西本殿〉ある為です

双方の拝所で

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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西側から 拝殿の裏手に回り込みます

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一礼をして 境内に戻ります

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社殿・境内は南向きです 舞殿は北を向いて 社殿に正対しています
舞殿の奥に見えるのは 神庫です

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一礼をして 境内を出ます

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 御坂神社について 所在は゛志深庄大梯村に在す、今 今三坂明神と稱す、〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉と記され

゛播磨國風土記云 ,志深里、坐に三坂一神、八戸桂須御諸命、大物主葦原志許國堅以後、自天下に三坂峯゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)

゛伽監開基記卷六云 其後志深庄之民於に上村之中立祠奉之゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)

゛古跡便覧、播磨鑑、共に
中石野村
〈現 御酒神社(三木市別所町石野)〉
這田村〈現 美坂社(三木市別所町東這田)〉
大梯村〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉、三所にあり゛とも

゛式社記に、本社志深上村〈 御坂神社(三木市志染町御坂)にあり、
但し 中石野〈現 御酒神社(三木市別所町石野)〉、這田〈現 美坂社(三木市別所町東這田)〉、大梯〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉、三ヶ所に別宮あり゛とも諸説を挙げています

【抜粋意訳】

御坂神社

御坂は 美佐加と訓べし

〇祭神 八坂須御諸命、大物主葦原志許神、〔風土記〕

〇志深庄大梯村に在す、〔古跡便覧、播磨鑑、〕今 今三坂明神と稱す、〔便覧〕

〇播磨國風土記云 ,志深里、坐に三坂一神、八戸桂須御諸命、大物主葦原志許國堅以後、自天下に三坂峯、』

伽監開基記卷六云、播磨國美嚢郡有山號に大谷云々、道乃問曰、翁何人耶、曰吾等當山三坂三社大明神也、云々、其後志深庄之民於に上村之中立祠奉之、以為に土神、

古跡便覧、播磨鑑、共に中石野村、這田村、大梯村、三所にあり、いづれを本社といふ事をしらずと云り、〔今按、大梯村なるを本社とす、さるは志深庄十ヶ村の氏宮とあれば也〕

式社記に、本社志深上村にあり、但し 中石野、這田、大梯、三ヶ所に別宮あり、皆一神也と云り、是も伽藍開基記に據れば、其理りなきにしもあらず、猶考ふべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 御坂神社について 所在は゛ 志染庄中村にあり、後 之を上村に遷祭る、三坂大明神といふ、即 庄内十村の産土神也、゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)〉と記しています

【抜粋意訳】

御坂(ミサカノ)神社

 志染庄中村にあり、後 之を上村に遷祭る、三坂大明神といふ、即 庄内十村の産土神也、〔飾磨縣神社調、神社明細帳、〕

八戸挂須御諸(ヤトカケスミモロノ)命を祀る、

盖 葦原志許乎命の一名也、此の神 國堅坐し後、志染里 三坂岑に天降り坐き、〔播磨風土記〕

凡 其祭 正月初亥日、四月朔日 之を行ふ、〔飾磨縣神社調、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 御坂神社について 所在は゛志染上村(明細帳に御坂村とあり)(美嚢郡志深村大字御坂゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)〉と記しています

【抜粋意訳】

御坂神社

祭神 八戸挂須御諸命 稱 三坂大明神

 今按 播磨風土記美嚢郡 志深里坐 於三垣〔坂の誤字なるべし〕
八戸挂須御諸命 大物主葦原志許 國堅以後自天下於三坂岑とある

御諸命は 大物主命の鎭ます三諸山によりて稱へ奉れる一名なる事 大物主葦原志許とあるにて明けし 今 三坂明神と云も三坂岑に天下り玉へる由あり

祭日 正月初亥日四朔日
社格 郷社

所在 志染上村(明細帳に御坂村とあり)(美嚢郡志深村大字御坂

 今按 神社覈録に本社のことを志深庄大柳村 今 三坂明神と稱す
伽藍開基記に播磨國美嚢郡有山號大谷云々 道乃間日翁何人耶日吾等當山三坂三社大明神也云々 其後 志深庄之民於上村之中立祠参之以爲土神とみえ
飾磨縣注進狀に往古 庄内志染中村に鎭座の處 天正中燒失ふ後 當村遷座とあるを風土記志深里と云ふに合せ考へて所在の確證とすへし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

御坂神社(三木市志染町御坂)ついて 記しています

式内社 御坂神社について 所在は諸説あり
這田村〈現 美坂社(三木市別所町東這田)〉
 中石野村〈現 御酒神社(三木市別所町石野)〉
 志染大柿村〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉
、三所有之、何れを本社 何れを摂社とも不知゛と他の説も紹介しています

【抜粋意訳】

〇兵庫縣 播磨國 美嚢志染(シジミ)村大字御阪 (奮上村)

郷社 御坂神社

祭神
 八戸御諸(ヤトカツラノミモロノ)
 大物主(オホモノヌシノ)命
 葦原志許男(アシハラシコヲノ)命

 播磨風土記に「志染里鎭座 八戸桂須御諸命、大物主大神、葦原志許男大神」と見え、崇峻天皇元年戊申九月九日の勧請にして〔〇明細帳〕延喜の制小社に列せらる、

 古來 本社は當庄内志染中村に鎭座あらせられしが、天正年間 豊臣秀吉 中國征伐の途次、三木城主 別所長治を攻めし際、社殿兵燹に罹り焼失す、依って現今の地に拳遷すと云ふ、御神禮は神鏡に坐ます由、古來 志染里十ヶ村の氏神にして三阪明神と稱せり、
 故に播磨鑑に、「三坂大明神、志染庄大柿村、境内、一丁四方、社僧吉祥院、祭禮四月朔日、龍馬翁等執行、神子一人在に上村、云々、」延喜式に御坂とあり、這田村中石野村、志染大柿村、三所有之、何れを本社 何れを摂社とも不知、然れども大柿村の社を本社とせんか、祭神 右の九神 (東社・天御中主尊、中筒男命、齊主命、大山祇命、市杵島姫命、日本武尊、 西社、大己貴命、御中主神、中筒男命なり、正一位三坂九社大明神と云ふ、三木郡の内にてーノ宮と稱す、志染庄十ヶ村の氏宮也」と見ゆ、

明治七年二月郷社に列す、社殿は本殿、拜殿、舞臺、能樂屋を備へ、境内地は千二百四十四坪 (官有地第一種あり、境地松柏多く、樟の大木あり、後に山を負ひ、社前は縣道に接せり。

境内神社
 神明神社 熊野神社 武大神社 厳島神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

三坂神社(三木市細川町豊地) (hai)」(90度のお辞儀)

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播磨国 50座(大7座・小43座)の式内社に戻る

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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