御坂神社(三木市志染町御坂)〈播磨国風土記 三坂社の神・延喜式内社 御坂神社〉

御坂社(みさかしゃ)は 『播磨国風土記』「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 履中天皇が許曽社で勅した故に美囊(みなぎ)となり 阿波国の和那散で食した信深貝(しじみがい)を見た故に 志深(しじみ)里となり 志深里には 三坂社の神が坐(ましま)す と記される 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の有力な論社です

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

御坂社Misaka sha

通称名(Common name)

御坂神社(みさかじんじゃ

【鎮座地 (Location) 

兵庫県三木市志染町御坂243

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》八戸掛須御諸神(やとかけす みもろのかみ

《配》大物主神(おほものぬしのかみ)
   葦原志許男神(あしはらしこをのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

御神徳(御神名はその神の神威を神徳発揚をす)

 大物主神は 大国主命の別名である。その神名の示す通り、物の豊かさを身に体し給う神であり、この御神徳も物の豊かさに発揚する。なんといっても大物主神は別名〔大黒さま〕である。頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を負い、右手には打ちでの小槌を持って米俵を踏まえている福徳円満な神様として知られている。

 葦原志許男命も大国主命の別名である。アシハラは豊葦原瑞穂国 (トヨアシハラミズホノクニ )の葦原で «日本の国 »の意。シコは頑健頑丈な、たくましいく志気旺盛さを表す古語である。

 葦原志許男には多くの異母兄弟があり、その異母兄弟は、皆こころよからぬ神で、ことごとにこの神に抗した。度重なる迫害を受けながらも、その迫害を克服し、スサノオの命より「お前こそ、国を主宰する大国の主なり。現世界に恩恵を与える宇津志国塊(ウツシクニタマ)の神となれ。」と、娘の須勢里比売 (スセリヒメ) を賜り、遂に出雲の国の大守となり国土経営を成し遂げたと、古事記•日本書紀には、その伝記を詳細に記述している。葦原志許男の神名の由以、またここにある。

 八戸掛須御諸神の御諸 (みもろ)は 御室 (みむろ)であり、八戸掛須とは八方堅固な戸を掛ける意で、四方八方を堅固にかためた御室に鎮まります神の神名であって、この神も大国主命の別名であるとしている。

 国づくりなし、治め給うたこの葦原の瑞穂の国を平和裏に天照大神に譲り給い、身は出雲の大社にあり給う分霊を勧請して斎 (いつき)祀るのが、この御坂神社である。

神社配布由緒書き より

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

御由緒

 当神社は、播磨風土記によると、人皇三十三代宗峻天皇 (587〜 592)御宇元年 (587)戊甲九月九日の創建で、許曽社にして延喜式神名張に「美嚢郡 (ミナギノゴオリ) 一座 御坂神社」とある。その延喜式内神社が当社とされている。
延喜式内神社とは、延喜五年 (九〇五 )から延長五年 (九二七)に編せんされた延喜式という神名帳に登録された神社を云うのであって、三木市では唯一、一座、当神社が登録されている。当神社については、同風土記に「志染の里、三坂にます神、八戸掛須御諸神は、大物主神・葦原志許男の国堅め給いし以後に、天より三坂峰 (ミサカノミネ)に下り給いき」とある。

 当社はもと旧 志染庄中村 (現 志染町志染中)に社があったが、天正年間 (一五七三〜一五九二 )、羽柴秀吉が中国征伐の途次、三木の別所長治の居城 釜山攻めを行い、その際兵火にかかり焼失し、古記録一切が烏有に帰し、今はその記録も見る事も出来ない。いったんは細目に遷座した後、慶長ーー年 (一六〇六 )卯月三日に現在の地に移された。

 明治六年、郷社に列せられ、大正三年四月、神饌幣帛供進指定神社に遇せられて祈年祭、例祭、新嘗祭には郡長、又は村長が幣帛供進使に当って随員を伴い、衣冠の装束を着して幣帛 (へいはく・・神様への供物)を供進したが終戦となり、その制も無くなり、現在は宗教法人による護持運営の神社となった。

 その昔、十七代履中(リチュウ)天皇が 当神社にご参拝になり「この川の流れは大変美しい」と云われた事から この地域を美嚢郡と言うようになり、また、その時 御召し上がりになった御食膳の上に «シジミ貝»が這い上がったということから、この地を «しじみ»と云うようになったと伝えられている。履中天皇の御在位は皇紀ー〇六〇  ー〇六五、現在より逆算すれば 1600年前に鎮座なしたる当神社は、今志染の里の氏神様として、また拓け行く、緑ケ丘、自由が丘、青山の産土神 (うぶすながみ•その町の神樣)として、また鎮守さま (その土地とそこに住む人の守り神)として神鎮まりますのである。

神社配布由緒書き より

【由  (History)】

御阪社

祭神
 八戸掛須御諸神
    
 葦原志許男神

由来

 本社は鎮座の年代未だ詳かでないが 延喜式の神名帳に播磨國五十座大七座 小四十三座のうち美嚢郡一座 御阪社と登載されている神社といわれ 播磨風土記の地名地辞書にも延喜式内神社と銘記せられている
式内神社とは醍醐天皇の延喜五年(西暦九〇五年)に政治を司るためにつくられた細かい規則をあつめた延喜式(昭和五十五年より一七三五年前)に登載されている神社をいう

 もと志染の志染中という里に鎮座せられていたが 天正年間 羽柴秀吉の中国征伐の 三木釜山城攻めに兵火にかかり 社殿古記録など全部 烏有に帰したので細目の里に奉遷 慶長四年卯月三日 更に志染川の上流 淡河川山田川の落ち合いの清浄な今の地に勧請奉りしといふ由緒も伝えられている
また第十七代履中天皇が当社に御参拝ありしことも播磨風土記に記録している

明治六年 郷社に列せられ 大正三年 神饌幣帛供進社に指定され 志染町の氏神として深く本社を崇敬する

昭和五十五年十一月吉日
 四合谷 小柴弘也  御坂市 原勲 建立

現地石碑文より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

御坂神社 境内図

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御坂神社 本殿〈本殿向かって右脇に境内社 熊野社 神明社

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御坂神社 社殿

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御坂神社 拝殿

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・〈拝殿向かって左境内社 武大社・御神木

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・能舞台〈社殿の正面〉

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・社務所

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・お弓祭 の的

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・〈参道の右脇〉手水舎 その奥に・境内社 厳島社

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・参道

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・鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)美嚢郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 御坂神社(貞)
[ふ り が な ]みさかの かみのやしろ
[Old Shrine name]Misaka no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

出雲国風土記和銅6年(713)の伝承にある「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみことの伝承について

出雲風土記大原郡  船岡山(funaoka yama) 記される伝承

『出雲国風土記』の伝承に「阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が山になったので「船岡」という」とあります

【抜粋意訳】

『 船岡山(funaoka yama)

郡家の東北16里の所にあります

阿波枳閉委奈佐比古命(awa kihe wanasa hiko no mikoto)が 曳いてこられて据えられた船が この山です だから 船岡といいます 』

原文参照

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲國風土記』https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『出雲国風土記』大原郡不在神祇官社船林社 (ふなはやし) (funahayashi no) yashiroの論社

・船林神社

・貴船神社

船林社の祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみことについて

この「阿波(awa)」「和奈佐(wanasa)」の文字などから

『延喜式神名帳』の阿波国(awa no kuni)那賀郡に所載の社「和奈佐意富神社(wanasa ohoso no kamino yashiro)」があり この社との関連性が云われています

阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の音をたどれば 阿波(あわ)来(き)辺(へ)委奈佐比古命 となります

阿波の辺〈海辺〉から来た委奈佐比古命 の意味でしょうか

延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の4つの論社

①和奈佐意富曽神社 徳島県海部郡海陽町大里松原32

《主》神功皇后(じんぐうこうこう)

諸説あります
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命

➁大里八幡神社 徳島県海部郡海陽町大里松原1

《主》天照皇大神・誉田別命・天児屋根命

➂蛭子神社 徳島県那賀郡那賀町和食町

《主》蛭子大神・天照皇大神・素盞嗚神

④羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曾神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32

《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命

この4社の中で

④羽浦神社に合祀された(徳島県阿南市羽ノ浦町)和奈佐意富曾神社が 同一名の御祭神「和奈佐毘古命(wanasa hiko no mikoto)」を祀っています

同一名と云うのは 江戸期の『雲陽志(unyo shi)』よれば
船林神社(funabayashi jinja)の御祭神を「委奈佐比古命(wanasa hiko no mikoto)」としています

こうした際の留意点として 御祭神についての考証も より古い伝承から順にたどり観ていくようにすると見方も変わります

延喜式の成立は 927AD.であり 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は733 AD.です
より古い出雲 風土記の伝承から追ってみます

古代出雲に「粟の耕作」の神が坐ます

これを奉じる里人の移住とともに この神が 出雲から 丹後へ 由良川を上り 加古川を下り そこから志染へ そして播磨から阿波へ 移られていくことは想像に難くありません

阿波の西海岸沿いには この神の他にも 出雲族の神々が 多く祀られています

出雲の人々が そこから紀伊半島 そして尾張へと さらに太平洋岸を東に移動して行ったのだとすると様々な事象と符合していくでしょう

但し 阿波の人々は 阿波が日本の発祥の地としていますので これとは逆説になります

出雲から阿波に至る道筋には 阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)に関する 伝承が 風土記に記されています

丹後國風土記 逸文奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承

「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています

【抜粋意訳】

丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社

丹後国風土記に云う

丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る

此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る

此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた

密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た

ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだ

ここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う

この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った

天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った

「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」

遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う

また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です

【原文参照】

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

 

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

天女が酒を造ったという伝承が残る 多久神社について

詳しくは別記事を参照ください

延喜式内社 丹後國 丹波郡 多久神社(たくの かみのやしろ)

・多久神社(京丹後市峰山町丹波)

延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社について

奈具社は現在 船木奈具に鎮座します その旧鎮座地は奈具村で 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって全村流失した〈遺跡地は未詳と伝えられ 奈具社祭神は 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)に移され 谷神社相殿 船木奈具神社が遷座されました
船木村が 天保三年 (1832)式内号 霊石〈靈爾〉の返還を求め 明治六年 (1873)返還命令が出され 奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)は 霊石を奉り現在地に再建されたものです

船木奈具神社の御神体は 現在も谷神社相殿に鎮座しています

・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)

・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉

延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社

・奈具神社(宮津市由良)

・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)

『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛阿波国の和那散(わなさ)゛の伝承

播磨国風土記美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)と名付けたと記されています

【抜粋意訳】

美囊郡(みなぎのこほり)

 美囊(みなぎ)と号する所以 昔 大兄 伊射報和氣命〈履中天皇〉が 国境の時 志深里(しじみのさと)に到り 許曽社(こそのやしろ)で勅した「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 故に美囊(みなぎ)郡と号する

志深里(しじみのさと)土中中

 志深(しじみ)と号する所以 伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に  勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」 故に志深里(しじみ)と号する

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)について

『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛志深里(しじみのさと)三坂社の神゛の伝承

志深里に 三坂社の神が坐(まし)ます と記されています

【抜粋意訳】

志深里(しじみのさと)

三坂社の神が (まし)ます
大物主葦原志許(おほものぬしあしはらしこを)が 国固めをなされた 三坂岑(みさかのみね)天下りなされた 八戸挂須御諸命(やとかけすみもろのみことです

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

播磨国風土記美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)の許曽社(こそのやしろ)が記され 続いて・志深里(しじみのさと)の三坂社の神についても記されています これは 御坂神社(三木市志染町御坂)が該当します

しかし 三木市には「みさか神社」(御坂 三坂 美坂 御酒)と呼ぶ社が 市内に8ヵ所あります 何れも 式内論社の可能性があり 比定しきれていません

延喜式 御坂神社の論社の位置関係について

延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社について

・御坂神社(三木市志染町御坂)

・美坂社(三木市別所町東這田)

・三坂神社(三木市加佐)

・三坂神社(三木市細川町豊地)

・御酒神社(三木市細川町垂穂)

・御酒神社(三木市別所町石野)

・御坂社〈境内社 八幡社〉(三木市志染町安福田)

・篠原神社(三木市口吉川町殿畑)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

神戸電鉄栗生線 志染駅から 県道38号経由で東へ約6.3km 車で11分程度

神社を取り囲むように漆喰の白壁塀が続いています

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御坂神社(三木市志染町御坂)に参着

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社頭の左右に゛式内神社゛゛御坂社゛と二本の社号標に分けて表記しています

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一礼をして 鳥居をくぐり抜けます

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鳥居の扁額には゛式内 御坂神社゛と刻字されています

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参道や境内もしっかりと玉垣で囲われています 里人の崇敬の篤さが窺えます 右手には手水舎があります

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石段を上がると 能舞台の裏方になります
参道は南へと伸びていますので 能舞台は北向きになっているのだろうか?

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能舞台が 北向きになっていたのは 南を向いて建つ社殿・拝殿・本殿に正対し 御神事として 神に捧げる舞をするためのようです

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社殿の側から眺めると 実に立派です

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拝殿の向かって左には 御神木の楠の大木があります

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の向かって右側には 社務所〈昇殿参拝者の待合室〉から拝殿へと屋根付きの渡り廊下が通じています

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渡り廊下をくぐり抜けると 漆喰塀に囲まれた内に御本殿が祀られています
その脇に境内社 熊野社 神明社の2社も祀られています

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ふたたび渡り廊下をくぐり戻ると社務所がありました

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参拝日は1/18でした 境内には お弓祭〈2/11〉の的が置かれていました

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社務所の脇に置かれていた 稲わらの束は おそらく これも お弓祭〈2/11〉で使うのでしょう

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ちょっと驚いたのは 正月の干支の「20色の朱雀」の手拭〈浅井一甲先生作〉 目を奪われました 早朝でしたが 手拭額の脇にあったインターホンでお話をすると やさしい奥様が出てこられて 譲って頂く事が出来ました

以来 毎年 知り合いの分も含めて お送り頂いています

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お礼を述べて 境内を後にします

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 御坂神社について 所在は゛志深庄大梯村に在す、今 今三坂明神と稱す、〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉と記され

゛播磨國風土記云 ,志深里、坐に三坂一神、八戸桂須御諸命、大物主葦原志許國堅以後、自天下に三坂峯゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)

゛伽監開基記卷六云 其後志深庄之民於に上村之中立祠奉之゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)

゛古跡便覧、播磨鑑、共に
中石野村
〈現 御酒神社(三木市別所町石野)〉
這田村〈現 美坂社(三木市別所町東這田)〉
大梯村〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉、三所にあり゛とも

゛式社記に、本社志深上村〈 御坂神社(三木市志染町御坂)〉にあり、
但し 中石野〈現 御酒神社(三木市別所町石野)〉、這田〈現 美坂社(三木市別所町東這田)〉、大梯〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉、三ヶ所に別宮あり゛とも諸説を挙げています

【抜粋意訳】

御坂神社

御坂は 美佐加と訓べし

〇祭神 八坂須御諸命、大物主葦原志許神、〔風土記〕

〇志深庄大梯村に在す、〔古跡便覧、播磨鑑、〕今 今三坂明神と稱す、〔便覧〕

〇播磨國風土記云 ,志深里、坐に三坂一神、八戸桂須御諸命、大物主葦原志許國堅以後、自天下に三坂峯、』

伽監開基記卷六云、播磨國美嚢郡有山號に大谷云々、道乃問曰、翁何人耶、曰吾等當山三坂三社大明神也、云々、其後志深庄之民於に上村之中立祠奉之、以為に土神、

古跡便覧、播磨鑑、共に中石野村、這田村、大梯村、三所にあり、いづれを本社といふ事をしらずと云り、〔今按、大梯村なるを本社とす、さるは志深庄十ヶ村の氏宮とあれば也〕

式社記に、本社志深上村にあり、但し 中石野、這田、大梯、三ヶ所に別宮あり、皆一神也と云り、是も伽藍開基記に據れば、其理りなきにしもあらず、猶考ふべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 御坂神社について 所在は゛ 志染庄中村にあり、後 之を上村に遷祭る、三坂大明神といふ、即 庄内十村の産土神也、゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)〉と記しています

【抜粋意訳】

御坂(ミサカノ)神社

 志染庄中村にあり、後 之を上村に遷祭る、三坂大明神といふ、即 庄内十村の産土神也、〔飾磨縣神社調、神社明細帳、〕

八戸挂須御諸(ヤトカケスミモロノ)命を祀る、

盖 葦原志許乎命の一名也、此の神 國堅坐し後、志染里 三坂岑に天降り坐き、〔播磨風土記〕

凡 其祭 正月初亥日、四月朔日 之を行ふ、〔飾磨縣神社調、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 御坂神社について 所在は゛志染上村(明細帳に御坂村とあり)(美嚢郡志深村大字御坂゛〈現 御坂神社(三木市志染町御坂)〉と記しています

【抜粋意訳】

御坂神社

祭神 八戸挂須御諸命 稱 三坂大明神

 今按 播磨風土記美嚢郡 志深里坐 於三垣〔坂の誤字なるべし〕
八戸挂須御諸命 大物主葦原志許 國堅以後自天下於三坂岑とある

御諸命は 大物主命の鎭ます三諸山によりて稱へ奉れる一名なる事 大物主葦原志許とあるにて明けし 今 三坂明神と云も三坂岑に天下り玉へる由あり

祭日 正月初亥日四朔日
社格 郷社

所在 志染上村(明細帳に御坂村とあり)(美嚢郡志深村大字御坂

 今按 神社覈録に本社のことを志深庄大柳村 今 三坂明神と稱す
伽藍開基記に播磨國美嚢郡有山號大谷云々 道乃間日翁何人耶日吾等當山三坂三社大明神也云々 其後 志深庄之民於上村之中立祠参之以爲土神とみえ
飾磨縣注進狀に往古 庄内志染中村に鎭座の處 天正中燒失ふ後 當村遷座とあるを風土記志深里と云ふに合せ考へて所在の確證とすへし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

御坂神社(三木市志染町御坂)ついて 記しています

式内社 御坂神社について 所在は諸説あり
這田村〈現 美坂社(三木市別所町東這田)〉
 中石野村〈現 御酒神社(三木市別所町石野)〉
 志染大柿村〈現三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉
、三所有之、何れを本社 何れを摂社とも不知゛と他の説も紹介しています

【抜粋意訳】

〇兵庫縣 播磨國 美嚢志染(シジミ)村大字御阪 (奮上村)

郷社 御坂神社

祭神
 八戸御諸(ヤトカツラノミモロノ)
 大物主(オホモノヌシノ)命
 葦原志許男(アシハラシコヲノ)命

 播磨風土記に「志染里鎭座 八戸桂須御諸命、大物主大神、葦原志許男大神」と見え、崇峻天皇元年戊申九月九日の勧請にして〔〇明細帳〕延喜の制小社に列せらる、

 古來 本社は當庄内志染中村に鎭座あらせられしが、天正年間 豊臣秀吉 中國征伐の途次、三木城主 別所長治を攻めし際、社殿兵燹に罹り焼失す、依って現今の地に拳遷すと云ふ、御神禮は神鏡に坐ます由、古來 志染里十ヶ村の氏神にして三阪明神と稱せり、
 故に播磨鑑に、「三坂大明神、志染庄大柿村、境内、一丁四方、社僧吉祥院、祭禮四月朔日、龍馬翁等執行、神子一人在に上村、云々、」延喜式に御坂とあり、這田村中石野村、志染大柿村、三所有之、何れを本社 何れを摂社とも不知、然れども大柿村の社を本社とせんか、祭神 右の九神 (東社・天御中主尊、中筒男命、齊主命、大山祇命、市杵島姫命、日本武尊、 西社、大己貴命、御中主神、中筒男命なり、正一位三坂九社大明神と云ふ、三木郡の内にてーノ宮と稱す、志染庄十ヶ村の氏宮也」と見ゆ、

明治七年二月郷社に列す、社殿は本殿、拜殿、舞臺、能樂屋を備へ、境内地は千二百四十四坪 (官有地第一種あり、境地松柏多く、樟の大木あり、後に山を負ひ、社前は縣道に接せり。

境内神社
 神明神社 熊野神社 武大神社 厳島神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

御坂神社(三木市志染町御坂) (hai)」(90度のお辞儀)

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