久々比神社(くくひじんじゃ)は コウノトリが棲む地を「久々比(くくひ)」と呼び 社を建て木の神 久々遅命(くくのちのみこと)をお祀りして 始まったと云い 又 一説『国司文書 但馬故事記』には 物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉を祀るとします 延喜式内社 但馬國 城崎郡 久久比神社(くくひの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久々比神社(Kukuhi shrine)
【通称名(Common name)】
・江戸時代には 胸形(宗像)大明神と称した
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県豊岡市下宮字谷口318-2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》久々遅命(くくちのみこと)
※一説『国司文書 但馬故事記』には 物部韓國連 鵠(もののべのむらじ くくひ)〈久々比命〉を祭神とする
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・子宝・安産祈願
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内社 久久比神社 豊岡市下宮字谷口鎮座
祭 神
久々遅命 一説には日本書紀によって天湯河板拳命を祀るという相殿の神
大国主命 多紀理比売命由緒
日本書紀によれば、垂仁天皇の御宇二十三年冬十月朔(ついたち)天皇は誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)をともない、大殿の前に立ち給う時 鵠(くぐひ)が大空を鳴き渡った その時皇子が「これは何物ぞ」と問いになったので天皇は大いに喜び給い、左右の臣(しん)に「誰か能くこの鳥を捕えて献(たてまつ)らむ」と詔(みことのり)せられた 天湯河板挙(あめのゆかわたな)が「臣 必ず捕えて献らむ』と奏(そう)し この大鳥が飛び行く国々を追って廻り 出雲国で捕えたといい、或いは但馬国に得たともいう。十一月朔日 目出度くこの鵠を献上したのである 時に皇子は歳(とし)三十であるが いまだ物言い給わず あたかも児(わらべ)の泣くが如き声のみで この日始めて人並(ひとな)みの言葉を発せられたのである これほどに鵠は靈鳥(れいちょう)なので その棲所(すみか)の地を久々比(くぐい)と呼びなし その後〔年代不詳〕この地に宮を建て 木の神「久々遅命(くくちのみこと)」を奉祀した これがわが産土神・久々比神社の始まりであった。
さりながら、その頃、豊岡盆地は「黄沼前海(きぬさきのうみ)」と称して全くの入海(いりうみ)、下宮の地は その入り江の汀(なぎさ)であった 又そのあたりは樹木繁茂し 木霊(こだま)のこもろう処 神自ら鎮(しず)まり坐(ま)す景勝(けいしょう)の地であった われ等の先人がこの自然の神秘(しんぴ)と霊妙(れいみょう)を感得して 木の神「久々遅命(くくちのみこと)」を奉斎(ほうさい)し その御神徳の宏大(こうだい)に帰依(きし)したのも宜(むべ)なる哉である沿革
この神社の創建は前述のように古く 久々比の地に始まり 既に延喜の朝〔西暦九二七〕に編集された延喜式に式内社(しきないしゃ)として列記せられている 明治六年十月には村社となり 大正九年六月には神饌幣帛供進(しかせんへいはくぐしん)指定の神社となるなど由緒(ゆいしょ)の古社(こしゃ)である その奇(く)しき御神徳は今に変らず地方人の崇敬(すうけい)は益々篤(あつ)い
口碑(こうひ)によれば 当地下宮には大国主命を祀る上ノ宮(元 敷井谷鎮座)と多紀理比売命(たぎりひめのみこと)を祀る下ノ宮(元の田中大明神)との二社があったが いつの頃にか この二社を久久比神社合祀して 三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という壮麗(そうれい)な社殿を造営した その後年月は移り 元禄十五年十一月一日 釿始(ちょうはじめ) 同十六年三月十六日御遷宮(ごせんぐう) この際の施工は解体移築であったので 現在まで室町時代の遺構(いこう)の趣(おもむき)を存し その故を以て昭和三十三年五月には重要文化財の指定を受けたのである このすぐれた工を成就した巨匠(きょしょう)は実に当村の住人 小畠勘右衛門であった 社殿の全容は正に秀麗 更に斗(ます)・肘木(ひじき)・龍鳳象獅(りゅうほうぞうし)の彫刻 さては蟇股(かえるまた)など その道の推称(すいしょう)のまとである社殿 本殿 拝殿
以上
現地案内板より
国指定 重要文化財
式内社 久久比(くくひ)神社 豊岡市下宮
略 記
久久比神社は延喜神名式に記される但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、もと 胸形(むなかた 宗像)大明神と称され、木の神 久久能智命(くくちのみこと)を奉祀した式内社であるが、神社の創立年代は詳らかではない。
一説には多紀理比売命(たぎりひめのみこと)・天湯河板拳命(あめのゆかわたなのみこと)を祀ると言われる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の三社がある。本殿は墨書によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知られ、三間社流造り・杮葺(こけらぶき)の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代中期の代表的様式を示している。社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に秀麗、特に蟇股(かえるまた)の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊(しべ)の桐が彫刻 されている。さらに斗(ます)・肘木(ひじき)・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、その道の推賞のまとである。
久久比神社の鎮座する下宮は 昔より鵠(くくい:コウノトリの古称)村と言われていたように、 古来より国の特別天然記念物 「コウノトリ」が数多く大空を舞っていた地域であり、日本書紀によれば天湯河拳命がこの地で「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。
割拝殿の案内板より
【由 緒 (History)】
由 緒
創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡21座の内、小社に列している古社である。
垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年30歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。
古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六部落の氏神として崇敬を集めている。
※鵠とは「くぐい」と読み、ハクチョウの古称。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6322037.html
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・久々比神社 本殿
重要文化財(建造物)久久比神社本殿略記
昭和三十三年五月十四日指定
三間社流造り こけら葺き
久久比神社(くくひじんじゃ)は、延喜神名式(えんぎじんめいしき)に記される但馬国(たじまのくに)城崎郡(きのさきこおり)廿一座(にじゅういちざ)のうちの小社で、もと胸形(宗像)大名神(むなかただいみょうじん)と称され 木の神 久久遅命(くくちのみこと)を奉祀(ほうし)した式内社(しきないしゃ)であるが、神社の創立年代は詳(あき)らかでない、一説には、天湯河板挙命(あまのゆかわたなのみこと)を祀(まつ)るといわれる。この度 解体修理(昭和四十六年一月一日よリ昭和四十七年三月三十日一日)により現在の本殿(ほんでん)は、背面(はいめん)西の間から発見された墨書(ぼくしょ)「永正二年丁卯三月一日 けんと名人作也」によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知られ、三間社流造(さんけんしゃながれづく)り こけら葺(ぶき)の構成形式で建物の構造細部技法(こうぞうさいぶぎほう)、絵様刳型(えもようさくがた)等も、室町(むろまち)時代中期の代表的形式を示している。
特に蟇股(かえるまた)の彫刻(ちょうこく)が優(すぐ)れ、東西両側の正面よりの蟇股(かえるまた)には三つの蕊(しべ)の桐(きり)が彫刻(ちょうこく)されている。棟(むな)札および墨書(ぼくしょ)によると元禄十五年(一七〇二年)に向拝(こうはい)および縁回(えなまわ)りの修理・正徳元年(一七一二年))にも修理が行われている。
近時の修理としては昭和九年に屋根替えがあり、昭和二十三年にはこけら葺の上 亜鉛引鋼板(あえんびきてっぱん)を葺き重ねた応急修理をしていた。
(解体(かいたい)修理の大要)
一 礎石は一旦掘起し破損しているものは取換、コンクリート打の上え 旧位置に据え直し根巻コンクリート補強が施された。
二 古材は極力再用し旧部材は原則として旧位置に戻された。
三 総べて木材には防腐処理と蟻害の予防処理が施された。
四 各新補材は、欅・桧等を使用し、それぞれ修理の年が烙印された。
五 亜鉛引鉄板葺きの屋根がこけら葺きに復元された。
六 飾金具は材料・工法共に残存のものに倣い不足分は新しく補い損傷している部分は補修された。現地案内板より
・久々比神社 社殿
・久々比神社 拝殿
・拝殿内の神輿
・〈社殿向かって右 境内社〉八幡社
・コウノトリの銅像
・〈社殿向かって左 二つの境内社〉稲荷社・三柱社
・割拝殿
・社号標・一の鳥居・二の鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
コウノトリ伝説
日本書紀によれば垂仁天皇の御字二十三年の冬十月、天皇が誉津別皇子(ホほむつわけのおうじ)を伴い宮殿の前に立たれた時、鵠(くくい コウノトリの呼称)が大空を鳴きながら飛んでいった。その時、皇子が「これは何という名の鳥だ。」とお問いになったので、天皇は大変喜ばれ、家来の者に、「誰かあの鳥を捕まえて献上しなさい。」とおっしゃいました。
天湯河板挙(あまのゆかわたな)が「私が必ず捕らえて献上します。」と申し出て、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、
出雲国で捕らえたともいわれる。
但馬国で捕らえたともいわれる。
コウノトリを捕らえ、献上したのである。その時に息子は三十歳であったが、まだ言葉を話すことができず、まるで赤ん坊の鳴き声のような声でしか出なかったが、この日初めて人並みのことばをお話しになられたのである。このようにコウノトリは霊鳥(れいちょう)なのでその棲(す)んでいる土地を久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくちのみこと)をおまつりした。これが久々比神社の始まりであった。
ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(きめさきのうみ)」といって入り江であった。下宮はその入り江の汀(なぎさ)であった。また、そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座(ま)す景勝の地であった。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙(れいみょう)を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋(ほうさい)し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことであろう。
割拝殿の案内板より
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
垂仁天皇の皇子 誉津別王(ほむつわけのみこ)が 鵠(くぐい)〈白鳥〉コウノトリによって話せるようになった逸話が記されています
ただし 書記には コウノトリをとらえた場所について 但馬国(たじまのくに)と記すだけで 場所の特定〈この神社であるとは〉は記されていません
【抜粋意訳】
二十三年秋九月丙寅朔丁卯〈二日〉
群卿(まへつきみたち)に詔された
「誉津別王(ほむつわけのみこ)は 生まれて既に三十歳となり 長い顎髯が伸びるが 児(わかこ)が泣くようで 言葉を言うことがない 何故か」それで 皆で色々と考え議論をした
冬十月乙丑朔壬申〈八日〉
天皇は大殿の前に立たれ 誉津別皇子(ほむつわけのみこ)も 侍(はべ)られていた
そのとき 鵠(くぐい)〈白鳥〉が 大虚(おおぞら)を度(とびわたる)
皇子は空を仰ぎ 鵠(くぐい)〈白鳥〉を覧(み)て
「あれは何物か」と言われた天皇は 皇子が鵠(くぐい)〈白鳥〉を見て 言葉を発したのを見て 喜ばれた
左右の傍者に詔して
「誰かこの鳥を捕えて献上せよ」と言われたそこで、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖 天湯河板挙(あめのゆかわたな)が云った「臣(やっこ)が必ず捕まえ献上いたします」
天皇は 天湯河板挙(あめのゆかわたな)に云った
「お前がこの鳥を捕えたら 必ず篤く褒賞を与えよう」湯河板挙(ゆかわたな)は 鵠(くぐい)〈白鳥〉が遠く飛んで行った方向を見て 出雲に至り 捕獲した
ある人によれば 但馬国(たじまのくに)で捕えた」とも云う十一月甲午朔乙未〈二日〉
湯河板挙(ゆかわたな)が 鵠(くぐい)〈白鳥〉を献上しました
誉津別命(ほむつわけのみこと)は この鵠で遊ばれて ついに物が言えるようになられた
これによって 湯河板挙(ゆかわたな)に篤く賞を賜わり 姓を授けられ 鳥取造(ととりのみやつこ)と云う
また 鳥取部(ととりべ) 鳥養部(とりかいべ) 誉津部(ほむつべ)を定められた
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城崎郡 21座(大1座・小20座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 久々比神社
[ふ り が な ](くくひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kukuhi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 但馬國 城崎郡 にある 物部氏の祀られている式内社について
・ 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべの まとり)が 韓國(朝鮮半島)へ派遣された後 但馬の水戸 楽々浦(ささうら)に着き 都へ報告に上り その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥(もののべからくにむらじ まとり)と称した
・ 第29代 欽明天皇の頃 眞鳥の子・渚鳥(すとり)は 城崎郡司に任命され 名を墾麿(こま)と改め この付近を開墾し 地名を墾谷(はりたに)とし 墾谷(はりたに)から針谷(はりたに)となり 現在の飯谷(はんだに)となったと云う
・ 墾麿(こま)の子・眞鳥(まとり)の孫・物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉は 天武天皇白鳳3年(663)墾谷の丘に祖父 眞鳥と父 墾麿を祀り 韓國神社となった〈当社は元々、飯谷川の上流、通称「森さん」と呼ばれる場所にあった〉
初 代 物部韓國連 眞鳥(もののべからくにむらじ まとり)
その子 物部韓國連 渚鳥(もののべからくにむらじ すとり)〈名を墾麿(こま)と改め〉
その孫 物部韓國連 鵠(もののべからくにむらじ くくひ)〈久々比命〉
この三代の物部連に関わる式内社と伝わります
延喜式内社 但馬國 城崎郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)
天武天皇白鳳3年(663)物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉は 墾谷の丘に祖父 眞鳥と父 墾麿を祀り 韓國神社となったと云う
・韓國神社(豊岡市城崎町)
延喜式内社 但馬國 城崎郡 久久比神社(くくひの かみのやしろ)
一般には 創建について
垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年30歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる とする〈2008 兵庫県神社庁HPより〉
一説『国司文書 但馬故事記』には 物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉を祀るものとする説あり
当初は 大宝元年(701)秋 城崎郡司 物部韓国連神津主の子 久々比(くくひ)は 三江村に葬られ 祠を建て祀ったのが起源とされ
何時頃からか 祭神が久々比命から 現在の木の神 久久遲命(くくのちのみこと)に変更されたのではないかと伝わる
・久々比神社(豊岡市下宮)
延喜式内社 但馬國 城崎郡 重浪神社(おもなみ かみのやしろ)
天武天皇白鳳3年(675)6月久久比命が城崎郡司となり、その父・楮主(かみつ)命を敷浪の丘に葬り祠を建てて祀ったとき、共に祭祀を受け、重浪神社と称したという〈2008 兵庫県神社庁HPより〉
・重浪神社(豊岡市畑上字宮)
延喜式内社 但馬國 城崎郡 酒垂神社(さかたるの かみのやしろ)
酒垂神社は、物部韓国連久々比命が、五穀豊穣を祈って酒造神、酒弥豆男命(さかみずおのみこと)を祀ったとされる〈2008 兵庫県神社庁HPより〉
・酒垂神社(豊岡市法花寺字長楽寺)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山陰本線 豊岡駅からR312号経由で 東へ約3.5km 車で8分程度
京都丹後鉄道宮豊線のガードをくぐると 突き当りに鎮座します
久々比神社(豊岡市下宮)に参着
神橋を渡ると 左手が駐車場となっています
参拝日は4/8でしたので 葉桜となった桜の枝が 神橋の両側に広がっています
社殿 境内 社頭は南を向いています
一礼をして 鳥居をくぐります
続いて 二の鳥居をくぐり抜けると その先には割拝殿が建ちます
割拝殿のさきに 社殿が見えています
割拝殿をくぐり抜けると 境内の正面に社殿 左右には境内社が祀られています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 重要文化財の本殿が祀られています
脇には コウノトリの像があります
社殿に一礼をして 割拝殿から 境内を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 久々比神社について 所在 祭神などは良くわからない と記しています
【抜粋意訳】
久々比神社
久々比は 假字也
〇祭神 在所等詳ならず
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 久々比神社について 所在は゛今 下宮村にあり゛〈現 久々比神社(豊岡市下宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
久々比(ククヒノ)神社
今 下宮村にあり、〔神社明細帳、神社道志流倍、〕
盖 天湯河桁命を祀る、〔日本書紀、土人傳説〕
垂仁天皇御世 天湯河桁命に勅して、鵠を捕しむ、即追て但馬國に獲て献りき、〔日本書紀、但馬國栃一説、〕
凡 其祭 九月十六日之を行ふ、〔神社明細帳〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 久々比神社について 所在は下宮村(城崎郡三江村大字下宮)゛〈現 久々比神社(豊岡市下宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
久久比神社
祭神 天湯河板挙命
祭日 九月十六日
社格 村社所在 下宮村(城崎郡三江村大字下宮)
【原文参照】