吉備津神社(きびつじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の御代に吉備国に下られて 鬼の温羅(うら)を平らげたと伝わる 第七代 孝霊天皇の皇子「大吉備津彦命」が 長寿を以てこの地に薨去せられたので 社伝によれば第十六代 仁徳天皇が吉備国に行幸された時 命を祭神とし 御創建になられたと云う 後に延喜式では 名神大社に列し やがて最高位の一品の位になり 一品吉備津宮とも云います
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
吉備津神社(Kibitsu shrine)
[通称名(Common name)]
吉備津宮(きびつみや)
【鎮座地 (Location) 】
岡山県岡山市北区吉備津931
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
〈第7代 孝霊天皇 第3皇子〉
《配》日子刺方別命(ひこさすかたわけのみこと)
倭飛羽矢若屋比賣命(やまととびはやわかひめのみこと)
千千速比賣命(ちちはやひめのみこと)
大倭迹迹日百襲比賣命(おほやまとととひももそひめのみこと)
御友別命(みともわけのみことのみこと)
若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)
中津彦命(なかつひこのみこと)
日子寤間命(ひこさめまのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・殖産興業・交通安全の守護神・延命長寿の霊験あらたかな神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 備中国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社の御祭神は第7代孝霊天皇の皇子の「大吉備津彦命」であり、第10代崇神天皇の御代に吉備の国に下られ、温羅(うら)と言う悪者を平らげて平和と秩序を築き、この地に宮を営まれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない、長寿を以てこの地に薨去せられた。
社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸した時、御創建になった。後に延喜の式が定まると名神大社に列し、やがて一品の位になったので一品吉備津宮、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神として、また長寿の守り神として全国の人々から深く信仰されている。
吉備津神社案内
記紀によれば、崇神朝、四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られた大吉備津彦大神(五十狭芹彦命)を祀る山陽屈指の大社、仁徳期創建で、『延喜式』では名神大社、また、最高位を与えられ、一品吉備津宮とも称えられる。古来、吉備国(備前・備中・備後・美作)開拓の大祖神として尊崇され、殖産興業・交通安全の守護神・延命長寿の霊験あらたかな神として朝野の信仰があつい。
吾国唯一の様式にして日本建築の傑作・吉備津造(比翼入母屋造)の雄荘な社殿、鳴釜の神事、桃太郎伝説のモデルなどで著名。
国宝 本殿・拝殿
重文 御釜殿・南、北隋神門
県重文 廻廊・木彫狛犬現地案内板
当社 御案内
御祭神 大吉備津彦大神 外八柱の神
御由緒
「古事記」・「日本書紀」によれば、御祭神・大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子と生れ、第十代崇神天皇の御代、四道将軍の随一として吉備国に下られ、当時、当地方にて蛮行を重ね大和朝廷に対抗していた温羅(うら)(百済の王子とも伝えられる)一族を平定し、平和と秩序を築き、この地に宮を営まれて吉備国の人々のために殖産を教え仁政を行い、二八一歳という長寿を以て当地に薨去せられ吉備の中山の山嶺に葬られました。
社伝によると第十六代仁徳天皇が、吉備族より上がった采女・黒姫を慕って吉備国に行幸された時に、これの歓待にあった吉備族より吉備津彦命の業績を聴かれ、その徳を偲んで吉備国の祖神として崇め奉斎なされたと伝えられます。のち、延喜式の定まるや名神大社に列し、やがて天慶三年(九四〇)には最高の一品(いっぽん)の神階を贈られ「一品吉備津大明神」、また「三備(備前・備中・備後)の一宮」と称せられ、都を遠く離れた僻地に在りながら朝野の尊崇殊のほか篤く、平安末期の「梁塵秘抄」をみてもその御神威の程を窺うことが出来ます。
中世以降、江戸時代中期まで他社の例にもれず当社もまた神仏習合の長い歴史を過ごしてきましたが、明治の神仏分離を待たず、江戸時代中期には分離し、現在に至っております。
産業の守護神として、長寿の守り神として、その御神徳を慕う人々は今も昔も変わることなく吉備国の祖神として尊崇のマコトを捧げ続けております。また、吉備国の人々に歴史とロマンを伝えてきた大吉備津彦命の温羅退治の伝説神話が中世以降全国的に知れ渡っている「桃太郎」のルーツとしても親しまれています。(備前国一宮 岡山市北区一宮 吉備津彦神社)
(備中国一宮 岡山市北区吉備津 吉備津神社)
(備後国一宮 広島県福山市新市町 吉備津神社)現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
御祭神、大吉備津彦大神並に配祀神8柱の神。
由緒、御祭神は第七代孝霊天皇の皇子にましまし、第十代崇神天皇の御代に吉備の国に下られ、温羅と言う悪者を平らげて平和と秩序をきずき、この地に宮をいとなまれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない給い、長寿を以てこの地に薨去せられました。
社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸したもうた時、御創建になったもので、後、延喜の式の定まるや名神大社に列しやがて一品の位になられましたので一品吉備津宮、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてまた長寿の守り神として全国の人々から深く信仰せられている。
本殿、拝殿(国宝)現在のものは約560年前の応永年間の再建で室町時代初期の代表的建築であるのみでなく、日本建築の傑作で「吉備津造り」と称えられ全国唯一の形式として国宝中の国宝である。南隋神門、北隋神門-共に重要文化財(旧国宝)である。
回廊(県指定)延長四百米余もあり、殊に地形のままに直線にのびているのは全国にも稀な建物で著名である。本宮、回廊の南端にあり、古来安産育児の霊験あらたかなので有名である。
御竃殿(重文)釜鳴りの神事が行なわれている。お釜の鳴動の音の大小長短によって吉凶禍福を卜(ボク)するのである、その神秘なことは古く「本朝神社考」「雨月物語」などにも紹介されて天下に有名である。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
當社案内
御祭神 大吉備津彦大神 外八柱 の神
御祭神は 四道将軍の御一方とし 吉備の国にお出でになり兇賊を鎮定し、拓殖に當たられ 御子孫が當国に繁衍せられました。仁徳帝の御代 吉備の国の総鎮守として御創建になり、後各国に一宮の制が定められた時 當社は特に三備の一宮(備前・備中・備後)と稱え、古来 山陽道の総鎮守として、世人の崇敬を集め 又 産業の守護神として、延命長寿の御霊験あらたかな神として篤く信仰されています。
(備前国一宮 岡山市一宮 吉備津彦神社)
(備後国一宮 広島県芦品郡新市町 吉備津神社)本殿・拝殿
室町時代應永三十二年(約五五〇年前)の再建で全国唯一の様式なので「吉備津造」と稱せられ、国宝に指定されて居り県下最古の文化財で御座います。本宮社(内宮・新宮 合祀)
長い廻廊の南端にあり、當社五所明神中の社で安産育児の霊験あらたかなので名高い。岩山宮
背後の山腹に鎮座。當社五所明神中の一社で吉備の国の国魂の神をおまつりして御座います。竃殿
慶長一七年(約三六〇年前)の再建で岡山県重要文化財に指定されて居り、そのお釜の御鳴動神事は古来全国に有名で御座います。一童社
学術神・遊芸の神をおまつりしてあり、徳川期の国学者達も篤く信仰した社で近時は進学する人々が信仰して居られます。宇賀神社
当社の神池の島に鎮座し御祭神の稲荷の神は吉備の国最古の稲荷神で御座います。南・北隨神門
南隨神門は延文二年(約六〇〇年前)北隨神門は天文一二年(約四〇〇年前)の建造で御祭神の御隨神をおまつりしてあります。共に重要文化財(旧国宝)で御座います。廻廊
天正七年(約三八〇年前)の再建で延長約四百米に及び、自然の地形のまま一直線に建てられて居るので有名であります。社頭案内板より
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
境内には 古くは「吉備津五所大明神」と称した5つの社殿〈本社正宮・本宮社・新宮社・内宮社・岩山宮〉と72の末社があったと伝わる
その5つの社殿は 現在は・本社正宮・本宮社〈新宮社・内宮社を合祀〉・岩山宮となっています
境内の文化財と摂末社
本殿・拝殿(国宝)
室町時代応永三十二年(1425年)の再建で建築様式は「比翼入母屋造」。全国でも当社だけの様式ですので「吉備津造」とも称されております。本宮社(内宮・新宮 合祀)
当社の長い廻廊の南端に鎮座し、吉備津彦命の父母神をお祀りしており安産・育児の神様として信仰されております。岩山宮
本殿の背後にある吉備の中山の山腹に位置し、吉備国の地主神をお祀りしております。御竃殿
慶長一七年(1612年)安原知種が願主となり再。神秘的な鳴動神事は古来より全国に知られています。一童社
学問・芸能の神様をお祀りしてあり、江戸時代の国学者も厚く信仰したと伝えられ、近年では進学を目指す人々のお参りが絶えません。宇賀神社
神池の島に鎮座し御祭神の稲荷の神は吉備の国最古の稲荷神で御座います。えびす宮
廻廊の途中に位置して、商売繁盛・家業繁栄の神様として岡山県下に有名です。特に正月九日・十日・十一日のえびす祭には縁起物を求めるたくさんのお参りの人々で賑わいます。廻廊(県指定重要文化財)
天正七年(1579年)の再建で、全長約360mにも及び、自然の地形そのままに一直線に建てられております。南・北隨神門(重要文化財)
北隨神門は北の参道に位置し、室町中期の再建。南隨神門は廻廊の途中に在り延文二年(1357年)の再建で当社諸殿宇中最古の建造物。共に吉備津彦命に従い吉備国の平定に活躍した神々をお祀りしております。現地案内板より
・本宮社
《主》大倭根子彦賦斗迩命,大倭玖迩阿礼比賣命、細比賣神
《合祀 内宮社》百田弓矢比賣神、百田大兄神
《合祀 新宮社》吉備武彦命
《合祀 御崎宮》犬飼建神、温羅神、眞布留神、宇慈香比古神
・岩山宮《主》建日方別命
・一童社《主》天鈿女命《合祀》金山彦命,菅原神
・宇賀神社《主》宇迦御魂命
・滝祭神社《主》瀬織津姫命
・大神宮《主》天照大神
・春日宮《主》武甕槌命
《合祀》天児屋根命,経津主命
・八幡宮《主》誉田別命
・えびす社《主》大穴牟遅命,少彦名命
吉備津えびす宮
江戸時代県下に有名にして殷賑を極めていたが、明治期、吉備津神社が官社に列するに及んで社殿の奥深く蔵され祭祀中絶に至っていたが、信仰厚き人々の再興の懇望黙し難く、ここに殿宇を新築祭祀す
大祭 正月九・十・十一日
例祭 毎月十日
・祖霊社《主》氏子の祖霊,護国の英霊
・廻廊〈総延長398メートルの回廊〉
・南随神門
・北随神門
・細谷川〈古今和歌集にも詠まれた名勝〉
・社務所
・祈祷殿
・手水舎
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
神位の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻十七 承和十四年(八四七)十月甲寅〈22日〉の条
〇甲寅
奉り授くに 備中國 无位(むい)
吉備津彦命神(きびつひこのみことのかみ) 從四位下を巻十八 承和十五年(八四八・嘉祥元年)二月辛亥〈21日〉の条
〇辛亥
正一位勳一等 賀茂御祖大社(かものみおやのおほやしろ)の禰宜外 從五位下 鴨縣主(かものあがたぬし)廣雄等款云
去る天平勝寳二年十二月十四日 奉れ充て 御戸代田(みとしろのた)一町を自爾以降 未く被に奉加 因て茲年中用途乏少なり 請ふ准の別雷社に 加増せし御戸代田(みとしろのた)一町 勅許之奉れ授くに 備中國(びっちゅうのくに)吉備津彦命神(きひつひこのみことのかみ)に 從四位上
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
官社・封戸・神階の奉授 が記されています
【抜粋意訳】
巻四 仁寿二年(八五二)二月丁巳〈20日〉の条
○丁巳
特(ことに)授くに
備中國 吉備津彦命神(きひつひこのみことかみ)四品(しほん)を 列す於に官社(くわんしゃ)に
是夕(このゆうべ)彗星(けいせい)出(いつ)に于西方 長可(たけはかり)五丈巻四 仁寿二年(八五二)八月辛酉〈27日〉の条
○辛酉
四品(しほん)吉備津彦命神(きひつひこのみことのかみ)
奉る充に 封廿戸を巻九 天安元年(八五七)六月戊辰〈3日〉の条
○戊辰
在すに 備中國 四品(しほん)吉備津彦命神(きひつひこのみことかみ)授くに 三品(さんほん)を
在すに 陸奧國 極樂寺 預定額寺 充燈分并修理料稻千束 墾田十町
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神 267社への神階の奉授のうち 二番目に記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〈27日〉の条
○廿七日甲申
京畿七道の諸神に 進れ 階(くらい)を 及ひ 新(あらた)に叙つ
惣(すべ)て 二百六十七社なり
奉れ授くに
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命 一品
備中國 三品(さんほん)吉備都彦命(そびつひこのみこと)に 二品(にほん)
・・・
・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
吉備津彦神社 一座 備中國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備中国 18座(大1座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀夜郡 4座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 吉備津彦神社(名神大)
[ふ り が な ](きひつひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kihitsuhiko no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
吉備国(きびのくに)の平定について
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は 民を苦しめる温羅(うら)を退治して 吉備国(きびのくに)を平定したと伝承があります
互いの弓矢を射落とすほどの激戦の末に 吉備津彦命は温羅を討ち取り 首をはね その首を御竃殿(おかまでん)の釜の下に埋めます なおも唸り声を上げ続ける温羅の首は吉備津彦命の夢に現れて「妻の阿曽女(あそめ)に御竃殿の釜炊きを任せよ さすれば釜の音を鳴らし吉凶禍福を占おう」と云う
これが不思議に釜が鳴動する「鳴釜神事」の由来とされます
吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀る吉備津神社は 吉備津彦命の御陵がある吉備の中山の西麓に鎮座します
鳴釜神事(なるかましんじ)について
鳴釜神事(なるかましんじ)
当社には鳴釜神事という特殊神事があります。この神事は吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記にみられるのが文献的には一番古いとされ、永禄十一年(1568)五月十六日に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されていますので、少なくとも室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名であったと思われます。江戸時代上田秋成の雨月物語のなかにも『吉備津の釜』として一遍の怪異小説が載せられていることは有名です。
釜鳴という神事は王朝以来宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられています。釜を焼き湯を沸かすにあたって時として音が鳴るという現象が起こると、そこに神秘や怪異を覚え、それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったと云われ、それに陰陽道的解釈が加えられていったと考えられます。
この神事の起源はご祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社の御竈殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。
命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、
『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの竈殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』
とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり、現在も随時ご奉仕しております。
吉備津神社HPより
https://www.kibitujinja.com/about/narukama.php
御釜殿鳴動神事の由来
社伝によれば御祭神に退治せられた鬼「温羅(うら)」を祀る処と伝えられる。
縁起によると、或夜 吉備津彦命の御夢に温羅の霊が現れて「吾が妻、阿曾郷の祝(はふり)の娘 阿曾媛をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、若し世の中に事あらば釜の前に参り給はば、幸あれば裕かに鳴り禍あれば荒らかに鳴らふ、ミコトは世を捨てて後は霊神と現はれ給へ、吾が一の使者となりて四民に賞罰を加へむ」と告げた。
これ神秘な釜鳴神事のおこりである。今日も「鳴釜の神事」が行なわれており鳴動の音の大小長短により吉凶禍福を卜するのである。
江戸時代の林道春の「本朝神社考」や上田秋成の「雨月物語”吉備津の釜”」などに紹介され神秘な神事として天下に有名である。うすなへる神のひびきに鳴る釜の
音のさやけき 宮ところかな 重胤御釜殿祈祷一件につき参千円也
神火授与
吾国では古来より火は神秘なものとして神聖視されて来ました。当御釜殿の火は古くから消えることなく伝わる神火で各家庭の火を清めると禍を祓い福を招くと伝えられ今日でも特に火を取り扱われる人々が火縄にてお持帰りになって居ります。現地案内板より
温羅(うら)の 妻 阿曽女(あそめ)について
温羅(うら)の 妻 阿曽女(あそめ)について
御竈殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。“鬼の城”の麓に阿曽の郷があり、代々この阿曽の郷の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、御竈殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました。
この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっています。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断しますが、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。
吉備津神社HPより
https://www.kibitujinja.com/about/narukama.php
温羅(うら)の居城跡とされる鬼ノ城〈阿曽の郷〉について
・鬼ノ城(総社市黒尾)
この阿曽の郷 と 九州 阿蘇には 鬼伝説の共通点があります
鬼八の伝承を持つ 阿蘇
霜神社(しもじんじゃ)は 伝承によれば 阿蘇を開拓された健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 鬼八(きはち)の首を切り落とした すると農作物に霜を降らせる祟りがあり これを鎮める為に 阿蘇の中央の役犬原に 御神体を綿に包み 鬼八の霊を祀る霜宮を創建した 御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
・霜神社(阿蘇市役犬原)
「吉備国(きびのくに)」の分割について
かつて「吉備国(きびのくに)」は 現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼(とうしょ)部 および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがる古代の大国でした 筑紫・出雲・毛野などと並び 大和朝廷を支え並ぶような有力地域の一つでした
大和朝廷は この強大な「吉備氏(kibi uji)」の弱体化を意図したのか 膨大な時間の中で「吉備国(kibi no kuni)」は勢力を失っていきます
7世紀後半 持統天皇3年(689)飛鳥浄原令(あすかきよみはらりょう)が 発布され 吉備国は「備前国(bizen no kuni)・備中国(bitchu no kuni)・備後国(bingo no kuni)」に3分割されます
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三備〈備前国・備中国・備後国一宮〉一宮 吉備津神社について
吉備国の一之宮であった 『延喜式神名帳』名神大社 吉備津彦神社は 分祀されて 分割された国の一之宮となります
備前国一宮 岡山市北区一宮 吉備津彦神社
・吉備津彦神社(岡山市備前一宮)
備中国一宮 岡山市北区吉備津 吉備津神社
・吉備津神社(岡山市北区吉備津)
備後国一宮 広島県福山市新市町 吉備津神社
・吉備津神社(福山市新市町)
さらに8世紀 和銅6(713)年には「備前国(bizen no kuni)」から「美作国(mimasaka no kuni)」分割され 4つに分かれてしまいます
美作国一宮 岡山県津山市一宮 中山神社
・中山神社(津山市)
それまで 大きな一つの「吉備国(きびのくに)」〈岡山県全域と広島県の東半分を抑えた領域〉として運営していた状態からすれば 分割統治になり 勢力は大きく後退しました
かつての強大であった「吉備国(kibi no kuni)」の分解の最終段階として 鉄資源を吉備氏(kibi uji)から直接 大和朝廷の管轄下に置くことになっていきます
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR吉備線 吉備津駅から南へ約650m 徒歩10分程度
線路沿いに東へ進むと 神橋が架かり 二の鳥居が建ちます その先に吉備津の松並木
北東を向く社頭の右側に 社号標 官幣中社吉備津神社と刻まれています
吉備津神社(岡山市吉備津)に参着
注連縄石柱の左には「中山鎮地黍稷馨香四時」と刻まれています
石段を上がると 北随神門が建ちます
北随神門の上には 吉備津宮と記された 大きなの扁額が掲げられた絵馬殿があり ここを抜けて進みます
絵馬殿までは かなり急な石段になっていて 雨の日は 足元を見ながら
絵馬の先は すぐ拝殿があります
拝殿にすすみます 拝所のすぐ上にある扁額には 「平賊安民」とあります
意訳すると 温羅(うら)が伝説を物語る「賊を平らげ 民を安んず」
拝殿内の扁額には 吉備津宮 とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
吉備造りの本殿・拝殿はともに国宝となっています
大きすぎて写真に納まりきらないので 全体像がわかり難く 白木の模型が置かれていましたので 参照しました
備中神楽面一式が奉納されていました
授与所で朱印など
境内の見どころ の案内板があり 境内を巡ります
神酒と神馬
南へ伸びる廻廊を進みます
南の参道入り口へと出ます
境内社にお詣りをして 本殿拝殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『雨月物語(うげつものがたり)〈安永5年(1776年)刊 上田秋成〉』に記される伝承
吉備国 賀夜郡庭妹(現在の岡山市北区庭瀬)に 井沢正太夫という人がいた 息子の正太郎は 色欲の強い男で 父が止めるが聞かず 遊び歩いていた
そこで 嫁を迎えて身持ちを固めさせようと 吉備津神社の神主 香央造酒の娘と縁組がまとめられた
幸を祈る 御釜祓いをすることとなり 釜のお湯が沸きあがるとき 牛が吼えるような音が出たら吉 音が出なかったときは凶 はたして 全くなんの音もなかったので この婚姻は凶と判断された
このことを香央が自分の妻に伝えると 先方も娘も心待ちにしている 不吉なことを公表すれば どうなるかわからない ふたりが結婚するのは変えられない と言い そのまま縁組は進められた
【抜粋意訳】
巻之三 吉備津の釜(きびつのかま)
嫉妬深い女はとかく扱いにくいものだが 年老いて見れば いい点やありがたさがわかるものである と いったい誰の言葉なのか
その災いは 大きくなくとも 家業を妨げ物を壊し 隣近所の噂になりやすく 害がひどくなるに及んでは 家を失い国を滅ぼして 天下の笑いものになる
昔から この毒に中る人は数知れない 死んで蛟となり あるいは霹靂をふるって恨みを晴らすにいたっては その肉を塩辛にしても足りぬが そんな例は稀である 夫が己を律して教育すれば こんな悩みは避けられるのに ひと時の浮気心を起こして 女の悋気を募らせ 自ら憂えを招くのである 鳥を制するは気にあり 妻を制するは夫の雄々しさにありというのは もっともである吉備(きび)の国賀夜の郡(かやのこほり)庭妹(にひせ)の郷(さと)に 井沢(ゐざわ)庄太夫というものがいた
祖父は播磨の赤松氏に仕えていたが 去る嘉吉元年の乱の折 その館を去ってここへ落ち着き 庄太夫までの三代を経て 春に耕し秋に刈り入れ 豊かに暮らしていたが 息子の正太郎は 農業を嫌がるあまり 酒に乱れ色欲にふけり 父の戒めを聞かないので 両親はこれを嘆いて計画し 良家の美しい娘でも嫁にさせてやれば 素行も自ずから修まるだろうと あちこち国中を探したところ 幸いにも仲人があって吉備津の神主・香央造酒の娘は 生来優美で 父母の言うこともよく聞き 歌を詠み 琴も巧い もとよりその家は吉備の鴨別命の系統で 由緒も正しいので あなたの家と姻戚になれば末々よいことがありましょう
この話がまとまるるのは私の願うところでもあります 親御さんのお気持ちはいかがでしょう と言う庄太夫はおおいに喜び よく仰ってくださいました このことは我が家にとって千年の計となると思うのですが 香央といえばこの国の貴族 我々は氏もない農夫に過ぎません 家柄はとても及ばず 肯いてはもらえないでしょう
仲人の翁は笑みを浮かべ そう謙遜なさいますな 私がうまくとりまとめましょう と 行って香央に説けば
先方も喜び 妻にも語れば 妻も乗り気で 我が娘はすでに十七になり いつもよい人がいたら嫁がせようと 心落ち着かずにおりました 早々によい日を選んで結納を と 強く進めようとするので 約束がとりつけられたと井沢に返事をしたそして結納の品を揃え 日を選んで祝儀の用意を始めた
また幸福を神に祈るということで 巫子・祝部を集めてお湯を奉納した
そもそも吉備津の社で祈祷する人は 多くの供物を供えお湯を奉納し 吉凶を占う
巫子が祝詞を読み上げ お湯が沸き上がるに及んで 吉と出れば釜の鳴る音は牛の吼えるがごとく 凶と出れば釜は音を立てない これを吉備津の御釜祓というところが香央の家については 神がお受けにならなかったのか 秋の虫が草むらで鳴くほどの音もしなかった
これを訝しんだ香央が 占いを妻に語ると妻は疑いもせず 御釜の音がしなかったのは 祝部たちの身が清くなかったからでしょう
既に結納は交わされ 赤い縄で結ばれて 仇の家であろうと 異人の土地であろうと変えられないと聞きます
特に井沢は弓の道を知る武士の流れです 掟のある家ならば いまさらとりやめるなど承知しないでしょう
それに婿殿の美貌を耳にして うちの娘も日を数えて待っていますから 今よからぬ話を聞こうものなら なにをやらかすかわかりません その時悔やんでも取り返しがつきません と 言葉を尽して諫めるのは まったく女の考えである
香央ももとより願っていたことなので深く疑わず 妻の言葉に従って婚儀を整え 両家の親類縁者が集まり 鶴の千歳 亀の万世 と歌い祝福した
香央の娘・磯良は嫁いだ後 朝早く起き 夜遅く床に就き 常に義父母のそばを離れず 夫の性分を理解し 心を尽くして仕えるので 井沢夫妻は孝行貞節を見上げたものだと喜び 正太郎もその心を愛でて むつまじく暮らしていた
しかし 正太郎の生来の浮気性はどうにもならなかった いつの頃からか 鞆の津の袖という遊女とねんごろになり ついに足抜きし 近くの里に別宅を設け 長い間家に戻らなかった
磯良はこれを怨み 義父母の怒りにかこつけて諫め あるいは浮気心を怨み嘆いてみたが うわの空に聞き流し
父は磯良の必死な振舞いを見るに忍びず 正太郎を叱って家に閉じ込めてしまった 磯良はこれを悲しんで 朝夕の奉仕もまめやかに また袖に物を送るなどして 心の限りを尽くした
ある日 父が留守の間に 正太郎は磯良を丸め込んで言った おまえの健気な操を見て 今は自分の罪を悔いるばかりだ あの女を故郷へ帰した後には 父上を笑顔にしよう あの女は 播磨は印南野の者で 親もなく身分も賤しいから 哀れんで情けをかけていた おれに捨てられたら また港の遊女になってしまうだろう 同じ賤しい奴でも 京は人の情もあると聞くから 彼女を京へ送り 立派な人に仕えさせたいと思う おれはこんな身だから何をするにも先立つものがない 路銀や着物代を誰も用立ててはくれない おまえ取り計らって彼女に恵んでやってくれないか と ねんごろに頼むと
磯良はとても感心し その事はご安心ください と 自分の衣服や調度品を金に換え その上実家の母親をも偽って金を借り 正太郎に渡した
この金を手にするとこっそり家を抜け出し 袖という女を連れ 京の方へと逃げて行ってしまった ここまでだまされた磯良は ひたすら恨み嘆き ついに重い病を患って寝込んでしまった
井沢と香央の人々は 彼を憎み 磯良を哀れみ 医者に診てもらったりしたが 粥さえ日に日に受けつけなくなり 手の施しようもなく見えたさて 播磨国印南郡荒井(いなみのこほりあらゐ)の里に 彦六という男がいた 彼は 袖と従弟(いとこ)の間柄なので まずここを訪れ しばらく足を休めた
彦六は 正太郎に向かい 京とはいえ人によっては頼りにならない ここに留まられよ 飯を分けあい ともに生計を立てよう と言う頼もしい言葉に心落ち着いて ここに住むことにした 彦六は自分の住むあばら家を貸して住まわせ 友ができた と喜んだ
そんな折 袖が風邪をひいた と言い出すと なんとなく病みはじめ ものに憑かれたがように狂わしげになるので ここへ来て何日も経たないうち こうした不幸を被った悲しみに 正太郎は食うことさえ忘れて介抱するのだが 袖は ただ声をあげて泣き 胸を詰らせ苦しむ 正気が戻れば普段と変わらない これが生霊というものか 故郷に捨ててきた女のものか とひとり苦悩した
彦六がこれを諫め どうしてそのようなことがあるものか 疫病というものの苦しみをたくさん見てきたが 熱が少し下がれば 忘れたようになるものだ と 軽く言うので心強かった
しかし 看病の甲斐はいささかもなく 七日目にとうとう死んでしまった
天を仰ぎ 地を叩いて泣き悲しみ 共に逝くぞと錯乱するのを 彦六があれこれ言い慰めて このままにしてはおけないから と 荒野で荼毘に付し 骨を拾い 塚を築いて卒塔婆を立て 僧を迎えてねんごろに弔った正太郎はうつむいて黄泉路の袖を偲んだが 死者の霊を呼び戻すすべなどなく 天を仰いで故郷を思えば 却って冥土より遠くに思われ 進むに橋なく退路をも失い 一日中臥せっては 夕な夕なに塚へ参れば 草が早くも茂り 虫の声はそぞろに悲しい この秋はひとりぼっちで侘しい と思っていると
雨雲のどこかにも同じ嘆きがあるらしく 並んで新しい塚ができていて そこへ参った女が 世にも悲しげな面持ちで 花を手向け水をかけているのを見て ああ気の毒に あなたのような若い方がこのような寂しい荒野をさまよっておられるとは と言うと
女は振り返り 私が夕な夕なここへ参るたび あなたはいつも先にいらしています 忘れ難い方とお別れになったのでしょうね お心をお察しするほどに悲しくなります とさめざめと泣く
正太郎は言う そのとおりです 十日ほど前に愛しい妻を亡くし この世に残されて張り合いもなく過ごしているので ここに参るときだけ少し心が晴れるのです あなたもそうなのでしょう
女は言う こうしてお参りしているのは 仕えておりましたご主人様のお墓で いついつの日ここに葬りました 家に残された奥様があまりにも嘆き悲しまれ この頃重い病を患われたので こうして代わりにお参りし 線香や花を供えているのです と言った
正太郎は言う 奥様がご病気になるのももっともです ところで亡くなったご主人とはどんな方で どちらにお住まいなのでしょうか
女は言う お仕えしていたご主人様は この国では由緒あるお方でしたが ある者の讒言により領地を失い この野原の隅に侘しくお住まいでした 奥様は隣国まで噂になるほどの美しい方ですが この方がもとで家や領地を失ってしまったのです と語った
この話を聞いて すっかり心惹かれた正太郎は その方が寂しくお住まいになっている家は 近くなのでしょうか お訪ねして 同じ悲しみを語り慰め合いたいので 連れて行ってください と言った
家は あなた様のいらした道を少し入った所です 訪ねる人もありませんので時折お越しください 待ち侘びていらっしゃるでしょう と言って 女は先に立って歩き始めた 二町あまり歩くと細い道があった そこからさらに一町ほど進むと 薄暗い林の奥に小さな草葺の家があった 古びた竹の扉に 七日あまりの月が明るく射し込み 狭い庭の荒れた様子がわかる 仄かな灯火の光が障子からこぼれて物寂しい ここでお待ちください と言うと中へ入っていった
苔むした古井戸のそばに立って見ると 唐紙の少し開いた隙間から 揺れた火影に 黒棚がきらめいて趣深かった 女が出てきて お訪ねの旨をお伝えしましたら お入りください 衝立越しにお話しましょう と奥の部屋へ行かれましたので そちらにお入りくださいと 植え込みを廻って奥の方へと案内した 二間の客間を人幅ほど開ければ 低い屏風が立ち 古い衾の端が覗いており 女主がそこにいると知れた
正太郎はそちらに向かい ご病気であると伺いましたが 私も愛しい妻を亡くし 同じ悲しみを慰め合えればと思い 推して参りました と言った
すると女主は 屏風を少し引き開け これは珍しいところでお会いしましたね 辛かったときの報いを思い知らせてあげましょう と言うので 驚いて見れば 故郷に残した磯良であった
顔の色はひどく蒼ざめ だるい目つきはすさまじく 自分を指した手の青くほっそりとした恐ろしさに うわっ と叫んで気を失ってしまったしばらくして 正太郎は目を覚まし 目を細く開いて見れば 家と思っていたのは古びた荒野の三昧堂で 黒い仏像だけが立っていた
里の遠くの犬の声を頼りに 家へ走って帰り 彦六にしかじか話をすれば なに狐にたぶらかされたんだろう 怖気づいている時ほど迷わし神が襲ってくるものだ
そなたのように弱い者が 落ち込み悩んでいるときは 神仏に祈って気持ちを落ち着けることだ 刀田の里に尊い陰陽師がおいでだから 身を清め魔除けの札をいただくといい と 誘って陰陽師の元へ行き いきさつを詳しく語って占いをお願いした陰陽師は 占い考えて 災いはすでに間近に迫っていて容易には片づかない 先に女の命を奪っても 恨みはなお尽きぬ そなたの命さえ朝か夕かに迫っている この鬼が 世を去ったのは七日前だから よって今日から四十二日の間は戸を閉ざして固く物忌みなされよ 我が戒めを守るなら九死に一生を得るが 一時でも油断すれば免れられぬぞ と
きつく教えて筆をとり 正太郎の背から手足に及ぶまで 篆書のような字を書き さらに朱色で書いた護符をたくさん紙に記して与え この符を戸ごとに貼って神仏に念じよ へまをして身を滅ぼしてはならぬぞ と教えると恐れながらも喜んで家に帰り 朱の護符を門や窓に貼って 慎んで物忌みを始めた
その夜三更の頃 恐ろしい声が ああ憎い こんなところに尊い護符を貼るなんて と 呟いて声が止んだ 恐ろしさのあまりに長い夜を嘆いた ほどなく夜が明けたので気を取り直し 急いで彦六のいる壁を叩いて 昨夜の出来事を語った
彦六もはじめて陰陽師の言葉の不思議だと思い 自分もその夜は寝ずに三更の時を待った 松を鳴らす風は物を倒すがごとく 雨まで降ってきて 常とは違う夜の様子に 壁を隔てて声を掛け合ううち はや四更になった 下人用の家にさっと赤い光が射して ああ憎い こんなところにも尊い護符を貼るなんて という声が 深い夜にすさまじく響く 髪も産毛もみな逆立って しばらくは気を失っていた 明け方に気がついて昨夜の様子を語り 暮れては夜明けを待ち焦がれる そんな日々は千年の時が過ぎるよりも長い 鬼も夜毎に家の周辺を巡り 屋根の上で叫び 怒れる声は夜な夜な凄みを増していった そうこうするうち四十二日目の夜になった
残すはあと一夜となり 特に慎めば 五更の空も白々と明けてきた 長い夢から覚めたように 彦六を呼ぶと 壁に寄って どうした と答える 固い物忌みもついに終わる しばらく兄上の顔を見ていないので 懐かしくなってしまった 長かったこの日々の憂さを思いっきり語りたい 目を覚ましてください 私も外に出ますから と言う
彦六は不用意な男なので もう大丈夫だろう それではこっちへ と 戸を半分開けたか開けぬかの間に 隣の家から うわあっ という叫び声が耳を貫き 思わず尻もちをついてしまった これは正太郎の身に何かあったな と 斧を引っ提げて道へ出ると 明けたと言っていた夜はいまなお暗く 月は中空でおぼろに翳り 風は冷ややかで 正太郎の家の戸は開けっ放しで 本人がいない 奥へでも逃げ込んだかと駆け込んでみたが どこにも隠れるようのない家なので 道に倒れているのかと探してみても あたりには物ひとつない どうなったのか と 怪しみ あるいは恐る恐る 灯火を掲げて そこかしこを見回ると 開けた戸の脇の壁に 生々しい血がしたたり 地に伝っていた にもかかわらず屍も骨も見当たらない
月明かりに見れば 野の端に何かある 灯火を捧げて照らして見ると 男の髻だけが残り 他にはまったく何もなかった その恐ろしさは筆舌に尽くしがたい 夜が明けてからあたりの野山を探したが ついにその跡さえ見つからなかった このことが井沢の家にも伝えられると 涙ながらに香央にも告げられた陰陽師の占いは正しく 御釜の吉凶も違わなかった それは実に尊いことである と語り伝えられている
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神は 吉備武彦命と記しています
【抜粋意訳】
吉備津彦神社(名神大)
吉備津は假字なり 彦は比古と訓べし、
〇祭神 吉備武彦命 頭注
〇宮内村に在す、式社考
〇当国一宮なり 一宮記
〇式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略 備中國 吉備津彦神社 一座
〇永萬記云、吉備津宮
〇日本紀、孝霊天皇二年二月丙寅條、妃倭国香媛生 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、亦名 吉備津彦命、倭迹迹稚屋姫命、亦妃某弟 生彦狭嶋命、稚武彦命、弟 稚武彦命、是 吉備臣之始祖也
同紀、於是、分道、遣 吉備武彦 於越国 云々また因遣 吉備武彦、奏之於天皇曰、云々
神名帳頭注云、人皇第七孝霊天皇 御子 彦五十狭芹彦命、亦名 吉備津彦命、この説非なり、孝霊三世皇子 吉備武彦命なり、
日本紀興風土記符合、景行天皇御宇、彼御子 吉備武彦命、罷吉備国、如備中国風土記者、賀夜郡伊勢御社 東有河、名 宮瀬川、河西者 吉備建日子命之宮造、此三世王故、名 宮瀬云々、
姓氏録、左京皇別上 吉備朝臣、大日本根子太瓊天皇 皇子 稚武彦命之後なり、また下道朝臣、稚武彦命孫 吉備武彦命之後なり鎮座 神武正宗云、推古帝 御宇元年現坐
神位
続日本後紀
承和十四年(八四七)十月甲寅〈22日〉〇甲寅 奉り授くに 備中國 无位(むい)吉備津彦命神(きびつひこのみことのかみ) 從四位下を
承和十五年(八四八・嘉祥元年)二月辛亥〈21日〉〇辛亥 奉れ授くに 備中國(びっちゅうのくに)吉備津彦命神(きひつひこのみことのかみ)に 從四位上文徳天皇実録
巻四 仁寿二年(八五二)二月丁巳〈20日〉○丁巳 特(ことに)授くに 備中國 吉備津彦命神(きひつひこのみことかみ)四品(しほん)を 列す於に官社(くわんしゃ)に
仁寿二年(八五二)八月辛酉〈27日〉○辛酉 四品(しほん)吉備津彦命神(きひつひこのみことのかみ)奉る充に 封廿戸を
天安元年(八五七)六月戊辰〈3日〉○戊辰 在すに 備中國 四品(しほん)吉備津彦命神(きひつひこのみことかみ)授くに 三品(さんほん)を三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〈27日〉○廿七日甲申 奉れ授くに 備中國 三品(さんほん)吉備都彦命(そびつひこのみこと)に 二品(にほん)長寛勘文、
天慶三年(九四〇)二月一日丁亥、吉備津彦命一品官幣・・・
封戸 社領・・・
氏人・・・
社職・・・
怪異 齊衡二年(八五五)二月癸亥〈13日〉の条 ○癸亥 備中國言 吉備津彦明神 庫内鈴鏡 一夜三鳴
焼亡 康平四年(一〇六一)十一月二十五日、備中国 吉備津彦社 焼亡
雑事・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神について熟慮しているが 比古伊佐勢理昆古命〈亦の名 大吉備津日子命〉と記しています
【抜粋意訳】
吉備津彦神社 称 吉備津宮
祭神 比古伊佐勢理昆古命
今按
社記に
孝霊天皇 第三皇子 彦五十狭芹彦命 亦御名 大吉備津彦命なりとみえ
日本書紀に
妃 倭國香媛(やまとくにかひめ) 亦名 絙某姉(はえいろね)生 倭瓊瓊日百襲姫命 彦五十狭斧彦命 亦名 吉備津彦命古事記に
大倭根子太瓊命〈孝霊天皇〉娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子云々、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命云々、又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命云々、大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也とあり又 社伝に
大命御寿二百八十有一歳陵于中山南嶺 大命之御會孫 加夜臣中津彦命之嫡男 奈留美命造に 彼斎殿之地於一社 安 大命之荒霊及七神 是曰 内八神云々とあるにて 祭神は比古伊佐勢理昆古命 亦名 大吉備津彦命にます事を知るへし
然るに古事記傳に此二神の御子の事を書紀の伝にては下道臣も上道臣も並 稚武彦命の子孫なれは兄命の子孫は無かりにしにや甚いふかし 其故は彼 崇神巻に四道将軍のうち西道を言向たまひしは此兄命にこそ坐けれど 其處に弟命なりしをこの記は御兄弟二柱と伝え 書紀は若建吉備津日子と負坐へき由なし
又 此二柱は實は一柱なりけんを二紀共に御名のまきれに因て二柱と伝えたるかととも思えども兄命は大吉備津日子 弟命は若建吉備津日子にて大と若と別れたれば然には非ず 左右に疑わしき事なり
吉備津彦神社に相伝て吉備武彦命を祀ると云り神号を思へば始祖 若建日子命ならんか 又たとひ祖には坐すとも国言向坐しし大吉備津日子命ならんも知るへからすとあるによりて 本社の祭神をおほほしきさまに想う類もあるへけれど 既に云るが如く 兄命を祭れるものにて 聊も疑わしき事はなきなり神位・・・・・
社格 國幣中社
所在 宮内村吉備中山(吉備郡眞金村大字吉備山中)
【原文参照】
吉備津神社(岡山市吉備津)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)