河原神社(かわはらじんじゃ)は 勧請年歴は古くて不知 妙見宮と号した 藩政時代 毎年の例祭に国主代参奉幣がなされた由緒があり 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉では 妙見宮・川原社と号した為 式内社ではないとさたれが 水神社の古社地とも そのものとする説があります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
河原神社(Kawahara shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市郷ノ浦町半城本村触116
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉冊尊(いさなみのみこと)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
大己貴神(おほなむちのかみ)
罔象女神(みずはめのかみ)
大正5年(1916)9月21日 無格社水神社合祀
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考〉
【創 建 (Beginning of history)】
延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉以前は 妙見宮と号されていた
【由 緒 (History)】
勧請年歴は古来にて不知とされるが 藩政時代には 毎年の例祭に 国主代参があり奉幣をなされた由緒ある神社で 式内社 水神社の古社地であるとも そのものであるともされます
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 水神社
[ふ り が な ](みつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mitsu no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(927年12月)』所載 水神社(みつの かみのやしろ)の論社
・水神社(壱岐市勝本町布気触)
・河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)
〈水神社の古社地 ※祭神が共通の為の誤認との説あり〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
郷ノ浦港から県道175号を半城湾沿いに北上して 約4km 車7分程度
こんもりとした丘に鎮座します
鳥居の扁額には 河原神社
河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)に参着
一礼をして鳥居をくぐりと折れて 参道が伸びています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
デジタルデータ不良につき 参拝画像なし
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 水神社の所在について 布氣村〈現 水神社(壱岐市勝本町布気触)〉と記しています
【抜粋意訳】
水(ミツノ)神社
旧事記 国造本記 伊吉島造磐余玉穂朝伐石井従者 新羅海辺人 天津水疑上毛布直造 壱陽略志 以下
略志 布気村にあり
【原文参照】
国立公文書館蔵書『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
半城村 妙見宮〈現 河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)〉について
今 布氣と呼ばれる地名の伝等を記し
当初は 布気川を上った巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)を建てまつり鎮座したが 海上を通る船が 帆を下ろして神を敬わないと祟りがあったので 海の見えない水本山に遷座したと記しています
【抜粋意訳】
第十五巻 半城村之部
妙見宮 在 木村北坂 木村の産神なり 例祭九月十四日
祭神 伊弉冉尊 素戔嗚尊 大己貴神
御殿 寅向き
上屋・・・
拝殿・・・石階・・・
石鳥居・・境内
御山・・・
馬場・・・
影向松・・当社は 国中十七社の其の一にして 神社帳に川原辻 妙見宮 古来にて勧請年歴不知云々と所載あり 延宝二年甲寅卯月 寛永三庚午年九月 宝殿再建 毎度白銀五枚寄附をすね例歳九月十三日夜大神楽十四日国主代参奉幣種々の規式なりて神輿を飾調神幸 流鏑馬て還幸奉る
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 水神社の所在について 布氣村〈現 水神社(壱岐市勝本町布気触)〉と記しています
【抜粋意訳】
水神社
水は 美豆と訓べし 和名鈔
〇祭神 罔象女命歟 考証 水分神といふ 今は従わず
〇布氣村に在す
土俗 天神と称す類社 伊豆國 田方郡 玉作水神社の條見合すべし
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 水神社の古社地として 半城邑〈現 河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)〉を記しています
【抜粋意訳】
水神社
祭神 彌都波能賣神
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記に祭神 速秋津姫命とあれど 水神の彌都波能賣神にます事 右書明徴あり 但 壱岐島式社書上に所祭 罔象女命とあり祭神 八月廿五日
社格 村社所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記には 立石村とあれど 壱岐島式社名徴には 半城邑
又 牛方水上 とあり 式社沿革考にも旧記悉く半城邑 牛形と記るも同村の所名也 とあれば 同邑 大屋の水上二坐は式なる水神社の旧社地にして 同村 宋社 妙見宮に遷座奉る歟 延宝以前 当社を以て式内と称する時は水神社ならんとみえたれば立石村にはあるべからず 又 布氣邑なる天満天神を水神社と云る事は延宝四年 橘三喜の旧藩の命を奉して定めたる由なれ共 略考に神體銘に奉勤再奥天満天神御身體之事干岩大永丁亥八月曰日本願主右京助内宮方主各々等七條末流宗久とある上は布氣村あるも誤れり故今とらず
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)は 本来は式内社 水神社であるが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式外社とされた と記しています
【抜粋意訳】
柳田村ノ部 村社 河原神社 (旧号 妙見宮)
鎮座地 柳田村半城本村触字前間
祭 神 伊弊冊尊、素盞鳴尊、大巳貴神、罔象女神
大正五年九月二十一日 無格社水神社合祀例祭日 十月十四日 神幸式、大神樂、流嫡馬
境内地 414坪〔由緒沿革〕
当社ハ柳田村元半城村本村触 産土神ナリ。一、壱岐風土記ニ、壱岐十七社ノ其ノ一也ト。
一、壱岐神社帳ニ、河原ノ辻 妙見宮 本社古來ニテ勧請年数不知、延宝二年甲寅卯月、寛永三庚午年九月 宝殿再建、鎭信公在判。
元様五年壬申社殿造営 以下略ス。一、旧藩時代ニ於テ 藩主ノ崇敬厚ク 御造営毎ニ白銀五枚ヲ献ゼラレ、毎歳九月十三日夜 大神楽執行十四日國主代参奉幣アリ。
一、寛政辛亥春三月二十八日 国主源朝臣同二年夏五月十四日告文二通。
一、公方神楽米四升五合、大神楽米毎年七斗五升。
一、社領田地壱反歩。一、当社ハ古来 妙見宮卜称シ 式内十七社ノ一ニシテ 藩主ヨリ國幣ノ供進アリ、然ルニ延宝四年査定ノ折 延喜式ノ河原神社又ハ妙見宮ノ登録ナキヲ以テ過リテ式外卜認定サルゝニ到レリ。
一、明治維新神社改制二際シ村社ニ列セラル。
一、明治四十三年十月紳饌幣帛料供進神社ニ指定セラレ今日ニ及ベリ。
【原文参照】
河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)