神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 八尋殿(やひろでん)の守護神゛神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)゛を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した荒妙(あらたえ)(麻)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神麻績機殿神社(Kanomihatadono shrine)
【通称名(Common name)】
上機殿(かみはたどの)
【鎮座地 (Location) 】
三重県松阪市井口中町字井出ノ里675-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)所管社〉
【創 建 (Beginning of history)】
機殿神社 神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)
機殿神社には二社あって、一つは下機殿と呼び、東黒部地内大垣内の神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)で『和妙』(絹・にぎたえ)を奉織、一つは井口中の上機殿という神麻績機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)で『荒妙』(麻・あらたえ)を奉織する皇大神宮の所管社です。
伝えるところによると、早くから神服部氏(かんはっとりうじ)神麻績氏(かんおみうじ)が居て、和妙、荒妙の神御衣(かんみそ)を奉織していたといわれています。さらに雄略天皇の御代に呉の国から漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)また衣織(きぬぬい)の兄媛弟媛(えひめ おとひめ)を奉り、これより機殿の技に改善が加えられ、この両機殿を中心にこの地方一帯の機業は盛んとなり、やがて後の松阪木綿へと繋がっていったといわれています。今、当地に残る黒部という地名は呉部(くれべ)のなまったものと考えられています。
■神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)
正面建物が荒妙(あらたえ)(麻)を奉織する八尋殿。その左側が神麻績氏の祖神、天八坂彦命(あめのやさかひこのみこと)を祭る。御前神(みまえのみ)として八末社が祭られているが創立、祭神とも不明。八尋殿で皇大神宮と別宮の荒祭宮にたてまつる荒妙(麻)を奉織している。両機殿での奉織は、市の無形民俗文化財に指定されている。
【住所】三重県松阪市井口中町字井出ノ里675-1
一般社団法人松阪市観光協会HPより
https://www.matsusaka-kanko.com/information/information/kanomih/
【由 緒 (History)】
『神宮要綱』に記される内容
【抜粋意訳】
皇大神宮所管社 神麻績機殿神社
鎭座地 三重縣飯南郡機殿村大字井口中
殿舎
正 殿 神明造、萱葺、金銅金物打立、御階付、南面・・・壹宇
瑞垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
瑞 垣 袖繰板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其八尋 殿 神明造、萱葺、金銅金物打立、御階付、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重斎 館 切妻柿葺・・・壹宇
同末社
鎭座地 神麻績機殿神社社域内
殿舎
正 殿 神明造、板葺、内二宇南面、二宇東面、四宇西面・・・八宇
右神宮司廰造替神麻績機殿(カムヲミハタドノ)神社は 神御衣祭に際し皇大神宮及び荒祭宮に供進すべき荒妙(アラタヘ)を奉織する御機殿の鎮守の神として、古く麻績造の奉祀せる御社なること、和妙に於ける神服織機殿神社に同じ。
祭神は、蓋し伊勢の麻績氏の祖天八坂彦命なるべし。
中世以後荒療して只鎭守の小祠を遺し、元祿十二年神御衣祭復舊の當時も、未だ八尋殿の再興を見るに至らず。
享保十二年に至りて、八尋殿以下初めて再興せられたり。爾來明治維新に至るまで津藩に於て之を修造し來りしが、明治四年以後神宮司廳にて造替を執行し、同三十七年一月接績民有地一段五畝十八步を購入して現狀を為すに至れり。猶 両機殿の起源沿革は、神服織機殿神社條下に於て述ぶる所を参照すべし。
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈向かって右側〉・八尋殿
〈向かって左側〉・神服織機殿神社
・末社8社
〈瑞垣内の正殿の左右に 末社2宇〉
〈境内 神服織機殿神社向かって左に 末社2宇〉
〈境内 八尋殿向かって右に 末社4宇〉
・社務所
・社頭
・鎮守の杜
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
神麻績機殿神社は 皇大神宮(内宮)の所管社です
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(小52座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 麻續神社
[ふ り が な ](をみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Womi no kaminoyashiro)
【原文参照】
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 麻續神社(をみの かみのやしろ)の論社
・麻續神社(明和町中海)
・神麻続機殿神社(松阪市井口中町)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢神宮の神饌(しんせん)〈御饌(みけ)御贄(みにえ)〉について
神饌とは 御饌(みけ)とも云い お祭りなどで神様に献上するお食事のこと
〈神様に御饌(みけ)を奉り そのお下がりを参列した人たちでいただく行為・「神人共食(しんじんきょうしょく)」が 日本の祭りの特徴とも云う〉
『伊勢神宮の神饌〈1990-02-20〉』に記される内容
【抜粋意訳】
神饌について
神にお供えする飲食物を「神饌」というが,これは主として明治時代になって用いられた語で,古くは「みけ (御饌・御食)」とか「みにえ(御贄)」といい,神宮では「おもの」ともいった。「もの」に尊称をつけたのである。
昔は食べ物のことはあまり人に話さないという風潮が一般的にあったようだ。まして神々のおめし上がりになる゛おもの゛,おのずから秘された形になっていた。
どの神社でも昔は神饌調理法など直接奉仕する一部の人だけが承知すればよく,それを公開したり語ることはなかった。伊勢の神宮ではことさらであった。しかし現在ではまったく非公開で押し通せるものではない。情報が発達し撮影機材も発達している。写真を写させてほしいとの願書はしばしば出されるが,すべてお断わりしている。だがそれほど厳重に秘されたものではなく,その気になればシャッターチャンスもあるので防御は不可能だが,昔から慎むことを知る人々により,ことさら写すことも語ることもなされなかったのである。
神饌というと一般の人々は古代や中世初期の食生活が伝わっているだろうと大きな期待をもっておられる。だが残念ながらそれほど多くは残されていないのが事実である。がっかりなさるかもしれぬが,一般の神社では明治初年の神祇制度の大改革により古い姿がほとんど失われたのである。
神宮の場合も,なんとか遷宮諸祭と,三節祭(神嘗祭と六月と十二月の月次祭)に旧儀が保たれたが,日別朝タ大御僕祭も,古い姿そのままではない。信仰的な精神は古代そのままでも,調理法や,お供えの仕方など変わってしまった。
明治以前の奉仕者は,内宮は荒木田神主,外宮は度会神主という世襲の一族が神職となっていて,親から子へ口伝(くでん)として伝えられ,基本的な図や文書はあるものの詳細は口伝であっただろうから,全貌は伝わらないのである。
奈良の古社などは珍しい神饌が残されているが,あれも古式がずっと伝わったのではない。明治初年に廃されて,全国一律の神饌にと国家管理がなされた中で,かろうじて一社の古伝を尊重され復元されたものである。早く復元された神社は古式をほぼ正しく伝えることが出来たが,時代の波に洗われて変化せざるを得なかった神社がほとんどである。だから神饌の研究・調査はむづかしく慎重にお願いしたいとアドバイスしておく。・・・・以下略
【原文参照】
矢野,憲一「伊勢神宮の神饌」『調理科学』23(1),調理科学研究会. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10812860
神宮の神事に用いる神饌などを調進する施設 御料地(ごりょうち)について
御料地とは
神饌など神々へのお供え物を御料(ごりょう) そして御料を調達する場所や施設を御料地(ごりょうち)と呼びます
・神宮神田(伊勢市楠部町)〈※一般の方の見学はできません〉
〈神宮神田の歴史は古く、2000年前に倭姫命がお定めになったとの伝承があります。神田では五十鈴川の水をいただき、神宮のお祭りにお供えされる御料のうるち米ともち米が清浄に育てられ、その年にとれた新米は神嘗祭で大御神に奉られます〉
・神宮御園(伊勢市二見町溝口)〈※一般の方の見学はできません〉
〈神宮御園では季節に応じた野菜果物を栽培し、その品目は多種〉
・御塩殿・御塩汲入所・御塩焼所(伊勢市二見町荘)・御塩浜(伊勢市二見町西)
・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》御塩殿鎮守神(みしおどののまもりのかみ)
・神服織機殿神社・八尋殿(松阪市大垣内町)
〈神様の衣を「神御衣」といい 神宮では毎年春と秋 天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物に・御糸・御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われます
お祭りに先立ち 和妙(にぎたえ)は神服織機殿神社の八尋殿で奉織されます〉
・神服織機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどののまもりのかみ)
・神麻続機殿神社・八尋殿(松阪市井口中町)
〈神様の衣を「神御衣」といい 神宮では毎年春と秋 天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物に・御糸・御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われます
お祭りに先立ち 荒妙(あらたえ)は神麻続機殿神社の八尋殿で奉織されます〉
・神麻続機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)
・御料鰒調製所(鳥羽市国崎町)〈※一般の方の見学はできません〉
〈鰒調製所の歴史は古く その起源は約2000年前に倭姫命が志摩の国を巡られていた時 国崎の海女が鰒を差し出したことから御贄処として定められたと伝えられます〉
・御料干鯛調製所(知多郡知多町大字篠島)〈※一般の方の見学はできません〉
〈鯛は神饌の中でも とりわけ大切なものの一つで 干鯛は生鯛の内臓を取り除き 塩水につけた後 晴天の日に2日間ほど乾燥させたもの 平安時代の天皇の食膳品目にも見ることができます 神宮では篠島で伝統と由緒のままに調製された干鯛が 三節祭と呼ばれる大切なお祭りにお供えされます〉
・土器調製所(多気郡明和町蓑村)〈※一般の方の見学はできません〉
〈多気郡明和町蓑村の付近は 神代の昔 高天原から埴土を移したという伝承があり 良質な粘土に恵まれ 皇大神宮御鎮座当時から土器を作ってきたと伝えられます 現在でも土器調製所では 様々なお祭りに使用される素焼きの土器を年間約60,000個調製しています 神宮では一度使われた土器は再使用せず 細かく砕いて土に返すことになっています〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄山田線 漕代駅(こいしろえき)から北上 約2.8km 車5分程度
水田の中に鎮守の杜があります
南に延びる参道を進みます
南を向いて鳥居が建ちます
神麻績機殿神社(松阪市井口中町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 境内の参道を進みます
参道は途中で 大木を囲むように二手に分かれていて 左手は社務所の前に通じています
右手の参道の先には殿舎が建つ 御敷地へと通じます
社殿は 南向き 東西に八尋殿と神服織機殿神社が並んでいます
〈向かって右側〉・八尋殿
〈向かって左側〉・神服織機殿神社
玉砂利の敷き詰められた御敷地に立ち入るのはご遠慮して
こちらよりお祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
ちょうど夕日が 社務所の奥から差し込んでいます
眩い木漏れ日に向かうように進みます
鳥居を抜けて 境内から出ると辺りは 明るい日差しに先程とは様相を変えていました
鎮守の杜に一礼をします
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 麻續神社について 所在は井手郷井口村に在す、今飯野郡に属す、〈現 神麻績機殿神社(松阪市井口中町)〉と記しています
【抜粋意訳】
麻續神社
麻續は乎宇美と訓べし、和名鈔、郷名部 麻續、仮字上の如し
○祭神 大神御霊麻續屋姫命歟
○井手郷井口村に在す、今飯野郡に属す、儀式解
〇倭姫世記云、垂仁天皇二十五年三月、伊勢百船 度會國、玉掇伊蘇國に入坐、即建に神服織社、令織に太神之御服、麻續機殿神服社是也、』
又云、神服織殿、倭姫命入に座飯野高丘宮、作に之機屋、命織太神之御服、從に高宮而入に坐礒宮、因立に社於其地、曰に名服織社、號に麻續郷者、郡北在神、此奉に大宮神荒衣々、神麻續氏人等別に居此村、因以為名也、』
機殿儀式帳云、纏向珠城朝廷、垂仁 倭姫皇女仕に奉太神斎に奉飯野高宮、于時機殿立に長田郷、是処立社號に麻續社、亦名河崎社、是太神宮御霊也、稱に麻續屋姫命、連胤按るに、舊事紀 天神本紀に、天八坂彦命、伊勢神麻續連等祖、」
古語拾遺に、長白羽神、伊勢國麻續祖とあるは、即ち神麻續連麻續等の祖神たるのみにて、当社に祭る所にはあらざるべし、』
儀式解に、麻續神社は麻續機殿の鎭守にて、即ち機殿の傍にありと云り、氏人
日本紀、崇神天皇7年8月、伊勢麻續君、続日本紀、庚子年9月麻積豊足、神護景雲3年2月に、正六位上神麻續連足麻呂、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 麻續神社について 所在は麻續郷中海村にあり、〈現 麻續神社(明和町中海)〉と記しています
【抜粋意訳】
麻續(ヲミノ)神社
今 麻續郷中海村にあり、式内社検録
〇按 中海は中麻續の約言なり蓋 中麻續公の祖 豊城入彦命を祀る、三代実録、延喜式
凡 四月九日八日祭を行ふ、明細帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 麻續神社について 所在は麻續郷中海村にあり、〈現 麻續神社(明和町中海)〉と記し
井口村の機殿〈現 神麻績機殿神社(松阪市井口中町)〉とする説には従えないとも記しています
【抜粋意訳】
麻續神社
祭神
今按 三代實錄 貞観五年八月 多気郡百姓外少初位下麻續部愚麿呂等十六人復に本姓中麻續公の氏神 豊城入彦命之後也とあるによる時は中麻續公の氏神 豊城入彦命を祭れるなるへし祭日 四月九月並八日至十四日
社格 村社所在 三重縣麻續郷中海(ナカミ)村(多気郡上御絲村大字佐田)
今按 検錄に中海は中麻續の約言なり藤波氏文書に麻績郷内中麻續とありと云ひ 此地の麻續内にあるも本社の本村にある證とすべし然るを井口村の機殿に配するは従いがたし
【原文参照】
神麻績機殿神社(松阪市井口中町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)