玉敷神社(加須市騎西)

玉敷神社(たましきじんじゃ)は かつては久伊豆大明神と呼ばれ元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在で 埼玉郡 南北両埼玉郡〉の総鎮守騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇されていました 『延喜式神名帳927 AD.所載 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)されます

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

玉敷神社(Tamashiki shrine)

通称名(Common name)

・騎西の明神様

【鎮座地 (Location) 

 埼玉県加須市騎西 552-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(おほなむちのみこと)

《配》天照大御神 豊受大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 軻遇突智命

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

厄除開運、縁結び、安産、五穀豊穣、商売繁盛、詩歌道の向上

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

玉敷神社

主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
別の御名 大国主神(おおくにぬしのかみ)

(御由緒)、当神社は第四十二代 文武(もんむ)天皇の大宝三年(七〇三)、東山道 鎮撫使(ちんぶし)<多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ)>により創建されたと伝えられ(一説に第十三代 成務天皇六年(一三六)、武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)<兄多毛比命(えたもひのみこと)>によるという)、平安時代 第六十代 醍醐(だいご)天皇の延長五年(九二七)に公布された、律令(りつりょう)の施行細則「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(じんみょうちょう)にその名を載せる、いわゆる「延喜式内」の由緒ある古社である。
 以後、幾多の歳月を経て戦国時代に至り、天正二年(一五七四)越後の上杉謙信が当国に出兵の折り、当時正能村(現 当町正能)に在った当神社はその兵火にかかり炎上、古文書・社宝など悉く失われた。従って、それ以前の神社の歴史は明らかではない。
 江戸時代に入り、寛永四年(一六二七)の頃、騎西城主<大久保加賀守 忠職(ただもと)>によって現在の地に遷座、以来明治維新に至るまで、当神社は「勅願所玉敷神社 久伊豆大明神(ひさいずだいみょうじん)」と称されて、埼玉郡(さきたまのこおり)(現 南北両埼玉郡)の総鎮守、また騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇され、厄除を始めとするその多くの御神徳は厚い信仰を集めていた。
 この広範な領域に及んだ信仰は今日なお受け継がれ、二百年以上の昔から伝わる当神社独特の祓(はら)えの行事「お獅子様」を行う所は、当騎西町を中心とする県東北部の二十三の市町村並びに群馬・茨城用両県の一・二の町の大字小字の地区にまで広がっている。
 また、当神社には三百年を超える伝統を持ち、江戸神楽の原形を伝える国指定(平成二十年)重要無形民俗文化財「玉敷神社神楽」が保存され、年四回、祭礼の折に素朴で優雅な舞を披露している。

現地案内板より

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【由  (History)】

玉敷神社(たましきじんじゃ)

 平安時代初期に公布された、「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にその名を載(の)せる古社である。
 に伝わる江戸中期の記録によれば、元は正能(しょうのう)地区にあったが、上杉謙信の関東出兵の際焼失した。その後、一時根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近(現在の前玉(さきたま)神社)に移ったが、城内でたびたび出火するため、焼をおそれて、この地に遷座(せんざ)したという。
 当杜はかつて、久伊豆明神(ひさいずみょうじん)とも称し、元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在とも言われている。
 社叢(しゃそう)は地域の社寺林等の核的存在であり、当地方の相林(きょくそうりん)を示すカシ・スダジイを中心とする林となっており、数多くの動植物に恵まれてる

社頭の案内板より

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延喜式内 玉敷神社(たましきじんじゃ)

◇ご祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

 別の御名を「大国主命(おおくにぬしのみこと)」とも申し上げ、七福神の「だいこくさま」の名でも親しまれて、次のような多くのご神徳をお持ちの神である。

厄除開運、縁結び、安産、五穀豊穣、商売繁盛、詩歌道の向上

◇ご由緒

○創建 第42代文武(もんむ)天皇の御代 大宝3年(703)と伝える。

 平安時代初期、第60代醍醐(だいご)天皇の御代 延長5年(927)に公布された法制の書「延喜式」にその名を載せるいわゆる『延喜式内』の古社である。

O鎮座地の変遷 正能(しょうのう)村⇒根古屋(ねごや)村⇒現在地(加須市騎西552-1)

 創建以来、現在地より数百メートル北方の正能村(現 加須市正能)に鎮座の当神社は 天正2年(1574)、上杉謙信の当地方侵攻の折り。その兵火に罹り社殿を始め宝物・古記録等悉く灰殖に帰した。従って、それ以前の歴史は明らかでない。江戸時代に入り、その頃 根古屋村(現 加須市根古屋)に在った騎西城(寛永9/1632年廃城)の守護神として、その大手門前に遷座再建された。然し、防火体制不備による城内火災が度々起きたため、それに原因する神社類焼の危険を恐れた城主の処置により、ほどなく一寛永4年(1627)頃?一城前から現在の地に再遷座して、今日に至っている。

○信 仰 当神社は明治時代に至るまで『玉敷神社・久伊豆(ひさいず)大明神』と称し、旧埼玉郡の総鎮守、騎西領48箇村の総氏神として崇敬され、『騎西の明神様』の通称で呼ばれて篤い信仰を集めていた。今日、元荒川流域に沿う各地に「久伊豆」の名を冠する神社が数多く分布鎮座している事実は、当神社の昔日の広い信仰領域の歴史を物語っている。なお、戦前社格は「県社」であった。

Oご社殿 本殿・幣殿は文化13年(1816)の建築、拝殿は明治31年(1898)の改築である。因みに、本殿周囲を飾る彫物は当時「江戸三名工」の一人と謳われた五代目後藤茂右衛門の作である。

◇玉敷神社神楽

 当神社には、江戸里神楽の原型を伝える特徴ある神楽として、平成20年3月、国の「重要無形民俗文化財」指定を受けた一社相伝の「玉敷神社神楽」が保存されている。
本神楽は遅くとも江戸時代初期には始まったとされる永い歴史を持ち、素朴さの内にも優雅さを湛えた舞中心の神楽であり、番外一座を含む十七座から成る。年四回、下記の祭礼(午後)の折り、昔ながらの茅葺の神楽殿(天保7/1836年建築)で奉奏される。

2月1日: 初春祭、5月5日: 春季大祭、7月15口: 夏祭り、12月1日: 例大祭

玉敷神社社務所〈神社配布資料〉より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈神社配布資料〉境内案内図

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社殿の周囲を時計回りに⇒社殿向かって左手前の神楽殿から

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・神楽殿

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国指定重要無形民俗文化財

玉敷神社神楽(たましきじんじゃ かぐら)

 江戸神楽の源流をなすといわれる玉敷神社神楽。素朴(そぼく)な中にも、雅(みやび)な舞を伝える。
 この神楽の発生は定かでないが、正保(しょうほ)(1644~48)の元号(げんごう)を記した面や、享保(きょうほう)4年(1719)に神楽を奉納した記録がある。また、古く当神社は正能(しょうのう)地区に鎮座(ちんざ)しており、その氏子(うじこ)が連綿(れんめん)と神楽師(かぐらし)をつとめている。このことから、その成立は江戸時代初期まで遡(さかのぼ)るものであろう。
 演目(えんもく)は番外を含め17座。題材は神話によるものや、演劇的な舞で構成される。楽は笛・太鼓・羯鼓(かつこ)をもちいる。
加須市教育委員会

現地案内板より

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・イチョウ

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指定天然記念物

玉敷神社(たましきじんじゃ)のいちょう

 この境内には2本の大いちょうがある。いずれも雄木で、神楽殿(かぐらでん)の北側にあるものが樹高約30メートル、幹周り5メートル、枝張り15メートルである。社殿の西側のものは樹高約30メートルで、途中から3本に分かれている。幹や根には乳房状になった気根(きこん)が見られるが、これは古くなった表皮の呼吸を助けるためのものと考えられている。幹周り6メートル、枝張り15メートルで、ともに樹齢は500年と推定される。
 古くからこのあたりの人々は、当社のいちょうが色づくのを見て、麦播(むぎま)きの時季が来たことを知ったという。そうした親しみもあって、昭和50年の町制施行20周年には「町の木」に制定され、同55年には町指定天然記念物に指定され
加須市教育委員会

現地案内板より

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・八坂社

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八坂社( 天王様

一、 御祭神 素盞嗚命(すさのおのみこと)

一、 由緒
古くは「牛頭天王社」と称されていた。今日、「天王様」とよばれるのはこのためである。記録から江戸時代中期の享保年間(1716 – 1736)には既に鎮座していたことが確かめられる。

現地案内板より

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・厳島社(辨天様)

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一、御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

一、由 緒 江戸時代後期(1820年頃)編纂された武蔵國地誌に「辨天(べんてん)」と記されて、当時の存在が確かめられるが、創建の時期は明らかでない。

(付記)社殿前の濠に架かる石橋は大正時代、県道 加須 鴻巣線開設工事の際、騎西域付近から掘り出された古墳時代の石棺の一部である。

現地案内板より

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・松尾社

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松尾社

一、御祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)

一、 
享保8年(1723)に総本宮京都嵐山鎮座の松尾(まつのを)大社から勧請(神の分霊を遷し祀ること)したことを記す棟札(むなふだ)が残っており、創建時期を確認できる唯一の境内社である。なお、現在の社殿は近郷の酒屋中の寛政9年(1797)の寄進によるものである。

現地案内板より

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・秋葉社〈社殿の奥〉

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摂社 宮目神社

宮目神社(みやめじんじゃ)は 現在は 玉敷神社の境内摂社ですが 玉敷神社がこの地に遷座(一六二〇年頃)する迄は この社地の地主神として鎮座していたとされます

延喜式神名帳927 AD.所載 式内社 武蔵国 埼玉 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社です

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 宮目神社
[ふ り が な ]みやめの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Miyame no kamino yashiro)

〈延喜式内社の論社〉摂社 宮目神社記事を参照ください

・白山社

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白山神社

一、御祭神 菊理姫命(くくりひめのみこと)
  伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと)

一、 
過去の記録なく、建立の時期は明らかではない。江戸時代末期、他の所から移し祀られたのではないかと考えられる。なお現在の社殿は平成7年に造り替えられたものである。

現地案内板より

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・稲荷社

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・琴平社

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琴平社

一、御祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)

一、 
総本宮は言うまでもなく、広く「こんぴらさん」と親しみ呼ばれる讃岐象頭山(さぬきぞうづさん)鎮座の金比羅宮であるが、この社の過去のことを記す古い記録はなく、創建・由来など不明である。

現地案内板より

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・神馬舎

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・三の鳥居

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・手水舎

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・社務所〈参道右手〉

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・天神社

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天神社

一、御祭神 菅原道真公(すがわらのみちざね)

一、  以前の所在を示す記録は何もなく、創建の時期・由来等不明である。他の境内社と異なり参道脇に鎮座していることから、どこかの邸内社を移し祀ったものではないかと思われる。

現地案内板より

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・玉敷神社 神苑

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・一の鳥居&参道&二の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

旧河野邸跡〈参道の左手 参道を挟んで社務所の正面〉

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河野省三先生は 1931年10月 「国学の研究」により國學院大學から文学博士の学位を授与 昭和10年(1935)国学院大学出身として初めて国学院大学の学長に就任

文学博士 河野省三先生の経歴

・・・・
・・・・

国学について

国学とは、古事記や万葉集などの古典・歴史を通じて、日本民族の考え方や生き方を探ろうとする学間である。

その先駆けとなったのは、江戸時代前期の下河辺長流や僧 契沖による和歌の研究(歌学)である。中世における歌学は.公家文化を代表するものであったが、使用してはならない語句の規定を始めとする多くの煩(はんさ)な規則が中心であり、また、儒学や仏教の考えに基づいで和歌を解釈することが基本となっていた。

 これに対して契沖は、和歌は人間の持つ自然で自由な心情によって生み出されるものとして、精密な万葉集注釈書「万葉代匠記」を完成させ、古典を研究しようとする人に大きな影響を与えた。やがて、荷田春満や賀茂真淵らの研究により、古典の中に儒学や仏教とは価値の賃なる日本古来の物の見方を見出そうとする考え方(国学)が生まれ、本居宣長の古事記注訳書「古事記伝」によって学問的に完成された。

後に平田篤胤はこの思想を受け縫ぎながら独自の論を展開して、復古神道という考え方を生み出し、それはやがて、幕末の尊王攘夷運動の思想的背景となった。

騎西町

現地案内板より

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〈旧鎮座地について〉

・〈玉敷神社 当初の鎮座地〉龍花院(加須市正能)※天正2年(1574)兵火に罹り焼失

・〈玉敷神社 江戸時代に再建された鎮座地〉前玉神社(加須市根古屋)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 玉敷神社
[ふ り が な ]たましきの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Tamashiki no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

社号「玉敷神社」の由来について

社号「玉敷神社」の由来

“なぜ「玉敷神社」と云うのですか“、“「玉敷」とはどういう意味ですか

などと、お参りに来られた方から神社の名称についての質問を頂くことが時々あります。然し、神社名の「いわれ」に係る史料・文書等は全くありませんので、残念ですがその質問に対して直接お答えはできません。

 ところで、社名に冠する「玉敷」と云う言葉は普通の大きな辞書に載っていて、その意味は「玉を敷いたように美しいこと、またその美しい所を言う」と解説されています。従って、「玉敷」という社号は神社には似合いの望ましいものであると言ってもよく、同名の神社があちこちに鎮座していても不思議ではないと思うのです。

 然し、現実にはその望ましい社号の神社が唯一社「騎西」にしかないのは何故なのだろうか?と、社号誕生の源(みなもと)を尋ね求めて、騎西開拓の歴史に着目し、その由来を解こうとした説-一国学者であった当神社の元宮司

が唱えた説-----が生まれましたので、以下にそれを紹介致します。

『昔、「騎西」は「私市」と書かれていた。それは、今から1400年余り前 第三十代敏達(びだつ)天皇の御代6年(577)に、この騎西が他の数ヶ所と共に皇后のご料地である「私市(きさきいち)」となり、其処に入植した人々「私部(きさきべ)」により開拓された土地であることに由来すると云われる。「敏達天皇」は元の御名を「淳中倉太珠敷天皇(ぬらくらのふとたましきのすめらみこと)」と申し上げ、その御所は「幸玉宮(さきたまのみや)」と称した。

 それから120年余り後、第四十二代 文武(もんむ)天皇の御代 大宝(たいほう)3年(703)に、「私部」の子孫たちがこの地に鎮守の社を創建するに当たり、先祖の入植当時に「幸玉=埼玉」宮にお住まいであった「敏達天皇」とのご縁を思い起こし、その御本名の一部「珠敷⇒玉敷」を頂いて社号としたのであろう。』と云うものです。

 改めて申すまでもなく、史料に裏付けられた説ではありませんが、神社の創建に関わった「私部」の子孫が先祖入植の時代に馳せた思いを、この社号の中に見出そうとした床しい説と言えるのではないでしょうか。

《注1》「私(きさき)」:天皇の公的立場に対し、皇后(きさき)は「私」的立場にあることによる読み。
《注2》「私市」:「キサキイチ」→「キサイチ」→「キサイ」

埼玉県加須市騎西552-1 玉敷神社社務所

〈神社配布資料〉より

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延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)の鎮座地変遷について

・〈玉敷神社 当初の鎮座地〉龍花院(加須市正能)※天正2年(1574)兵火に罹り焼失

・〈玉敷神社 江戸時代に再建された鎮座地〉前玉神社(加須市根古屋)

・玉敷神社(加須市騎西)※寛永4年(1627)頃~現在の鎮座地に遷座

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東武伊勢崎線 加須駅から県道151号と旧 国道122経由南西へ約4km 車10分程度

社頭の一の鳥居出ます

玉敷神社(加須市騎西)に参着

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参道を進むと神苑桜が満開です

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三の鳥居の前に手水舎があり清めて 一礼をして鳥居をくぐり境内に進みます

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広めの石畳の参道は 石の色が別けられていて 正中を進まないように工夫がなされています
拝殿にすすみます

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社殿の向かって手前には 茅葺きの神楽殿建ちます

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社殿前の味わいのある狛犬と神楽殿

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拝殿の前には 奉献酒樽酒

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神紋

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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社殿を廻りながら境内社にお詣りをします

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社殿の向かって右奥 鳥居がある境内社は 延喜式内社 宮目神社の論社です

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摂社 宮目神社記事を参照ください

社殿に一礼をして 参道天神社にお詣りをしながら参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 玉敷神社について 阿波国の倭大國玉神 大國敷神社二座の関連を示唆し 所在について 騎西久伊豆大明神〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉と記しています

【抜粋意訳】

玉敷(タマシキ)神社

〇阿波国 倭大國玉神 大國敷神社二座

式社考
騎御騎西宿 久伊豆(ヒサイツ)大明神 オホナムヂ

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

宮目神社〈玉敷神社 境内摂社〉(加須市騎西)について 久伊豆神社〈現 玉敷神社〉の末社として 祭神は大山祇命となっています
姫宮神社とともに式内社の宮目神社の論社として挙げていますが 共に確証がないとも記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二百(埼玉郡之十一騎西

騎西町場 久伊豆神社

當社は騎西領中の總鎮守にして古社なり
東鑑 建久五年六月晦日 於武蔵國大河戸御厨久伊豆宮 神人喧嘩出来云々と見えたるは、こゝの事なるべし
 延喜式神名帳に載る所 埼玉郡四座の内 玉敷神社 祭神 大己貴命とありて 今何れの社たるを傳へず
岩槻城内 久伊豆神社あり 其餘郡内所々に久伊豆社と唱ふるもの多くあれど 何れもさせる古社ともはれざれば 若くは式に見え 東鑑にも沙汰あるは當社ならんか されど千百年の古へを後の世より論ずれば 如何にともいひがたし 久伊豆と改めしは 騎西郡内にありて 騎西伊の語路相通ずれば 唱へ改めしといへど 是も附會の説とをぼしく 社傳等には據なし
 神主の傳へには 當社元 正能村にありしが 上杉謙信 當所へ發向の時兵火に罹 彼正能村より飛て根古屋村に来り 慶長年中當所へ移せりと
彼根古屋は現に城のありし地にして 兵火もこの城を焼んが爲なれば 殊更に火中の根古屋へ飛来りしと云は 無稽の説と思はる
 當社往古は 根古屋村にありて 夫より正能村に移り 後此地に移りしならんに 正能 根古屋の兩村に 今も古宮蹟と呼べる除地ありて 當社神主の持なる由
 傳へに 當社は宣化天皇八代の後胤 從五位上 木工頭丹治貞成の靈社なり 貞成の子 峰成私市黨の始祖なり 後略して私の黨と唱ふ 此人の弟を貞峯と云 丹治黨の始祖なり 略して丹の黨と云 此二黨の子孫分れて武州に多し 其子孫の居所多く 此神社を祭れりと されば峯成の父貞成を祭れりと云こと 所謂あるに似たり

神宝 猿田彦面一 春日の作と云 やつれたるさま古物なることは 論なけれど銘はなし

獅子面一 同作と云 これも銘はなけれど普通のものには非ず 古物なること論なし

末社 宮目神社

祭神 大山祇命 是も式内の神社にて 昔は免田もあり 當社後背の山林畑は 則其免地なりしといへど 證とすべきことなし
 百間村 姫宮神社を式内宮目神社なりとも傳ふれど 是も據はなし 猶百間村姫宮神社の條合せ見るべし

伊勢宮 伊勢下宮 八幡香取合社 稲荷 松尾 三峯 五光権現 牛頭天王 辨天 元宮 伊豆権現

神主 河野隠岐 社地の内に居れり 藤原姓にして吉田家の配下なり 先祖周防守より當代に至るまで十七代といへど 舊記等更になければ 此外のこと知るべからず

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 玉敷神社の所在について 騎西町〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉と記しています

【抜粋意訳】

玉敷神社

玉敷は多萬之岐と訓べし
〇祭神 大己貴命、(地名記)
〇騎西町に在す、(同上)今久伊豆大明神と称す、
例祭  日、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 玉敷神社の所在について 根古屋村から正能村へ移し 更に騎西町〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉に遷座した と記しています

【抜粋意訳】

玉敷神社

祭神 大己貴命

祭日 三月十五日
社格 郷社

所在 騎西町(北埼玉郡騎西町大字騎西)
今按〈今考えるに〉
注進状に証拠詳かならねど往古 同郡 根古屋村にありしを正能村へ移し 慶長中 又 今地に移せりと土人の口碑に存し根古屋 正能の両村に古宮蹟と云ふ處あるも一證に備ふべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

 『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

玉敷神社(加須市騎西)について 元は久伊豆神社であったが 近年 式内社だと云われ社号を玉敷神社と改めたが 式内社であろうか? 確証はないが多くの書籍が式内社としている と記しています

【抜粋意訳】

埼玉縣 武蔵國 北埼玉郡 騎西町大字騎西

郷社 玉敷(タマシキノ)神社

祭神 大己貴(オホナムチノ)命 天照大御神(アマテラスオホミカミ)
   豊受(トヨウケノ)大神 伊弉諾(イザナギノ)尊 軻遇突智(カグツチノ)

本社は元と久伊豆神社と称せしが、近來 式社玉敷神社に擬せられ今の號に改めたり、当社果して式杜玉敷神社なりや否や、
武蔵式社考、当社を以て玉敷神社とし、神社覈録亦当社とす、確証ありしにあらずと雖も、特選神名牒 又当社を以て玉敷神社として云く、
「今按、注進状ニ証跡詳カナラネド、往古同郡根古屋村ニアリシヲ、正能村へ移シ、慶長中又今ノ地ニ移セリト、土人ノ口碑ニ存シ、根古屋正能ノ両村ニ古宮蹟ト云フ処アルモ一証ニ備フベシ、」
と、創立年代詳ならず、或は成務天皇年、武藏國造兄多毛比命、出雲大社の分霊を奉遷せりと傳へ、或は文武天皇 大宝 多治比興人三宅麿、之を創祀すと云ふ、
永禄月、上杉謙信 私市(キサイ)城攻撃の際、兵焚に罹り、正能村より根古屋村に遷し奉り、元和年、騎西領主 大久保加賀守、更に現社地 即ち宮目神社々域に社殿を営み、社領七石を寄附し、後ち寛永 根古屋村の地二反二畝を寄附し奉る、古来 騎西領中の総鎮守にして、古社なり、
東鑑に「建久月晦日、於武藏國大河戸御厨、久伊豆宮神人喧嘩出來」云々と見えたるは当社なるべし、
明治年郷社に列し、三十一十一月、境内社 内宮社 外三社を本社に合祀す、社殿は本殿、幣殿、拝殿其他神樂殿、額殿等あり、境内3629坪(官有地第一種)鬱蒼たる老杉古松、四圍を遮り自ら一境域を為す、

新編武蔵風土記一異説を記す、云々、
「又記ニ、当社ハ 宣化天皇八代ノ後 胤從五位上 木工頭丹治貞成ノ霊社ナリ、貞成ノ子峯成、私市党ノ始祖ナリ、後略シテ私ノ党ト唱フ、此人ノ弟ヲ貞峯ト云、丹治党ノ始租ナリ、略シテ丹ノ党ト云フ、此二党ノ子孫分レテ武州ニ多シ、其子孫ノ居所多ク此神社ヲ祭レリト、サレバ峯成ノ父貞成ヲ祭レリト云フ、所謂アルニ似タリ。」

当社 境内社に宮目神社を以て 社内とすと雖も、神社覈録 所引の地名記を除くの外、多く之れを非とす、当社寳物に猿田彦及獅子の面あり、共に春日の作と傳へたり。

境内神社 秋葉社 宮目神社 八坂社 瘡守稲荷神社 松尾神社 琴平神社 天神社 神島社 白山神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

玉敷神社(加須市騎西)に (hai)」(90度のお辞儀)

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