金鑽神社(かなさなじんじゃ)は 背後の山全体〈禁足地 御室ケ獄〉を御神体として とくに本殿はなく 自然の山を祀る太古の信仰形態を残しています 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とし 延喜式神名帳には武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)と所載の古社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
金鑽神社(Kanasana shrine)
【通称名(Common name)】
二宮様(にのみやさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮751
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大神(あまてらすおほかみ)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
《配》日本武尊(やまとたけるのみこと)
〈 第12代景行天皇の皇子〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈武藏國二之宮〉
・ 旧 官幣中社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
金鑚神社
所在地 児玉郡神川村二の宮
金鑚神社は、旧官幣中社で、延喜式神名帳にも名を残す古社である。むかしは武蔵国二の宮とも称された。地名の二の宮はこれによっている。
社伝によれば、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命(やまとひめのみこと)より賜(たまわ)った火打石を御霊代(みたましろ)として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素盞嗚命(すさのうのみこと)を祀ったのが始まりとされている。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が厚く、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代には徳川幕府から御朱印三〇石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。
境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説の遺跡”駒つなぎ石””旗掛杉””義家橋”などがある。
なお、この神社にはとくに本殿をおかず、背後の山全体を御神体としている。旧官・国幣社の中で本殿がないのはここのほか、全国でも大神(おおみわ)神社(奈良県)と諏訪神社(長野県)だけである。
昭和五十九年三月 神川町
現地案内板より
【由 緒 (History)】
武藏二宮 金鑚神社
武蔵二宮と称する神社で、古くは「金砂」あるいは「金さなざ」の語句が省略されたものと伝わる。禁足地である秀麗な「御室ケ獄(みむろがだけ)」を中心とし、建物をそなえずに自然の山を祀る神社は、奈艮県の大神神社や長野県の諏訪神社と当社が知られる。
景行天皇の御代 (西曆 1 0 0年頃 )に、日本武尊が火打石・火鑽金を神性なるものとして鎮め祀ったことを創始とする。
境内地は約 2万坪で重要文化財「多宝棟」や特別天然記念物「鏡岩」中せの山城である「御嶽城跡」等が点在する。
特別な神事として、 2 4種の作柄を占う【筒粥神事(つつがゆしんじ)】や日本武尊の由縁の【火鑚(ひきり)祭】等がある。また金鑚神楽として 1 3組の神楽が伝わっている。
神社配布パンフレットより
由緒
北武名勝史蹟案内しおり 武蔵二宮金鑽神社 神川町大字二宮鎮座 神社境内は八町うち1町半が神体林で木柵がまわっている。拝殿切妻流造、祝詞舎中門があり、義家橋、駒つなぎ石、義家旗掛銀杏がある。景行天皇41年日本武尊東征の折、御姨倭比姫命より賜った火鑽金火打石を御室山に収めて天照大神素盞嗚命二柱を奉斎し、尊は欽明天皇の御時配祀された。貞観4年官社に列せられ、延喜式内名神大社に列した。九郷用水守護児玉党五十六族の鎮守であり、徳川時代朱印30石、明治18年4月官幣中社に列格した。勅使参向6回、社宝には義家奉納の琵琶二面がある。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・御室山(御室ヶ嶽)の神門
〈本殿はなく 御神体山を遥拝〉
・拝殿
・祈願殿入口
・境内社〈社殿の南側境内〉
武蔵国式内社44座と共に 次の各社を祀る
熱田神社 氷川神社 伊弉諾神社 五柱神社 火産霊雷神社 大山清水神社 宮比神社 住吉神社 稲荷神社 薬師神社 諏訪神社 松尾神社 白山神社 八幡神社 菅原神社 二柱神社 ほか
・遥拝式場
・神楽殿
・勅使手植゛月桂樹゛
・御筒粥神事
・火金鑚祭(11月23日) - 懸税神事
・手水舎
・手水舎脇の石碑・案内看板
・御嶽鏡岩の石柱
・神饌所・御倉
・御嶽山入口
御嶽(みたけ)の鏡岩(かがみいわ)Mitake no kagami iwa
所在地 児玉郡神川村大字二ノ宮・渡瀬
御嶽の鏡岩は、ここから約400m登った御嶽山の中腹にあり、約30度の傾斜をもった岩面が、幅9m、高さ4mにわたつて赤褐色に光り、わずかの日射しでもにぶく輝いている。鏡岩は約1億年前の岩断層活動の跡で、断層面ができるとき強い摩擦(まさつ)力で岩面が鏡のように磨き上げられたものとみられ、岩がずれた方向に幾本もの筋が走っていることがわかる。貴重な地質学資料として、1956年(昭和31年)に国の特別天然記念物に指定されている。
伝説によると高崎城(群馬県)が落城したとき火災の炎が明るく映ったと伝えられ、また月の光に反射し敵の目標になることから、松明でいぶしたので赤褐色になったとも伝えられている。
この山は標高343.5mあり、尾根続きには御嶽城跡の遺構(いこう)もあって、周囲の眺望にすぐれ、神流川(かんながわ)、利根川(とねがわ)沿いの北関東が一望できる。
1983年(昭和58年)3月【2015年(平成27年)3月改修】神川町
現地案内板より
・御倉
・古木 椿
古木 椿
郡内最古樹令六百年以上
藪椿の古木で幹回り一米八十糎昔当社と児玉町宮内の若宮神社の祭神が 姉妹で喧嘩をして 椿の枝で妹を打ったので、以来當社に椿が多く 宮内には椿がない
あま、あま、と呼んで打ったので町の境の坂の名を「あまが坂」と呼ぶ
現地立札より
・鳥居・透塀
・御神木 旗懸銀杏
・御神橋
・社頭
・社務所
・多宝塔
金鑚神社多宝塔
所在地 児玉郡神川村二の宮
金鑚神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根がつけられた二重の塔姿である。
天文三年(一五三四)に阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」の墨書銘がある。
この塔は、建立年代の明確な本県有数の古建築であるとともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。塔姿建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。
昭和五十九年三月 神川町現地案内板より
・座蚕影山神社《主》木花開耶姫命
〈明治三十五年(1902)養蚕家 木村九蔵が奉祠(常陸国蚕影神社を分祀)〉
・参道口
・二の鳥居
・一の鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈金鑚神社の旧鎮座地〉元森神社《主》金鑚神
・元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉
・八坂神社《主》素盞嗚尊
・御嶽の鏡岩(みたけのかがみいわ)
御嶽の鏡岩
昭和三十一年七月十九日 国指定特別天然記念物
御嶽(みたけ)の鏡岩(かがみいわ)は、約一億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線(はちおうじこうぞうせん)ができた時の岩断層活動(いわだんそうかつどう)のすべり面である。岩面の大きさは、高さ約四メートル、幅約九メートルと大きく、北向きで約三十度の傾斜をなしている。岩質は赤鉄石英片岩(せきてつせきえいへんがん)で、赤褐色(せきかっしょく)に光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生じるさく痕(こん)がみられる。岩面の大きさや、断層の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭(ろとう)となっている。
鏡岩は古くから人々に知られていたようであり、江戸時代に記された『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』には、鏡岩に向えば「人影顔面の皺まで明細にうつりて、恰(あたか)も姿見の明鏡にむかふがごとし」とあり、『甲子夜話(かっしやわ)』にも同様の記述がある。また、鏡岩がある御嶽山の一帯は、中世の山城である御嶽城跡が所在することでも知られているが、鏡岩が敵の目標となることから、城の防備のため松明でいぶしたので赤褐色になったという伝説や、高崎城(群馬県)が落城した時には火災の炎が映ったとも伝えられている。このように鏡のように物の姿を映すということから、鏡岩といわれるようになった。
平成九年三月 神川町教育委員会現地案内板より
・〈境外末社〉有氏神社《主》有氏維行
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
貞觀四年(八六二)に 官社・神階を授けられたことが記されています
【抜粋意訳】
卷六 貞觀四年(八六二)六月四日辛丑
○六月戊戌朔 四日辛丑 武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神 列に於官社に
卷六 貞觀四年(八六二)八月六日壬寅
○六日壬寅 授武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神に 從五位下を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・金佐奈神社 一座 巳上 武蔵國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)児玉郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 金佐奈神社(名神大)
[ふ り が な ](かなさなの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kanasana no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『原日本考』〈昭和17年〉に記される内容
金鑚神社の神寶゛火打ち金゛は ゛八咫御鏡゛の破片であると所傳される 事が記され 御祭神〈天照大神〉の由縁について考えることが出来ます
【抜粋意訳】
七 金鑽神社と八咫御鏡
このサナが固有の意味をもって他の言葉と結合し、特異な表勇してゐるものに金鑽神社(埼玉縣兒玉郡青柳村)がある。武藏四十四座の神社のうち、氷川神社と共に大名神と延喜式に記され、往事から御神體のない宮であることで有名で、更に此の特徴を以て非常に古い宮であることとなってゐる。現在は國幣中社と立てられてあるが、社格はそれ以上に高かるべきものに推せられる。惜しいことに由緖を示す確たるものが不備である。從って明治の初め僅かに縣社として立てられた。後に昇格して國幣中社となっても一般にはこの神社の尊い意味が知られてゐない。
だが御神實として保存されてある火打ち金は、日本武尊が燒津で野火の難に遭はれた時に使用せられたものを、尊から献進せられたもので、元來に八咫の御鏡の破片であると所傳されることから、本社の社格に一層高義な意義が帶びさせられてゐる。
八咫御鏡に御瑕のあることは、日本書紀の一書に立派に明記してあり、崇神天皇の朝に是れを模して、以後宮中内侍所に奉安置せられたる御鏡に就いても、
内裏焼亡の時、内侍所の神鏡焼損せず、其の鏡經八寸許り頭に小瑕ありと雖も、專ら圓矩を損ふ事無し云々
と天徳御起 (村上天皇大徳年間文献 )に記してあると傅へ、御瑕があるとすれば本社の火打ち金の由來説も、かうして丸きり根のないものではない。八咫の御鏡が、銅製の御品であるか、乃至鐵製の御品であるか、何分國家最高の神器であって、神秘森厳窺ひ知るよしもないのであるが、金鑚社が前述の如く我が國内でも稀れなる古い特徵を帶びてゐる神社であることと共に、著名な火切りの神事があり、火切り金は當然に鐵製物であるから、こゝの所傳も却々に棄てられない。
わが日本金属文化史の研究に手を着けられた先覚の一人山本信也博士は、伊勢雜例集二の、
内侍所神鏡今度焼亡 (中略)天地開闘之初、高天原に於て銅を以て鑄造之神鏡也
とある語句、並に小野宮•實資の小右記の、
十一月十七日迄申神鏡焼損事其定趣者。可改鑄歟。將如何 (中略)。若改鑄すべくば俗銅を以て神物と混ずべからず。焼遺されたる神物等を以て齋き奉る可き歟。猶鑄造せらるべき鏡體は、新たに銅を以て鑄奉り相副奉安置るか如何。
とある語句を以て、御鏡の銅製の御物たることを主張する人であるが、それにしても此の金鑚の所傳はわが國の最も古い記憶に添ひ、解釋さるべき貴重なものがある。と云ふのは此のカナサナなる言葉に、わが民族の最も古い信仰の徵表が見えるからである。
【原文参照】
延喜式内社 武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)の論社
・金鑚神社(神川町)
・元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR八高線 児玉駅からR462号を西へ約6.4km 車15分程度
R462号沿いに一の鳥居が建ちます
金鑽神社(神川町二ノ宮)に参着
石灯籠の先に二の鳥居が見えてきます
車を駐車場に止めて 参道を歩みます
右手には 国の重要文化財 多宝塔
社頭に大きな石灯籠が建ち 御神橋 鳥居と続いています
神橋を渡り 一礼をして鳥居をくぐります
正面の建屋は神楽殿 すぐ左手に手水舎があり 清めます
拝殿にすすみます
拝殿の軒下には 防火の水溜だろうか 青銅の瓶が奉納されています
賽銭箱には
その年の御筒粥神事が記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 本殿はありません
御神体は 背後の御嶽山となっていて こちらから遥拝をする
古い信仰形態の神社です
山の麓には 神門だけが設けられています 御垣の内には本殿はありません
境内の南側には 境内社が祀られています
その先の道を進むと遥拝式場があります
ここから御嶽山への登山口となっていて 鏡岩まで句碑が続いています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 金鑚神社 名神大について 所在は金鑽村に在す〈現 金鑽神社(神川町二ノ宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
金鑚神社 名神大
金佐奈は 加奈左那と訓べし
〇祭神 素箋嗚尊、地名記
〇金鑽村に在す、地名記、参考、
例祭 月 日、
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 武蔵國 金佐奈神社一座
神位 官社
三代実録 貞觀四年(八六二)六月四日辛丑 武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神 列に於官社に貞觀四年(八六二)八月六日壬寅 授武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神に 從五位下を
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 金鑚神社 名神大について 所在は金鑚村にあり、五宮金鑚大明神といふ〈現 金鑽神社(神川町二ノ宮)〉と記しています
金佐奈(カナサナ)と 銅が産出した山なので 金砂の意から来ていると記しています
【抜粋意訳】
児玉郡一座大 金佐奈(カナサナノ)神社
今 金鑚村にあり、五宮金鑚大明神といふ、神道集、武蔵志料、拝舊祠記、神名帳考証、
〇按 本社の後なる山を金華山といふ、銅を掘し岩穴今現存と云り、之に據るに、金佐奈、金砂の義、其銅を出す山なるを以て、之を神とし祭る事 陸奥八溝黄金神社の如し、姑附て考に備ふ、清和天皇 貞觀四年(八六二)六月四日辛丑 武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神 列に於官社に
貞觀四年(八六二)八月六日壬寅 授武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神に 從五位下を
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 金鑚神社 名神大について 所在は金鑚村(児玉郡青柳村大字二の宮)〈現 金鑽神社(神川町二ノ宮)〉〈明治五年金鑽村 萩原村 二村を合して二宮村と改称す〉と記しています
【抜粋意訳】
児玉郡一座大 金佐奈神社 名神大 稱 金鑚大明神
祭神
神位 清和天皇 貞觀四年(八六二)六月四日辛丑 武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神 列に於官社に
貞觀四年(八六二)八月六日壬寅 授武藏國 正六位上 金佐奈(カナサナノ)神に 從五位下を祭日 (四月十五日)
社格 (明治十八年四月二十二日列官幣中社)所在 金鑚村(児玉郡青柳村大字二の宮)
今按 岩鼻縣神社考に本村に金鑚寺あり 寺の朱印高三十石はもと此神社のなりけむを奪はれしならんと云りさもあるべし さて思ふに金鑽寺は金佐奈神社の神宮寺なりけん 二宮村金鑽神社と云へとも 金鑽村と云ひ金鑽寺あれば此方なるべし
(湯川潔云 明治五年金鑽村 萩原村 二村を合して二宮村と改称す されば二宮村は即 金鑽村なり本書注 両村とせしば誤なり)
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
金鑚神社について 延喜式内社であるとし 往古 八幡太郎義家の奥州征伐の伝承を記しています
旧跡地として 見先社 本森社〈現 元森神社(神川町二ノ宮)〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社〉を記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 卷之二百四十一目錄 兒玉郡之四 八幡山領之一 金鑚村 金鑚神社
神體金山彦命或は 素戔嗚尊とも云 二十二村の惣鎮守なり
延喜式神名帳に 武蔵國兒玉郡 金佐奈神社名神大と載す
三代實録に 貞観四年六月四日武蔵國正六位上金佐奈神列於官社 同年八月六日授武蔵國正六位上金佐奈神從五位下と見ゆ
古は 村東今の見先森の兩社ある所に建し由 今の社地も松杉繁茂したれば
轉遷も古きことなるべし
往古の社傳は 元禄十一年回禄にかかり烏有となり 永禄年中の古鰐口を別當寺に蔵す 銘文に金鑚□五宮と彫れり 其故は詳ならず 其圖前に載す末社 白山 諏訪 天神 駒繋石 旗掛杉 義家橋
此の三祠 何れも社邊にあり 往古 八幡太郎義家 奥州征伐のとき当社へ参籠ありて 駒を繋ぎ旗を掛 橋を渡せしものと云 今橋は石にて作り長九尺許・・・
・・・〇見先社 祭神詳ならず 以下同じ
〇本森社 以上二社は 金鑚明神の舊地にあり 即ち金鑚の末社に屬せりと云 村民の持
・・・
【原文参照】