賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)の境内・境外の摂社・末社について

賀茂御祖神社〈下鴨神社〉京都市左京区下鴨泉川町境内・境外は 境内の糺(ただす)の森は 鴨川と高野川の合流する三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれます 多くの摂社・末社が祀られていますので その詳細について 現地の案内板を中心に見て行きます

賀茂御祖神社〈下鴨神社〉の本社については 別の記事を見てください

延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(かもわけいかつちの かみのやしろ)(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)

・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)

賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)の境内は 世界遺産゛古都京都の文化財に登録されています

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目次

・賀茂御祖神社の境内

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史跡 賀茂御祖(かもみおや)神社境内

(昭和五十八年三月二十九日指定)

 賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、玉依媛命(たまりひめのみこと)の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭のこと、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。

 境内の糺(ただす)の森は、鴨川と高野川の合流する三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。

 社殿の造営は、「社記」に天武天皇六年(六七七)のこととされ、長元九年(一〇三六)には、二十一年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造替で、
両本殿が国宝、他の社殿五十三棟は重要文化財である。

 平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に六十以上の庄園を持ち、山城国の一の宮、全国賀茂神社一三〇〇社の総本社として広く崇敬されてきた。
弘仁元年(八一〇)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として三十五代 約四〇〇年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の北西に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。

 また、桓武天皇が延暦十三年(七九四)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣も盛んであった。

 さらに、毎年五月十五日に賀茂祭(葵祭 あおいまつり)が行なわれ、この祭は、「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭と言えばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起元は、欽明天皇五年(五四五)にさかのぼる。また、御蔭祭(みかげまつり)、騎射(流鏑馬 やぶさめ)、蹴鞠(けまり)、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。

 このたびこのような賀茂神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。

昭和六十一年三月吉日 文部省 賀茂御祖神社

現地案内板より

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・境内図

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・〈本社〉西本殿(国宝)《主》 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

・〈本社〉東本殿(国宝)《主》 玉依姫命(たまよりひめのみこと)

〈末社〉印璽社(重要文化財)《主》霊璽(れいじ)

※特別公開時 以外は参観できません

・〈本社〉幣殿〈参拝客はここで参拝〉

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・蕃塀〈中門をくぐった正面〉

正中の直視を避け 社殿を隠すように設置される塀 悪霊や災厄・障りを防ぐ とされます

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・〈末社〉言社(ことしゃ)

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蕃塀の後ろ 〈本社〉幣殿の前に祀られている 七つの末社〈大国主命の七つの別名ごとの社の総称 十二支の守り神とされます

《主》大国魂神,顕国玉神,大国主神,大物主神,大己貴神,志固男神,八千矛神

一言社本殿 2棟(重要文化財)〈本殿の正面2棟

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二言社本殿 2棟(重要文化財)〈本殿の向かって右2棟

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三言社本殿 3棟(重要文化財)〈本殿の向かって左3

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・唐門・御料屋・預屋

重要文化財 唐門(からもん)

江戸時代寛永五年造替

 屋根の唐破風(からはふう)の形式からその名があります。また欄間(らんま)にブドウの文様が彫刻されているところから、ブドウ門ともよばれています。

 『古事記(こしき)』や日本書紀(にほんしょき)に伊弉諾尊(いさなぎのみこと)が黄泉国(よみのくに)から逃げ帰られたとき、追いかけて来た鬼に髪飾(かみかざり)りを投げつけられるとエビカズラの実に変わった、との神話があります。エビカズラは、野生のブドウのことで『源氏物語』などに、えび色(ぶどう色)と記しています。

また平安時代は、薬草の一種とされていました。

 ブドウ棚の文様は、我が国独自の意匠であり、神話が伝えているように門をくぐると人々を御祓(おはらい)する意味を表しています。

重要文化財 御料屋(ごりょうや)

右(北側)の社殿

神饌(お供え)の準備や盛り付けがおこなわれる社殿。

重要文化財 預屋(あずかりや)

左(南側)の社殿

 古くは 神官が神前奉仕のため控えている社殿。
現在は、儀式殿いずれも、江戸時代、寛永五年、式年遷宮のとき造替になった社殿

現地立札より

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・〈摂社〉三井神社

《主》賀茂建角身命,伊賀古夜日売命,玉依日売命

・〈摂社〉日吉神社《主》大山咋命三井神社に合祀〉

本殿3棟〈・東社 玉依媛賣・中社 賀茂建角身命・西社 伊賀古夜日賣命〉
拝殿、棟門、東西廊下は重要文化財

〈摂社〉三井神社については 別記事を参照してください

延喜式内社(名神大)「愛宕郡 三井神社」

・三井社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社 境内〉

三井神社の境内社・諏訪社・小杜社・白鬚社

・諏訪社(重要文化財)

諏訪社については 別記事を参照してください

延喜式内社「愛宕郡 須波神社」

・諏訪社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内に鎮座する 三井神社の境内社 諏訪社〉

・小杜社(重要文化財)
・白鬚社(重要文化財)

・〈本社〉四脚中門

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・〈本社〉大炊殿(おおいどの)
・〈本社〉井戸屋形(いどやかた)

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重要文化財 大炊殿(おおいどの)

 神饌(お供え)の御料を煮炊きし、調理をする社殿で大炊所(おおいところ)とも呼ばれている。入口の土間に竈(かまど)(おくどさん)があり、中の間は、お供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所奥の間は、盛り付けをし、神前へお供えする順に並べておく配膳棚が設けてある。

 古くは、この社殿ではご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)など穀物類が調理された。お酒は酒殿。魚貝鳥類に贄殿(にえどの)で料理されていたが、文明二年(一四七〇)六月十日、乱の兵火によって焼失した。

 その後、大炊殿は、現在の場所に再興された。酒殿は退転。贄殿は、供御所の一間に充てられた。神社建築のなかでこの種の社殿が現存するのは非常に希で貴重である。

現地立札より

賀茂斎院御所(かもさいいんごしょ)旧跡

 葵(あおい)の庭(カリンの庭)

 当神社には、賀茂斎院の制が設けられていた。
初代の斎王は弘仁元年(810)四月、嵯峨天皇第八皇女有智子(うちこ)内親王がト定された。
 賀茂斎院御所は、斎王が賀茂祭(葵祭)など
年中の重要祭儀に御参向になり、期間中ご滞在になる御所であった。平安時代は御本殿の西より鴨川までが宮城であったことを「鴨社古図」は伝えている。
 建暦二年(1212)九月四日、第三十五代 礼子(いやこ)内親王が御退位になるまで約四〇〇年間御座所となっていたが、文明の乱の兵火により御所棟をはじめほとんどの殿舎は消失した。
 その後、宮域ないの社殿のうち大炊殿(おおいとの)と御井(みい)が再興された。また、

 忘れめや あふいを草に ひき結び
  かりねののべの つゆの曙
 第三十一代 斎王式子(のりこ)内親王(新古今和歌集)

 とうたわれた葉アオイが自生する「葵の庭」も大炊殿の周辺に再顕された。大炊殿では、御薬酒なども調整されていたので、庭にはカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなどの薬草が栽培され、特にカリンの古木が有名で「カリンの庭」とも呼ばれている

現地立札より

重要文化財 御井(みい)

神饌(しんせん)の御水や若水(わかみず)神事など御水の祭事が行われる所である。井戸の井筒(いづつ)を井戸屋形(いどやかた)。上屋(うわや)を井戸屋と呼び、全体を御井と称している。

 井戸屋の前に「水ごしらえ場」がある。式内末刀社(まとのやしろ)の御祭神が御降臨(ごこうりん)される処との伝承の石(橋と呼ばれている)がある。毎年十二月十二日には御薬酒神事と若水をくむ 古代様式の神事が行われる。

 また井戸が文化財に指定されているのは他に例をみない。

現地立札より

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・〈本社〉御車舎

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〈本社〉舞殿

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〈本社〉神服殿

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重要文化財 神服殿(しんぷくでん)

 夏、冬の御神服を奉製(ほうせい)する御殿であったため、その名がある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿である。
近世は、勅使殿 又は 着到殿となり古来殿内の一室が行幸のときは、玉座(ぎょくざ)となった。
「開(あ)かずの間」として伝えられている。

古くから御所が災害にあわれた時、臨時の御座所(ござしょ)と定められている。式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は、二十一年目ごとに解体修理が行われる。

入母屋造、檜皮葺、桁行五間、梁間四間

現地立札より

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・解除所・媛小松〈神服殿の横〉

解除所(げじょのところ)

 当神社は古代から天皇ご親斎(しんさい)のお社である。
行幸、御幸、官祭にさいして解除(お祓)をされるところ。
常設の解除所が設けられたのは他に類を見ない。

現地立札より

媛小松(ひめこまつ) マツ科ヒメコマツ

ちはやぶる   鴨の社のひめこ松
 よろずよふとも   色はかわらじ
 藤原 敏行(古今和歌集)

賀茂祭(かものまつり)(葵祭)、御蔭祭(みかげのまつり)のとき奏される東游(あずまあそび)はわが国最古の歌舞である。

この松は歌の二段目「求め子」で鴨の社のひめ小松とうたわれた媛小松である。

 なお『ひめこ松』のひめは
当神社の御祭神
玉依媛命の御名にちなんで『媛』と記されるようになった

現地立札より

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・橋殿

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重要文化財 橋殿

 御蔭祭(みかげまつり)のとき、御神宝を奉安する御殿。
古くは御戸代会神事(みとしろえしんじ)、奏楽、里神楽、倭舞(やまとまい)が行われていた。
また行幸、御幸のさい、公卿、殿上人の控え所と定められていた。現在は名月管絃祭、正月神事等年中祭事のときに神事芸能が奉納される社殿。
式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は、二十一年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間

現地立札より

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・細殿御所

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重要文化財 細殿御所(ほそどのごしょ)

 平安時代の当神社の社殿の記録『神殿記』に細殿とある御所です。よって、今日でも細殿と呼んでいますが、歴代天皇の行幸(ぎょうこう)、法皇、上皇、院の御幸(みゆき)の安在所(あんざいしょ)です。

 また関白 賀茂詣のせつには、拝所(いしょ)とされたほか、文学史上にみる有名な「鴨社歌会」などが度々おこなわれた御所です。

 近世の記録では、天明八年(一七八八)、洛中の大火があり皇居が回禄(かいろく)(類焼)したときは、内侍所(ないじしょ)(賢所 かしこどころ)の奉安所となり、文久年度の回禄には、祐宮(のちの明治天皇)の安在所となりました。さらに文久三年(一八六三)三月三十一日、孝明天皇 鴨社攘夷御祈願行幸のときには、第十四代 徳川家茂将軍の侍所(さむらいどころ)となるなど、歴史的な御所です。

 内部の構造は、折上げ二重の天井、外部は、向拝(こうはい)のついた流造りとなっており、建築学的にも貴重な御所です。また向拝橋掛(階段のこと)への導入は、御手洗川に屋形橋(やかたはし)と言う屋根のついた儲橋(もうけばし)がかけられ、橋のたもとに水琴窟(すいきんくつ)の手水が設けられています。御所の東側は「桔梗の庭」と呼ばれています。桔梗(ききょう)は、古名をおかときき、とか、きちこう、とも呼ばれ自然を畏敬(いけい)し神仏に身をおく、と言う帰敬の意味をもって花が愛でられていました。

 現在の御所は、江戸時代、寛永五年(一六二八)遷宮に造替されて以降は、御遷宮ごとに解体修理がおこなわれてきました。

現地案内板より

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・御手洗川・輪橋(そりはし)

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御手洗川(みたらしがわ)

君がため御手洗川を若水に
 むすぶや千代の初めなるらむ
 (後撰和歌集)

 土用の丑の日に この御手洗川に足を浸し 疫病や病い封じを祈願して賑わう「足つけ神事」や 立秋の前夜の「矢取の神事」葵祭の「斎王代の禊の儀」をはじめ、祓の神事が執り行われるところである。また常は水が流れていないが、土用が近づくとこん〱と湧き出るところから、京の七不思議の一つとされ、その様をかたちどったと云われるみたらし団子の発祥のところでもある。

輪橋(そりばし)と光琳(こうりん)の梅

 尾形光琳(一六五八~一七一六)が、このあたりを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」である。以来、この梅を「光琳の梅」と呼ばれるようになった。

現地立札より

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・解除所(げじょしょ)

平安時代 「古今和歌集」

 こひせしと御手洗川にせし御禊(みそぎ)
  神はうけつぞなりにけらしも

鎌倉時代 「大納言為家集」

 禊(みそぎ)せし御手洗川の清き瀬に
  今朝たちかはる秋の初風

南北朝時代 「太平記」尊良親王(後醍醐天皇第二皇子)

 祈るとも神やはうけん影をのみ
  御手洗河の深き思ひを

室町時代 「沙玉集」後崇光院貞成親王

 禊祓(みそぎ)する麻の葉涼し今夜(こよひ)より
  秋や糺の森の下風

この湧水の池は、御手洗池(みたらしいけ)あるいは、 みたらし川と呼ばれ、古代から今に至るまで五月十五日葵祭にさきがけ斎王代禊儀(さいおうだいみそぎのぎ)をはじめ年中祭事の樹下神事(じゅげしんじ)(御祓)が斎行される場所です。

現地立札より

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・〈末社〉井上社(御手洗社)

井上社(御手洗社)については 別記事を参照してください

《主》瀬織津姫命

延喜式内社「愛宕郡 出雲井於神社」

・井上社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈賀茂御祖神社 境内〉

・〈末社〉印納社

末社 印納社(いんのうのやしろ)

御祭神

印璽大神(おしでのおおかみ)
倉稲魂命(くらのいなたまのかみ)

 御本宮の御垣内に古くから祀られてある印璽社(おしでのやしろ)の御祭神を祀り、ここに古印を納め御守護を仰ぐお社である。またこの一帯は平安時代初期より室町時代まで賀茂斎院御所(文明の乱により焼失)のあった由緒地である。

現地立札より

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・〈末社〉愛宕社《主》火産霊神
・〈末社〉稲荷社《主》宇迦之御魂神

愛宕社稲荷社については 別記事を参照してください

延喜式内社「愛宕郡 末刀神社」

・愛宕社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社 境内〉

・〈摂社〉出雲井於神社本殿は重要文化財

《主》建速須佐乃男命

出雲井於神社の境内社
・岩本社(重要文化財)
・橋本社(重要文化財)

出雲井於神社については 別記事を参照してください

延喜式内社「愛宕郡 出雲井於神社」

・出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈賀茂御祖神社 境内〉

・楼門

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・〈末社〉祓社

末社 祓社(はらいのやしろ)

御祭神

玉依姫命(たまよりひめのみこと)
賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)
祓戸大神(はらへどのおおかみ)

 当神社は、古代から鴨神道と称する独自の思想信仰を伝えている。
旅行、交通安全等の導きの守護神でもある。
 また、災難除(さいなんよ)け、病難除(びょうなんよ)けのお祓の神である。

現地立札より

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・〈末社〉相生社《主》神皇産霊神

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相生社(あいおいのやしろ)

縁結びの神

 御祭神は産霊神(むすびのかみ)で古代から縁結びの神として知られている。

めでたいことを「相生」というのは、ここから始まったといわれている。
 縁結びのお守り、心願絵馬、縁結びの御祈祷のお申し込みは、授与所へお申し出下さい。

現地立札より

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連理の榊

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 2本の木が途中から1本に繋がった「連理の榊」と呼ばれる神木 縁結びの神として有名

京の七不思議(ななふしぎ)

連理の賢木(れんりのさかき) 縁結びの御神木(ごしんぼく)

 この御神木は、右側のお社「相生社(あいおいのやしろ)」、縁結びの神の御神威(おちから)によって二本の木が一本にむすばれたものと云い伝えられている。このことは、
縁結び、安産子育(あんざんこそだて)
家内安全の御神徳の現れであり
謡曲などに相生とうたわれ 京の七不思議として 古くから有名である。又 この御神木は四代目であり 代を次いで境内 (ただす)の森の神域に生まれるのが不思議である。

現地立札より

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・南口鳥居

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・石拾神事 生石御祓い場

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・御手洗〈手水舎〉

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御手洗(みたらし)−直澄(ただす)

 古代から糺ただすの森は、清水の沸く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。室町時代の諸社根元記に「浮島うきしまの里、直澄(ただす)」と記されており、「糺」の語源の一説として知られています。
 現在、なお糺の森地中深くより豊かに湧水し、歴史を伝えています。生命の源である御神水により禊(みそぎ)をされ、御生(みあれ)の御蔭(おかげ)をこおむるとともに心身お清浄にお臨みください。

 やまとかも うみに嵐の西吹けば
  いづれの浦に 御船つながむ
  新古今和歌集

 御手洗は 御祭神の神話伝承にちなむ舟形 磐座(いわくら)石です。
 御神水をそそぐ樋は、糺の森のヌシと呼ばれていた樹齢六〇〇年のケヤキです。
 覆屋おおいやは、崇神天皇七年(BC九〇年ごろ)当神社 糺の森神地に瑞籬(みずがき)造替を賜った記録をもとに再現した透塀すきべいです。

現地立札より

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・酒殿〈奉納 樽酒〉

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・奈良の小川の御手洗(みたらし)

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奈良の小川の御手洗(みたらし)

(お手をさしひたし、禊(みそぎ)をして下さい)

 古くからナラ林を流れる小川というところから「奈良の小川」と和歌に詠まれて有名になりました。
 上流(八十メートル)の舩島(ふなしま)は、奈良殿神(ならどのかみ)が祀られている
無社殿神地です。 神社社殿成立以前の古代祭祀跡です。

現地立札より

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・参道

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ただすの森

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・〈末社〉賀茂斎院歴代斎王神霊社

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末社 賀茂斎院御歴代斎王神霊社

御祭神 有智子内親王ほか三十五代斎王御神霊

例 祭 七月四日

 葵祭の斎王さまの御神霊のお社です。「賀茂斎院御歴代斎王神霊社(かものさいいんのごれきだいのいつきのみやのみたまのおやしろ)」と呼んでいます。

 明治二十七年(一八九四)、賀茂御祖神社の御事歴を調査し編修した『賀茂御祖神社御時歴調記』には、「河崎社・斎院鎮守御社合社、御祭神、大伊伎命(おほいぎのみこと)(ひろく猿田彦大神として信仰されています。)と賀茂斎院御代々神霊社の二社が合わせ祀られた神社」と説明しています。また同書には「勧進・嵯峨天皇御代。在所、本社西南二町半」とあります。鴨社神舘御所の旧跡に祀られていたお社と河崎社(こうさきのやしろ)が合祀され鴨社神宮寺跡に祀られていたことを記録しています。

 勧進されたのは、「嵯峨天皇御代」となっています。賀茂斎院の制が設けられたのは、弘仁元年(八一〇)四月、(『一代要記』)とあり、初代の斎王さまは、嵯峨天皇の第八皇女・有智子(うちこ)内親王が弘仁元年、四才のときに卜定され、天長八年(八三一)十二月、二十一才で退下になり、承和十四年(八四七)十月二十六日、四十一才にて薨去されました。以来、
鎌倉時代の後鳥羽天皇の皇女・禮子内親王が建暦二年(一二一二)九月四日、退下されるまで三十五代、約四百年にわたって代々皇女が斎王宮として御在位になりました。

 『百練抄』の仁平元年(一一五一)七月四日のくだりに「一院供養河東御所内中嶋御塔」とあります。「河東」とは、その当時の宮中からみて、鴨川の東の御所、すなわち「鴨社頭賀茂斎院御所」のことです。当時、糺の森に所在した御所の池庭に祀られていた歴代斎王の神霊社の「ご供養(お祭)」を鳥羽法皇が祭祀された、ことを記しています。

 その後、応仁・文明の乱の兵火によって、鴨社頭賀茂斎院御所は焼亡(文明二年(一四七〇)六月十四日『親長卿記』)しました。のちにこの旧跡に鴨氏の祖先・河崎社と相殿となり御再興になりました。

 長い歴史の間には、紆余曲折がありましたが、今日まで変わらずにお祀りされています。ただ昭和三十三年・第三十二回・式年遷宮が予定され、造替の計画が勧められたので 御祭神は、摂社・三井社末社へ仮遷御され社殿を撤去されましたが、戦後社会の混乱状況により、御遷宮が遅延し、今回、第三十四回・平成二十七年式年遷宮事業により御再興いたしました。

現地案内板より

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・雑太社《主》神魂命

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末社 雑太社(さわたしゃ)

御祭神
 神魂命(かんたまのみこと)
 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

例祭 四月一日

 元は、鴨社(かもしゃ)神舘(かんたち)御所内の雑太(さわた)という字地に御所の鎮祭社として祀られていました。

 奈良、平安時代は、この社から各地へ分霊されていたことが記録にみえます。その一所に『倭名類聚抄』養老五年(七二一)四月に、佐渡國(さどのくに)雑太郡(さわたのこおり)加茂の加茂神社とあり、他にも多々みられます。

 応仁・文明の乱の兵火により、文明二年六月十四日(一四七〇・『親長卿記』)鴨社神舘御所とともに焼亡したので この地に御動座になりました。

 明治十年(一八七七)三月二十一日、官幣大社 賀茂御祖神社の末社と制定され、社殿は、明治四十三年(一九一〇)四月八日、旧法により、特別保護建造物に指定されました。

 同じ年の九月十日、社前の馬場にて、御祭神の神(かん)「魂(たまの)」命(みこと)は、「球」に通じるとして、糺の森で初のラグビの練習が第三高等学校と慶應義塾大学生とのあいだで おこなわれました。それが契機となり日本ラグビ界の歴史が始まり、今日まで数々の名勝負が展開されてきました。昭和四十四年(一九六九)十月五日、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立されました。

現地案内板より

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・〈摂社〉二十二所社《主》鴨氏二十二譜始祖神

特別保護建造物

摂社 二十二所社

御祭神 鴨氏二十二譜始祖神
例 祭 四月十四日

 明治十年 (八七七 )三月二十一日、摂社七社の内、第六社として制定されたお社です

 社殿は、第二十三回・正徳元年(一七一一)、式年遷宮により造替され、末社雑太社と相殿になりました。
 明治四十三年四月八日、特異な様式の社殿により、特別保護建造物に指定されていました。
 元々、この旧鴨社神宮寺域内に祀られていましたが、創始の年代は不詳です。
社名が一時・日吉社と呼ばれていたのは、明和七年(一七七〇)、当時の禰宜・俊春とその子俊永禰宜が代にわたって鴨伝承や歴史的資戮記録類を集成し、寛政十一年(一七九九)に完成させた『鴨縣纂書』(烏邑縣纂書、との名称もある)によると、「山王ヲ遙拝ノ所也。二十一庚申伝アリ。」と記しているとおり、滋賀県の日吉大社に当神社本宮御祭神・玉依媛命と同神が祀られており、このお社を遙拝所としていた時期があり、そのように呼ばれていたようです。

 「二十一庚申」とは、鴨氏の始祖神のことです。二十二所をわざわざ「二十一庚申」としたのは、氏祖神「雑太社」を相殿にお祀りしたからです。

 御祭神は、御本宮 御祭神の賀茂建角身命系譜を始祖とする氏とその祖 神魂命、さらに、開化天皇の皇子 彦坐命の系譜と神武天皇、崇神天皇より賜った姓の氏祖の神々をお祀りしています。

 戦後、混乱期の式年遷宮事業にあって、遅延した社殿再興がようやく今期、第三十四回式年遷宮事業によって造替できました。この機に攝社・二十二所社と末社・雑太社を元に復して別々に伝統の様式によってご造営しました。
 また、このお社は、二十一年ごとのご遷宮にあわせてご開帳するという珍しいお社です。

現地案内板より

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・〈末社〉河崎社

《主》神魂命 賀茂建角身命 玉依彦命 大伊乃伎命 大屋奈世命 馬伎命

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末社 河崎社

御祭神 神魂命 賀茂建角身命 玉依彦命 大伊乃伎命 大屋奈世命 馬伎命

  七月七日

『こうさきのやしろ』と、読む。元は、京都大学の辺りから 田中神社一帯にあった鴨氏の集落の社であった。この集落は、 鴨長明の一族の鴨村であったことがよく知られている。社の元の地は、現在の知恩寺付近で 今なお境内に鴨神社が奉斎されている。賀茂御祖神社領は、承和十一年(844)十二月二十日付、大政官符により制定された。河崎社は、山城国粟田の内であった。元慶四年(880)、上下の郷に分けられたと『三代実録』にある。その下粟田郷河崎里に祀られていたところから河崎社と呼ばれた。

 御祭神は、賀茂建角身命系譜の始祖神である。室町時代の『親長卿記』文明六年(1474)八月一日くだりに、先年の応仁・文明の乱によって略奪、放火にあった河崎の集落を守るために田中の構と称する防護壁を築いたとあり、その田中の構は、『実隆公記』文亀三年(1503) 月二十四日のくだりに、また乱により集落が襲われ兵火にみまわれたこと。その後も享禄三年(1530)十二月二十九日(『 二水記』)に襲撃をうけ集落がことごとく焼き討ちにあい壊滅状態となったと記されている。

天文五年(1536)七月二十二日(『鹿苑日録』)、さらにまた幻の兵火にあい、田中の構も河崎社も壊滅したとある。たび重なる乱の兵火によって崩壊した集落は、本宮紀の森西方のやはり応仁・文明の乱の兵火で焼亡した鴨社神御所跡へ氏人の村ごと移住し、河崎社も天明五年(1785)、御所跡へ遷御された。ところが、大正十年(1921)九月、京都市都市計画法によって、河崎社境内が下鴨本通となり、鴨社神宮寺跡の賀茂商院歴代斎王神霊社へ合祀された。昭和三十三年、戦後の混乱期の遷宮事業により社殿造替のため、今日まで撤去されたままとなっていた。今回、平成二十七年・第三十四回・式年遷宮事業の一環としてようやく、 古儀により再興した。

現地案内板より

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・〈摂社〉河合神社

《主》玉依姫命

鴨長明ゆかりの社 境内には長明が晩年を過ごしたとされる建物を再現した「方丈の庵」が復元

河合神社については 別記事を参照してください

延喜式内社(名神大)「愛宕郡 鴨川合坐小社宅神社」

・河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内゛糺の森゛に鎮座〉

河合神社の境内社〈・貴布祢神社・任部社・六社・三井社(三塚社)〉

・〈摂社〉貴布祢神社《主》高龗神
・任部社《主》八咫烏命

任部社については 別記事を参照してください

延喜式内社(名神大)「愛宕郡 鴨川合坐小社宅神社」

・任部社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉

・六社〈由木社、印社、竈神、稲荷社、衢社、諏訪社〉

六社については 別記事を参照してください

六社の内 諏訪社は

式内社の論社 延喜式内社「愛宕郡 須波神社」

・六社〈由木社・印社・竈神・稲荷社・衢社・諏訪社〉(京都市左京区下鴨泉川町)の諏訪社
〈下鴨神社の境内に鎮座する 河合神社の境内社 六社のうち諏訪社〉

・三井社(三塚社)《主》賀茂建角身命,伊賀古夜日売命,玉依媛売命

三井社(三塚社)については 別記事を参照してください

延喜式内社(名神大)「愛宕郡 三井神社」

・三井社(三塚社)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉 

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈摂社〉賀茂波爾神社(赤ノ宮)〈第4摂社〉

《主》波爾安日子神,波爾安日女神

・稲荷社賀茂波爾神社の境内

賀茂波爾神社(赤ノ宮)については 別記事を参照してください

延喜式内社「愛宕郡 賀茂波爾神社」

・賀茂波爾神社(京都市左京区高野上竹屋町)

・〈摂社〉御蔭神社

《主》賀茂建角身命,玉依媛命

御蔭神社については 別記事を参照してください

延喜式内社「愛宕郡 高野神社」
延喜式内社「愛宕郡 小野神社二座 鍬靫」

・御蔭神社(京都市左京区上高野東山)

賀茂御祖神社〈下鴨神社〉京都市左京区下鴨泉川町境内・境外の摂社・末社 (hai)」(90度のお辞儀)

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賀茂御祖神社〈下鴨神社〉の本社については 別の記事を見てください

延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(かもわけいかつちの かみのやしろ)(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)

・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)

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山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の式内社について

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-全国 一の宮("Ichinomiya" all over Japan)
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