末刀岩上神社 (まといわがみじんじゃ)は 江戸時代までは社殿がなく 御神体゛大岩゛を磐座(いわくら)として 古代からの自然崇拝が今に続きます 桜井水〈涸れた事のない泉〉が 下鴨神社へ流れる泉川の源流とされ 江戸時代に 下鴨神社の摂社 末刀社を名乗り 延喜式内社 山城國 愛宕郡 末刀神社(まとの かみのやしろ)の論社となります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
岩上神社 (Iwagami shrine)
【通称名(Common name)】
・末刀岩上神社 (Matoiwagami shrine)
・岩上さん
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市左京区松ケ崎林山30
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》祭神不祥
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・かつては、漁師、牛馬の神として信仰
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
岩上神社(松ヶ崎林山)
「日本歴史地名体系・京都市の地名」に「社殿を設けず、天然岩を神石とするところから、その名がつけられた。この地域には露出した岩の山肌が多く、松樹茂るところであり、古くから、清浄の地として知られるが、当社も林山を背景として、古代祭祀の磐座信仰の地であったと推定される。」とあります。
口碑には「昔兵庫の海中に光物あり。某高僧其の光を探り、此の石を得、岩神大明神と号し、此れに祀りしに始まれり」とあります。かつては、漁師、牛馬の神として信仰が篤く、参詣の人が多かったそうです。
12月5日はお火焚祭りが行われます。
松ヶ崎自治連公開HPより
http://kyoto-matsugasaki.com/about-01/history-02/
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・御神体゛大岩゛
磐座信仰
砂岩・チャート・頁岩といった京都盆地の代表的な基盤岩の露頭とされます
口碑には「昔兵庫の海中に光物あり。某高僧其の光を探り、此の石を得、岩神大明神と号し、此れに祀りしに始まれり」とあります
・御神体゛大岩゛の前の石祠
・拝殿
・社頭・鳥居
・手水舎・南無妙法蓮華経と刻まれた石碑や石塔
・岩上大明神と刻まれた石灯籠
(その横に 玄関に注連縄が懸かる民家〈社家か?〉)
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・桜井水(涌水)
涸れた事の無い桜井水(涌水)が 下鴨神社へ流れる泉川の源流であり 下鴨神社の摂社 末刀社として江戸時代に名乗りを上げて ゛岩上神社゛から゛末刀岩上神社゛と称したらしい
桜井水
この井泉は清少納言の『枕草子』(168段)に「井は少将井 桜井 云々」とある桜井にあたるともいわれ 自然石で゛囲った浅い井泉であるが 古くより清冽な水は早魅にも涸れることなく湧き出している
また一説に白河天皇皇子桜井僧正(行慶) または後鳥羽天皇皇子覚仁法親王(桜井宮)の旧跡ともいわれているが未だ定かではない
古歌に
六月ばかり桜井の聖のもとに
行きたりしに 鶯の鳴さしに
春めける声にきこゆる 鶯は
また桜井にすめるなりける
紫式部とある
井泉の上に南無妙法蓮華經 桜井水の石碑があるように墓参の供え水とする井泉で聖域となっている 合掌
平成六年拾月 湧泉寺堂講
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 末刀神社
[ふ り が な ](まとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mato no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 愛宕郡 末刀神社(まとの かみのやしろ)の論社
・愛宕社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内〉
・末刀岩上神社(京都市左京区松ケ崎林山)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
地下鉄烏丸線 松ヶ崎駅から北へ約300m 徒歩で5分程度
宝が池公園 少年スポーツ広場野中にある京都市こども体育館の辺り
林山(標高171m)の西麓山裾です
末刀岩上神社 (京都府京都市左京区松ケ崎林山)に参着
社号標には゛式内 末刀岩上神社゛と刻字されています
鳥居扁額にも゛末刀岩上神社゛とあり 一礼をしてから 参道の石段を上がります
石段を上がると 上に建屋があります
賽銭箱が置かれ 扁額には゛末刀神社゛と記されていますので 拝殿に間違いありません
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の真後ろには石垣が組まれていて その中を石段があり その上に石の小祠が祀られています
石垣の右側に 人が上がれるように階段が設置されていました
階段を 上がって行くと 玉垣に囲まれて御神体の大岩゛磐座゛が祀られています
古代の信仰形態を残していて 本殿は無く 神體の岩 か祀られています
上賀茂神社にも 岩上(がんじょう)と呼ばれる磐座があります
こちらと表記文字も形態も類似しています 参考までに 下に 上賀茂神社の写真を掲載します
末刀岩上神社に戻ります
磐座の前にある小祠は 先程 拝殿の後ろの石段から 見えていた小祠で この磐座を祀るものてしょう
参拝の前に この末刀岩上神社を調べていた時 もう少し木々に囲まれて鬱蒼としていた写真でしたが
今は 大木は少なく 開放感のある゛磐座゛になっています
御神体の大岩゛磐座゛の奥に見えているのは 大木が倒木した木の根 手前に見えているのは 大木の切り株です
どうやら 台風での倒木とのこと
磐座と拝殿は 西を向いていて おおよそ大文字山の方向でしょうか
磐座に一礼をして 参道石段を下ります
社頭は南西方向を向いています
下鴨神社の方向は 南南西辺りです
位置関係は
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 末刀神社について 所在は゛下鴨村御祖社の北に在す、御祖社の末也、゛〈現 愛宕社〈下鴨神社 境内〉〉と記しています
愛宕社は 現在は御祖神社の西に在りますが これは「゛水ごしらへ場゛と云う岩が本社の傍にあり そこに末刀神が降臨したと伝わり その祭祀が境内社の愛宕神社に継承されている」為です
別説として゛松崎陵戸云々、末刀前里云々゛〈現 末刀岩上神社(京都市左京区松ケ崎林山)〉も挙げています
しかし ゛必御祖社の四郷の中にぞありけむ、今末刀の名廃れたれば、いかにとも知りがたし゛とも記されています
【抜粋意訳】
末刀神社
末刀は假宇也
○祭神 詳ならず
○下鴨村御祖社の北に在す〔名勝志〕
○御祖社の末也、山城志云、同上、』
比保古云、末刀卜部本作ニ未刀、」此説論なし、採用ゐず、
〔連胤〕按るに、末刀は地名也、さるは永久五年十二月、諸陵寮牒、山城國衙文書に松崎陵戸云々、末刀前里云々、賀茂社、寛仁二年十一月二十二日太政官符、云々、諸丁陵戸等田云々、任ニ舊跡不ニ敢改易、とみえたれば、元陵戸田は神領に加へざりし事明らけく、永久の文書に、末刀前里の續に、蓼倉里もあれば、必御祖社の四郷の中にぞありけむ、今末刀の名廃れたれば、いかにとも知りがたし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 末刀神社について 社名のみが記されています
【抜粋意訳】
末刀(マトノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 末刀神社について 所在゛御組社の北に在とすれども 今指定むべさ社なし゛と云われているが現在は社がなく゛廃絶せしなるべし゛と記され 廃絶したのであろうと結んでいます
【抜粋意訳】
末刀(マトノ)神社
祭神
祭日
社格所在
今按 京郡府式内考証に名勝志 瀬見小河木に當社 御組社の北に在とすれども 今指定むべさ社なし
神社覈録云 末刀は地名也、さるは永久五年十二月、諸陵寮牒、山城國衙文書に松崎陵戸云々、末刀前里云々、賀茂社、寛仁二年十一月二十二日太政官符、云々、諸丁陵戸等田云々、任ニ舊跡不ニ敢改易、とみえたれば、元陵戸田は神領に加へざりし事明らけく、永久の文書に、末刀前里の續に、蓼倉里もあれば、必御祖社の四郷の中にぞありけむ、今末刀の名廃れたれば、いかにとも知りがたし、とあるによるときは 廃絶せしなるべし
【原文参照】