姫宮神社(ひめみやじんじゃ)は 社伝では 桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際 突然の病で亡くなったことを 後に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの話を聞き 姫の霊を祀ったのが始まりと伝わり 又 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
姫宮神社(Himemiya shrine)
【通称名(Common name)】
姫宮様(ひめみやさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県宮代町姫宮373
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》多記理姫命(たきりびめのみこと)
多記津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
まちしるべ 65
姫宮神社 所在地 宮代町字姫宮
姫宮神社は旧百間領(もんまりょう)の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・多岐津比売命(たぎつひめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)の三柱を祀る。 社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。 また、一説には、延長五年(927)成立の「延喜式(えんぎしき)」に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。
当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳五年(1715)四月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁(えびこうりょう)に文久三年(1863)の銘が記されている。 拝殿内には絵馬が多数掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。また、かつて所蔵していた応永二十年(1414)銘の鰐口は、現在、町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。
本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治三十五年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より2メートル程小高くなっており、かつて埴輪(はにわ)片が出土したことから古墳であると推定される。
宮代町現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社は、かつて旧百間領の総鎮守であったことから、昭和30年旧須賀村と合併の際、「姫宮」の宮をとり現町名の一部とした。
新編武蔵風土記稿等によれば、祭神は多気利姫・多気津姫・市杵島姫の三柱の姫を祀る。神体は釣境3面を掛けおくとあるが明らかでない。
一説に、当社は延喜式(平安時代の法令集)にある埼玉郡宮目神社とも言われているが、騎西町に宮目神社があり明らかではない。
建物は、本殿が江戸時代中頃正徳5年(1715)に造られたものであり、一方拝殿の海老虹梁に文久3年(1861)銘が記されており、本殿より後世に建てられたものである。
拝殿には、多数の絵馬がみられる。絵馬は、神に祈願または恩がえしの記として奉納する絵の額である。当社には、寺子、伊勢まいり、富士などの絵馬があり、まゆ玉の現物や硬貨(1文銭)を用いて造られたものなどもある。さらに、文化年間の俳句の絵馬(南枝の時代)、杉戸町本郷の処土大作暢書も掲げてある。
この他、境内には正徳5年の力石2個、享保4年の御手洗、天保12年(1841)の「こまいぬ」等がある。変った所では、享保2年の銘がある「ひしゃく」も今日に残されている。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈参拝順路〉に沿って
・香取社・鹿島社
・天神社
・地主社
・八幡社
・三峯社
・稲荷社
〈その他の境内〉
・力石
・手水鉢
・古墳〈2号墳〉本殿は周囲より1mほど高い2号墳(円墳)
・古墳〈1号墳〉境内 八幡社は 周囲より2mほど高く 埴輪片が出土
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宮目神社
[ふ り が な ](みやめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miyame no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社について
・宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)
・高城神社(熊谷市高本)
・姫宮神社(宮代町姫宮)
・神明神社(菖蒲町上栢間)
「姫宮と 身代あわせて 宮代町」町名の由来となった 二つの神社について
宮代町は、昭和30年7月20日、百間村と須賀村が合併し誕生しました。町の名前は、公募を行って集まった候補の中から選ばれました。その由来は、百間村の鎮守(地域を守る神様)である姫宮神社と、須賀村の鎮守である身代神社から一文字ずつとり組み合わせたものです。
身代神社(宮代町学園台)
まちしるべ34
身代(このしろ)神社
所在地 宮代町大字須賀座下堤
身代神社は旧須賀(すか)村の鎮守(ちんじゅ)で、明治時代の神社明細帳によると祭神は武速素佐能男命(たけはやすさのおのみこと)を主神として他16柱を祀(まつ)り、また「素佐能男命が大蛇(だいじゃ)を退治した際、心がすがすがしくなった」という故事(こじ)によりこの地を須賀村といい、蛇の縁により別当職を龍光院(りゅうこういん)という(中略)再興は天和二年(1682)三月二十八日なり」と記されている。 当社の創建は、鎌倉時代初期仁治三年(1242)三月の勧請(かんじょう)と伝えられている。祭礼は、七月十四日。身代神社の「代」をとって現町名の一部とした。
境内には高さ60センチほどの小さな庚申塔(こうしんとう)が並べ建てられている。これらは江戸時代後期に須賀村の島地区の人々が奉納したもので、こうした庚申塔は近隣にもあまり例を見ない。
この神社は古利根川の自然堤防の上に位置し、周辺から縄文時代や古墳時代の遺物が発見されている。また、神社西の身代池は、かつて利根川の流路ともいわれ、この池で釣った魚を持ち帰ろうとすると「オイテケ、オイテケ」という声がするというオイテケ堀の伝説も残されている。現地案内板より
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武伊勢崎線 姫宮駅から線路沿いに850m程北上 徒歩11分程度
南南東を向く社頭には「武蔵國百間 姫宮神社」と刻字されています
姫宮神社(宮代町姫宮)に参着
参道には 古い石灯籠の先に石の両部鳥居が建ち その先に旗竿があり 真っすく伸びた参道の先に 社殿が見えています
鳥居の扁額には 正一位 姫宮大明神 とあり
一礼をして 鳥居をくぐります
参道の途中 左手には集会場があり 参道の正面 社殿の周りは大木に覆われています
参道の左手に手水舎があり 清めます
拝殿にすすみます
拝殿の手前には おでこの張った古い狛犬が座します
拝殿の扁額には 姫宮社 と独特の書体で記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
本殿は覆屋で保護されています
本殿が鎮座する場所は 周囲より1mほど高い2号墳(円墳)
参拝順路通りに境内社にお詣りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目(ミヤメノ)神社
〇大宮賣神 太玉命子也
式内社考 柏間村 神明宮なり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百七 (埼玉郡之九) 百間領
百間村 姫宮明神社
村の鎮守とす 中村宝性寺持
神体は釣鏡三面にて 厨子の内に置く 中央は釈迦の像 左右に文殊普賢の像を鋳出せり
社前に應永中の鰐口を掛 其図上に出す
按に或説に據ば 式に載る埼玉郡宮目神社と云るは 此社といへど正き據を知らず
騎西町の内に宮目神社とて既に今も其唱て居 されど僅の社にして式社といはん 程のことは 考ふへきものなし 猶其條に云り
末社
地主権現 稲荷 香取 鹿島 神楽殿 庵一宇
〇八幡社(村持)〇稲荷社(青林寺持) 神明社(松永寺持)〇雷電社(遍照院下同)〇庚申社
末社 地主権現 稲荷 香取 鹿島
神楽殿 庵一宇
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
宮目は美夜女と訓べし
○祭神 大山咋命、(地名記)
○騎西町に在す、(同上)
例祭 月 日、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 宮目神社については 社名のみ記されています
【抜粋意訳】
宮目(みやめの)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 百聞村字姫宮〈現 姫宮神社(宮代町姫宮)〉として その他に2説・騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と・柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉を記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
祭神 大宮賣神
今按〈今考えるに〉
注進状に祭神未詳 一説に多紀理姫命 多紀津姫命とあれど こは中古 姫宮と云より唱出たる説にて信がたけれど 大宮賣神を祭れるを後には姫神とも唱へて 遂に祭神の名を失ひ 姫宮と云より三女神と訛れるなるべし 故今訂して記せり祭日
社格 (明細帳に姫宮とあり 村社)
所在 百間村 字姫宮(南埼玉郡百間村大字百聞西原字姫宮)
今按〈今考えるに〉
一説 騎西町にあり 又 柏間村 神明宮とも云へど
騎西町なるは 祭神 大山祇命と云も疑わしく旧記等の證とすべきものなし
柏間村なるは 社地に宮原と云小名あるのみにて證あるに非ざれば信じがたし
百間村なるは 姫宮神社と云ひ土人も宮目社と云伝へ 祭神は三女神と云ひ 應永年中鰐日に太田庄南方百間姫宮と銘あるも一證とするに足れり故今之に従へり
【原文参照】
「平安の 美しき姫 宮目姫」の伝承
【へ】 平安の 美しき姫 宮目姫
姫宮神社の創立にまつわる伝説です。
平安時代、桓武天皇の孫の宮目姫という美しい姫が、旅の途中、紅葉ケ岡という場所で突然の病で亡くなってしまい、この地に埋葬されました。これを聞いた慈覚大師というお坊さんが、祠を建てて姫を供養し、姫宮明神と呼んだという言い伝えが残っています。
姫宮神社(宮代町姫宮)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)