濱宮(はまのみや)は 神武天皇が御東征のとき 神鏡及び日矛を天道根命に託し 斎祭せしめた日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の元宮であり 豊鋤入媛命が斎祭った元伊勢 奈久佐浜宮(なくさのはまのみや)でもあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
濱宮(Hamanomiya)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市毛見1303
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
第一殿《主》天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
第二殿《配》天懸大神(あまかかすおほかみ)
国懸大神(くにかかすおほかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・伊勢神宮元宮(元伊勢)の1つ 奈久佐浜宮(なくさのはまのみや)
・日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の元宮
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の元宮
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
御祭神 天照皇大神
配祀(第二殿)天懸大神 国懸大神
境内社 豊鋤入媛神社 中言神社 高皇神社 天満宮 恵美須神社
御例祭 四月十六日悠久二千有余年の昔、崇神天皇五十一年(西暦紀元前47年)に豊鋤入媛命が天照皇大神の御霊代を奉載して、すでに天懸国懸両大神の鎮座しておられた名草濱宮に遷座せられ、三年間並び奉斎せられました。
その後、天照皇大神の御霊代は伊勢の五十鈴川のほとりを永久の宮地として御遷座(現在の伊勢神宮)になり、天懸・国懸両大神は垂仁天皇十六年(西暦紀元前14年)に至って現在の秋月の地を常宮としてお鎮まり(日前宮)になられました。
その御由緒により、第一殿に天照皇大神、第二殿に天懸・国懸両大神を奉祀し、「元伊勢の大神」と称えられて毛見・布引・琴の浦・紀三井寺団地の氏神様として、また「アシ神様」の御名で霊験あらたかな健康増進の神様として広く尊崇されて参りました由緒深い神社であります。本居宣長
紀の国の いせにうつりし跡ふりて
なくさの浜にのこる神がき社頭石碑より
【由 緒 (History)】
由来
『国造家旧記』等の古記録により、次のように伝えられている。
神武天皇御東征のとき、神鏡及び日矛を天道根命に託して斎祭せしめ給うた。
天道根命はこの二種の神宝を奉じて、先ず紀伊国名草郡加太浦へ行き、その後加太から同郡木本へ移り、更に木本から同郡毛見郷に到って、琴ノ浦海中の岩上に奉祀した(当神社の発祥と考えられる)。
崇神天皇51(紀元前47)年に至って、4月8日に、豊鋤入姫命が天照皇大神の御霊代を奉戴して名草濱宮に遷座せられ、同時に琴ノ浦の岩上に安置されていた天懸大神(神鏡)・国懸大神(日矛)も濱宮に遷し、宮殿を並べて鎮座せられた。
その後、天照皇大神は、崇神天皇54(紀元前44)年11月に吉備名方濱宮に遷られた後、垂仁天皇の御代に至り、倭姫命が奉じて伊勢の五十鈴川のほとりに遷られ、永久の宮地(現在の伊勢神宮)とされた。
一方、天懸・国懸両大神は、垂仁天皇16(紀元前14)年に名草萬代宮(現在の日前宮)に遷られ、常宮として鎮座せられた。
その由緒により、当神社の第一殿に天照皇大神、第二殿に天懸大神・国懸大神が奉祀されており、「元伊勢の大神」と称えられ、また健康増進についての霊験あらたかな神として「アシ神様」と呼ばれ、広く尊崇されてきた。和歌山県神社庁HPより
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・豊鋤入媛神社《主》豊鋤入媛命
※社殿の向かって左横(南側)に豊鋤入姫命の腰掛石が祀られています
・中言神社《主》名草姫命・名草彦命
・高皇神社(布引神社)《主》高御産巣日大神・天照皇大神、日前大神、国懸大神、市杵島姫神、猿田彦命
・天満宮《主》菅原道真公
・恵比須神社《主》大国主大神,事代主大神
・金比羅神社《主》毛見金比羅宮
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・垂仁天皇十六年に濱宮(はまのみや)から遷座した 日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
・この濱宮(はまのみや)から 日前神宮・國懸神宮が遷座した秋月の地には 元々は 伊太祁曽神社が鎮座していて 押し出されるように伊太祁曽神社は現在の〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉に遷座しました
・伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)
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伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)は 紀伊国一之宮で『続日本紀』大宝二年(702)に記事が見える古社 木の国〈紀伊国〉のルーツとされ“木の神”五十猛命を祀ります 秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺「亥の森」)に遷座されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』には 紀伊国 名草郡 伊太祁曽神社〈名神大 月次 新嘗 相嘗〉と記されます
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・三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
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三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
三生神社(みぶじんじゃ)は 亥の森(いのもり)とよばれる伊太祁曽神社の旧鎮座地の森に鎮座します 御祭神は本社と同じ 五十猛命(いたけるのみこと)大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)を祀ります
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
相嘗祭(あひむへのまつりの)神 七十一座
日前社(ひのまえのやしろ)一座
絹(キヌ)4疋 絲(イト)3絇4銖 綿8屯5両 調布6端8尺 木綿2斤8両 酒稲100束 神統國懸社(くにかかすのやしろ)一座
絹(キヌ)4疋 絲(イト)3絇4銖 綿8屯5両 調布6端8尺 木綿2斤8両 酒稲100束 神統
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・日前(ひのまえの) 神社 一座
國懸(くにかかすの)神社 一座座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに 絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 日前神社(名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](ひのまえ〈ひのくま〉の かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hinomae no kamino yashiro)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 国懸神社(名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](くにかかすの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunikakasu no kamino yashiro)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
紀伊国造(きいのくにのみやつこ)〈日前神宮・國懸神宮の神官〉について
日前神宮・國懸神宮の神官家は 代々 紀伊国造(きいのくにのみやつこ)によって受け継がれてきました
「国造(くにのみやつこ)」は 古代 大和朝廷から任命された国の管理を行う役職〈概ね現在の県や郡の規模〉でしたが 大化の改新以後は 中央集権国家となり 多くが「郡司」などの役職へと移行していきました
しかし 2つの国造職「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」と「紀伊国造(きいのくにのみやつこ)」は 平安時代になってもその名称が用いられ 平安初期の『貞観儀式』には 宮廷儀式の説明として「任出雲国造儀」「任紀伊国造儀」の記述があります
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E9%80%A0
紀伊国造(きのくにのみやつこ、きいこくそう)は、紀伊国(現在の和歌山県)を支配した国造。国造族は神別の紀氏の長の流れをくむ一族で、古代には代々紀伊国の国造職とともに日前神宮・國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、律令制施行により国造制が廃された後も同神宮の宮司として「国造」を称した。
概要
『先代旧事本紀』「国造本紀」では紀伊国造と表記されるが、古くは『古事記』で木国造(きのくにのみやつこ)、『日本書紀』で紀国造とも表記した。祖先
『先代旧事本紀』「国造本紀」では、神武朝に神皇産霊命の五世孫の天道根命を国造に定めたとされる。『紀伊続風土記』においても神武天皇の畿内平定ののちに紀伊の国造に封じられた天道根命の嫡流であるとされる。実際に任命された最初の紀伊国造は、6世紀の紀忍勝(日本書紀敏達12年7月丁酉条、10月条)であると考えられている。
氏族
紀氏(きうじ、姓は君)で、後に庚午年籍で紀直に改姓したと見られ[3]、承和二年三月には紀宿禰を賜姓された。神話の時代を含めると2,000年以上もの長い歳月を経た今もなお日前国懸の神に仕えている。
これほどの古い家系を今に伝えているのは、天皇家を除くと、
出雲国造家の千家・北島の両家、
阿蘇神社の大宮司である阿蘇家(阿蘇国造)、
宇佐神宮の大宮司である宮成・到津(宇佐国造)の両家、
隠岐国造家であった億岐家、
籠神社の宮司である海部家、
熱田神宮の大宮司である千秋家(尾張国造)、
住吉大社の宮司である津守家、
諏訪大社の大祝である諏訪家(神氏)ぐらいともいわれ、
特に出雲国造とともにその就任には朝廷からの認可が必要とされていた
出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは
濱宮(はまのみや)の神職は紀伊國造家の兼帯とされます
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承として
第六十代の紀伊國造 紀行文卿が 世の職〈日前宮の神官〉を辞して 濱宮(はまのみや)の宮山(毛見山)の山頂に庵を結んで閑居した 博学であって 専ら和歌など風雅の道を楽しんだと記しています
【原文参照】紀行文 退隠 蕉跡(きのゆきふみ たいいん きゅうし)
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神武天皇の東征に登場する 古代紀国の女王 名草戸畔(なぐさとべ)について
名草戸畔(なぐさとべ)とは
『日本書紀』によれば
名草邑(名草郡 現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だったが 東征で進軍中のイワレヒコノミコト(神武天皇)との戦いで誅殺した とのみ記しています
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
神武天皇の軍は 名草戸畔(なくさとべ)という者を誅した(殺した)と記しています
【抜粋意訳】
神武天皇 東征 紀伊国の段
〈六月乙未朔丁巳の条〉〈西暦紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前〉進軍して紀伊国(きのくに)竈山(かまやま)に進み至ったとき 五瀬命(いつせのみこと)は軍中に亡くなられた ですから竈山(かまやま)に葬られました
六月乙未朔丁巳(六月二十三日) 軍は 名草邑(なくさのむら)に至った
そこで 名草戸畔(なくさとべ)という者を誅した(殺した)ついに狹野(さの)を越えて 熊野の神邑(みわのむら)に至り 天磐盾(あまのいわたて)に登り さらに軍を率いて進んでいった
【原文参照】
地元の伝承による 名草戸畔(なぐさとべ)について
①女性であり名草姫(なぐさひめ)とも伝わる
➁現 海南市 熊野古道の側 クモ池周辺が戦場
名草戸畔(なぐさとべ)は ここで殺され 頭、胴、足(脚の意か)が切り離された
名草の里人によって 頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)・胴は杉尾神社(別名おはらさん)・足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された
※濱宮も「アシ神様」と呼ばれます
➂和歌山市の神社〔日前神宮・國懸神宮・濱宮 等〕では中言神社(なかごとじんじゃ)として 名草姫命(名草戸畔)・名草彦命〈名草姫命と名草彦命の関係は姉弟とも夫婦とも〉を祀っています
中言神社(なかごとじんじゃ)の本社は吉原〈名草山の北〉の中言神社
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『紀伊国名所図会』吉原〈名草山の北〉の中言神社
負けなかった名草戸畔の物語
宇賀部神社の宮司家に残る 小野田家の口伝(くでん)より抜粋
「名草戸畔は『日本書紀』に、九州から攻めてきた神武軍に「殺された」と一言だけ記されている。ところが、小野田家には、これとは違う物語が残っていることがわかった。「名葦戸畔は負けていない」と小野田さんは言う。「神武軍は名草軍に撃退されて仕方なく熊野に行った。しかし最終的に神武が勝利し天皇に即位した。そのため名草は降伏する形になったが、神武冨を追い払った名草は負けていない」。それが口伝のあらましだ。
小野田家では、名草戸畔は自分たちの遣い祖先と伝わっている。宇賀鄙神社の建つ山は、名草戸畔のお墓という説もある。家に入る前に、必ずご先祖のお宮にお参りする習慣は今も守られているそうだ。」
負けなかった名草戸畔の物語よりPDF負けなかった名草戸畔の物語 - 和歌山県p19
名草戸畔(なぐさとべ)の亡き後 紀伊を治めたのが「紀氏(きうじ)」
名草姫命(名草戸畔)・名草彦命は 紀氏の祖とも氏神ともされています
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
「神武皇帝 名草戸畔 を打ちし給へし処」と記さた図絵があります
【原文参照】
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
浜の宮ビーチから和歌山マリーナシティに架かるサンブリッジのたもと 毛見浜参道の大鳥居が建ちます
参道を東へ130m程進むと
ちょうど 西方へと海へ突き出る船尾山の北麓に 北向きに社頭の鳥居が建ちます
濱宮(和歌山市毛見)に参着
鳥居の 右手には社号標「濱宮」 左手には由緒石碑
一礼をして鳥居をくぐり 石垣で組まれた小高い社地へ参道を上ると 参道は右側(西側)へ直角に曲がり続いています
すぐ左側(南側)注連縄の張られた神域結界があり そこに五つの丸石が祀られています〈なんだろうか 力石では無いようです〉 その横に手水舎があり 清めます
手水舎の奥側(西側)「神楽殿」が建ちます
コンクリートの参道の先には 拝殿は無く 各神社の本殿の前には 御塀が廻されていて そこに屋根付きの拝所が 各神社ごとに設けられています
・第一殿・第二殿・豊鋤入姫神社の三つの神社は東向きに祀られています 拝所は ここ豊鋤入姫神社の南側でL字形に折れていて・他の境内社は 北向きに並んで祀られています
第一殿の本殿から順番に
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
東向きに祀られる 第一殿の本殿 御祭神「天照皇大神」
豊鋤入媛命が斎祭ったとれる元伊勢の奈久佐浜宮(なくさのはまのみや)です
第一殿の左(南側)第二殿の本殿 御祭神は「天懸大神」「国懸大神」
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の元宮です
第二殿の左(南側)豊鋤入姫神社の本殿 御祭神は「豊鋤入姫命」
社殿の左(南側)に豊鋤入姫命の腰掛石が祀られています
上の三社は 東向きに鎮座しますが ここでL字形になり 他の境内社は北向きに並んで祀られます
豊鋤入姫神社に近い側から
・中言神社・高皇神社(布引神社)・天満宮・恵比須神社・金刀比羅宮が祀られています
拝所から境内に下ります
社務所の前には立派な「旗立」が造られています
本殿の裏手は 駐車場になっています
社殿に一礼をして参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天石窟(あめのいわや)の段の一書に 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)について記しています
【抜粋意訳】
第七段〈天石窟の段〉一書(第一)
ある書によるとこのあとに〈誓約の後〉
稚日女尊(わかひるめのみこと)が 齋服殿(いみはたどの)で神の御服を織っていました
素戔鳴尊(すさのをのみこと)は これを見て 斑駒〈まだら模様の馬〉の皮を逆に剥いで 殿内に投げ込みました
稚日女尊は驚いて 機織り機から転げ落ち 持っていた梭(ひ)〈機織道具〉で体を突いて死んでしまわれた
それで天照大神(あまてらすおほみかみ)は素戔鳴尊(すさのをのみこと)に
「お前には まだ黒心〈汚らわしい心〉がある もうお前とは会いたくない」
すぐに天石窟(あめのいわや)に入られて 磐戸(いわと)を閉じてしまわれた
天下は 暗くなり 昼と夜の境も無くなってしまいました
そこで 八十萬神(やおよろずのかみ)が天高市(あめのたけち)に集り話し合いました
そのとき 高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)の御子 思兼神(おもいかねのかみ)がおりました 思慮深く 知恵がある神です
思兼神(おもいかねのかみ)が 考えて言うには
「かの〈日の神 天照大神〉神之象(かみの みかたち)を造り 祀り奉り 招きましょう」〈天照大御神の御姿を型取った日像鏡(ひがたのかがみ)〉
すなわち 石凝姥(いしこりどめ)が鍛冶士となり 天香山(あめのかぐやま)から金を採って 日矛(ひぼこ)を作りました
また 真名鹿の皮を全剥ぎ〈立派な鹿の皮を丸剝ぎにして〉天羽鞴(あめのはぶき)〈火起しのフイゴ〉を作りました
これを用いて 造り奉る神は 紀伊国(きいのくに)に坐(まします)日前神(ひのくまのかみ)です石凝姥は 伊之居梨度咩(いしこりどめ)といいます
全剥は宇都播伎(うつはぎ)といいます
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
天岩戸の段で 伊勢大神の鏡の前に造らせた日像之鏡(ひがたのかがみ)が 紀伊国(きいのくに)の日前神(ひのくまのかみ)と記しています
【抜粋意訳】
ここに 思兼神(おもいかねのかみ)の謀(はかりごと)通りに石凝姥神(いしこりどめのかみ)に 日像之鏡(ひがたのかがみ)を鋳造させました
初めに鋳造した鏡は 少(いささか)意に合わなかった
[これは 紀伊国(きいのくに)の日前神(ひのくまのかみ)である]次に鋳造した鏡は その形状が美麗(うるわし)かった
[これは 伊勢大神(いせのおほかみ)である]謀(はかりごと)通りに設け備える事が終わった
【原文参照】
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
『日本書紀』天石窟(あめのいわや)の段 一書とほぼ同じ内容で 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)について記しています
【意訳】
天照太神(あまてらすおほかみ)が 神衣(かんみそ)を織るために斎服殿(いみはたどの)へおいでになられた
そこへ素戔烏尊(すさのをのみこと)は 天斑馬(あまのふちこま)を生きたまま皮を逆に剥ぎ 御殿の屋根に穴をあけてその皮を投げ入れた
天照太神は たいへん驚き 機織の梭で身体をそこなわれた一説には 織女(おりめ)の稚日姫尊(わかひるめのみこと)が驚かれて機から落ち 持っていた梭で身体を傷つけられて亡くなった その稚日姫尊は 天照太神の妹である
天照太神は素戔烏尊に言われた
「お前はやはり黒心(きたなきこころ)がある もうお前と会いたいとは思わない」
そうして 天の岩屋に入り 磐戸を閉じ隠れられた
そのため 高天原は暗くなり また葦原の中国も暗くなって 昼と夜の区別も分からなくなった
あらゆる邪神の騒ぐ声は 夏の蠅のように世に満ち あらゆる禍いがいっせいに起こり 常世の国に居るようだ 諸神は憂い迷って 手も足もうち広げて 諸々のことを灯りをともしておこなった八百万神々(やおよろずのかみがみ)は 天八湍河(あまのやすかわ)の河原に集り どのようにお祈りを奉るべきかを相談した
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)は思慮深く智にすぐれて 深謀遠慮をめぐらせていった
「常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集め 互いに長鳴きさせましょう」そして集めて鳴き合わせたまた 日の神(ひのかみ)の像(かたち)を作り 招き祈り奉ることにした
また 鏡作の祖 石凝姥命(いしこりとめのみこと)を工とし 天八湍河(あまのやすかわ)の河上の天の堅石を採らせた
また 真名鹿(まなしか)の皮を丸剥ぎにし 天羽鞴(あまのはぶき)を作り 天金山(あまのかごやま)の銅を採り 日矛(ひぼこ)を作らせた
この鏡は 多少不出来だったが 紀伊国に坐(まします)日前神(ひのくまのかみ)がこれであるまた 鏡作の祖の天糠戸神(あめのぬかとのかみ)[石凝姥命の子である]に 天香山(あまのかぐやま)の銅を採らせて 日の像の鏡を作らせた そうして出来上がった鏡の姿は美麗だったが 岩戸に触れて小さな傷がついた その傷は今なおある
この鏡が 伊勢にお祀りする大神である いわゆる八咫鏡(やたのかがみ)
またの名を 真経津鏡(まふつのかがみ)がこれである
【原文参照】
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
名草濱(なぐさのはま)に建つ 現在の毛見浜参道の大鳥居と 濱宮が描かれた絵図 が記されます
【抜粋意訳】
濱宮(はまのみや)
毛見村にあり 当村の生土神(うぶすなのかみ)にして・・・・・
日前宮(にちぜんぐう)国造家(こくそうけ)の旧記によれば
祀神(さいじん)一殿 天照大神(あまてらすおほみかみ)一殿 日前國懸宮(にちぜんこくけんのみや)・・・・・
摂社 中言神(ちゅうことのかみ)この社を地主なりといへり・・・
御腰懸石(おんこしかけいし)
玉垣(たまかき)の内なる小祠に斎(いつき)まつり 上古 天照大神・・・
【原文参照】
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
毛見浦の条に 濱宮として記されています
【抜粋意訳】
紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 神宮下郷 毛見浦の条
毛見浦
内原村の西南十町許りなり名草郡あり 西海岸に突出たるを唯この一村にて此地の開けし事 最古し国造家舊記に
神武天皇東征之時以に神鏡(ミカガミ)及 日矛(ヒホコ)を託(ツケテ)天道根命に而斎祭(イツキマツラシメタマイキ)焉 天道根命 奉(イツキマツリテ)二種(フタクサ)の神寶(カンタカラ)を到そ 于 紀伊國 名草郡 加太浦に自 加太移り 于木に本従木の本到りて 于名草郡 毛見郷(ケミノサト)に則(スナワチ)奉安處(マツリキマセ)于琴浦(コトノウラ)之岩上(イワノウエ)に也至て・・・・・
・・・・・○濱宮
境内 東西五十八間 南北十四間本社 祀神 太神宮 日前国懸宮
末社四社
座 敷 神楽所 木馬屋 鳥 居
村中にあり 一村の産土神なり
倭姫世記に云う
崇神天皇
五十一年甲戊 遷 木乃国(キノクニ)奈久佐濱宮(ナグサノハマノミヤ)に積三年の間奉斎(イツキマツル)于時 紀伊国造(キイノクニノミヤツコ)進に舎人紀麻呂 良地口御田(ラチクチノミタ)を
五十四年丁丑 遷 吉備國(キビノクニ)名方濱宮(ナカタノハマノミヤ)に四年奉斎(イツキマツル)于時 吉備國造(キビノクニノミヤツコ)進 采女吉備津比賣(ウネメノキビツヒメ)又 地口御田(チクチノミタ)を
國造家舊記曰
神武天皇 東征之時以に神鏡(ミカガミ)及 日矛(ヒホコ)を託(ツケテ)天道根命に而斎祭(イツキマツラシメタマイキ)焉 天道根命 奉(イツキマツリテ)二種(フタクサ)の神寶(カンタカラ)を到そ 于 紀伊國 名草郡 加太浦に自 加太移り 于木に本従木の本到りて 于 名草郡 毛見郷(ケミノサト)に則(スナワチ)奉安處(マツリキマセ)于 琴浦(コトノウラ)之岩上(イワノウエ)に也至て
崇神天皇
五十一年 豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)奉(イタダキマツリテ)天照大神の御霊を遷坐(ウツシマツリタマエル)于 當國(コノクニ)の名草濱宮之時 日前国懸兩大神(ヒノクマクニカカスフタオホカミ)自に琴浦移りて于 名草濱宮に並へて宮を鎮坐(シズマリマシマス)蓋(ケダシ)三年也(ミトセナリヌ)
同五十四年十一月 天照大神 雖(イヘドモ)遷(ウツリマス)に 吉備名方濱宮(キビノナカタノハマノミヤ)に日前国懸兩大神(ヒノクマクニカカスノモロオホカミ)留り坐(マシマス)于 名草濱宮(ナクサノハノミヤ)至り垂仁天皇十六年 自 濱宮(ハマノミヤ)遷(ウツシマツリテ)于 同郡名草之 萬代宮(ヨロツヨノミヤ)而 鎮座(イズマリマサシメキ)也 今宮地是也とあり
按するに 伊勢大神宮 及 日前国懸兩大神の此地に御鎮座ありし始末日 前宮の條に明なり 伊勢大神は吉備名方に遷り給ひ 日前国懸は萬代宮に遷り給ひて 猶 其御神を此地に祭りて 其 舊跡を存せり 古は神田も多く 寛永記に濱ノ宮 免田三段 中言ノ社 五段 里神ノ社 二段 天正十三(1585)年没収すとあり 宮居も厳粛なるに 天正の兵燹に罹り社殿神領まて亡失せしに
元和年中(1651~)國命ありて再興せられ 享保以後(1716~)は 伊勢宮殿を模せられしかは 往古の遺風宛然としていと崇き神境とはなれり 神事は八月朔日 九月九日なり 昔は日前宮より神馬三匹渡れり 今は絶たり 神職は國造家兼帯なり○倭姫世記載する所 太神宮諸所に遷られ給ふ 順次(ツイデ)倭國(ヤマトノクニ)より木乃國(キノクニ)奈久佐濱ノ宮(ナクサノハマノミヤ)次に吉備國(キビノクニ)名方濱ノ宮(ナカタノハマノミヤ)次に倭彌和乃御室嶺上宮(ヤマトノミワノミムロノミネノウハツミヤ)なり 意(オモ)ふに吉備毛見(キビケミ)舊一音にして此邊の総名ならん 唯少(タダイササカ)轉用せしのみなり 毛見浦の東南一里餘に名方浦あり 吉備は此邊の総名にして名方濱宮といふもの即是なるへし 吉備の事詳に名方村の條に辨せり
○末社中言の神事は九月二十三日 昔は猿楽式三番叟あり 今は翁の舞のみあり 又 恵比須の傍に御腰懸石といふあり 豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)大神の御霊を奉して腰を掛られし石なるにや
麗氣記に
崇神天皇五十一年甲戊四月八日 遷るに 木之国 奈久佐濱宮に河底岩上紺瑠璃鉢座三年奉斎 同書に五十四年丁丑 遷 吉備國 名方濱宮 神崎岩上残水御壷座四年奉斎とあり 鉢と称し 御壷と称するも共に 自然の石鉢をいふなるへし 毛見郷の海邊の石は悉今に紫青色を帯ひて紺瑠璃といふへし
【原文参照】
濱宮(和歌山市毛見)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)