筥崎宮(はこざきぐう)は 筑前国一之宮で『延喜式神名帳』所載の名神大社であり 別称を「筥崎八幡宮(hakozaki hachimangu)」とも呼ばれます 宇佐神宮(大分県宇佐市)・石清水八幡宮(京都府八幡市)の2社に鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)or筥崎八幡宮(当社)のいずれかを合わせて三大八幡宮とも呼ばれます
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(Pray at the shrine)
- 5 神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
- 6 「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
- 7 筑前国 式内社 19座(大16座・小3座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
筥崎宮(hakozaki gu)
(はこざきぐう)
[通称名(Common name)]
筥崎八幡宮(hakozaki hachimangu)
はこざきさん
【鎮座地 (location) 】
福岡県福岡市東区箱崎1-22-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(ojin tenno)
《配》神功皇后(jingu kogo)
玉依姫命(tamayorihime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・安産祈願 Healthy childbirth
・初宮参り Baby prays at shrine for the first time
・七五三 7 year old 5 year old 3 year old celebration
・厄祓 Prayer at an age considered a milestone in life
・必勝祈願 Victory prayer
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・厄除開運 Prayer at an age considered a milestone in life.Bring good luck and happiness.
・合格祈願 Prayer for passing the exam
・交通安全 Pray for Traffic safety
・地鎮祭 Festival to Pray to the god of the ground
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 筑前国一之宮(chikuzen no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
・ 宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)
【創 建 (Beginning of history)】
延長元年(923)
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。公式HPより
【由 緒 (history)】
筥崎宮は、日本三大八幡宮の一つで、その創建の時期については諸説があり断定する事は困難である。
延喜21年(西暦921)神のおつげにより醍醐天皇は「敵国降伏」の宸筆を下され、大陸、玄界灘に面して壮麗なお宮が建立され、延長元年(西暦923)大分宮(穂波宮)よりこの宮に遷座されたことになっている。
この地は大陸に近く古くから文化の開けた地であった。特に海外との交流の門戸であり護国の要衝でもあった。
深遠な御神慮がしのばれる。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
【境内社 (Other deities within the precincts)】
西末社(5社合殿)
・龍王社《主》綿津見神
・若宮殿《主》仁徳天皇
・仲哀殿《主》仲哀天皇
・厳島殿《主》市杵島姫命
・民潤社《主》埴安神
東末社(5社合殿)
・池島殿《主》軻遇土命・奥津彦命・奥津姫命
・武内社《主》武内宿禰
・乙子殿《主》菟道稚郎子命
・住吉殿《主》底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命
・稲荷社《主》宇賀御魂神
・玉取恵比須社《主》事代主命
・宇佐殿《主》田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神
・沖浜恵比須神社《主》事代主命
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前国 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那珂郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社名 ] 八幡大菩薩筥埼宮(名神大)
[ふ り が な ](はちまんだいぼさつ はこさきのみや)
[How to read ](hachimandaibosatsu hakosaki no miya)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について
宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います
「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」の記事をご覧ください
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
福岡市営地下鉄 箱崎宮前駅(1番出口)から 約200m 徒歩3分程度
一番出口からは 参道に建つ現在の「二の鳥居」辺りに出ます
参拝時には 現在の二の鳥居から「箱崎浜」方面を振り返ると 現在は老朽化により2018年に解体されさりましたが 元あった「二の鳥居」が建っています
参道を進むと「一の鳥居」が建ちます
通常の神社とは逆に 本殿に近い鳥居が「一の鳥居」です
一之鳥居(国指定重要文化財)は 慶長14年(1609)藩主 黒田長政公が建立しました 鳥居の柱が 三段に切れ 下肥りに台石に続く肥前鳥居に似ています 笠木島木(かさぎしまぎ)が 1つの石材 先端が反り上がり 貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居で「筥崎鳥居」と呼ばれています
一礼して鳥居をくぐり抜けると 参道の正面には 檜皮葺の屋根を持つ立派な楼門が建ちます
右手に「手水舎」があり 清めます
すぐ隣には「お潮井」の砂があります
お潮井について
博多では箱崎浜のお潮井(真砂)を てぼ(籠)に入れ家の玄関に備え外出の時身に振りかけて災厄からのがれる事を祈ります。
又、家屋の新築の際に敷地を祓い清め、農家では田畑に撒いて虫よけ、豊作を祈ります。
この起源は非常に古く神代の時代に神神が行われた禊祓(みそぎばらい)に基づくものです。
当宮では春秋の二度、春分と秋分の日に一番近い「つちのえ」の日を社日祭と言いお潮井取りの神事が賑やかに行なわれています。
このお潮井には厄除開運の祈願がしてあります境内の案内板より
その横には「湧出石」
説明書きには
湧出石(わきでいし)
この石にふれると運が湧き出るといわれ、招福開運の信仰があります。
また、国に一大事がある時 地上に姿をあらわすという古い言い伝えがある石です
参道の右手には 絵馬殿があり 奉納された多くの絵馬が掛かります
正面の 楼門(国指定重要文化財)は文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景公が建立しました
参道の右手には お守り授与所が建ちます
正面の楼門には 有名な扁額「敵国降伏」が掲げられていますので伏敵門とも呼ばれます
敵国降伏のいわれ
筥崎宮楼門に掲げられる敵国降伏とは、鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を模写拡大したものです。
その意味は、武力によって相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡(なびき)降伏する(王道)という、我が国のあり方を説いています。案内板より
楼門を中心に回廊が廻されていて 一般は 楼門が拝所となります
拝所(楼門)にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿に向かって右から回廊の周りを廻ります
朱色の垣に囲まれて 御神木の「筥松」があります その背後に見えている社は「亀山上皇尊像奉安殿」です
御神木 筥松(はこまつ)
筥崎宮の御祭神、応神天応が筑紫国宇美の里(粕屋郡宇美町)にてお生まれになった時(西暦200年)その御胞衣(おえな)を筥に納めて 浪の音も静かな白砂青松の浄地に埋め標(しる)しの松を植えたと伝えられている。
それがこのところであって その後この地を箱崎と称え この松を「標の松」又は「筥松」といい御神木として尊んでいる。
千早振る神代に植えし箱崎の
松は久しき標しなりけり (続古今集) 法印行清案内板より
本殿奥の西側の境内社にお詣りです
西末社(5社合殿)
・龍王社《主》綿津見神
・若宮殿《主》仁徳天皇
・仲哀殿《主》仲哀天皇
・厳島殿《主》市杵島姫命
・民潤社《主》埴安神
非常に珍しい参道があります
ちょうど お潮井浜から一直線に本殿に向かう表参道が 楼門⇒拝殿⇒本殿へと更に 本殿の真後にある拝所(出口?)から 後へと参道が真っ直ぐ延びて 境内から外へ続いています
本殿の裏の回廊の様子です 本殿の真後にある拝所(出口?)があります
本殿奥の東側にも境内社がありお詣りです
東末社(5社合殿)
・池島殿《主》軻遇土命・奥津彦命・奥津姫命
・武内社《主》武内宿禰
・乙子殿《主》菟道稚郎子命
・住吉殿《主》底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命
・稲荷社《主》宇賀御魂神
社殿を囲む回廊を一周して楼門前に戻ります
見事な「大楠」もあります
参道を戻り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼します
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『八幡愚童訓(hachimangudokun)』群書類従 に記される伝承
鎌倉時代中期の文永11年(1274年)10月「神風」を呼び 蒙古襲来(元寇)を退けたと伝えられる 筥崎宮の八幡大神の神威について記されています
4万の元軍は 軍船900隻で 日本に押し寄せ・対馬・壱岐・松浦を呑み込み 博多湾へと襲来 そして 迎え撃つ日本軍(武士団)と激しい戦闘を展開します この時「筥崎宮」周辺でも戦闘があり 兵火に罹った筥崎宮の社殿は炎上してしまいます すると不思議なことに 戦闘が行われた翌朝 元軍は博多湾から忽然と姿を消したと伝わります これは 兵火で 筥崎宮を焼失させた為に「八幡大神の怒り」をかったとされ 夜半に神風が吹き 元軍を波間に沈めたとも伝えられています
八幡神縁起「八幡愚童訓」では 元軍と日本軍は 博多や箱崎での交戦後 日本軍は 一端「水城(大宰府)」へと後退します そして その日の夜半・・
意訳
「 此度は 既に武力つき果てて かゝる大勢が敗北して 逃げているのでは 神恩もなく 危き限りなりき 今はそのように見えている時に
夜半に 白装束の人 30人ばかり 「筥崎宮」より出て 矢さきを そろへて射ると見えしは 神の降臨し 給ひしなり
この神の降臨に 元軍は辟易して 松原の陣を逃げて 海に出ると 波の中から あやしき猛烈な火が燃え上がり 船二艘があらわれ出て 元軍は 皆 討たれる たまたま沖に逃げたる船も 大風に吹しつけられにけり これを生捕る日本人 その夜帰り来てかたると 今朝 生捕たる蒙古かいうと 同し事なりけれは 更に あやまり有へからすもし この時 日本の軍兵 一騎なりとも 控えていたならば 大菩薩の御戦とは言わないで 我が高名にして 追い返したと申したはずであろう
武士は一人もなく落失て後 夜になって さはかりなる異賊とも(元軍)は ひどく恐れて あるいは 潰れ あるいは 逃亡したのは まことに神軍の威徳厳重であったからです 不思議 いよいよ顕然とあらはれ給われたと 高貴な神と伏して拝まない人はいなかった 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『八幡愚童訓』群書類従 刊本(跋刊) 旧蔵者 外務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000037302&ID=M1000000000000061076&LANG=default&GID=&NO=19&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用
筑前国一之宮で『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の名神大社あり 別称を「筥崎八幡宮(hakozaki hachimangu)」とも呼ばれます
筥崎宮(hakozaki gu)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)