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近津神社(上野宮)
上野宮近津神社(うえのみや ちかつじんじゃ)は 社伝によれば 慶雲4年(707年)に 池田鏡山城主「藤原富得」が勧請して 神鏡 霊剣 金鈴を奉納されたと伝わります 坂上田村麻呂(758~811)が 八溝山の岩竹丸討伐の際は 當社に参籠したとも伝わる由緒ある古社です
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近津神社(町付)
町付近津神社は 大子町にある 3つの近津神社の「中之宮」にあたります 上野宮の近津神社周辺が稲村という地名でしたので「稲村三社(inamura sansha)」とも云われていて その総称として「近津三社(Chikatsu Sansha)」とも呼ばれています 水戸藩(徳川御三家)の初代藩主が石鳥居を奉納するなど 篤く崇敬されている神社です
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御釜神社(塩竃市)
御釜神社(おかまじんじゃ)は 鹽竈神社の末社とされますが 一説には元宮とも言われています 御祭神は 鹽竈神社と同じ 塩土老翁神(しおつちのおぢのかみ)です 境内地は 往古「甫出の浜(ほでのはま)」と称された浜辺で 我が国で最初に塩を作った場所と伝わり 例年7月4~6日は「藻塩焼神事」が行われ 古代の製塩方法を今に伝えています 境内には 日本三奇の一つ「四口の神釜」があり「変事が起こる前には御釜を満たす水の色が変わる」と云われます
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冠川神社(境内社)& 仙台八坂神社
冠川神社(かんむりがわじんじゃ)は 明治7年(1874)に塩竈市鎮座 一之宮 塩竃神社 の境内に遷座した国幣中社「志波彦神社」の元宮です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に名神大社として列する 朝廷から篤い信仰のある由緒ある古社です 御祭神「志波彦大神」は 記紀神話には登場せず この土地の土着神ともされている謎深き神です
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志波彦神社(塩竈市一森山)
志波彦神社(しはひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社として由緒ある國幣神社でしたが 社地狭隘の為に もとの鎮座地〈仙台市岩切の冠川〉から〈明治7年(1874)鹽竈神社の境内に〉遷座 現在は「志波彦神社・鹽竈神社」として1つの宗教法人となっています 御祭神は「鹽竈神(しおがまのかみ)」にご協力されたと伝わる「志波彦神(しはひこのかみ)」をお祀りします
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若狹姫神社 下社(小浜市)
若狹姫神社 下社は 若狭彦神社 上社と2社で一つの神社「若狭国一の宮」とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)に今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります
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若狹彦神社 上社(小浜市)
若狹彦神社は 上社「若狭彦神社」と下社「若狭姫神社」の総称で 2つの神社で若狭国の一宮とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります
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石都々古和気神社(石川町)
石都々古和気神社は 約一万年位前から信仰されていたとされている古代の祭祀遺跡の跡地に鎮座しています これは全国的にも数少ない大変重要な遺跡といわれています その様子は 山には 全山に花崗岩の巨石が連なる多くの磐境が点在していて・屏風岩・船形岩・鏡岩(2基)・亀石・天狗石・石門(鳥居)更に 三種の神器と言われている・剣・玉(勾玉)・鏡岩等があります
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日光二荒山神社・中宮祠・奥宮(日光市)
日光二荒山神社・中宮祠・奥宮は 男体山の山頂にあるので奥宮と呼ばれ 奥宮と日光二荒山神社本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれています 御祭神は日光二荒山神社と同じ・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3神です 中宮祠の本殿右側には山頂の奥宮への登拝門があり 5月から10月に登山口の門が開き ここから男体山に登ることができます
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日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉
日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します
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祇園神社(神戸・平野)
祇園神社(ぎおんじんじゃ)は 貞観11年(869)京の都で疫病が蔓延した時に これを治める御神威があるとされた「姫路の廣峯神社(ひろみねじんじゃ)」の御祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」=「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」の御分霊を 京都の八坂神社の前身とされている京都北白川の東光寺「祇園感神院」に遷すことになり その途中で その神輿が神戸にある この地「平野」に一泊されたと云われています 以来 当地でも 御神霊を祀り続け 今日に至ります
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近津神社(大子町下野宮)〈陸奥国一之宮 参考論社〉
下野宮近津神社は 奥久慈大子地方が陸奥國依上郷であった頃 久慈川沿いの三社〔〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下野宮近津神社(当社)〕を゛近津三社゛と総称し〈上宮・中宮〉の都々古別神社は 陸奥国一宮で 当社〈下宮〉は「石都々古別神社」陸奥国一宮と主張します 又 式内社 常陸國 稲村神社とする説あり
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都々古別神社(表郷三森 都々古山)
都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります
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都々古別神社(玉川村南須釜)
都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられた 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公〈698-720年〉が この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります
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都々古別神社(八槻)
八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました
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都都古和氣神社(馬場)
馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります
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鹽竈神社(塩竈市)
鹽竈神社は 「塩土老翁神」が 東北を平定する「武甕槌命&経津主神」の両神を先導して この地に至った折に ここに留まり 里人に製塩を教えたことに始まると伝えられます 全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社です 元々は当地には 鹽竈神社のみが鎮座していましたが 明治時代に志波彦神社が境内に遷座して 現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」として1つの宗教法人となっています
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海神社(隠岐 西ノ島)
海神社(かいじんじゃ or うみじんじゃ)は 本殿背後に古墳もあり 古くからの社地と思われますが 創立年などは不詳です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社とされていて 近世になって江戸時代には 別府村の「六社大明神(rokusha daimyojin)」と称されていました
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渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています
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幣之池神社(隠岐の島町 都万)
幣之池神社(しでのいけじんじゃ) は 『延喜式神名帳』所載社の「天健金草神社(amatake kanakaya shrine)」の元宮とされています 御祭神の「抓津媛命(tsumatsuhime no mikoto)」は 佐山の湧泉「幣(shide)の池」のほとりに居を構えたと云われ 清冽な水源地に祠が鎮座する古社です