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〈紀伊国一之宮〉日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)

日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)は 『日本書紀』天石窟(あめのいわや)の段 一書に 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)記されます 三種の神器である伊勢の神「八咫鏡(やたのかがみ)」と同等とされる 2つの御神鏡「日像鏡(ひがたのかがみ)日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を祀る崇高な神宮です

三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)

三生神社(みぶじんじゃ)は 亥の森(いのもり)とよばれる伊太祁曽神社の旧鎮座地の森に鎮座します 御祭神は本社と同じ 五十猛命(いたけるのみこと)大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)を祀ります

出雲〈北島〉國造家鎮守社(大社町杵築東)

出雲〈北島〉國造家鎮守 御三社(こくぞうけちんじゅ ごさんしゃ)は 出雲大社の東隣 出雲大社宮司〈北島〉家の祖先神をお祀りした鎮守社として〈天穂日命社・荒神社 稲荷社〉が 並んで鎮座されています 

喪山天神社(美濃市大矢田)

喪山天神社(もやまてんじんしゃ)は 『古事記』『日本書紀』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る神話)の中に出てくる「美濃国の喪山(もやま)」とされ 天若日子(あめのわかひこ)を祀り鎮座されます

喪山古墳(不破郡垂井町)

喪山古墳(もやまこふん)は 『日本書紀』『古事記』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る神話)の中に出てくる「美濃国の喪山(もやま)」〈天稚彦(あめのわかひこ)の御陵〉であると古くから言われてきました

加夜堂(多伎町多岐)〈加夜社の旧鎮座地〉

加夜堂(かやどう)は 阿陀加夜努志多伎吉比賣命(あだかやぬしたききひめのみこと)を祀り 『出雲國風土記733 AD.』「加夜社(かや)のやしろ」の旧鎮座地として「多岐村加夜堂也」との説があり 今は仏式ですが かつては加夜社であったと伝えられています

加都麻神社跡〈小勝間山跡〉(松江市鹿島町名分)

加都麻神社跡(かつまじんじゃあと)は かつて小勝間山に鎮座していた勝間神社の跡地で『出雲國風土記733 AD.』島根郡 加津麻社(かつま)のやしろ の旧鎮座地とされます 現在は 小勝間山も山ごと取り壊されていて 今は田の中に「名勝 小勝間山跡」の標柱があるのみです

布吾弥神社趾(松江市八雲町)

布吾弥神社趾(ふごみじんじゃあと)は 現在 熊野大社 境内 伊邪那美神社に合祀されている田中神社の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の布吾彌社(ふごみ)のやしろ『延喜式神名帳927 AD.』 所載の布吾彌神社(ふごみ の かみのやしろ)の跡地とされます

速玉神社趾〈熊野大社 上の宮跡〉(松江市八雲町)

速玉神社趾(はやたまじんじゃあと)は 熊野大社 上の宮 境内地趾にあって 現在 熊野大社 境内 伊邪那美神社に合祀されている速玉神社の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の速玉社(はやたま)のやしろ『延喜式神名帳927 AD.』 所載の速玉神社(はやたま の かみのやしろ)の跡地に該当します

久米神社趾〈熊野大社 上の宮跡〉(松江市八雲町)

久米神社趾(くめじんじゃあと)は 熊野大社 上の宮 境内地趾にあって 現在 熊野大社 境内 伊邪那美神社に合祀されている久米神社の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の久米社(くま)のやしろ『延喜式神名帳927 AD.』 所載の久米神社(くめ の かみのやしろ)の跡地とされます

前神社趾(松江市八雲町)

前神社趾(さきじんじゃあと)は 現在 熊野大社 境内 稲田神社に合祀されている御崎神社(前神社)の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の前社(くま)のやしろ『延喜式神名帳927 AD.』 所載の前神社(さき の かみのやしろ)の跡地とされます

楯井神社趾(松江市八雲町)

楯井神社趾(たていじんじゃあと)は 現在 熊野大社の境内 伊邪那美神社に合祀されている楯井神社の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の楯井社(たてゐ)のやしろ『延喜式神名帳927 AD.』 所載の楯井神社(たてゐ の かみのやしろ)の跡地とされます

能利刀神社趾(松江市八雲町)

能利刀神社趾(のりとじんじゃあと)は 現在 熊野大社 境内 伊邪那美神社に合祀されている能利刀神社の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の詔門社(のりと)のやしろ『延喜式神名帳927 AD.』 所載の熊〔能〕利刀神社(くま〔の〕りとのかみのやしろ)の跡地とされます

田中神社趾(松江市八雲町)

田中神社跡(たなかじんじゃあと)は 現在 熊野大社 境内 伊邪那美神社に合祀されている田中神社の旧鎮座地です 『出雲國風土記733 AD.』所載の田中社(たなかのやしろ)『延喜式神名帳927 AD.』 所載の田中神社(たなかのかみのやしろ)の跡地とされます

一夜神社(松江市鹿島町名分)

一夜神社(ひとよじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』「島根郡 不在神祇官社 一夜社(ひとよ)のやしろ」とされます 明治期に多久神社(鹿島町南講武)に合祀されますが 現在は旧社地に戻り 鎮座されています

石船神社(東茨城郡城里町岩船)〈延喜式内社〉

石船神社(いしふねじんじゃ)は 鳥石楠船命(とりいしくすぶねのみこと)〈別名を天鳥船神〉を祀ります 『古事記』では 天照大御神の詔により 葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を建御雷神(たけみかづちのかみ)に添えて 遣(つかわ)したとあります

⑯阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)高比賣命(たかひめのみこと)

天にいる 天若日子(あめのわかひこ)の父親と その妻子が 八日八夜の間 踊り食べて飲み遊び 死者を弔いをしている時 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 弔問においでにならた すると 天若日子の父親と その妻子が 阿遅志貴高日子根神を天若日子と間違えます この二柱がとても似ていたからです

宗形神社(米子市宗像)

宗形神社(むなかたじんじゃ)は 太古 宗像氏族が九州からこの地に来着し 祖神 宗像三女神をお祀りしたものと伝わり 伝承では 素戔嗚尊が宗像から船で三女神を連れて上陸し 後に船は〈お船塚〉石と化したされます 又「天稚彦命(あめのわかひこのみこと)が 高胸坂で返り矢を受けた」との古事は この胸形(むなかた)として 天稚彦命を祭神とする説があります

⑮天若日子(あめのわかひこ)・雉鳴女(きじのなきめ)・天佐具売(あめのさぐめ)

〈葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として 天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)しましたが すぐに大国主神(おほくにぬしのかみ)に 媚付(こびへつらい)三年経っても返事をしませんでした〉新たに 天若日子(あめのわかひこ)を 遣(つかわ)せましたが 大国主神の娘 下照比売(したてるひめ)を娶り その国を獲(え)ようと企(たくら)み これも八年経っても 返事することもありませんでしたので 雉(きじ)の鳴女(なきめ)を使いとして 差し向けます しかし 天若日子は これを矢で射殺してしまい 天からの返し矢によって命を落とします

大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)

大野見宿禰命神社(おおのみすくねのみことじんじゃ)は 御祭神に出雲国造の血筋にあたる角力(すもう)の祖 野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を祀ります 『延喜式神名帳927 AD.』所載 因幡国 高草郡 大野見宿禰命神社(おほのみのすくねのみことの かみのやしろ)とされます

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