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男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)

男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です

月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)

月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます

箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります

高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)

高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました

水神社(壱岐市勝本町布気触)

水神社(みずじんじゃ)は 社伝に 御祭神 速秋津日神が 布氣川を上った巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)を建てまつり鎮座したが 海上を通る船が 帆を下ろして神を敬わないと祟りがあったので 海の見えない水本山に遷座したと記しています 式内社の水神社(みつの かみのやしろ)とされています

津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)

津神社(つじんじゃ)は 社伝に「嵯峨天皇 弘仁二年(811)の草創 延喜式内 壱岐国 廿四座の一なり」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 石田郡 津神社(つの かみのやしろ)の論社です 郷ノ浦町牛方触(うしかたふれ)の津ノ上山(つのかみさん)〈角上山〉は 壱岐郡と石田郡の郡境にあり  式内社 壱岐郡 角上神社(つのへの かみのやしろ)ともされます

津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

津之宮神社(つのみやじんじゃ)は かつて神坂津宮大明神と称され 国府に近く 壱岐国の津〈現 印通寺港〉であったこの鎮座地は 地名も津宮と呼ばれる程の大社であったとされます 故に二つの式内社・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)の論社とされています

國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町北触)

佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 明治41年(1908)中津神社に合祀された佐肆布智明神の旧 鎮座地です 式内社の佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)とされます 石祠の背後の゛巨石゛は〈佐肆布都神社としるす所なり 古老 昔 佐肆布都神 石舟にのりてこの地に亘り給う〉とする舟石(ふないし)と考えられています

中津神社(壱岐市勝本町北触)

中津神社(なかつじんじゃ)は 社記によれば 弘仁2年(811)10月1日に鎮座と伝え 延寶4年(1676)の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社(なかつの かみのやしろ)(名神大)と査定とされ 明治41年(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています

聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)

手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです

國片主神社(壱岐市芦辺町)

國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました

香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社

香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について

天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)

天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です

天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした

香取神宮 要石 & 押手神社(香取市香取宮中)

香取神宮 要石(かなめいし)は 香取・鹿島の二柱の大神が 葦原中國を平定し 香取ヶ浦に至った時 地震を起こす大鯰(おおなまず)を鎮めるため 地中深くに石棒を差し込み 鯰の頭尾をさし通した霊石だと古くから伝えらます 押手神社(おしてじんじゃ)は この要石を向いて 宇迦之御魂神〈農耕の神〉を祀ります

鹿島神宮 跡宮(鹿嶋市神野)

鹿島神宮(かしまじんぐう)跡宮(あとのみや)は 鹿島の大神が初めて天降(あまくだ)り給いし所とされ 鹿島大神に仕える物忌(ものいみ)〈高い位の女性(巫女)祭主〉が傍らに居住していました 社伝には 天種子命〈神武天皇の御世〉又は国摩大鹿島命〈第11代垂仁天皇〉により宮柱を建てたとあり 鹿島神宮と同じく2000年以上の古い歴史を持ちます

息栖神社(神栖市息栖)

息栖神社(いきすじんじゃ)は 鹿島神宮・香取神宮と並び称される東国三社の一つとして 古くから信仰を集める神社です 創祀は遠く 神功皇后の御代と伝えられ 六国史『日本三代実録』〈延喜元年(901年)成立〉に「於岐都説神」と記されているのが当社とされています

大戸神社(香取市大戸)

大戸神社(おおとじんじゃ)は 社伝に 第十二代 景行天皇40年(111)日本武尊 東征の時 蝦夷征討祈願のため大戸〈古くは大津〉の地に勧請し 白鳳二年(662)更に之を再営す と伝わり 江戸時代まで香取神宮の第一末社(明治から摂社)で 当時 他の末社とは違い 神領も香取・大戸と区分され 独自に神主・大禰宜などの神官26人と社僧8人の合計34人が勤めた大きな神社でした

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