愛宕神社(あたごじんじゃ)は 堀尾吉晴公が 能義郷にあった「富田の城」を 島根郡の「松江の城(現 松江城)」に移しました この時に この愛宕神社も 能義郷から島根郡のこの地(松江)に一緒に遷座させたと伝わります 明治期の神仏分離までは「宝照院」と呼ばれていて 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』の時代にまで遡る『灰火山社記(haibiyama shaki)』と云う由緒書きを持っていて 松江藩の祈願所とされる程の格式を持ちながら 明治維新を迎えた歴史を持ちます
目次
- 1 【約1300年前】About 1300 years ago
- 2 【約1100年前】About 1100 years ago
- 3 【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
- 4 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 5 【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
- 6 【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
- 7 『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る
- 8 『出雲国 式内社 187座(大2座・小185座)について』に戻る
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』
次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』
最後に『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社(現在の神社)となっています
【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 意宇郡(ou no kori) 条
神祇官社(jingikan no yashiro )
【社名】意陀支社(otaki no) yashiro
【読み】(おたき の)やしろ
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
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【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 意宇郡(ou no kori)
【社名】意多伎神社(itaki no kamino yashiro)
【読み】(いたきのかみのやしろ)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
愛宕神社(atago shrine)(阿羅波比神社 境外社)
(あたごじんじゃ)
【鎮座地】(location)
島根県松江市外中原町愛宕下210 愛宕神社
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《主》軻遇突智神(kagutsuchi no kami)(火産霊神)
《配》大己貴命 (onamuji no mikoto)
【御神格】(God’s great power)
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』所載社
【創建】(Beginning of history)
『灰火山社記(haibiyama shaki)』に記されています
【由緒】(history)
松江開府400年祭 地域のお宝まちあるきマップ「水と歴史のまち城西」より抜粋
愛宕神社 (あたごじんじゃ)
堀尾吉晴公が 築城時に裏鬼門にあたる現在地に遷座し、城下の鎮火守の神として広く信仰されています。
124 段の石段を登ると 宍道湖や松江城が見えます。ヤブツバキ[愛宕明月(あたごめいげつ)、愛宕山(あたごやま)]も知られています。地域のお宝まちあるきマップ「水と歴史のまち城西」
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
愛宕神社(atago shrine)は 阿羅波比神社(松江市外中原町) 境外社です
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
『灰火山社記(haibiyama shaki)』(文亀2年(1502)作成)について
現在の 愛宕神社の前身「宝照院」の由緒となっています
松江市政策部 広報室HPより
「灰火山社記」が『出雲国風土記』利用を示す最古のものと判明
■トピック■ 空白期間の『出雲国風土記』利用を示す史料/県内最古
全国の風土記のなかでも唯一完本として残る『出雲国風土記』が、どのように伝えられてきたのかは、これまで大きな謎でした。
今から515年前の文亀2年(1502)に作成された「灰(はい)火(び)山(やま)社(しゃ)記(き)」は、松江城下の寺院に長く伝えられた由緒です。
この度、この由緒が 出雲国内での『出雲国風土記』利用を示す最古の史料であることが判明しました。江戸時代を通じ250年以上もの間、松江の寺院由緒として伝えられ、今後、地元における風土記研究に活用するため、松江歴史館が 県内の個人(旧古美術商)から購入しました。
『出雲国風土記』は、天平5年(733)に完成しましたが、その原本は失われ、鎌倉時代に京都で原本又は写本を見た人がいた事実しか明らかでありませんでした。
年紀の明らかな最古の写本は慶長2年(1597)の奥書を持つ写本で、これ以降、江戸時代を通じ 国内に約150本余の写本が作成されます。「灰火山社記」は、
史料が少なすぎて明らかにできなかった江戸時代より前の『出雲国風土記』継承の謎を解く手がかりとなるものであることから、以下のとおり記者発表を実施し、3月17日から松江歴史館で展示します。■記者発表の日時及び場所等
日時/平成29年2月17日(金曜)10時から10時30分頃
場所/松江歴史館歴史の指南所(松江市殿町279番地)松江市政策部 広報室HP
松江市役所HPより http://www1.city.matsue.shimane.jp/shisei/kouhou/houdou/kisha/2017/0217.data/03.pdf画像転用
スポット展示 基本展示室最終コーナー 展示シートより抜粋
戦国時代、『出雲国風土記』を語り継ぐ
――「灰火山社記」の世界――
松江藩の祈願所・宝照院の由緒
「灰火山社記」は、松江市外中原町の灰火山(はいかさん)を山号にもつ宝照院(ほうしょういん)が所蔵していた。
紙継の紺紙(こんし)1m84 ㎝の巻子(かんす)で 金界を施し、894 字の金字を刻む。戦国時代、奥出雲を支配した武士・馬来(まき)氏が、領内に愛宕山(あたごやま)の神を祀る祠堂を建てた時、奥出雲の地を訪れた大江氏の末流にあたる人物に祠堂の由緒の執筆を依頼した。
大江氏の末流にあたる人物は、現地にあった いにしえのことを記した 一通の願書と、古老の所伝を 手掛かりに「灰火山社記」を著した。
その後 祠堂は、馬来氏が 毛利氏家臣として長門萩へ移住したため廃絶する。
のちに由緒書は、月山富田城下の一乗院の由緒となったが、同院は 江戸時代初め、堀尾氏の松江開府とともに松江へと移転し、宝照院と寺名を変えた。松江城下の宝照院は、風土記の時代にまで遡る この由緒書をもとに藩の祈願所として明治維新を迎えることとなる。
同院背後の山腹に鎮座する愛宕(あたご)神社は、
明治初めの神仏分離令以前、宝照院と一体化した神仏習合の状態にあったが、いまは 外中原の阿羅波比(あらわひ)神社の摂社となっている。展示シートより抜粋
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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
松江駅から R431号経由 約3.2km 車10分程度
阿羅波比神社 南西の山を愛宕山といい ここに鎮座します
愛宕神社(atago shrine)(阿羅波比神社 境外社)に到着
大きな石の社号碑に「愛宕神社」とあります アスファルトの参道の先に鳥居があり 一礼して くぐります
比較的新しい狛犬が 石段の手前に構えます
「さすが 愛宕神社」といえる石段の長さです 資料によると124段とのこと 登ります
石段を登りきると 正面に拝殿 本殿が建ちます
拝殿にすすみます 扁額には「愛宕神社」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
御本殿を左右より 仰ぎます
境内を後にして 石段を上から眺めると ここは高台ですが 藪の木々があり 眺望は広く望めませんが 石段の先は良く見えますので 先程はよく上がっねと自分にご褒美は言えそうです
境内・参道も手入れがされていて お陰様で 気持ちよくお詣りが出来ました
鳥居をくぐり 振り返り一礼
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
『雲陽志(unyo shi)』島根郡 外中原 にある伝承
『雲陽志(unyo shi)』では
現在の「愛宕神社(atago shrine)(阿羅波比神社 境外社)」が
「宝照院(hosho in)」として記されています
愛宕大権現のほか 役の行者 太郎坊を祭る社があったと記され
もとは能義郷 古川村 灰火山にあったものを 堀尾吉晴公が松江開府の際に 能義郷 富田の城を島根郡 松江に移たまふ時 この社も一緒に松江に遷座したとあります
意訳
『 宝照院(hosho in)
天台宗なり 愛宕山といふ
本社は 愛宕大権現 左の社は役の優婆塞 右の社は太郎坊なり役の優婆塞は 世人是を役の行者といふ 山伏の元祖なり
太郎坊は 人 是を大天狗といふ ある書に 梯本の紀僧正真済といふ僧の霊なりといふ 又一の名 栄術太郎といへり縁起にいはく 権現は 伊弉冊尊の御子 火神 軻遇突智の神なり 本地 勝軍地蔵なりといふ
此社 昔年 能義郷 古川村 灰火山といふ所にあり
灰火山とは 軻遇突智は火産霊のことなり 伊弉冊尊 此神を生たまひて焼て 神 終ます このゆへに 草木土石火を含によりて灰火山といふなり慶長の比 堀尾帯刀吉晴 能義郷 富田の城を島根郡 松江に移たまふ時 此社も今の山に移たまふといふ
鐘楼堂あり 本堂には 地蔵菩薩を安置し奉る 恵心僧都の作なり
按に権現は 軻遇突智なり 或説には 百済国の日羅将軍の霊なり世人 愛宕権現は 火難を除く神なり 専武家崇敬す 軻遇突智は 火の神なるを以て火難を除くなり
又 武家崇敬するは 日羅は 智勇の人なり 本地 勝軍地蔵 然らは 将軍は 戦に勝といふ文字の心をもつて 武家崇敬するなるへし 』
『原文』参照『雲陽志(unyo shi)』[黒沢長尚著]天保6 [1835] 国立公文書館デジタルアーカイブ『雲陽志』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002424&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)』意宇郡 にある伝承
『原文』参照 『出雲国式社考((izumo no kuni shiki no yashiro ko))』[選者:千家梅舎/校訂者:岩政信比古]写本 明治02年(1906)
国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000040615&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『灰火山社記(haibiyama shaki)』を由緒に持つ 愛宕の神
愛宕神社(atago shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)