阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)は 阿蘇神社の奥宮〈奥の院〉とされ 古くから阿蘇火山を鎮める神社として朝廷の崇拝を受けてきました 社記には「欽明天皇十四年三月(552)阿蘇山火起って天に接す阿蘇宮の御三社を祀り 社家の内笠忠基をして奉仕せしむ これを天宮祝と云う」と伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
阿蘇山上神社(Asosanjo shrlne)
[通称名(Common name)]
・上宮(御嶽)
【鎮座地 (Location) 】
熊本県阿蘇市黒川808-3 阿蘇山上
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
・北の御池(噴火口)一の宮 建磐龍命
・中の御池(噴火口)二の宮 阿蘇都媛命
・南の御池(噴火口)五の宮 彦御子命
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・事業成就
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の奥の院
【創 建 (Beginning of history)】
阿蘇山上神社 由緒記
当神社は阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)の奥宮である。
御祭神
噴火口は古来より神霊池として崇められ、左記の如く、
阿蘇神社三柱(一の宮・二の宮・五の宮)の神として祀られている。
・北の御池(噴火口)一の宮 建磐龍命
・中の御池(噴火口)二の宮 阿蘇都媛命
・南の御池(噴火口)五の宮 彦御子命由緒
社記には「欽明天皇十四年三月(西暦五五二年)阿蘇山火起りて、天に接す。阿蘇宮の中三社を祀り、社家の内笠忠久をして奉仕せしむ これを天宮祝と云う。」とある。
平安時代初期より神霊池に異変ある度に、九州鎮守府太宰府から京都の朝廷に奉進があり、各社寺に国家安泰の御祈祷が命じられたことが国史に記載されている。
当神社へは、特使が派遣され奉幣祈願が行われていた。社殿
現在の社殿は昭和三十三年の大爆発により被害を受けたため その後に再建されたものである。神霊池である噴火口に向かって、遥拝するかたちで建てられている。
伝説「左京ケ橋(蛇腹)」
噴火口(神霊池)への登山者は心身を清浄にして登拝するを例としていた。当山上神社裏手より噴火口に至る徒歩道は、往時唯一の火口への路であり、必ずこの橋を渡らなければならなかった。
昔、左京某と云う侍がこの橋を渡ろうとしたところ、小蛇が橋のたもとにいたので、武士の行く手を遮り不届きな奴とばかりに、血気にはやり刀を抜いて斬り捨てようとした。すると忽ち雲が涌き風起り、一匹の龍となって天に昇った。さすがの左京もこの一大異変に恐れをなし、それが原因で早死したらしい。
以来この橋を左京ケ橋と称するようになったという。
心悪しき人が渡ると前面の岩が大蛇に見え、渡ることができないという。事実、岩の形態は蛇腹というにふさわしい。また、未婚の男女がこれを渡り潔身の証にしたともいう。現地案内板より
【由 緒 (History)】
阿蘇山上神社
阿蘇山頂の火口湯溜まりは、古より「神霊池」とよばれ、阿蘇神のご神体とされてきました。山上神社は火口を遥拝する拝殿のみが佇みます。歴史的に麓の阿蘇神社「下宮」対して「上宮」とよばれてきました。古代、火口は国家祈祷の対象となり、その変異は太宰府を通じて都の朝廷に報告され、阿蘇神の評価を大きく高めました。現在は、6月上旬に活動の平穏を願って御幣を納める「火口鎮祭」がおこなわれています。
山上神社の社殿は、旧内務省神社局技師として活躍した角南隆の設計によって、昭和33年に木造社殿建築を鉄筋コンクリート造で再建されたものです。
阿蘇神社HPよりhttp://asojinja.or.jp/about/
阿蘇山上神社
古代から阿蘇中岳火口の湯溜まりは「神霊池」と呼ばれ、健磐龍命の神宮とみなされていた。火口に向かって拝殿が建てられている。歴史的に、麓の阿蘇神社の「下宮」に対して、「上宮」と呼ばれてきた。6月上旬に噴火口へ御幣を投げ入れる「火口鎮祭」が行われる。
阿蘇市役所 経済部 観光課HPより
http://www.city.aso.kumamoto.jp/tourism/spot/historic/shrine/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
本社 阿蘇神社〈肥後国一之宮〉
・阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
健磐龍命(タケイハタツノミコトノ)神社 一座 肥後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
二つの式内社〈①一宮 健磐龍命 ➁二宮 阿蘇都比咩命〉の奥の院
①一宮 健磐龍命
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿蘇郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 健磐龍命神社(名神大)
[ふ り が な ](たけいはたつのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takeiwatatsu no mikoto no kamino yashiro)
➁二宮 阿蘇都比咩命
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿蘇郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 阿蘇比咩神社(貞)
[ふ り が な ](あそひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asohime no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
阿蘇山信仰について
岩を天に接する程に 火を吐く阿蘇山は 縄文の時代から信仰の対象として崇められていたとされます
大和朝廷の祀る火山 中岳火口
中国 隋朝の正史『隋書』中の『随書倭国伝(ずいしょわこくでん)〈629年唐の魏徴らの撰〉』には 第33代推古天皇の時代(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉~628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)として 阿蘇の噴火と信仰が記されています
「阿蘇山が有る 故なくして火起こり その石は天に接するほど 人々は畏怖して 祈り禱祭(まつりごと)をおこなう(原文:有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行祷祭)」
大和朝廷は 阿蘇火山は神の宿る山とみなし 火山活動などに異変が生じると 天下の凶兆とみなしたので
このため 阿蘇の火山活動は 阿蘇神社から太宰府に古くから言上されていて この結果 祭神 健磐龍命(たけいわたつのみこと)は 阿蘇火山の神として加増や神階の栄進が与えられています
山岳仏教と阿蘇山上 古坊中(ふるぼうちゅう)
阿蘇山の中岳火口は 古くから神格化され その火口内の湯溜りは 神霊池・霊池・阿蘇大明神の神池など様々に呼ばれ 池には神が宿る云われ 火口へ登山することを御池参りと呼び 信仰の対象となっていました
草千里ヶ浜から中岳火口へ向かう途中の"古坊中"と呼ばれる平地には かつて火山信仰を背景に山岳仏教の一大霊場として300~400人の修行僧が居たと伝えられています
"古坊中"は 8世紀~12世紀には本堂が 火口の西に造られ 寺の創建に伴い 付近一帯に坊舎・庵などが建ち 室町時代の最盛期には36坊52庵に上ったと伝わります
しかし 激しい火山活動や戦乱などで 16世紀終わりには衰退します
古坊中から麓坊中(ふもとぼうちゅう)へ
慶長四年(1599)加藤清正公により 今の阿蘇駅付近(阿蘇市黒川)に阿蘇坊中は再興されたので 新坊中のことを麓坊中(ふもとぼうちゅう)と呼びます
しかし 明治初期の廃仏毀釈により 三十七坊は廃寺となり 麓坊中の関係者が山上に天台宗西厳殿寺を再興し 現在に至っています
阿蘇山上には 阿蘇山上神社と再建された西巌殿寺山上本堂が隣接して建っています
阿蘇山本堂 西巖殿寺 奥之院(あそさんほんどう さいがんでんじ おくのいん)
阿蘇山本堂西巌殿寺奥之院 由緒
今を去る奈良時代の神亀三年(七二六年)、聖武天皇の願いにより天竺より渡来した高僧、最栄読師 によって開かれた。西巌殿寺の名前は、阿蘇山の火口の西の巌殿(洞窟 ) に仏像を安置して寺を開いたことに由来する。
それより修行僧が集い、三十六の寺院、五十二の庵室が創建された。その名声は遠く中国の歴史書に「鎮国山寿庵殿」として記述があるほどである。
歴代の皇室、武家の崇敬を集め、鎮護国家の祈祷道場として栄え、平穏な時代が続くが、安土桃山の戦国 の世に至り、天正年間(一五八〇年代) 薩摩の島津 勢の兵火にかかり、各坊ことごとく焼失した。慶長五年(一六〇一年) 肥後の統治を託された加藤清正公は本堂を修復し、三十六坊を麓の黒川村に移築し、再興なされた。
細川家 入国後もその志を引き継がれ、代々崇敬を維持されたが、明治維新に至り、麓の学頭坊跡に西巌殿寺一寺を残し、他の庵は還俗するとともに廃寺となった。
明治 四年(一八七一年)山上本堂を麓に移す。なお、現在の山上阿蘇神社の地が山上本堂の跡地である。明治二十二年(一八八九年)、古跡復古の運動にわかに起り、有志一同相謀り、御堂を建立し、「阿蘇山本堂西巌殿寺奥之院」として再建されたのである。現地案内板より
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阿蘇の噴火 と 火の神事について
阿蘇の人々は 火口の火を畏れ崇めてきました 一方で 古くから野焼きなどを行い 生活に火を利用しており 農耕をする上で 火の神事も執り行われて います
・阿蘇神社の火振り神事(ひふりしんじ)(阿蘇市一の宮町)
〈五穀豊穣を祈る阿蘇神社の田作り祭の神事 農業の神様が姫神をめとる儀式〉
・阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)
・西巌殿寺の火渡り(阿蘇市黒川)
〈無病息災を祈り 信者たちが 火のくすぶる炭の上をはだしで渡る行〉
・霜宮火焚き神事(しもみやひたきしんじ)(阿蘇市役犬原(やくいんばる))
〈農作物を霜害から守る神事 稲が穂を出して刈り取るまでの約2ヶ月間 ご神体を火で暖める〉
・霜神社(阿蘇市役犬原)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR豊肥本線 阿蘇駅から南下して 県道をひたすら阿蘇山に向かって勾配を上ります 約15.4km 時間40分程度です
当日は南側の南阿蘇村から山頂に向かいます
古来 禿山(あかはだかのやま)であると称されていた阿蘇山は 今は牧草が茂る 雄大な阿蘇の景色を眺めながら進みます
山頂に近づいてきました
阿蘇山ロープウエイのりば 阿蘇山ロープウェイ駅があり駐車場が完備されています ロープウェイは営業はしていません
阿蘇山上には 阿蘇山上神社と再建された西巌殿寺山上本堂が隣接して建っています
西巌殿寺山上本堂の脇を抜けると
阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)に参着
火山活動の噴火などに耐用して 神殿はコンクリート造り
しかし これだけ火口に近いと 屋根は傷みます
神門とその奥に拝殿が建ちます
神門に近づきます
神門の扁額には 阿蘇山上神社 と記されています
注連縄の張られた神門を 一礼をしてくぐると 拝殿が建ち その奥にはかつてのロープウェイのコンクリート製の脚柱が立っています
拝殿にすすみます
鷹の羽の御神紋
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥に 本殿はありません
神社の裏手には 神社の御神体とさる 阿蘇山 中岳火口〈御池〉があり
この御池を遥拝する所として 阿蘇山上神社の拝殿は祀られています
中岳火口〈御池〉までは 遊歩道があり徒歩でも行けますが ここから 阿蘇山公園有料道路で山頂近くまで車でもいけます
但し 当日は 噴火レベル1でしたが 火口付近は立ち入り禁止で ここからは進めませんでした
こちらから 中岳火口〈御池〉から立ち上るのは 湯気なのか雲なのか
改めて 中岳火口〈御池〉に向けて一礼をします
伝説にあった「左京ケ橋(蛇腹)」はどの辺りなのだろう と見渡す
社殿に一礼をして 参道を戻ります
阿蘇市内へ向けて 北斜面を下ります
阿蘇市内を見下ろす雄大な景色を見ながら 山を下りました
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『随書倭国伝(ずいしょわこくでん)〈629年唐の魏徴らの撰〉』に記される伝承
中国 隋朝の正史『隋書』(本紀5巻・志30巻・列伝50巻)中の列伝第四十六 東夷(とうい)「高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・俀国」の倭国〈日本〉に関する条を『随書倭国伝(ずいしょわこくでん)』と称します
俀(倭)に関する条には 遣隋使のこと・腕へ刺青を入れていた風習・聖徳太子が仏法僧を隋へ留学させたこと・煮え湯の中の石を取らせる盟神探湯(くがたち)など 第33代推古天皇の時代(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉~628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)が記されていて
その中に 阿蘇山の噴火と信仰が記されています
もしも 記述内容は もしも遣隋使や遣唐使などの倭人から聞いたことだとすれば 阿蘇山の噴火と信仰は 倭(やまと)の代表的な国家的な行事であったのだと想います
【抜粋原文参照】
有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
【抜粋読み下し】
「阿蘇山有り その石 故無く火起こり 天に接す 俗は以って異と為し 因って祷祭を行う
如意宝珠有り その色は青 大は鶏卵の如し 夜則ち光り有りて 魚の眼精なりと云う
新羅 百済は みな俀を以って大国 珍物多しと為し 並びに これを敬仰し 恒に使を通じ往来す」
【抜粋意訳】
「阿蘇山が有る 故なくして火起こり その石は天に接するほど 人々は畏怖して 祈り 禱祭(まつりごと)をおこなう
如意宝珠がある その色は青 大きさはニワトリの卵程 夜になると光り 魚の眼球だと云う
新羅と百済は どちらも 倭〈日本〉は 大国であり 貴重な物が多いと考えている 両国は並んで敬い仰ぎ 常に使者を通わせ往来している」
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264年)~正安3年(1301年)〉』に記される伝承
巻十 火國造の条には 肥後国風土記に云う 肥後国は元 肥前国と合わせて一つの国であったとし 火の国の地名由来として 阿蘇の噴火が記されています
巻十 二神曰 阿蘇都彦 阿蘇都媛 の条には 筑紫風土記に曰くとし 阿蘇山(閼宗岳 あそのたけ)について記しています
【抜粋意訳】
巻十 火國造の条
肥後国風土記に云う
肥後国は元肥前国と合わせた一つの国であった
昔 崇神天皇〈第10代〉の世に 益城郡(ましきのこおり)朝来名(あさくな)の峰〈朝来山あさこやま465m〉に土蜘蛛(つちぐも)がいた 名は 打猿(うちさる)と頸猿(うなさる)の二人で 峰の頂に常に180人程を率いて朝廷の命に従わない
天皇は勅して 肥君の祖 健緒組(たけおくみ)を遣わした 健緒組(たけおくみ)は勅を奉り 賊を誅殺した
賊を皆 誅殺して 健緒組(たけおくみ)は 国裏を巡ぐり 八代郡の白髭山に来ると日が暮れ宿泊すると その夜大空に火が有った その火は自ら燃え徐々に降下して この山に落ちて焼けた 健緒組(たけおくみ)は大いに驚き 事の次第を天皇に奏上した 天皇の云われるには ・・・・火が夜に下り山を焼き また 火の下りし国なれば火国(ひのくに)と名づくべしまた景行天皇〈第12代〉が 球磨噌〈熊襲(くまそ)〉を誅殺された後 諸国を巡られた 火国(ひのくに)渡海〈有明海〉に於いて 日没となり闇夜でわからなくなった すると行く前に火の光があり そちらを目指すと着くことができた
天皇は 棹人(さおびと)〈船頭〉に 火の燃えるところはどこで如何なる火なのかと聞かれた
土地の人は ここは火国(ひのくに)八代郡の火邑(ひのむら)〈火村〉と答えた しかし 何の火かは分からないと云う
天皇は勅して 群臣〈御供〉に云われた 燃える火は俗〈人の世〉の火ではない この火は 火国(ひのくに)の地名の由来だと知り得たと云われた
巻十 二神曰 阿蘇都彦 阿蘇都媛 の条
【抜粋意訳】
神名帳曰く 肥後国阿蘇郡 建盤龍命神社 名神大 阿蘇比咩社 国造神社
筑紫風土記に曰く
肥後国(ひごのくに)閼宗(あそ)〈阿蘇〉の縣(あがた)
縣(あがた)の西南方向二十余里に禿山(あかはだかのやま)があり 閼宗岳(あそのたけ)〈阿蘇山〉と云う
山頂に神の沼があり その石壁は垣を為していて 縦50丈横100丈ばかり深さ或は20丈或は15丈ほど
清き潭(ふち)は百尋(ももひろ)〈とても深く〉淡い緑色をしている
五色の彩(いろ)どりに 黄金(こがね)を泊くして 間を分つ天下の霊奇(くしび)なるものである 時々 水が満ち 南から溢れ出て 白川に流れ込むと魚が死んでしまう 地元では苦水(にがみず)と云う
山の形は そびえ立ち天に届き 諸々の川の源となり 徳は大きく高く真に人の世に唯一であり 奇しき形は天下無双 国の中心にある故に中岳(なかたけ)と云う いわゆる閼宗の神宮(あそのかむつみや)これなり
【抜粋読み下し】
神名帳曰く 肥後国阿蘇郡 建盤龍命神社 名神大 阿蘇比咩社 国造神社
筑紫の風土記に曰く
肥後(ひのみちのしり)の国 閼宗の縣(あそのあがた)縣の坤のかた 廾余里に一つの禿(あかはだか)なる山あり 閼宗の岳(あそのたけ)と曰ふ
頂に霊沼(たまのぬま)有り 石壁 垣を為す 縦 五十丈、横 百丈ばかり 深さ 或は廾丈 或は十五丈なり
清き潭(ふち)は百尋(ももひろ)にして 白緑(びゃくろく)〈淡い緑色〉を鋪(し)きて質(そこ)と為す 浪は五の色の彩(いろ)黄金をはへて間を分つ 天の下の霊奇(くしび)なるもの 茲に華と出づ
時々水満ち 南より溢流(あふれなが)れて白川に入る 衆(もろもろ)の魚酔ひて死し 土人(くにひと)苦水(にがみづ)と号す
其の岳の勢(た)るや 半天(あめに)中(あた)りて傑峙(そばだ)つ 四縣(よんのあがた)を包ねて基を開く 石に触れ興る雲に 五岳(いつつのたけ)の最首(かしら)と為り 觴(さかづき)を濫(うか)べ水を分る 寔 群(もろもろ)の川の巨き源なり
大徳(おおきいきほひ)は巍々(たか)く 諒(まこと)に人間(ひとのよ)に有一(ただひとつ)あり 奇しき形は杳々(はろ)けく 伊(これ)天下の無双 地の心(くにのもなか)に居在す 故に 中岳(なかたけ)と曰ふ 謂はゆる 閼宗の神宮(あそのかけつみや)是なり
【原文参照】