穴門山神社(あなとやまじんじゃ)は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」を御祭神としています 古代 児島半島の北側に広がる岡山平野にかつて存在した海「吉備の穴海」を「高山(koyama)」の頂上から見守り続けていたのでしょうか?
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku) あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
- 4 神社にお詣り(Pray at the shrine)
- 5 神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
- 6 備中国 式内社 18座(大1座・小17座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
穴門山神社(anatoyama shrine)
(あなとやまじんじゃ)
[通称名(Common name)]
高山宮(こうやまぐう)
【鎮座地 (location) 】
岡山県倉敷市真備町妹895
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》穴門武媛命(anato takehime nomikoto)
(日本武尊の妃・吉備武彦の娘)
《配》天照大神(amaterasu okami)
倉稲魂神(ukano mitama no kami)
仲哀天皇(chuai tenno)
少名彦命(sukunahikona no mikoto)
《合》大己貴命(onamuchi no mikoto)
下照姫命(shitateru hime no mikoto)
天穂日命(amenohohi no mikoto)
活津彦根命(ikutsuhikone no mikoto)
市杵島姫命(ichikishima hime no mikoto)
神皇産霊神(kamimusuhi no kami)
三熊野大神(mikumano no okami)
天稚彦命(ameno wakahiko no mikoto)
田心姫命(tagorihime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
・農職産業の神 God of agricultural industry
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創立年月不詳
【由 緒 (history)】
本神社は創立年月不詳ではあるが、祭神は 穴門武姫命を祀る。
また、延喜式(下道郡)に穴門山神社と見える。
社伝によると、社地の正面南方数町に馬場、また遊場、示場、神子免、宮地、殿田等の地名があり、吉備の名方の浜の宮もこの地であると伝えている。
また、諏訪山の城主が厚く崇敬し、武運を祈った。後 柏原天皇の永正年間、出雲の懸合の城主が大挙して、来襲し、西鷲峯山小ヶ谷に陣を置いたが、難攻累月で陥落しなかった。
これは神のご加護によるものとして社殿に火を放ち、神器、神宝、古文書等悉く焼き払った。郷民は相談して、川上郡高山村に当社の行在所を設けて避難した。
その後兵乱が続き、再興する時期がなかったが、東山天皇の宝永元年7月、青穂五社大明神の神主三島美濃、許状拝受のため上京し、吉田三位侍従兼敬から、「穴門山神社は下道郡五社の一つであるのに上京しないのは何故なのか」との下問されたので、状を具して答申した。
中御門天皇享保5年庚子3月吉田家から、再興の命があり、岡田藩主従五位下 伊藤播磨守長救が社殿を建築し同年9月24日遷宮を執行した。その後延享2年乙丑藩主従五位下伊藤若狭守長丘、拝殿増築を行い、神輿1基を奉納した。この時社地を開墾すると、古鏡が出土した。
その古鏡は、200年前兵火で失った神鏡であるとして、藩の官庫に保管し、祭日(9月24日)には重臣を派遣して社殿に安置して警備した。
明治維新後、社殿に奉祀して今日に至っている。明治5年郷社に列格。
同年小田県から式内神社と定められる。
同年12月、同名の神社が川上郡高山村にもあって、どちらとも決定し難いとして明治8年7月両社とも、式内とする旨の通達があったが、同年八月式外と再通達があった。明治43年4月1日及び同年9月15日、村内無格社18社を合祀した。
(皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と県神社庁が共同HPより)
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・荒神社 《主》素盞嗚命・大年神
《配》経津主命・湍津姫命・大山祇命・保食神
・三島神社《主》大山祇神・大物主神
・八千鉾神社《主》八千戈神
・水神社《主》水分神
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備中国 18座(大1座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下道郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 穴門山神社
[ふ り が な ](あなとのやまの かみのやしろ)
[How to read ](anato no yama no kaminoyashiro)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」(日本武尊の妃・吉備武彦の娘)について
御祭神「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」は『古事記(kojiki)』に記される「吉備の臣建日子(kibi no omi takehiko)の(妹)(娘) 大吉備建比売(okibi no takehime)」に相当すると云われています
兄の「吉備の臣建日子(kibi no omi takehiko)」は『日本書紀(nihon shoki)』では 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」の 東国遠征に帯同しています 第10代崇神天皇の御代 四道将軍として西道に派遣され吉備を平定した「吉備津彦命(kibitsuhiko no mikoto)」を祖としているとも云われます
古代「吉備の穴海」と呼ばれた瀬戸内海航路を抑えていた「穴戸の神」「吉備の穴濟神(anawatari no kami)」の征伐について
『記紀神話』には 「穴戸の神」「吉備の穴濟神(anawatari no kami)」が 海上交通を妨げていた「海峡の神」として登場します(下記の「神社の伝承」に詳しく書いています)
この神を「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が平定します
この神話は 児島半島の北側に広がる岡山平野にかつて存在した海があり 古代には「吉備の穴海」と呼ばれていました
瀬戸内海航路の主要ルートとして この海峡の主導権を「海峡の神」から「大和朝廷(日本武尊)」が抑え掌握したとするものです
そして 吉備の臣建日子(kibi no omi takehiko)に統治を委ね その娘は 命の妃(hi)とし その恩を姫に載せると「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」となったのであろうと推測されています
「吉備の穴海」の想像図も作成してみました
吉備の穴海
約7,000年前の岡山平野は海でした
氷期に陸地であった瀬戸内海は、最終氷期終了後の海水面上昇により、次第に海域を広げて行き、数千年前には岡山平野にも海水が浸入しました。
その後、7,000年前には縄文海進期には、現在の岡山平野はその大部分が「吉備の穴海」と呼ばれる内海で覆われていました。
その後、河川の堆積作用と江戸時代以降の干拓によって中国地方最大の平野が作られていきました。株式会社フジタ地質HPより
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
井原鉄道備中呉妹駅から北へ 約4.5km こちらの道がお勧めです 山の中にあります
R486号を西に向かい 小田川の支流沿いの道を北上します
ここが 参道口で 国道から参道へ少し入ると 狛犬と朱色の「一の鳥居」が道沿いに建ちます
扁額には「郷社 穴門山神社」とあり 鎮座地の「高山(koyama)」が鳥居越し左手 道路正面に見えます
ここから「高山(koyama)」の山頂手前まで登ります
途中から道はとても狭く 車の場合は 注意が必要です
参拝時には 豪雨の後で がけが崩れていて 途中から通行止めでしたので 崩れた車道を下車して徒歩で高山を登りました
歩いていくと右手に石垣があり その道を上がった先に辺りに駐車場がありました 普段はここまで車で上がれるようです
穴門山神社(anatoyama shrine)に到達
境内から見下ろした風景です
曲がりくねった道が参道で ここを歩いて登ってきました
駐車場からは 本来の社頭側からの表参道ではなく 境内脇から進むようです
境内に進むと 表参道の境内口には 狛犬が構え 石灯篭が建ち 立派な構えをしています
どうやら 現在は表参道からは 境内に進めないようです 狛犬の構える境内入り口から先には 草木に覆われて道らしいものはありません
境内口の狛犬から境内に進むと「歳受豊穣」「神降嘉種」と刻まれた石柱があり 一礼して進みます 石灯篭が建ち 立派な門構えをしています
正面には 一段高くなっている境内に 立派な拝殿が建ちます
拝殿にすすみます 古い扁額には「穴門山神社」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は 拝殿の後方の山の斜面に建ちます
拝殿とは屋根付きの廊下で繋がれていて 詳細は判りませんが 社殿全体では 羽を広げた大鳥のような貫禄のある美しい造りとなっています
境内社が 幾つか鎮座しますが お社が祀る神はわかりません 各々の祠にお詣りします
改めて 参道入り口に向かいます
旧表参道は 急斜面に草や木々が茂り 道は無くなっていますが 眼前には 大木はなく 眺めは良好で 参道口にあたる 一の鳥居辺りを見下ろしているイメージでしょうか
境内入り口の狛犬はこの絶景の中 かつては表参道を登り下る 参拝者を見つめていたのでしょう
社殿からの方向をそのまま延ばしてみると この社が守るべき辺りを向いているようです
そのは 丁度 現在の高梁川の河口辺りで 古代で考えれば 瀬戸内海から「吉備の穴海」への入り口辺りを睨み この「高山(koyama)」に鎮座していることになります
境内を後にします
山を下り 一の鳥居から振り返り一礼
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(kojiki)』「倭建命(yamatotakeru no mikoto)の子孫・系譜」にある伝承
「倭建命(yamatotakeru no mikoto)」の妃(hi)と子が記されています
御祭神の「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」は
「大吉備建比売(okibi no takehime)」と記されています
意訳
「 また吉備の臣建日子(kibi no omi takehiko)の妹 大吉備建比売(okibi no takehime)を娶して お生みになられた御子は 建貝児王(takekaiko no miko)お一方です 」
【原文参照】『古事記』刊本 ,明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
『古事記(kojiki)』「倭建命(yamatotakeru no mikoto)の西征」にある伝承
「倭建命(yamatotakeru no mikoto)」と名付けられた命が 熊襲の西征を終え 都に戻られるときの 描写に「穴戸の神」が 「海峡の神」として登場します
意訳
「その時より 御名を称(tata)へて「倭建命(yamatotakeru no mikoto)」と呼ばれるようになられましたそうして帰っておいでになられる途中で「山の神・河の神・穴戸の神(海峡の神)」の皆と交渉をなされて 平定をされました そして都にお上りになりました 」
【原文参照】『古事記』刊本 ,明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
『日本書紀(nihon shoki)』「景行天皇 即位28年春2月1日の条」にある伝承
「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 西国遠征をされて 熊襲を平定の様子を景行天皇にご報告される件に
吉備の穴濟の神(anawatari no kami)が 海上交通を妨げていた「海峡の神」として記されています
意訳
「 即位28年春2月1日 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)は 熊襲を平定した様子を景行天皇にご報告されて言われました「臣(yatsukare)であるわたしが
天皇の神霊(mitama no fuyu)の加護によりまして 兵を挙げて 熊襲の魁帥者(hitogo no kami=首長)を誅殺して その国のすべてを平定いたしましたそれでございますので 西洲(nishi no kuni=都より西国)は すでに鎮めました 百姓(人民)は皆無事でございます
ただし
吉備の穴濟神(anawatari no kami) および
難波の柏濟神(kashiwawatari no kami)は皆 害をなす心があり 毒気を放ち 航路を行き交う人々を苦しめておりました そして 禍害之藪(maga no moto)(災いの元)になっておりました
ゆえに すべての悪しき神を殺し 水陸の道を開いてまいりました 」景行天皇は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の功績を褒められて 特に寵愛なされました 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」を御祭神としています 古代 児島半島の北側に広がる岡山平野にかつて存在した海「吉備の穴海」を高山の上から見守り続けています
穴門山神社(anatoyama shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大阪に鎮座する「大鳥五社(otori gosha)」の1社「大鳥北濱神社(otori kitahama shrine)」は 当社と同じ御祭神の「吉備穴戸武媛命(kibino anato take hime no mikoto:日本武尊の妃)」を祀ります
「大鳥北濱神社(otori kitahama shrine)」の記事もご覧ください