富士山頂上 浅間大社 奥宮(ふじさんちょうじょう せんげんたいしゃ おくみや)は 元は富士山興法寺〈現 村山浅間神社〉の大日堂「表大日」・富士山頂上 久須志神社は(ふじさんちょうじょう くすしじんじゃ)は 元は須走浅間神社の薬師堂「裏薬師」でした どちらも明治の神仏分離令により仏像が取り除かれ 富士山浅間大社の奥宮として管理されることになりました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
富士山頂上 浅間大社 奥宮(Fujisanchojo sengentaisha okumiya)
〈富士宮口の登山道の富士山頂上 御鉢の南側〉
富士山頂上 久須志神社(Fujisanchojo kusushi shrine)
〈須走口 吉田口 河口湖口の登山道の富士山頂上 御鉢の北側〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
静岡県富士宮市 富士山頂〈富士山頂上 浅間大社 奥宮〉
静岡県駿東郡小山町 富士山頂〈富士山頂上 久須志神社〉
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
富士山頂上 浅間大社 奥宮
《主》浅間大神(あさまのおほかみ)〈木花之佐久夜毘売命〉
《相》大山祇神(おほやまつみのかみ)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
富士山頂上 久須志神社
《主》大名牟遅命(おほなむじのみこと)〈大国主命〉
少彦名命(すくなひこなのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の奥宮
【創 建 (Beginning of history)】
『本朝世紀』1149年(久安5年4月16日)末代上人が富士山頂に大日寺を建立
富士山頂の奥宮
富士山の頂上には、浅間大社の奥宮があり、富士山の8合目以上が境内地となっています。
かつてここには、平安時代末期の修行僧である末代上人(まつだいしょうにん)によって、大日寺が建てられ大日如来(仏)が祀られていました。明治時代初めの神仏分離令※が出されたことによって、激しい廃仏毀釈運動が起こり、富士山中の仏教に関係する仏像や寺院が廃止されました。その際に、浅間大社は寺の建物を買い受け、大日如来に替えて浅間大神を祀りました。
明治34年、奥宮では寺の建物が取り壊され、新しく本殿が建てられました
※神と仏を別々に信仰させるための政府の命令広報ふじのみや 2021.04より
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/http://www.city.fujinomiya.lg.jp/sp/fujisan/visuf80000013lgq-att/visuf8000001bmpd.pdf
久須志神社(くすしじんじゃ)
元々は薬師堂と呼ばれていた。須走浅間神社〈東口本宮冨士浅間神社〉が薬師堂の開帳・入仏などを行っていたため、基本的には須走浅間神社が管理していたものである。気候などの影響により建物が朽ちていたため、元禄15年(1702年)には浅間大社が薬師堂を造営している。
しかしこの入仏の権利などを巡り、大宮と須走が争った経緯などもある(元禄の争論)。安永の争論においては安永8年(1779年)の幕府裁許状により、薬師堂の開帳や扉の封印は須走浅間神社神主が取り計らい、浅間大社の僧侶による開帳の際は銭200分を受け取ることなどが決められた(「富士山を巡る争い」を参照)。
薬師堂という名は廃仏毀釈により改名され、それと同時に浅間大社の末社として管理されることとなり、現在に至る。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【由 緒 (History)】
富士山頂上浅間大社奥宮
例祭:8月15日
表口(富士宮口)から上りつめたところの山頂に鎮座します。御祭神は浅間大神(木花之佐久夜毘売命)を主祭神とし、相殿神として父神大山祇神、背の君瓊々杵尊をお祀りします。 7・8月の開山期には、神職が奉仕し、国家安泰、氏子・崇敬者・登拝者の安全を祈念するほか、家内安全等の諸祈願、結婚式の奉仕、お札・お守りの授与、金剛杖・行衣等の御朱印の授与も行っています。富士山頂上久須志神社
例祭日:8月15日
須走口、吉田口、河口湖口の登山道の頂上に鎮座します。この神社は奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命をお祀りします。富士山本宮浅間大社HPより
http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/hongu/index.html
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈本宮〉里宮
・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
淺間神社 一座 駿河國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)富士郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 淺間神社(名神大)
[ふ り が な ](あさまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asama no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
神仏習合以前 奥宮を管理した寺社
富士山頂上 浅間大社 奥宮(Fujisanchojo sengentaisha okumiya)
〈富士宮口の登山道の富士山頂上 御鉢の南側〉
富士山 大宮の登山道の起点に鎮座する富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)
・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮
富士山 村山口の登山道の起点に鎮座する村山浅間神社(富士宮市村山)
・村山浅間神社(富士宮市村山)
富士山頂上 久須志神社(Fujisanchojo kusushi shrine)
〈須走口 吉田口 河口湖口の登山道の富士山頂上 御鉢の北側〉
富士山 須走口登山道の起点に鎮座する須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ)
・須走浅間神社〈東口本宮冨士浅間神社〉(駿東郡小山町須走)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
富士山登拝なし〈呼吸器障害の為〉友人の代参による 御朱印受領
富士山頂上 浅間大社 奥宮 & 富士山頂上 久須志神社に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『富士市の伝説と昔話』〈 著者 鈴木富男編 出版社 文華堂 刊行年 昭53〉に記される伝承
ふるさとの昔話 | 静岡県富士市
地元の方々に語っていただいた、市内各地に伝わる昔話です。昭和54年1月から昭和64年1月まで「広報ふじ」に連載したものを冊子にまとめました。
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1202/fmervo000000kmv9.html
この中に
聖徳太子の富士登山 (pdf、597KB)chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.city.fuji.shizuoka.jp/img14/fm158.pdf
があり 聖徳太子が馬に乗り 空を飛んで富士登山をしたという伝説が記されています
富士の頂上に登った聖徳太子に 山の神が 大日如来の御姿に変わり「和をもって貴しとなし あつく三宝をうやまい 礼をもって本とせよ」と仰せられたと記されています
「538年 日本への仏教伝来」・「推古6年 598年 聖徳太子が馬に乗り 富士山を登る伝説」・「天武9年頃 680年頃 富士登山の始祖とも言われる役小角が 小御岳から山頂に登ったと伝」
これらから 富士山の信仰が 大日如来を本尊とする 神仏習合となっていった話に通じるのではないでしょうか
【意訳】
聖徳太子の富士登山
昭和五十九年九月五日号
私たちが誇る日本一の富士山、この富士山に、第三十三代推古天皇のとき、摂政であった聖徳太子が馬に乗り、空を飛んで富士登山をしたという伝説があります。今回は、鈴木富男著「富士市の伝説と昔話」の中から聖徳太子の登山の話を紹介します。
山の神に教えを請う
聖徳太子が摂政の頃、良い馬を献上させた話は有名です。多くの馬の中で、すばらしい馬がー頭いました。
太子は大層喜び大切に飼わせました。その年の秋、調教ができたのでためし乗りをしました。太子がまたがり、手綱を引きムチをあてると、馬はすごい勢いでとびだし、東の空へ飛んでいきましたアツ、と罵いた宮人たちは、顔色を変えて騒ぎだしましたがどうしようもありません。
ところが三日目の朝、太子はひょっこり帰り「とても愉快だった。空へ飛び上がって、雲の中をしばらく飛んだと思ったら、富士山の頂上だったよ。富士山を見物して帰ってきた」とおもしろそうに話しました。
御殿へ上がった太子は、富士山の出来事を詳しく話しました。
「頂上におりると大きな岩穴があった。この穴を進むと金色に輝く岩が並び、金銀でつくられた美しい門があった。さらに進み、奥の院らしい境内へ入ると両眼をぎらぎらさせ、剱のような舌をだし、口から火を噴いている大蛇がとぐろを巻いていた。
私はこれが山の神だと思い、ひざまずいて『人民のためにどのような政冶をしたらよいか教えてもらいたい』とお願いした。すると大蛇は、大日如来の姿に変わり『和をもって貴しとなし あつく三宝をうやまい 礼をもって本とせよ』とおおせられた。私は必ず教えに従うことを約束して、再び馬に乗って帰ってきた」と一同に話しました。