神部神社(南アルプス市下宮地)〈『延喜式』神部神社〉

神部神社(かんべじんじゃ)は 垂仁天皇の御代 大和の三輪神社から大物主神を勧請「三輪明神」とも云う  甲府盆地は湖水で 社前迄湖であった 例祭の゛舟引祭 大和から奉遷の時 船にて此地に渡った遷座の状況を神事としてえていると云う 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社です

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神部神社(Kanbe shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

山梨県南アルプス市下宮地563

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大物主命(おほものぬしのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由緒

 第十一代 垂仁天皇の御宇 大和国城上郡 大三輪神社より この地方湖水なりし頃 舟にて奉遷した(式内社)。
 往古から何回か神階に叙せられ 且つ神田若干の寄進あり。
保元平治の後も逸見武田、小笠原家等より厚く尊崇さる。
祭典は数度の中で4月12日の御幸祭を大祭とし、山梨県の内西御幸祭という。往古は公祭として行なわれた。故に下付されるもの武器・兵丈・馬口までに及び祭典終了と同時に官へ飛脚を以てその旨を報告せりという。又旧2月2日に御遷座の由縁を以て中祭にて舟引祭を斎行している。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由  (History)】

無形民俗文化財

神部神社の曳舟神事 平成六年六月二十八日指定

 神部神社は大物主命(おおものぬしのみこと)を祭神とし、第十一代 垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代に大和国大三輪神社から奉遷されたと伝えられており、「延喜式神名帳」に巨摩郡五座のなかのひとつとして記載されている。
 毎年三月二日(往古は二月二日)に行われる舟引祭は、大和国から奉遷された古事にならってその様子を再現しており、数本の矢をはなって、悪魔をはらい、諸々の贖罪、五穀豊饒、天下泰平を祈願する。神事のなかで木舟の舳先に綱をつけ神主、総代が引くというのは恐らく当時の運搬手段 のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入していたことを演出しているものと思われ、当時の文化流入についての様子がうかがえる遺産である。

 古代における遷座の状況を神事としてこのようなかたちで残しているものは類例がなく大変貴重なものである。

指定文化財

神部神社の算額 平成五年三月二十八日指定

 わが国古来の数学である和算は江戸時代に関孝和(せきたかかず)らを中心として独自に発達し、当時の文化新興の一助となった。

 和算家が自分の発明した問題や解法を書き、寺社に奉納する「算額」、 つまり和算の絵馬は本県において存在が確認されているのは当社など数箇所にすぎない。

 この神部神社の算額は、文化三年(一八〇六)に上州の和算家 清水直次郎 央七(なかしち)が奉納したもので、大正十二年、火災によって焼失してしまったが、 平成五年に古書にもとづいて奉納当時の姿に復元されたものである。

 算額は、和算の研究だけでなく往時 三輪明神と呼ばれていた当社への人々 の信仰と近隣諸国との文化や物資の交流などを知るうえでも貴重な史料である。

南アルプス市教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神部神社 本殿

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神部神社 社殿

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神部神社 拝殿

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・〈本殿向かって左 境内社〉5宇の石祠

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・鎮守の杜

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・手水舎

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・゛舟引祭御弓所゛の碑

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・参道

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)巨麻郡 5座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 神部神社
[ふ り が な ]かむへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kamuhe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式』に所載されている神部神社(かむへの かみのやしろ)について

 『延喜式』には 駿河國に一か所 甲斐國二ヶ所が 所載されています

延喜式内社 駿河國 安倍郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社

・静岡浅間神社(静岡市)

延喜式内社 甲斐國 山梨郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社

・神部神社(甲州市塩山)

・神部神社(山梨市上神内川)

・賀茂春日神社(笛吹市春日居町)

・神明神社(笛吹市石和町窪中島)

延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社

・〈旧 三輪神社の山宮〉八幡神社(南アルプス市上宮地)

・〈旧 三輪神社の里宮〉神部神社(南アルプス市下宮地)

・白山神社(明野町上神取)

・神部神社(須玉町小尾)

・熱那神社(北杜市高根町)

・南宮大神社(韮崎市大草町)

・神部社(南アルプス市寺部)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR身延線 東花輪駅から県道12号経由で西へ約6.8km 車で12分程度

神部神社(南アルプス市下宮地)に参着

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一礼をしてから鳥居をくぐり 参道を進み

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 朱色の透塀に囲まれて本殿が祀られています

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境内には すべり台・ブランコなどの子供の遊具が設置されていて 近隣の憩いの場になっているようです

又 神部神社の曳舟神事゛舟引祭御弓所゛の碑があります

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社殿に一礼をして参道を戻ります

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境内からは 住宅の頭越しに富士山が見えていました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

延喜式内社 神部神社について 所在は゛甘利郷上條東割村に在す、今 南宮明神と稱す、゛〈現 南宮大神社(韮崎市大草町)〉と記しています

【抜粋意訳】

神部神社

神部は 加牟倍と讀り

〇祭神 金山彦命、建御名方命、事代主命、〔名勝志、参考〕

〇甘利郷上條東割村に在す、今 南宮明神と稱す、〔名勝志、参考〕例祭 月   日、

〇當國山梨郡神部神社あり

 甲斐名勝志に、龜山院 文永九年造營の事、社記に見えたりと云り、

類社
 駿河國 安倍郡 神部神社の條見合すべし

社領
 當代御朱印高十六石余

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

延喜式内社 神部神社について 所在は゛舊 上宮地大神山〔又 神山とも云〕にあり、後 下宮地村に移す、之を三輪大明神と云、゛〈現 八幡神社(南アルプス市上宮地)から神部神社(南アルプス市下宮地)へ遷座した〉と記しています

【抜粋意訳】

神部(ミワベノ)神社

舊 上宮地大神山〔又 神山とも云〕にあり、後 下宮地村に移す、之を三輪大明神と云、〔三才圖繪、甲斐國志、〕

盖 三輪大物主神を祀る、〔参酌延喜式、社傳説、〕

清和天皇 貞観五年六月巳亥、從五位下勳十二等 美和神に從五位上を授け、八年三月甲辰、正五位下を加へ、十八年七月丙戌、正五位上に叙され、陽成天皇元慶四年二月壬辰、從四位を加ふ、〔三代實録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

延喜式内社 神部神社について 所在は下宮地村〔字三輪〕(中巨摩郡大井村 )゛〈現 神部神社(南アルプス市下宮地)〉と記しています

その他の説もあるが証拠が不足している その他の説とは
゛上條東割村の南宮明神なり゛〈現 南宮大神社(韮崎市大草町)
゛神取村白山大神゛〈現 白山神社(明野町上神取)〉
゛小尾村藏王椎現とも云り゛〈現 神部神社(須玉町小尾)〉

【抜粋意訳】

神部神社 稱 三輪明神

祭神 大物主神

祭日 一月十五日 二月二日 四月卯日〔三卯用 中卯〕
社格 郷社

所在 下宮地村〔字三輪〕(中巨摩郡大井村 )

 今按 本社所在の地を三輪と云ひ 神を三輪明神と稱し 又 永正中僧居一神山に住して 大に禪林を開き 大神山傳祠院と名けたるも神部神社の祭神 大物主神なるによりてのこと なるべく今に 其境内に拜殿ありと云るも由ありて證とするに足れり
されば神部神社はこの社なるべし

 然るを上條東割村の南宮明神なりとも 神取村白山大神とも 小尾村藏王椎現とも云り されど束割村は是と申す程の證なく 神取村はもと神戸と云ひしを後に今の村名に改めしなりと云ひ 小尾村は烏井前に神戸と云耕地ありと云るのみにて 證とすべきことなければ信がたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

神部神社(南アルプス市下宮地)について ゛延喜式神名帳に記せる巨摩郡 神部神社是れ也゛と記しています

山宮については゛中世より 此山宮は伝嗣院と云へる滅罪の寺となりし故、不潔を避けて同村八幡宮に遷座あり、合殿にて来年四月迄 此に鎭座の事になりぬ゛と記しています

【抜粋意訳】

〇山梨縣 甲斐國 中巨摩郡大井村大字下宮地組字瀧澤通

郷社 神部神社

祭神 大物主(オホモノヌシノ)

創建は垂仁天皇の御宇、大和国城上郡 大三輸神社より分霊を遷し奉る所にして、往古 屡神階を授けられ、且 神田若干の寄附あり、延喜式神名帳に記せる巨摩郡 神部神社是れ也、
 保元平治の後も、逸見 武田 小笠原氏等厚く本社を尊崇し、祭典年中数度あり、其四月に於て御幸祭あり、是を西御幸と称す、(社記)

名勝志に「三輪明神(下宮地村)祭神 大己貴命也、鎮座不詳、社領十六石、又上宮地に離宮あり、毎年四月卯日神輿御幸あり、上宮地の社に大なる杉六囲斗、居の額に神山と有り、又此邊に大和川あり、按ずるに大神川の転語ならん、大神を大三輪と訓ずれば是れみわ川なるべし、
大神山傳嗣院(曹洞宗上宮地村)後土御門院 延徳年開山 寺領六石」と見え、
 甲斐国志に「下宮地村に鎭座す、府を距る事三里許西南に在り、御朱印杜領十六石三斗、社地三千二百六十九坪、除地屋敷六百四十八坪とあり、
社記に〔上略〕二日船祭とて遷座の時の式あり、是は上世 社前迄湖なりし時、船にて此地に渡り給ひし式と云ひ伝へたり、〔中略〕

正殿、幣殿、拝殿、瑞垣、鹿垣、随神門、鳥居二基あり、
大祀は正月十五日筒粥神事あり、
二月六日船祭賽珠窟の神事、
月始卯日(三卯用中)の遷幸当日より十三日前の卯の日を一ノ神事とし、官より武器兵杖を給はる、旗持六人、(旗二本)乗子二人、警固(四人羽織云々)長柄持十人(長柄十本)弓ノ者十人、(弓箙十把)鐵砲持十人(鉄砲十挺)箱持四人(挟箱四挺)台笠持二人 立笠持二人 刀筒持二人、鎗持四人 若党二十人草履取二人、乗馬二匹、 馬口附四人、右人馬郡中入用に仰付らる、又飯酒菜肴を給ふ、小笠原村御所庭にて神影献上の時云々」と記せり、

 甲斐叢記に「卯の日の祭、大神事にて上宮地の山宮より当社へ移らせ給ふ、此神事を邦俗西御幸と云ふ、公祭にして國玉の神事の如し、御所庭にて神符献上終り、林の中にて饗膳の式あり、土人是を三輪の御涼と云ふ、
十一月卯の日(日取月に同じ)亦一二三の神事あり、三の神事は其前の夜丑の刻に神主 を捧げ、無燭無言にて復山宮へ遷しまゐらせ、翌の朝 本社に帰り、神事了りて宮の前なる大庭に越席を敷き、饗膳の式あり、四月に同じ、土人是れを日向(ヒナタ)ぶくりと云ふ、

中世より此山宮は伝嗣院と云へる滅罪の寺となりし故、不潔を避けて同村八幡宮に遷座あり、合殿にて来年四月迄 此に座の事になりぬ、御所庭は村西にて松樹蔚蒼たる四方四十間許の間地なり、小笠原長清の館の南庭にて、三輸明神の神輿の迎へ祭を爲せし処なり」と云ふ、

神祇志料は「神部神社 舊上宮地村大神山 又(神山とも云う)にあり、後 下宮地村に遷し 之れを三輪大明神と云ふ、蓋し三輪大物主神を祀る」と云へり、
而して三代實録に「清和天皇 貞観月己亥從五位下勲十 美和神、授從五位上、同月甲辰正五位下、十八月正五位上、陽成天皇 元慶月加從四位下」と見えたれど、是の叙位は別に式外の神あるが如し、如何となれば祭神は同じくとも、当社の方ならば神部神に云々とあるべきならすや、

さて当社にはる御朱印古文書等
天正十一十九日十一貫三百文の御朱印状、

慶安十七日十六石二斗、並社中竹木諸役免除朱印状、代々朱印状都合八通、
天正月三條禁制、信長朱印状、
十七十一二十三日俵数書出し、伊奈熊臓黒印花押、
十九二十四日加藤平兵衛尉諸役免許の黒印状、
同年十二十五日神領並神主屋敷寄附光泰黒印状、
文緑日神領寄附淺野右近大夫黒印状、
又永禄日神木禁制書は上宮地神主所藏なり、
慶長十三二十八日櫻井安芸守秋山甚右街門小田切大隅守の禁制書は平岡村神主蔵めたり、

社は 府中八幡宮 神主 先祖代々奉仕したりしと、弘治の頃、今澤岩見と云ふ者 八幡宮神主職に転任して、府中に移りしより、当社を兼帯所とし、宅地に神代と云ふ者を据ゑ置きて、守護し奉らせしと云ふ、
 三輪神山宮の地を神山と称せり、最初勧請の時より 冬は山宮に遷座し、夏は里宮に遷座する事例なり、然るに神主の先祖 今澤貞重と云ふ者、年老いて家職を右近三郎に譲り、落髪して普念道観と改名し、明應元壬子年 此処に草庵を営居し、其後 文亀元辛酉年 叔父坊主第翁居一に譲與せり、居一は小林村南明寺八世天徳の一ノ弟子なりしに、永正庚午年 天徳寂して、後に他の僧輩と寺職相続に就き争論ありて、居一遂に出山し、吾の一派州安宗彰の嫡孫在先祖鑑を師として、神山に住せしめ、大神山伝嗣院と號し、大に禅林を開き、道観を開基とし、組鑑を開山とし、居一二世に住せり、右近三郎も、亦父の志を継ぎ発心して、切林道徳と改名し、三輪の神田若干を寄附し、爾來神地変じて佛場となれり」と甲斐國志に見ゆ、
明治年社領を上地し、同年郷社に列す。

社殿は本殿、拝殿を有し、境内三千百三十七坪〔官布地第一種)あり。

境内神社
 地神社 天神社 津島社 神明社 稲荷社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

神部神社(南アルプス市下宮地) (hai)」(90度のお辞儀)

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甲斐国 式内社 20座(大1座・小19座)について に戻る

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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