高城神社(たかぎじんじゃ)は 二つの式内社の論社となっています 一つは 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)とされ 又 別称を御霊の宮(ごれいのみや)と呼ばれ ここから武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされています 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に遷座しました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高城神社(Takagi shrine)
【通称名(Common name)】
・御霊の宮(ごれいのみや)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県熊谷市高本562
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
遷 宮
維持昭和四十五年四月十日第二次和田吉野川改修に際し社殿其の地域に入るに及び元社殿敷なるの故を以ってこの地に遷宮し奉る
現地 遷宮記念石碑より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・石碑〈境内の西側に並んで祀られる〉
向かって左手から
・瀧祭神社・水神宮・天神宮・天満宮・牛頭天王・武之内稲荷神社など
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地に遷座〉
・高城神社(熊谷市高本)旧鎮座地跡地
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
二つの式内社〈①宮目神社 ➁髙城神社〉の論社となっています
①宮目神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宮目神社
[ふ り が な ](みやめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miyame no kamino yashiro)
【原文参照】
➁髙城神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)大里郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙城神社
[ふ り が な ](たかきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takaki no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
髙城神社(熊谷市高本)は 二つの式内社〈①宮目神社 ➁髙城神社〉の論社となっています
①延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社について
・宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)
・高城神社(熊谷市高本)
・姫宮神社(宮代町姫宮)
・神明神社(菖蒲町上栢間)
➁延喜式内社 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)の論社について
・高城神社(熊谷市宮町)
・高城神社(熊谷市高本)
・高城神社(熊谷市高本)旧鎮座地跡地
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 熊谷駅から県道257号経由で荒川を渡り南下して 約6.5km 車15分程度
大里の高本地区の水田の中にこんもりとした杜があります
社頭は東西方向に向いて 横を流れる用水路に沿ってうねった参道になっていて趣があります
高城神社(熊谷市高本)に参着
社頭には門柱があり 御大典 奉紀念 と刻字されています
社殿 境内の鳥居は ほぼ南向なので 参道は横から進む配置となります
参道横には 伊勢参宮記念の石碑が並んでいます
境内西側には 石祠が並んで祀られています
社殿の前には 朱色の鳥居が建ち 一礼をして くぐり抜けます
拝殿にすすみます 拝殿の手前には 遷宮記念の石碑が建ちます
拝殿の扁額には゛延喜式内 髙城神社゛と記しています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉と記しています
式内社 高城神社の所在について 熊谷駅 高城大明神〈現 高城神社(熊谷市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目(ミヤメノ)神社
〇大宮賣神 太玉命子也
式内社考 柏間村 神明宮なり高城(タカキ)神社
旧事記 高皇産霊尊 亦名 髙魂尊 亦名 高木命 この国 秩父国造 高皇産霊尊之息思兼命之孫也
式社考 熊谷駅 高城大明神タカミムスヒ命 神領除地七段
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
高城神社(熊谷市高本)について 高本村には 三つの神社〈現 境内社も含む〉が記されています
御靈明神社〈現 境内社の並びにある石板碑〉祭神の鎌倉権五郎景政は 平安後期 奥羽で起きた「後三年の役(1083-87)」で源義家に従って出陣し戦場で片目を射抜かれながら奮闘したと知られる実在した16歳の坂東武者
この武勇伝が産鉄民が祀る神゛一つ目神゛として゛鎌倉権五郎゛の御霊信仰となったと伝わります
高城神社(熊谷市高本)は 通称名を御霊の宮の呼ばれ これが式内社 宮目神社の論社とされる由縁か?
【意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二二一 大里郡之三 上吉見領 高本村
〇御靈明神社
村の鎮守とす 鎌倉権五郎景政の靈を祀ると云 地蔵院の持 下同〇瀧宮
〇天神社
今は廃して 再興に及ばず
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と記しています
式内社 高城神社の所在について 中山道熊谷驛〈現 高城神社(熊谷市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
宮目は美夜女と訓べし
○祭神 大山咋命、(地名記)
○騎西町に在す、(同上)
例祭 月 日、高城神社
高城は多加芸と訓べし
〇祭神 高皇産霊尊、(地名記式社考)
〇中山道熊谷驛に在す、(地名記、参考)
例祭 月 日
〇古事記、(神代段)是高木神者、高御産巣日神之別名、
社頭 除地七反
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 宮目神社については 社名のみ記されています
式内社 高城神社の所在について 熊谷郷〈現 高城神社(熊谷市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目(みやめの)神社
高城(タカキノ)神社
今 熊谷郷にあり、高城大明神といふ 神名帳考土代、巡拝舊祠記
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 百聞村字姫宮〈現 姫宮神社(宮代町姫宮)〉として その他に2説・騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と・柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉を記しています
式内社 高城神社の所在について 高木村〈現 高城神社(熊谷市高本)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
祭神 大宮賣神
今按〈今考えるに〉
注進状に祭神未詳 一説に多紀理姫命 多紀津姫命とあれど こは中古 姫宮と云より唱出たる説にて信がたけれど 大宮賣神を祭れるを後には姫神とも唱へて 遂に祭神の名を失ひ 姫宮と云より三女神と訛れるなるべし 故今訂して記せり祭日
社格 (明細帳に姫宮とあり 村社)所在 百間村 字姫宮(南埼玉郡百間村大字百間西原字姫宮)
今按〈今考えるに〉
一説 騎西町にあり 又 柏間村 神明宮とも云へど
騎西町なるは 祭神 大山祇命と云も疑わしく旧記等の證とすべきものなし
柏間村なるは 社地に宮原と云小名あるのみにて證あるに非ざれば信じがたし
百間村なるは 姫宮神社と云ひ土人も宮目社と云伝へ 祭神は三女神と云ひ 應永年中鰐日に太田庄南方百間姫宮と銘あるも一證とするに足れり故今之に従へり
高城神社
祭神 高皇産霊尊
祭日 三月九日 並び十五日
社格 村社
所在 高木村(大里郡市田村大字高本)(高木は高本の誤なり)
【原文参照】
『埼玉の神社(Saitama no jinja)〈1986~1998年 出版〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
高城神社 大里村高本(高本字高城街)
当社は、延喜式内の神社と伝えられている。鎮座地に移動があり、『明細帳』は「旧社地ハ村ノ北方ナリシガ村民居住ノ後ノ方に当タルタメ現在地ニ遷座スル」と記載している。
また、昭和四年に、当時の村助役である田所泰造の日記した『延喜式内高城神社誌』は「和田吉野川の流れに近い中街に古く鎮座していたが、流れが変わり当社は下流の中ノ森(高城街)に流された。これを神慮であるとして以来この地に祀られる」としている。
いずれにしても、この移転の時期は不明である。昭和四十五年に、中ノ森は河川改修地域となり移転を迫られた当社は、旧社地である中街の現在地へ再び遷座している。
明治初め、当村名主芳三郎が浦和県社寺改役に提出した「武蔵国大里郡高本村三社」に、相上村吉見大神の社家徳永豊洲が文久三年(一八六三)に当社の旧社地に接して家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を見付けたことを書いている。この鈴は社宝として現存し、式内社を証明する一つとされている。
先に述べた『延喜式内高城神社誌』は当社の奉仕者について、古代から高木氏が仕え、初めは神主、後に修験正覚院となる。高木氏は、徳治二年(一三〇七)に幡羅郡長井太田に移り太田城主高木内蔵之介元信となる。下って元和四年(一六一八)に正覚院跡に大和国初瀬の小池坊から地蔵院を移し、明治維新まで当社の別当としたとある。『埼玉の神社』1986~1998年 埼玉県神社庁 出版 著 埼玉県神社庁神社調査団より抜粋
高城神社(熊谷市高本)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)