大穴持神社(霧島市国分広瀬)

大穴持神社(おおなむぢじんじゃ) 天平宝字8年(764)噴火によって3島が出現した時 噴火で島を造った神の名は「大穴持神」とされ 宝亀9年(778)官社となりました『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載社〈式内社〉です 大己貴命がマムシに咬まれ忌み嫌ったので この地区にはマムシがおらず まむし除けの信仰社としても有名です

目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大穴持神社Onamuji Shrine)
(おおなむぢじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

おなんじさ

【鎮座地 (Location) 

鹿児島県霧島市国分広瀬3-1089

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(Ohonamuchi no mikoto)
《配》少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
   大歳神(Ohotoshi no kami)
《合》霧島大神(Kirishima no ohokami)

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【御神格 (God's great power)】(ご利益)

まむし除け
病気除け
・縁結び
・等

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

大穴持神社

祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)
   大歳命(おおとしのみこと)

創建年代 宝亀9年(778

 この神社は、光仁(こうにん)天皇の時 奥州津軽山に鎮座されていた、
その後 勅命を以って神造島(いしづくりじま)(今の小島)に遷座したが、島くずれのため 現在の場所にうつされたと伝えられている。「医療の神」として、また「まむしよけの神」として崇められている。
 地元の人たちは 普通「おなんじさあ」と呼んでいる。

小村新田
 大穴持神社の南方は昔、現在の国道10号線の付近まで海が広がっていた。弘化2年(1845)干拓工事を起工し、6年の歳月と92060貫の費用を要して堤防を入れて120ヘクタールの新田が開発された。
 延々四キロにわたる護岸石積や水門・石碑などは、干拓工事以来の歴史を物語っている。
平成312 霧島市教育委員会

境内案内板より

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【由  (History)】

由緒

 創建年月は不詳であるが、延喜式内社の一社で、神明帳に「大隅国 囎唹郡 大穴持神社」とあるのは当社のことである。

国分諸古記によると、大己貴命 昔奥州津軽山に鎮座されていたが、西国に守護神が少ない 故に 勅命を以て 西国の鎮守として下向された。
常陸国の橘氏、宮永氏4人の兄弟、岩元氏の一族等一行25人で神輿の前後を守護し、奥州水の渡、津軽山より負い下って日向の串島にお着きになり 福山迄来られたが、よい舟がなく敷根迄道を作って(神割坂)おいでになり、敷根から舟で大隅国 福瀬の渡に着船、そこで福島村にお仮屋を作られ、その後 小村(今の広瀬)に本宮をお作りになったとある。

 大己貴命が 農道を歩いておられる時、犢牛(コッテ牛-雄牛のこと)が突進して来たので、麻畑に遁れたところ その麻畑にいた 蝮に咬みつかれたとのこと。その為 命が 犢牛と麻と蝮を嫌われるので、広瀬では 犢牛を飼ったり麻を植えたりすると家が栄えないといわれ、昔から この集落には 馬は多数飼われていたが 牛を飼う人は 殆どいなかったと云われる。
此の集落を中心に、天降川と検校川の間には 蝮が生息しないを云われている。

 名前を沢山お持ちの神で、医薬・温泉・醸造・武運・開運招福・交通安全・病気除け・厄除け・縁結び・安産・家内安全の神として知られ、現在は 広瀬集落の氏神として崇敬篤く、殊に古来蝮除けの神として 郡内始め 県下各地からの参拝者が多数ある。

鹿児島県神社庁公式Hより
https://www.kagojinjacho.or.jp/shrine-search/area-airaisa/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E5%B8%82/453/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向かって右手
日天宮
稲荷宮

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本殿向かって左手
月天宮
大田宮
大王宮

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いぼさあ

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曽於郡 3座(並小

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大穴持神社
[ふ り が な ]おほなもちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohonamochi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
大穴持神社」の名称を持つ神社は2つ

①「大和國 葛上郡 大穴持神社

大穴持神社奈良県御所市朝町

➁「大隅國 囎唹郡 大穴持神社

大穴持神社(霧島市国分広瀬)

大隅国の式内社〈5座〉について

一緒に読む
大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について

大隅国(おほすみのくに)の式内社は 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 大隅国の5座(大1座・小4座)の神社のことです 最南端の式内社として 益救神社(屋久島町宮之浦)もあります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

隼人駅から 県道471号とR10号経由 南下約5km 車12分程度

かつては 出現した3島〈三島〉だと比定されていた 隼人港沖の辺田小島・弁天島・沖小島は 隼人新港沖合に見えます

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その更に沖には 桜島が見えています

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R10号線沿いに鎮座します 社殿は桜島を仰ぐように 僅かに南西方向に向いています 境内の入口からは 桜島が見えています
社号標は黒い石塔に「大穴持神社」赤い色の玉垣に朱色の鳥居と社殿が建っています
大穴持神社Onamuji Shrine)に参着

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一礼をして 朱色の鳥居をくぐり
拝殿にすすみます 

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社殿は朱色で 左右に鎮座する境内社も同じように朱色です

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿続き 瓦屋根朱色の柱 白壁統一されていて 美しいです 社殿の左右の境内社にお詣りをします

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境内は大きくはありませんが とても綺麗に整備されていて 朱色の輝きに彩られています
参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)〉に記される伝承

天平宝字8年(764)12月に 大隅国・薩摩国境で起こった噴火によって3島が出現して
天平神護2年(766)6月 大隅国神が造った新島震動がやまず 人民の多くが流亡した
宝亀9年(778)12月に 神護年間に島を造った神の名は「大穴持神」であり 官社としたと記されています

【意訳】

卷二十五 淳仁紀五 天平宝字8年(764)12月 の

是月(この月) 西方に聲〈響き〉有り 似雷非雷〈雷のようであるがそうではない〉
時當大隅薩摩兩國之堺〈ちょうど 大隅と薩摩の両国の境〉
烟雲晦冥〈雲が立ち上り 暗闇となる〉奔電去來稲妻が走り行きくる
七日之後乃天晴七日のち 天は晴れ
於麑嶋信尓村之海〈さして鹿児島の信爾(しなに)村の海に〉沙石自聚〈砂石が集まって〉化成三嶋〈三つの島が出来た〉
炎氣露見〈噴火気を露見して〉有如冶鑄之爲〈鉱石を溶かすようになっている〉
形勢相連望似四阿之屋〈島は互いに連なっている様は 東屋のように見える〉
爲嶋被埋者〈この島によって埋もれたもの〉
民家六十二區 口八十餘人〈民家62戸 人民80余人〉
是年兵旱相仍 米石千錢〈この年 知らせの早馬が届き 米が1石1000銭に値上がりした〉

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【意訳】

卷二十七 称徳紀二 天平神護2年(766)6月3日(丁亥5日己丑)の

6月3日(丁亥日向 大隅 薩摩三國大風 桑麻損盡 詔勿收柵戸調庸

 日向・大隅・薩摩の三国に大風が吹いて 桑や麻が傷み尽くした
天皇のにより 城柵を維持するために置かれた人々が 納税を免除された

6月5日己丑大隅國神造新嶋 震動不息 以故民多流亡 仍加賑恤

大隅国に神が造った新島が震動して止まないために 民が多く流亡した 
よって援助物資(金品)を与えた

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【意訳】

卷三十五 光仁紀五 宝亀9年(778)12月12日甲申)の

12月12日甲申去神護中 大隅國海中有神造嶋 其名曰大穴持神 至是爲官社

去る天平神護年中に 大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という  ここに至り「官社」とする

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

神造島について 文化10年(1813年)当時は「小島(コジマ)とも 又 宮瀬(ミヤセ)とも」呼ばれている所だと記しています

【意訳】

大穴持神社

『続日本紀』宝亀9年(778)12月12日甲申)の
去る天平神護年中に 大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という  ここに至り「官社」とする

〇信友云う
ある書に 桑原郡国分にあり 式社 大穴持命 少彦名命 大年神を祭れり
この処に 神造島(カミツクルシマ)と云うとあり 今 小島(コジマ)とも 又 宮瀬(ミヤセ)とも云う 

さて拝殿に 大穴持命と云う額をうちたり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『三国名勝図会(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承

境内の絵図には 現在とほぼ同位置に本社 境内社が描かれていますが 目の前は海岸線となっています 『続日本紀』の火山活動により新島が現れた条文と 毎月一日の夜に出現したとされる「大穴持の火」について記されています

【意訳】

大穴持(オホナムチノ)神社

地頭館と距ること未方 一里許り

小村の海邊に在り
祭神 大己貴(オホナムチノ)命 相殿 左に少彦名命 右に大歳神の三座なり
祭祀 9月29日 11月初丑日
延喜式  大隅オホスミノ)曽於(ソヲノ)大穴持神社 この社なり

大穴持は 即(スナワチ)大己貴にて 大名持なり 名高きを美る祠 人に向て汝といふも 名持てふ謂なり 万葉集には 大汝にも作る

延喜5年正月社司 谷口某が呈状(カキアゲ)初め社は宮洲に在りて神体は石像なりとあり 木坐像なり その宮洲は今の社地を距ること午方八町許りの海中にあり前に出せる神造三嶼の一後海に没れ潮退時は 徒渉すべしといへるもの是なり

『続日本紀』曰く
光仁天皇 宝亀9年(778)12月12日甲申)の
去る天平神護年中に大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という ここに至り「官社」とする

按ずるに〈考えるに〉
天平宝字8年(764)12月に至り その神が造られた新島が震動息ざることが『続日本紀』に見えていて 詳らかには 神造島の条に載せてるが如し 然れば 天平宝字8年(764)より これに至り 凡そ15年 新島が震動息て 今の宮洲の島上に祠宇を創建ありしを云うなり その嶼(シマ)没するに及んで ここに遷延ありしなるべし

毎月朔日の夜 小村の海中より火出て
当村 治下(フモト)若宮八幡の庭前(ニワサキ)に至る その火 大きさ灯心燭の如く 地を去ること5~6尺 一條の火道ありて 他に散行かず 人も 又 その火道に屋舎を営まず
俗に「大穴持の火」と云うと ある人の書けるものに見ゆ
又 この小村には 麻を栽ることを禁ず
又 蛇生せず 古来 当社より蝮蛇(マムシ)を除く神符(マモリ)を出す 奇験あり
谷口氏 世々社司たり

〇末社
△日神社△稲荷社 以上の2社 本社の左に在り
△月神社△大田社△大王社 以上3社 本社の右に在り

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクション『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)
『三国名勝図会』1 『三国名勝図会』2

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

『続日本紀』にある天平宝字8年(764)12月に 大隅国・薩摩国境で起こった噴火によって3島が出現して
天平神護2年(766)6月 大隅国神が造った新島震動がやまず 人民の多くが流亡した
宝亀9年(778)12月に 神護年間に島を造った神の名は「大穴持神」であり 官社としたと記されています

【意訳】

大穴持神社

当社は 往古 国府郷 神造島に在りしが 後に今の小村の地に遷祀りしなり

大穴持は 於保奈牟知と訓ずべし
〇祭神明らかなり
〇国分郷 小村に在す 神社考

類社 大和国 葛上郡 大穴持神社の条 見合うべし

官社 官幣
『続日本紀』宝亀9年(778)12月12日甲申)の
去る天平神護年中に 大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という  ここに至り「官社」とする

弘仁5年2月乙酉 大隅国 曽於郡 造島神 預くに 幣帛例

雑事
『続日本紀』
天平宝字8年(764)12月 の
是月(この月) 西方に聲〈響き〉有り 似雷非雷〈雷のようであるがそうではない〉
時當大隅薩摩兩國之堺〈ちょうど 大隅と薩摩の両国の境〉
烟雲晦冥〈雲が立ち上り 暗闇となる〉奔電去來稲妻が走り行きくる
七日之後乃天晴七日のち 天は晴れ
於麑嶋信尓村之海〈さして鹿児島の村の海に〉沙石自聚〈砂石が集まって〉
化成三嶋〈三つの島が出来た〉
炎氣露見〈噴火気を露見して〉有如冶鑄之爲〈鉱石を溶かすようになっている〉
形勢相連望似四阿之屋〈島は互いに連なっている様は 東屋のように見える〉
爲嶋被埋者〈この島によって埋もれたもの〉
民家六十二區 口八十餘人〈民家62戸 人民80余人〉

天平神護2年(766)6月3日(丁亥5日己丑)の
大隅国に神が造った新島が震動して止まないために 民が多く流亡した 
よって援助物資(金品)を与えた

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

鹿児島県神社帳に「当社より西北に当れる海中に 小島と云うあり これ即ち 神造島なり 今 考えるに小島は神島の誤り」と記しています

【意訳】

大穴持神社

祭神 大穴持命

官幣 
光仁天皇 宝亀9年(778)12月12日甲申)の
去る天平神護年中に 大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という  ここに至り「官社」とする
嵯峨天皇 弘仁4年2月乙酉 大隅国 曽於郡 造島神 預くに 幣帛例

祭日 2月13日 9月29日 11月初牛
社格 縣社
所在 国府郷 小村(姶良郡 東国分村大字小村)
今 按〈考えるに〉
鹿児島県神社帳に 当社より西北に当れる海中に小島と云うあり これ即ち 神造島なり 今 按〈考えるに〉に小島は神島の誤りなるべし かかれば 小村も神村の義ならむと云えり

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『大日本地名辞書(Dainihon chimei jisho)』〈明治40年(1907)〉に記される伝承

神造(カムツクリ)島について 記しています

【意訳】

上巻 西海(九州)大隅国 姶良郡 小村濱 神造島 の条

神造(カムツクリ)島

国分村の南なる小村濱 沖10余町に在る岩礁なり 土俗 小島(コジマ)と呼び 三嶋を見るべし その二は高さ20~30間 周囲60間許 一は低平にしてやや大なり これを宮洲(ミヤノス)と曰ふ

続日本紀に
 天平宝字8年(764)大隅と薩摩の両国の境 雲が立ち上り 晴れて後に 鹿児島の村の海上に この島出ずと曰う
鹿児島は 蓋今の国分東西の旧名にして 信禰は 今訛り 敷根と云う 国分の東に接す

地理纂考云う
続日本紀に天平宝字8年(764)12月 の
この月 西方に聲〈響き〉有り 雷のようであるがそうではない ちょうど 大隅と薩摩の両国の境 雲が立ち上り 暗闇となる 稲妻が走り行きくる
七日のち 天は晴れ さして鹿児島の村の海に 砂石が集まって 三つの島が出来た 噴火気を露見して 鉱石を溶かすようになっている 島は互いに連なっている様は 東屋のように見える この島によって埋もれたもの 民家62戸 人民80余人
天平神護2年(766)6月3日(丁亥5日己丑)の
大隅国に神が造った新島が震動して止まないために 民が多く流亡した 
よって援助物資(金品)を与えた

また 宝亀9年(778)12月12日甲申)の
去る天平神護年中に 大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という  ここに至り「官社」とする〉とあるのは この神なり

又 大日本史に八幡宇佐宮御託宣集を引いて云々

三島始め 鼎足の如くなりけんを 天平神護2年の震動に 一島は崩れ 平島となりにけん 又 その平島には彼 大穴持神社を建てしを 後世 更に小村浜に移し 平島には宮洲の名を遺せり

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大日本地名辞書』著 吉田東伍 冨山房1907-10-17
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815090『大日本地名辞書』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

天平神護2年(766)の振動で 新島が崩れて 平島となった この地に大穴持神社を祀ったが 波に洗われるので 現在地に遷座した 旧跡は宮洲と呼ばれていると記されています

【意訳】

鹿児島県 大隅国 姶良郡 東国分村大字 山ノ口

縣社 大穴持(オホナモチノ)神社

祭神 大穴持(オホナモチノ)命 少彦名(スクナヒコナノ)命
   大歳(オホトシノ)命

天平年間の創立なりと称す(社記)
延喜式神名帳に 大隅国 曽於郡 大穴持神社 小 とあるは 即ち当社なり
続日本紀に
 天平宝字8年(764)12月 の
この月 西方に聲〈響き〉有り 雷のようであるがそうではない ちょうど 大隅と薩摩の両国の境 雲が立ち上り 暗闇となる 稲妻が走り行きくる
七日のち 天は晴れ さして鹿児島の村の海に 砂石が集まって 三つの島が出来た 噴火気を露見して 鉱石を溶かすようになっている 島は互いに連なっている様は 東屋のように見える この島によって埋もれたもの 民家62戸 人民80余人

天平神護2年(766)6月3日(丁亥5日己丑)の
大隅国に神が造った新島が震動して止まないために 民が多く流亡した 
よって援助物資(金品)を与えた

また 宝亀9年(778)12月12日甲申)の
去る天平神護年中に 大隅国の海中に神がを造られた その名を「大穴持神」(おあなもちのかみ)という  ここに至り「官社」とする

類聚国史に
弘仁5年2月乙酉 大隅国 曽於郡 造島神 預くに 幣帛例
等が見え
地理纂考以上の諸記を引きて
「三島始め 鼎足の如くなりけんを 天平神護2年の震動に 一島は崩れ 平島となりにけん 又 その平島には彼 大穴持神社を建てしを 後世 更に小村浜に移し 平島には宮洲の名を遺せり」と云えり
更にこれを
地方誌を見るに云はく
「鎮座 於 曽於郡 国分郷 小村 今 属すに 曽於郡の里俗伝に云う 当社は 海中の島に在りしが 波に洗われて社 難立つ 故に小村の渚に移し奉り その後 今の松林に御鎮座なり 干す今 海中に宮洲〈一に宮瀬〉と云う洲あり これ上古の宮跡なり云々(神社伝記 名勝考 及び 名勝園会等に拠る)

旧 藩時代 島津氏 世々崇敬し 吉貴公 以来 御家督初めに白銀を進納し
又 毎年 祭米3斗5升5合を寄せしといふ
明治6年5月 縣社に列す
社殿は 本殿 及び拝殿を備え
境内地 2183坪あり

境内社
日神(ヒノカミノ)社  月神(ツキノカミノ)社  大田(オホタノ)神社
大王(ダイワウ)神社  稲荷(イナリノ)神社

例祭日 11月3日

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

大穴持神社Onamuji Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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『大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について』に戻る

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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