神館飯野高市本多神社(こうたつ いいの たかいち ほんだじんじゃ)は 第十一代垂仁天皇の御代 皇女倭姫命が皇大神宮〈内宮〉を伊勢の五十鈴川の川上にお定めになられる時 神戸にしばらく滞留せられて御宮所としたのが 神社創建と伝えられ その後 神館神明神社に飯野神社・高市神社・本多神社が合祀され 俗に神戸宗社と呼ばれます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神館飯野高市本多神社(kotatsu iino takaichi honda shrine)
【通称名(Common name)】
・神戸宗社(かんべそうしゃ)
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市神戸2丁目18−28
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)〈神館神明社〉
《配》豊受皇大御神(とようけすめおほみかみ)〈飯野神社〉
高御産巣毘大御神(たかむすひおおみかみ)〈高市神社〉
本多忠統之命(ほんだただむねのみこと)〈本多神社〉
《合》他十八柱
蛭子神,事代主神,大国主神,猿田彦神,宇加之御魂神,大宮能売神,菅原道真,速玉男神,伊邪那美神,予母都事解男神,大山咋神,市寸島比売神,大年神,建速須佐之男神,品陀和気神,天之児屋根命,木花佐久夜比売神,大山津見神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
皇女倭姫命ゆかりの御宮所
神戸宗社神館飯野高市本多神社
◎御祭神
・天照皇大御神 (神館神明社)・豊受皇大御神 (飯野神社)・高御産巣毘大御神(高市神社)・本多忠統之命(本多神社)・他十八柱
◎御鎮座由来
神戸宗社は正式名称を神館飯野高市本多神社といい、神館神明神社に飯野神社、高市神社、本多神社が合祀されて現在の社となっている。
第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が皇大神宮を伊勢の五十鈴川の川上にお定めになられる道中で、神戸にしばらく滞留せられて御宮所としたのが、神社創建の始まりと伝えられている。
その後、幾多の時代の変遷に伴い、飯野神社、高市神社(共に延喜式内社)を合祀する。明治2年の天皇御東幸のみぎりに奉幣代拝、明治6年に郷社に列せられる。近年では、昭和47年に神戸城に御鎮座の本多神社を合祀し、他に拾数有余柱の御祭神を合祀し、更に、先の大戦で散華せられた神戸町出身の御英霊もお祀りしている。
神社配付紙より
【由 緒 (History)】
由緒
社は『鈴鹿市史』によれば、神館、飯野、高市の三社を合祀し、神館飯野高市神社と称し、俗に神戸総社と呼称している。
社伝によると、神館神社は垂仁天皇の御宇、倭姫命が伊勢に向われた折に「立置せ給ふ御宮所」で、その時点の創立であると伝へ、飯野神社はもと西条村から弘治三年(一五五七)ここに合祀されたもので、創祀は不詳、高市神社は十日市町東裏、三日市、あるいは大和高市郡より勧請したとも云われており、創祀は天武天皇元年(六七三)としており、近世の地誌類は、当社を神館大明神又は神館明神と呼んでいる。
明治二年(一八六九)明治天皇御東幸の砌、奉幣代拝にあずかっている。明治四一年、村内の蛭子神社以下五社を合祀し、「神館飯野高市神社」と単称し、別に「神戸総社」と謂うに至った。昭和に入り、神戸域主居館近くに鎮座し、城主以下の崇敬が篤かった縁由により、本多神社も合祀された。三重県神社庁・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63754
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・伏見稲荷神社《主》宇迦之御霊神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
神館飯野高市本多神社は 三つの式内社〈①高市神社②飯野神社③大鹿三宅神社〉の論社になっています
①高市神社〈弘治年中(1555~1558)神戸城築城の際に合祀〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙市神社
[ふ り が な ](たかいちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takaichi no kaminoyashiro)
②飯野神社〈西条村から弘治3年(1557)相殿に合祀〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 飯野神社
[ふ り が な ](いゐのの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iino no kaminoyashiro)
③大鹿三宅神社〈明治41年(1908)合祀 神戸町十日市の鎮守の小祠〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大鹿三宅神社
[ふ り が な ](おほかのみやけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohokano miyake no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
神館飯野高市本多神社は 三つの式内社〈①高市神社②飯野神社③大鹿三宅神社〉の論社になっています 各式内社の現在の論社について
伊勢國 河曲郡 髙市神社(たかいちの かみのやしろ)
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)
・飯野神社(鈴鹿市三日市)
伊勢國 河曲郡 飯野神社(いひのの かみのやしろ)
・飯野神社(鈴鹿市三日市)
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)
・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)
〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉
・菅原神社(鈴鹿市国分町)
伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)に合祀
・大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)
・三宅神社(鈴鹿市国府町)
・大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)
・菅原神社(鈴鹿市国分町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄鈴鹿線 鈴鹿市駅から南西へ約500m 徒歩7分程度
神社の北側の道路沿いに社頭があります
社殿などは南向きです
神館飯野高市本多神社〈神戸宗社〉(鈴鹿市神戸)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進むと正面には北を向いて 境内社の伏見稲荷神社があります
まず 伏見稲荷神社に
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
伏見稲荷神社のお参りを済ませて 振り返ると 南を向いて神館飯野高市本多神社の拝殿がありますので
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社拝詞(じんじゃはいし)が 張り出されていますので その通りに唱えます
拝殿は瓦屋根てすが その奥には本殿が鎮座します
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 高市神社について 所在は゛神戸市中に在す、今神館社と称す゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉と記しています
【抜粋意訳】
高市神社
高市は多介知と訓べし
○祭神 高市連祖歟
〇神戸市中に在す、今神館社と称す、〔国史〕
〇勢陽俚諺云、昔は西條村にあり、弘治年中神戸に遷す、
○姓氏録、〔右京神別下〕高市連、額田部同祖、天津彦根命三世孫彦伊賀都命之後也、
【原文参照】
式内社 飯野神社について 所在は゛神戸市中神館社に相殿に在す゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉と記しています
【抜粋意訳】
飯野神社
飯野は伊比乃と訓べし
○祭神 飯豊姫命、〔考証、俚諺、〕
○神戸市中神館社に相殿に在す、〔俚諺〇勢陽俚諺云、昔は四條村にあり、弘治年中遷す、〕
【原文参照】
式内社 大鹿三宅神社について 所在と祭神は゛祭神在所等詳ならず゛と不明と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅神社
大鹿は於保賀、」三宅は美夜氣と訓べし
○祭神在所等詳ならず
考証に、神宮雑事記云、河曲郡神戸預大鹿武則、大鹿與中臣同祖、此郡氏人如此、と云り、
〔連胤〕按るに、大鹿氏は、姓氏録〔未定雑姓右京〕にも大鹿首と見えたれど、今は地名を冠らせたるにて、三宅神を主と祭れる事は明らかにて、此例多くあり、されば大鹿首祖神にはあらで、三宅連の氏社なるべし、類社
当國 鈴鹿郡 三宅神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
【抜粋意訳】
高市神社
今 神戸村石橋町神館神明社に合祭る、舊址は同村 十日市町の南東にあり、〔式社實碌記〕
式内社 飯野神社については 所在は゛今 神戸村 石橋町 神舘神明社に合祭る、舊址は飯野郷西條村にあり゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉と記しています
【抜粋意訳】
飯野(イヒヌノ)神社
今 神戸村 石橋町 神舘神明社に合祭る、舊址は飯野郷西條村にあり、〔西條村玉田氏系議、式内社検録〕
【原文参照】
式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國府村 天神山にある天神盖是也゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅(オホカノミヤケノ)神社
今 國府村 天神山にある天神盖是也、〔式内社検録、〇按本書引進状、當御國内 大鹿村を廃て、国文村と唱ふる事知へし、〕盖伊勢大鹿首の祖 天兒屋根命を祀る、〔古事記、日本紀、神宮雑事記、東鑑、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
高市神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに 考証に六呂兄村に配するは御大和森と呼ふ大和に高市を附會するなり 況其村は三重郡なり 浮説とるに足らす
再考に中神戸市中に此社ありと云へるは何の識跡を得つらむ 詳ならぬを案内記 是に依て神戸石橋町なる神館社に塡つ 然れとも其 神館神明宮は河曲神戸の神館にて儀式帳に小山宮とある是なり 今は石橋町より社域に入れと古昔は南東の小山町より入るを以て 證すへし 其社を高市神社と稱する證跡 所見なきに依て 宮地記遺響等に合併の説を唱へ 舊は三日市村にあり 或は西條村にありたりなといへり 然れとも三日市村には今猶 牟山明神と唱へて神祠現存す 遷移の説 信受しかたし
又 西條村より遷轉せしといふは飯野神社なり 二書の麁妄論に足らす 是故に神戸藩明細帳に高市神社神明宮相殿 往古十日市町鎭坐ありしを 時年不詳今の社地へ遷坐す 其舊跡ありと載す 三日市西條の説を措て十日市と高市と稍音近きを以て 舊地をここに在とす 都て此 合併相殿の説は證する所なし 猶他に竟むへきにや 然るに又 龜山藩明細帳に三日市村 飯野神社高市神社相殿 三重縣注進帳にも三日市村 産神高市飯野相殿とす 今に高市之森と云社跡ありといへりと載す 其産神は牟山明神と唱ふる社なり 舊地とは見ゆれと 両神合併の確證なし 其舊跡と唱ふる高市之森は 古き村會圖に加筆して高市社舊跡とあり 後人の狡意に出る所にして 正實の傳設にはあらすとすへし
式内社 飯野神社について 所在は゛①北長太村②三日市村③神戸石橋町゛の三ヶ所を挙げています
①北長太村〈現・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)〉
②三日市村〈現・飯野神社(鈴鹿市三日市)〉
③神戸石橋町〈現・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉
【抜粋意訳】
飯野神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに この社 注進帳等に北長太村 三日市村 神戸石橋町等三所にありとす
北長太村にては 産神 神明社に配す 寶永六年九月の棟札あり 延真式内飯野神社と傍書し 其舊跡は村の北の禾田の中にありて 今飯野森土之宮と云ひ 其南に流るる川を飯野川と云ふを證とす 棟札の書體疑なきにあらす飯野川といふも 田畝に曳く堰水にて井の川なるを飯野に牽合するなり
三日市村にては 産神 牟山明神に配す社地の邊を飯野と云ひ 社の辰巳に飯野宿禰塚と云あるを證とす 併孟浪の口傳にて 徴とすへきものなし
神戸石橋町にては 神館大明神と稱する河曲神戸の神明社 市中に在て 産社とするに飯野神社を合併すといへり 其來由を捜宗するに 其社の氏子 西條村玉田彌十郎所蔵 系譜云 飯野権之進〔正中二乙丑五月十三日逝去〕八代飯野十兵衛〔天文九庚子九月朔日死去〕男玉田権右衛門〔永禄十二巳巳四月十九日〕當所 飯野郷と称し我先祖代々 此所に住居 故姓を飯野何某と名乗 當村根元たり云々 永禄之頃 神戸蔵人友盛一圓に守護し 飯野郷卯ノ方に城廊築 當村民家 城西に相成 在名西條村と相改 飯野社 今之所に社境相移し 其節 飯野某へ住地拜領 此時姓を玉田と改むと載たるを見れは 古來本社は今の四條村に在たる事著し 永祿年中 神館社域に遷轉したる後も 神祭の日は 西條村人來て供奉する事今に絶えず 其舊地は神戸城内乾隅なる鈴木勇記の宅地是なり 仍て西條村の内高六百九石五斗ニ升八合之處三十石二斗七升社地溝等城内になりたる故 引免となる由 元文元年十月二十七日 寬保元年十一月十五日等の證文を西條村に藏す 此等の證據を以來 社は神明宮合併と判定すへきか
【原文参照】
式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國分村゛〈現 菅原神社(鈴鹿市国分町)〉と記しています
三宅村千カ明神〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と
國府村〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉の2説については ゛本郡の神社を配すへき地勢にあらす゛と記しています
池田村〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〉については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛
神戸十日市町〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉については゛全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事゛と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅神社
祭神 津速塊命
大日孁貴今按るに姓氏録 大鹿首津速塊命 三世孫 天兒屋根命之後とみえ 明細帳に津速塊命を祭るとあるを合せ考えるに大鹿氏の 此に住て祖神 津速塊命を祀れるならむ 大鹿首の事件は古事記 日本紀 續日本紀 神宮雑事記 東鑑等に見えて 本郡に貫せる趣著明なり 其祖神を祀る所とすへし
祭日
社格
所在 國分村今按るに 傍注には三宅村千カ明神に配す 考証再考雑記伊謬等の諸書これに從ひ又按内記徴古録等には國府村に在りと云へり 此二説は鈴鹿都の村邑にて西界を去る事梢遠し本郡の神社を配すへき地勢にあらす
又地志には 神戸村 神館社に塡つ 是亦無證の臆説にて信するに足らす
又明細帳には 池田村と神戸十日市町とに在とす 池田の社は棟札に奉上曹大鹿三宅神社日天八王子云々慶應十二年九月二十日其余文祿寛永正保承應元文等の札あるを證とす 其札を檢するに筆跡新くして皆同手に出つ木も今の飽を以て屑り慶長文祿のものに非す 中戸村の神官の預る社にて 彼狡黠者の偽造なる事著し 明なれは信受し難し
又十日市町の社は 民家の後河涯編小の地に在り近年まて山神と唱へて 樹下に石のみたちたりしに小祠を遣り覆て 本社の遺跡と云出てたるにて 全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事なり
依て考ふるに神宮雑書所載 建久三年八月 日注進狀云 山邊御薗二宮給主散位大鹿國忠 當御園の内 大鹿村號ニ國分寺領ト申ニ下ス院宣之間 恒例供祭上分之勤所ニ減少スル也と見えたる 山邊御園は神鳳鈔に山邊御園外宮 山邊新御園内宮と載たる地にて 本郡山邊村を云ふ其村の北に國分村あり天平年中各國に建られし國分寺の廃跡にて近年まて當慶山國分寺と號する小堂も存したりき 建久の頃 其國分寺の領なる旨の院宣を申下して大鹿村の名をき廃し國分村と唱ふる事 右の證文の如くなれは 今の國分村古の大鹿村にて大鹿首の氏人 累代居住し國務に預れる 故に其氏組を祀る祠を大鹿三宅神社と稱せしにこそ村南に今も大鹿塚と唱ふる大墳あり小塚は其数を知らす 産神社は北西の山に在り 其南に氏長者の宅趾あり 社字は天神神明権現の三區なり 其天神は北野天満天神にはあらで 大鹿の氏祖の犬神を祭るなれは 此社をは本社の遺在と定むへきなり
〔但し 其社 後に井ノ谷といふ字あるを以て 飯野神社に配する説もあれど 古を稽へざる妄言なり 従ふへからず〕
【原文参照】