雄山神社 中宮祈願殿(おやまじんじゃ ちゅうぐう きがんでん)は 社伝に 文武天皇の大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り 雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山と伝わります 雄山神社は 現在では・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
雄山神社 中宮祈願殿(Oyama shrine chugu kiganden)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)二番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
立山大権現雄山神
本地 阿弥陀如来
天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)
刀尾天神剱岳神
本地 不動明王
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 越中國一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。
古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。
尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。
当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり 清和天皇 貞観5年正五位上に 宇多天皇 寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。
また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正11年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。
明治6年には県社となり、昭和15年に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
由緒書
祭神
西本殿 立山大宮 伊弉那岐命
東本殿 立山若宮 天手力雄命
別 宮 立山開山堂 佐伯有頼公當神社は日本三霊山立山を神山と仰ぐ雄山神社中宮にして、延喜式内国幣小社であり鎌倉時代神道集によれば越中国一の宮と称せらる。鎌倉幕府室町幕府金沢藩主の特別崇敬保護を享け、中宮寺塔中の衆徒社人三十八戸軒を列ねて奉仕し全国に立山の霊験を布教せり。
総拝殿を祈願殿と称し境内二万余坪あり樹林は富山県天然記念物に指定せらる。
境内に於て草木を採り、殺生を行い、無禮を為すことを固く禁制す。社頭の掲示板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・立山大宮〈西本殿〉
《主》伊邪那岐神
号 立山大権現雄山神
本地 阿弥陀如来
相殿神 第四十二代文武天皇
佐伯宿禰有若公
立山大宮
御祭神 立山権現 伊邪那岐大神
相殿 第四十二代文武天皇
佐伯宿祢有若公立山権現麓芦峅中宮の末社にして、姥堂と竝び立山信仰の中心社堂で本殿。大拝殿と偉容を誇っていたが明治初年 山中よりの落石の災害に合い両殿共に破壊される。
現地案内板より
・立山若宮〈東本殿〉
《主》天手力雄神
号 刀尾天神剣岳神
本地 不動明王
相殿神 稲背入彦命
〈社地流出より若宮 相殿に合祀 稲背入彦命〉
②立山若宮 相殿に祀られる 布勢神社(片貝川の川中島に鎮座)
※立山若宮 相殿に合祀されているのは 式内社 布勢神社の論社(川中島に鎮座の布勢社)
一説に 式内社 布勢神社は
布施川と片貝川の川中島に鎮座していたが 宝永5年(1708)6月の洪水で流失し 芦弁寺がこの布勢神社を引きとったと云われ 芦弁寺の雄山神社の境内社若宮神社に合祀と伝わります
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立山若宮
御祭神 刀尾天神(天手力雄神)
稲背入彦命
佐伯有頼命古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神二十一末社の総本宮として厚く崇敬 されてまいり、殊に足利将軍義植公の祈願奉幣の社として 尊敬を受け、以来戦国武将 江戸時代清里武門より 敬信の誠を捧げられ、大願成就 必勝不敗 災難除けの神として信仰される。
また霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝するを例とした。
現地案内板より
立山町指定 建造物
若宮社殿
昭和三十九年六月十一日 指定
文武天皇の大宝元年(701)越中国司佐伯宿祢有若卿の嫡男有頼少年が白鷹と熊に導かれ霊峰立山を開かれた。勅命により山麓芦峅の地に立山雄山神を奉斎する根本中宮を始め、壮大なる神社仏閣が建立された。
若宮社殿は文治元年(1185)に鎌倉幕府が大内冠者惟義に命じて造営したと伝えられている。現在、天正十六年(1588)三月吉日大和国宇陀郡平臣加藤清○の棟札が残されているので、この当時に修理を加えたと考えられている。間口2.73m、奥行4.69mの一間社流造で、明治初年に本殿の老朽化が著しく自立が危うくなったため、本殿の外側に全体を覆う軒支柱が造られた。また、現在は銅版葺きであるが、当所は柿葺きであった。
若宮社殿には佐伯氏の祖稲背入彦命・佐伯宿祢有頼命が祀られており、足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬を受け、以来戦国武将名門の尊崇厚く、大願成就、必勝不敗、災難除けの神として信仰されている。
立山町教育委員会
現地案内板より
・祈願殿〈拝殿〉
《主》両本殿主祭神をはじめ立山全山三十六末社の神々を合祀
〈摂社〉・立山開山堂〈別 宮〉
《主》佐伯有頼慈興上人〈立山の開祖 越中国司佐伯有若卿の嫡男 佐伯有頼公〉
〈御廟〉・立山開山 佐伯有頼廟
立山玉殿岩窟において霊示を受け立山を開山 生涯を立山信仰の弘宣に捧げられた佐伯有頼公(出家して慈興と号す)が 天平宝字三年六月七日八十三歳で入定された地と伝えられる
石碑裏に刻字
「慈興上人佐伯有頼公 天平宝字三年六月七日 入定留身之地也」
〈末社〉・神明社
〈向かって右側の三扉の社〉
《主》中央 天照皇大御神
向かって右 豊受大神
向かって左 麻続祖神
〈末社〉・宝童社
〈向かって左側の社〉
《主》新川姫神
〈末社〉・神秘社(山神様)
《主》造化三神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)
大山祇神
久々廼智神
〈末社〉・閼伽池社
《主》高オカミ神
暗オカミ神
〈末社〉・稲荷社
《主》倉稲魂神
〈末社〉・水神社
《主》水波能賣神〈芦峅寺各所の水源地に祀られていた水神石堂を合祀〉
・金太郎の銅像だろうか?
・石舞台
・斎館
・狛犬・透塀
・手水舎
〈此の水は一キロ山奥の水神社境内に湧き出る石清水です〉
・鳥居
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・庚申社〈庚申塚〉
《主》庚申青面金剛神(猿田彦命)
〈芦峅寺入口の道路辺の塚の上に鎮座〉
現在では 雄山神社は 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
・雄山神社 峯本社(立山 頂上)
・雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)
・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
雄山神として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻七 貞觀五年(八六三)九月廿五日〈甲寅〉
○廿五日甲寅
授に
越中國 正五位下 雄山神に 正五位上
近江國 正六位上 葛野神に
伊豫國 正六位上 高繩神に 並に從五位下勘解由使起請二條
其一曰 神社帳准官舍帳 勘了之日 令移式部省
其二曰 奴婢生益 附帳之日 令注父母名 太政官處分 並依請
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
本社と立山若宮の相殿の両社が式内社の論社となっています
①本殿〈雄山神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中国 34座(大1座・小33座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)新川郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 雄山神社
[ふ り が な ](をやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Woyama no kamino yashiro)
②立山若宮 相殿に祀られる 布勢神社(片貝川の川中島に鎮座)
一説に
布施川と片貝川の川中島に鎮座していたが 宝永5年(1708)6月の洪水で流失し 芦弁寺がこの布勢神社を引きとったと云われ 芦弁寺の雄山神社の境内社若宮神社に合祀と伝わります
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中国 34座(大1座・小33座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)新川郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 布勢神社
[ふ り が な ](ふせの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Fuse no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 越中國 新川郡 雄山神社(をやまの かみのやしろ)の論社
延喜式内社 雄山神社については
芦峅寺村〈現 雄山神社中宮祈願殿〉と岩峅寺村〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉の2寺の僧侶が社地を争い止まらず 旧藩の裁判で山頂〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を本社と裁判したとする説
又 霊峰立山を神の山として奉斎するもので 元々本社は立山の山頂〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉とする説
又 岩峅寺村〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉が本社とする説があり 一定しませんでした
現在では 雄山神社は 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
・雄山神社 峯本社(立山 頂上)
・雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)
・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
・熊野神社(立山町栃津)
〈前立社壇の元鎮座地〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
有峰口駅から常願寺川を渡って 約2.4km 車5分程度
県道6号を立山駅方面〈東〉へ向かうと 県道沿いに社頭があります
玉垣横には゛立山権現 芦峅中宮 雄山神社゛と社号が記されています
雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)に参着
一礼をして鳥居をくぐると 手水舎があり 清めます
参道の先に狛犬が座し 透塀で境内が前と奥に区分されています
参道を進むと 参道は二手に分かれ 中央には〈御廟〉立山開山 佐伯有頼廟 があります
左の参道を進みます
杉の巨木の中 緩やかな参道の石段を上がります
神秘社(山神様)の参道があり 入り口にある石柱
神秘社(山神様)にすすみます
神秘社の社殿 その奥の木立には神が宿っているよう気がしてきます
お祈りをします
祈りの後 参道を振り返り見ると 杉の大木の間を進んできたことが より一層わかります
立山大宮〈西本殿〉に向かい 祈ります
祈願殿拝殿にすすみます
扁額には゛立山大権現゛とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
立山に遥拝する絵馬があります
拝殿には 多数の絵馬が掲げられています
つづいて
立山若宮〈東本殿〉にすすみます
右上方に 立山開山堂〈別 宮〉があり 進みます
参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
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『萬葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌゛立山の賦゛
万葉集の巻17には 四月二十六日 越中國国司であった大伴家持によって 天平十九年(747)二十七日に詠まれた「立山の賦」が記されています
一説には゛多知夜麻尓゛(たちやまに)とある ゛たちやまは゛とは゛立山゛ではなく ゛太刀山(たちやま)゛即ち 剣岳(つるぎだけ)を指すもので 古代の立山信仰の基は 剣岳の遥拝であった とする説もあります
【抜粋意訳】
万葉集 巻17
〈歌番号4000〉
天平十九年(747)四月二十六日 立山賦一首 并短歌 此山者有新河郡也〈原文〉
安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓 等許奈都尓 由伎布理之伎弖 於<婆>勢流 可多加比河波能 伎欲吉瀬尓 安佐欲比其等尓 多都奇利能 於毛比須疑米夜 安里我欲比 伊夜登之能播仁 余<増>能未母 布利佐氣見都々 余呂豆餘能 可多良比具佐等 伊末太見奴 比等尓母都氣牟 於登能未毛 名能未<母>伎吉氐 登母之夫流我祢〈訓読〉
天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね〈仮名〉
あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに とこなつに ゆきふりしきて おばせる かたかひがはの きよきせに あさよひごとに たつきりの おもひすぎめや ありがよひ いやとしのはに よそのみも ふりさけみつつ よろづよの かたらひぐさと いまだみぬ ひとにもつげむ おとのみも なのみもききて ともしぶるがね〈歌番号4001〉
四月二十六日 立山賦一首 并短歌 此山者有新河郡也〈原文〉
多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之〈訓読〉
立山に降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし〈仮名〉
たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず かむからならし天平十九年(747)四月二十七日 大伴家持作之
〈歌番号4002〉
立山賦一首 并短歌 [此山者有新河郡也〈原文〉
可多加比能 可波能瀬伎欲久 由久美豆能 多由流許登奈久 安里我欲比見牟〈訓読〉
片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む〈仮名〉
かたかひの かはのせきよく ゆくみづの たゆることなく ありがよひみむ四月廿七日大伴宿祢家持作之
〈歌番号4003〉
敬和立山賦一首并二絶〈原文〉
阿佐比左之 曽我比尓見由流 可無奈我良 弥奈尓於婆勢流 之良久母能 知邊乎於之和氣 安麻曽々理 多可吉多知夜麻 布由奈都登 和久許等母奈久 之路多倍尓 遊吉波布里於吉弖 伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟 多知氐為弖 見礼登毛安夜之 弥祢太可美 多尓乎布可美等 於知多藝都 吉欲伎可敷知尓 安佐左良受 綺利多知和多利 由布佐礼婆 久毛為多奈i吉 久毛為奈須 己許呂毛之努尓 多都奇理能 於毛比須具佐受 由久美豆乃 於等母佐夜氣久 与呂豆余尓 伊比都藝由可牟 加<波>之多要受波〈訓読〉
朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは〈仮名〉
あさひさし そがひにみゆる かむながら みなにおばせる しらくもの ちへをおしわけ あまそそり たかきたちやま ふゆなつと わくこともなく しろたへに ゆきはふりおきて いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ たちてゐて みれどもあやし みねだかみ たにをふかみと おちたぎつ きよきかふちに あささらず きりたちわたり ゆふされば くもゐたなびき くもゐなす こころもしのに たつきりの おもひすぐさず ゆくみづの おともさやけく よろづよに いひつぎゆかむ かはしたえずは右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
〈歌番号4004〉
敬和立山賦一首并二絶〈原文〉
多知夜麻尓 布理於家流由伎能 等許奈都尓 氣受弖和多流波 可無奈我良等曽〈訓読〉
立山に 降り置ける雪の 常夏に 消ずてわたるは 神ながらとぞ〈仮名〉
たちやまに ふりおけるゆきの とこなつに けずてわたるは かむながらとぞ右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
〈歌番号4005〉
敬和立山賦一首并二絶〈原文〉
於知多藝都 可多加比我波能 多延奴期等 伊麻見流比等母 夜麻受可欲波牟〈訓読〉
落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も やまず通はむ〈仮名〉
おちたぎつ かたかひがはの たえぬごと いまみるひとも やまずかよはむ右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 雄山神社について 立山に在〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を挙げています
【抜粋意訳】
雄山(ヲヤマノ)神社
「三代実録」
貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上「万葉集」十七
須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓 云々
〈すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに とこなつに〉「新校」
立山在 新川郡
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 雄山神社について 立山に在り 立山権現〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
雄山神社
雄山は袁夜麻と讀り
〇祭神〇立山に在す 土人説
〇萬葉集十七巻に、立山賦、此山者在ニ新川郡也
安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓、云々
〈あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに〉連胤
按るに、
當社は立山の雄山に坐すが故に雄山神と稱ししにて、所謂 立山は高山と聞ゆれば、雄山神も坐すべけれど、其の比咩神は祈年祭に預り給はねば、立山神社とは申さぬなるべし、
常陸國 筑波山神社二座とありて、今も男體宮 女體宮とて両所に坐して、二上山ともいひ来り、其の男體は案上、女神は案下の幣に預り給へば、筑波山二座にて明か也、媛の女神も案下の幣にだに預り給ふならば、立山神社といふへきを、然あらぬから雄山神社と載せたるなるべし、神位
三代実録、貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 雄山神社について 立山に在り 立山権現〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
雄山(タケヤマノ)神社
今 立山に在り、立山権現と云ふ、神名帳考証、三才圖會、
〇按 越中國圖、立山の北に剣山あり、
萬葉集に須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓と云るは、此の山にして、須賣加未(スメガミ)と申せるは、即ち雄山神なり、姑附て考に備ふ、蓋 伊弉諾尊を祀る、参酌万葉集、土人傳説、
凡 其祭四月八日、十月三日之を行ふ、三才圖會、新川縣式社調帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 雄山神社について 所在は立山麓岩峅村〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉であると記しています
通説として 立山山頂の〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉とする説があるが
これは芦峅寺村と岩峅寺村の2寺の僧侶が社地を争い止まらず 旧藩の裁判で山頂を本社と裁判した事によるものと説明しています
芦峅寺村は〈現 雄山神社中宮祈願殿〉と岩峅寺村は〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉の事です
【抜粋意訳】
雄山神社
祭神 伊邪那岐神
天之手力男神神位
清和天皇 貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上祭日 今四月八日 十月三日
社格 郷社所在 立山麓岩峅村(中新川郡立山村立山峰)
今按〈今考えるに〉
注進状 立山の麓 岩峅村 遥拝と称するもの本社拝殿全備せるを以て 思ふに此の地に鎮座せしこと疑なし
山上は四時雪あり 登嶺に苦しむ故 六月朔日より七月晦日まで 神主を山上に遷座し遠近諸人をして山上に参拝せしめ 其の前後は岩峅本社に歸座あるを例とす 然るに立山峰鎮座と注進せしは 往年 葦峅 岩峅二村の両社僧より社地を争て止まざるより 舊藩にて一時 峰鎮座と裁判し此争を止めし也 然れば今の時 宜しく舊に復し玉ふべしと云り 猶よく考べし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
立山山頂の〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を本社とする説〈當社は往昔より今に至る迄 鹼俊なる山上の霊神として、殊に諸人の崇敬する所たり〉を採用し 式内社 雄山神社と記しています
山麓に大宮〈現 雄山神社中宮祈願殿〉があり これは祈願所とも記しています
【抜粋意訳】
〇富山縣 越中國 中新川郡立山村(立山峯)
縣社 雄山(オヤマノ・タケヤマノ)神社
祭神 天之手力男(アメノタヂカラヲノ)神
伊邪那岐(イザナギノ)命本社は延喜式に雄山神社、式外神名帳に立山権現とあるは即ち此れ也、蓋し立山に在るが故に立山権現とは云ふなり、
創建は崇神天皇の御宇に在りと云ひ、雄山神社の名 亦 古書に散見すれとも 其 確なること詳ならず、
三州志、及社記等の書を参酌して曰は、「大宝元年辛丑年、景行天皇後胤 稲春入彦苗裔佐伯有若越中守として下向、同年九月 嫡男 有頼卿謁説方原五智寺慈朝師、受戒、改名慈興、建立大権現大宮及王子眷属等社」とあり、又 三才國圖には此れを四條大納言なりと云ふ、
又 一本立山縁起に「佐伯若右衛門其子有恒立山大宮を建つ」と云ひ、
又 本朝通記に、「大宝三年釈教興立山権現を越中に勧請す云々」と見ゆ、按ずるに立山明神は上古より高山の霊神として、祭祀せられたるは論なし、
又 三千風行脚文集に、
「蘆倉庄立山、大宝元年慈興上人開基、日本第一大梁正一位立山権現、本地國常立尊、相殿二柱尊、皇孫尊、思兼命、手力「雄命等云々」とあり、
其の他諸記多きも慈に略す、
又 萬葉集にも當山を詠めるもの多し。
「多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之」
〈たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず かむからならし〉
「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛」
〈たちやまの ゆきしくらしも はひつきの かはのわたりせ あぶみつかすも〉さて當立山てふは 山の名なりや、神名なりやに就ては、古来 人々の研究せる所なり、按ずるに五十猛命伊達神と稱する事もあり、日本記 五十猛命神多将樹種 大八洲國之内莫不播殖而青山焉等あり。
三代実録に、清和天皇の貞観五年九月二十五日甲寅、越中國 正五位下 雄山神に正五位上を授けらる。
神祇志料に云く、「立山の北に剣山あり、萬葉集に須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓と云るは、此の山にして、須賣加未(スメガミ)と申せるは、即ち雄山神なり、姑附て考に備ふ」と。當社の社領は、式外神名帳にも社領五十石云々とあり、又古昔より寄進せらるる社領頗る多し、・・・・・・・
尚神社には其證書各通を保存せりと云ふ、
又 源頼朝 社殿を造営せしめらし事もあり、(社伝)
要するに當社は往昔より今に至る迄 鹼俊なる山上の霊神として、殊に諸人の崇敬する所たり、明治六年縣社に列す、建物には山上の社殿一宇、境内七坪を有せり、山麓に雄山神社摂社大宮あり 其社には祈願殿とて風雨を祈る社あり。
・・・・・
【原文参照】
『立山開山縁起』について
白鷹伝説 立山開山縁起(略記)
今を去ること一三〇〇年余り前、第四十二代文武天皇がある夜夢を見られた。その夢で
「いま、越中の国に騒乱絶えず。四条第の佐伯宿禰有若をして治めしむれば即ち平安に至らん」
と神のお告げがあった。まもなく越中国司に任ぜられた有若は一族を伴って都を発ち、日を重ねて加越国境の倶利伽羅山にさしかかった。そのとき、紺青の空から一羽の白鷹が舞い下って有若の拳の上にひらりと止まった。見れば全身白銀に輝き、眼は鋭く世にもまれな美しい鷹である。有若は喜び勇んで
「我、越中に入らんとするにこの奇瑞を得たるは神の恵みなり。終生治国の象徴とせむ」
と言って、長旅に疲れた一族を励ました。
有若の政庁は新川郡の保伏山にあった。朝夕政治に心を砕き、悪者を退け、産業を興したので住民は大いに善政を喜び、国中は太平を楽しんだ。
有若には年来子供がなく大変寂しい思いをしていたが夫婦ともどもに東方の神山に心願を立てて祈っていたところ、ある夜神立ちがあり
「我は刀尾の明神なり。汝らに一子を授ける。有頼と名づけよ」
との言葉を聞いた。やがて一人の男子が出生し有頼と命名された。有頼は父母の愛情のもとに健やかに成長し、立派な少年となった。
十六歳になった夏のある日、有頼は父が何よりも大切にして飼っている白鷹を借りて、鷹狩りに出たいと父に申し出た。しかし、父の有若はどうしても許してくれない。仕方がないので父に隠れてひそかに鷹を持ち出し野に放った。すると白鷹はどうしたのか急に羽ばたいて大空に舞い上がり、辰巳(南東)の方を指して飛び去ってしまった。有頼は驚いて彼方此方を探し回ったが見つからない。一里行き二里行き、ついに道に迷ってしまった。勇気を出してさらに行くと岩の上に神座(岩峅)があり、前方に大川が流れて対岸に松林のある所へ出た。ふと見ると一本の大松(鷹泊)に、何としたことか狂気の如く尋ね求めている白鷹が止まっているではないか。有頼は喜んで直ちに大声をあげて呼ぶと白鷹は嬉しげに飛び来たり、まさに有頼の手に止まろうとした一瞬時、側の竹やぶから一頭の黒熊が踊り出た。鷹は驚いて再び大空に舞い上がり、熊はやにわに逃げ出した。有頼が怒って弓を引き絞り、はっしと熊を射れば、矢は月の輪の横にあたり、血を点々と流しながら走り去った。
有頼は血の痕(千垣)を追って山に分け入り、更に進むと広々とした山原に出た。そこにはたくさんの池があり、葦が生い繁って叢なせる清浄な神座(芦峅)があり、側に白髪を垂れ左手に麻の緒を持ち右手に長杖を持った三人の老婆が待っていた。老婆は有頼に向かって
「汝の尋ねる白鷹は東峰の山上にあり。汝行かば必ず得らるるも、川あり坂あり至難の道なり。汝もし初一念を貫かんと欲すれば最も勇猛心と忍耐心を要すべし。苦を厭うならば早々ここより立ち去るべし」
と教え諭した。
有頼は老婆に感謝し勇を鼓して行けば大川があって渡ることが出来ない。思案に暮れているとたくさんの山猿が出てきて藤を使って橋(藤橋)をかけた。幸いと喜んで渡り、険しい山坂をたどること七日七夜、ついに山上の高原に立った。四方をめぐる山々は八葉蓮華の花の如く、去来する雲や霧も全くこの世のものとは思えない。原一面に花咲き乱れ一本の木もなく、巨岩は天柱の如く聳えたち、夏なお万年の雪が谷々を埋め尽くしている。
有頼はそら恐ろしい心にむち打って一歩一歩踏みしめ行き、ふと見れば、我が愛する白鷹は天を翔けり憎っくき黒熊は地を走り、不思議やともにそろって岩屋(玉殿岩窟)にかけ入った。有頼は喜び
「ああ辛苦の甲斐あり。今こそ彼の熊を仕留めて鷹を得て帰らむ」
と刀を抜いて岩屋に踏み込めば、これはまた何事ぞ、暗い洞穴と思いきや、光明燦然として五彩に輝き、幽香ふんぷんとして極楽の霊境である。奥に阿弥陀如来と不動明王の二尊の聖姿が立ち並び、しかも己が射た矢が阿弥陀如来の胸に打ち立って血は傷ましく流れている。
有頼は大いに驚き、夢見る心地の中にも次第に己が犯した罪の恐ろしさに身体がわなわなと打ち震え、嘆き悲しみ
「如何なる前世の宿業か。かかる大罪犯して尊き聖身を傷つけまいらせ、せめてもの申しわけにも」
と刀を逆さにして我と我が腹をかき切ろうとしたとき、両尊はこれを押し止めて有頼に告げて申された。
『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり。我、汝を得てこの山を開かんと待つこと久し。汝の父をして当国の司たらしめしは我なり。汝の生をこの世に与えしも我なり。畜生の姿を借り、身を損ないて導きしも、また我なり。汝の名を顧みよ。頼み有りと申すにあらずや。阿弥陀如来は即ち伊邪那岐神の本地にして、不動明王は即ち天手力雄神の本地なり。汝、切腹など思いもよらず、これより直ちに当山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け』
時に大宝元年七月二十五日の早朝と伝えられる。
有頼は地にひれ伏して拝み奉り、立山の御為に一生涯を捧げ尽くすことを誓い、直ちに下山して父有若にこの事を告げた。更に父と同道して都に上り、朝廷に奏上したところ、文武天皇の御感激浅からず、勅命を下して、立山頂上より東西十三里、南北三里を霊域と定め給うた。有頼は同志の修行者と力を合わせて道を切り開き、橋を架け、室所を建てて諸人の参詣禅定に充て、絶頂に立山大権現を祀る霊殿を築いた。
有頼は出家して慈興と号し、山麓芦峅寺に居を構えて、当時は新川と呼ばれた常願寺川の南北六箇所に堂塔社殿を建立し、立山禅定の弘宣に一生を捧げた。有頼は齢八十三歳にして自らの定命を悟り、天平宝字三年六月七日、竜象洞と称せられる土穴の中に生きながら入定した。涙を流して別れを惜しむ人々に
『なにはがた 葦の葉毎に 風落ちて よし刈る舟の 着くは彼の岸』
と辞世の一詩を残し、土の下より鐘の音の聞こゆること七日七夜に及んだということである。
雄山神社 中宮祈願殿 公式HPより
http://www.oyamajinja.org/oyamajinja_003.htm
雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)