那須加美乃金子神社(なすかみのかねこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 由緒書きには「素戔嗚尊 五十猛命を卒い〈引き連れて〉八十木種〈沢山の木の種〉を持ち 韓国 曽尸茂利(ソシモリ)の地に往(ユ)き その地には植えさせたまはずに この山に植えたまう」と『日本書紀』にある 素戔嗚尊の伝承の発祥地ではないかと思う程 とても似ている伝承を持ちます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
那須加美乃金子神社(Nasukaminokaneko Shrine)
(なすかみのかねこじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県対馬市上対馬町小鹿字大浜520
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大屋彦神(Oyahiko no kami)=〈五十猛神〉
大己貴命(Ohonamuchi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・不詳
【由 緒 (History)】
由緒書きに
素戔嗚尊 五十猛命を卒い〈引き連れて〉八十木種〈沢山の木の種〉を持ち 韓国 曽尸茂利(ソシモリ)の地に往(ユ)き その地には植えさせたまはずに この山に植えたまう
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876)より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)上県郡 16座(大2座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 那須加美乃金子神社
[ふ り が な ](なすかみのかねこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nasukaminokaneko no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
「對馬嶋 上縣郡 那須加美乃金子神社」の論社は2つです
① 那須加美乃金子神社(対馬 小鹿)
② 那須加美乃金子神社(対馬 志多賀)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
対馬空港から R382号経由 約40km 車50分程度
県道39号を北上して 小鹿地区を目指します
小鹿漁港に着きます
小鹿漁港から 橋を渡ると鎮座しています
那須加美乃金子神社(Nasukaminokaneko Shrine)に参着
参道には 鳥居が建っていますが 低く注連縄が掛かり 青々とした木の枝も垂れ下がり 誰もが頭を垂れて進むことになります
一礼をして鳥居をくぐります
周りは 晴天で明るいのですが 一の鳥居と二の鳥居の間は 鬱蒼とした木々で 静けさを伴い ご神域に入る事が 身を染みて感じられます
右手には 社号標「延喜式内 明神小社 那須加美乃金子神社」が立てられています
古木の間を抜けると 二の鳥居が建ち その扁額にも「那須加美乃金子神社」と刻まれています
二の鳥居をくぐると 参道正面に 社殿が建っています 拝殿にすすみます
拝殿の扉を開くと 畳敷きの拝所になっています 何故か 上杉謙信と武田信玄の川中島の一騎討ちの立派な絵馬が飾られています
本殿への扉に口穴があり ここから 賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿を出て 社殿全体を眺めます
拝殿の奥 本殿に回れそうですので 本殿の横で再度 お祈りをします
本殿の前には 小さな狛犬が座していて 愛嬌があります
参道を戻り 木々に囲まれた鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』養老4年(720)編纂に記される伝承
一般に 曾尸茂梨(ソシモリ)は 古代に朝鮮半島にあった新羅(シラギ)の地名とされています
那須加美乃金子神社(Nasukaminokaneko Shrine)の由緒によれば
素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が 曽尸茂利(ソシモリ)から 五十猛神(イタケルノカミ)を連れて戻り この地の神山に 持ち帰った木々の種を植えたと伝承されています
〈『日本書紀(nihon shoki)』巻第一 第八段 一書第四の序盤と終盤が 由緒とよく似ています〉
巻第一 第八段 一書第四の意訳
ある一書(第四)によると
素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の行(オコナイ)は 酷いので
そこで 神々は 千座置戸(チクラノオキド)〈千の台座に乗るほどの宝を出させ〉にて追放いたしました
このとき
素戔嗚尊(スサノヲノミコト)は その子 五十猛神(イタケルノカミ)を率いて 新羅国(シラギノクニ)に降り 曾尸茂梨(ソシモリ)の所に着かれたそこで素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が云われました
「この地に 私は居たくない」
そして 埴土(ハニツチ)〈粘土〉で舟を造り それに乗って東の方に渡り 出雲国(イズモノクニ)の簸川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きましたそこには 人を吞む大蛇(オロチ)がいました
素戔嗚尊(スサノヲノミコト)は 天蠅斫之劒(アメノハハキリノツルギ)でその大蛇(オロチ)を斬られました
このときに その蛇(オロチ)の尾を裂いて見ると刃が欠けた
そこで 尾の中に一本の神剣がありました素戔嗚尊(スサノヲノミコト)は 言われました
「これは私の物とすることはできない」
そこで 五世孫の天之葺根神(アメノフキネノカミ)を遣わして 天に奉られた これが今の 草薙剣(クサナギノツルギ)といわれるものです
はじめ
五十猛神(イタケルノカミ)が 天降られるときに 多くの樹の種をもって下られました
しかし 韓地(カラクニ)には植えないで すべてを持ち帰りました
筑紫(チクシ)からはじめて 大八洲国(オオヤシマクニ)の国の中に播きふやして 青々としていない山は無いのですこのため五十猛命(イタケルノミコト)を 有功神(イサシオノカミ)と称し
紀伊国(キイノクニ)に所に坐ます大神です
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)と記されます
意訳
貞観12年(870)3月5日 丁巳の条
詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに
對馬嶋(ツシマノシマ)の
正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下
従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
所在は 男鹿村〈現 小鹿〉 志多賀村〈現 志多賀〉の双方であるとしています
意訳
那須加美乃金子(ナスカミノカネノミコノ)神社
神位 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・奈蘇上金子神・・従5位上
〇按〈考えるに〉
下野国 那須郡 健武山神(續後記)
武茂神坐沙金之山 三実〈日本三代実録〉奈蘓上那須与尒志音通〇在〈所在〉は 男鹿村 志多賀村
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
式内社は 現 那須加美乃金子神社(対馬 小鹿)をこれとしています
意訳
那須加美乃金子神社
那須加美乃は仮字なり 金子は加禰古と訓ずべし
〇祭神 詳〈ツマビラ〉か ならず
〇伊奈郷 小鹿村に在す 古蹟集 今 那祖師明神と称す 玉勝間神階 三代実録 貞観12年(870)3月5日丁巳の条・奈蘇上金子神・従5位上
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容
式内社は 現 那須加美乃金子神社(対馬 小鹿)をこれとしています
意訳
那須加美乃金子神社
祭神
今 按〈考えるに〉
長崎県式内社記に 祭神 須佐之男命 大屋彦命とありて
由緒書きに 素戔嗚尊 五十猛命を卒い〈引き連れて〉八十木種〈沢山の木の種〉を持ち 韓国 曽尸茂利(ソシモリ)の地に往(ユ)き その地には植えさせたまはずに この山に植えたまう
とある時は この祭神よしなきにあらねど
那須加美乃金子神と云う神は この2神に あるべからず〈あるはずがない〉 姑附て考に備ふ神階 清和天皇 貞観12年(870)3月5日丁巳の条・奈蘇上金子神・従5位上祭日 6月15日
社格 村社
所在 小鹿村 字 那須加美山
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
那須加美乃金子神社(Nasukaminokaneko Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)