楡山神社(にれやまじんじゃ)は 創建年代等は不詳ですが 第5代 孝昭天皇の御代〈紀元前〉の御鎮座という言い伝えがあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 四座」のうちの一社「楡山神社」の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
楡山神社(Nireyama Shrine)
(にれやまじんじゃ)
[通称名(Common name)]
権現様(ごんげさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県深谷市原郷336
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊邪那美命(Izanami no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
第5代 孝昭天皇の御代〈在位 BC475~BC393頃〉の御鎮座という言い伝え
榆山(にれやま)神社
榆山神社は 平安時代に編纂(へんさん)された「延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)」に記されており、榆山の由来は往古この地方一帯に楡樹が繁茂したことによる。正面に樹令六百年の楡の木があり、代々神木とされ、天然記念物として県の指定を受けている。江戸期、熊野信仰に伴い「熊野三社権現」と号し、幡羅郡の総鎮守として榆山熊野社と称したが、明治になり社号を榆山神社にもどした。祭神は伊邪奈美命(いざなみのみこと)である。本社後方に塚があり、これを犯した者は災害あるといわれ里人はここを不入の地としたと伝えられる。里人はこれを守り鳥を神の使いとしてと尊ぶ慣習があり、熊野崇敬の遺風といわれている。文化財は和琴(わごん)、磐笛(いわふえ)、熊野三社大権現の扁額である。
昭和60年3月 深谷上杉顕彰会(第20号)境内案内板より
【由 緒 (History)】
楡山神社 御由緒
【御祭神】
伊邪那美命。一柱。夫の神の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みになった神。「国生み」の神。末子に火産霊神(火の神、愛宕様)をお生みになって後、鎮火の法を教え悟した神。【御社名の由来と御神木・御神紋】
御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の古木1本は、代々御神木と崇められ、樹齢七百年とも1000年ともいい、現在は埼玉県の文化財(天然記念物)に指定されている。
当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ8尺余りの八咫烏の道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現といわれた時代に定まったものともいわれる。【御創立と沿革】
五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。
延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の故実やしきたりをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国旛羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。
旧原ノ郷村は、旛羅太郎道宗の再興になる地域である。旛羅郡の総鎮守、旛羅郡總社といわれ、御社名を旛羅大神ともいった。
康平年間(1058~1065)、源義家の奥州征伐の時、成田大夫助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したという。代々成田家の崇敬篤く、現在の社務所の屋根瓦には○に一の成田家家紋も残っている。
徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆蒔」などともいわれた。幕末の元治元年に「旛羅郡總社」と書した幟旗が今に伝わる。
明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。
明治5年、旧入間県八大区の郷社に制定される。
大正2年、中絶していた年越祭を再興。以来戦中戦後の一時期の中断はあったが、毎年当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や「おだまき」という地域伝来の花火(現在は普通の花火)などの行事が夜遅くまで続く。
大正12年県社に昇格。【御社殿等】
○御本殿。春日造、欅桧楡材、造営年不祥。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木があり、柱などに葵の紋金具があったという。
○御拝殿。明治43年御再建。
○神楽殿。昭和10年参宮記念造営。
○社務所。明治10年修造。元別当東学院御堂を改修したもの。【深谷市指定文化財】
○鳥居扁額。楡材。佐々木文山筆、熊野三社大権現と記す。
○石笛(いわぶえ)。海産天然石、長さ1尺1寸。
○和琴(わごん)。【末社】(大正元年8月合祀)
◆知々夫神社(八意思兼神・知々夫彦命)
◆伊奈利神社(豊受毘売命、大地主命・埴山毘ME命)地神社を合祀。
◆八阪神社(須佐之男命)
◆大雷神社(大雷神、伊邪那岐命・伊邪那美命)三峯神社を合祀。
◆手長神社(天手長男命)
◆大物主神社(三輪大物主命、少彦名命)金刀比羅神社、怡母神社を合祀。
◆天満天神社(菅原道真公、市杵島毘売命、岩長比売命、木花佐久夜毘売命)市杵島神社、富士浅間神社、小御嶽神社を合祀。
◆荒神社(火産霊命・奥津比古命・奥津比売命、御穂須々美命、天津児屋根命・斎主命・武甕槌・比売命)諏訪神社、春日神社を合祀。以上
(注)文中のNAは、成田家家紋の「○(丸)に漢字の一」。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・荒神社
〈もと原郷東北部(字根岸)の田へ降りる手前に鎮座 配祀の神はその境内にあった諏訪神社 春日神社を合祀〉
《主》火産霊命
《配》奥津比古命 奥津比売命
《合》御穂須須美命 天津児屋根命 斎主命 武甕槌命 比売命
・天満天神社
〈もと原郷東部(字木之本)の仙元山古墳に鎮座〉
《主》菅原道真卯公
《合》市杵島毘売命 岩長比売命 木花佐久夜毘咩命
・大物主神社
〈原郷東部・字東原の大物主神社と 古くからあった境内社の金刀比羅神社と怡母神社を合祀〉
《主》三輪大物主命 少彦名命
・手長神社
〈原郷西部・字城西より移転 ほかに木之本の天満天神社の境内社 根岸の荒神社の境内社 新坪の大雷神社の境内社 の3つの同名神社を合祀〉
《主》天手長男命
・大雷神社
〈原郷北部・字新坪(原新田)より移転。字根岸の三峯神社を合祀〉
《主》大雷神
《合》伊邪那岐命 伊邪那美命
・八坂神社
〈字根岸の地より移転〉
《主》須佐之男命
・伊奈利神社
〈原郷中部・字中原の伊奈利神社(現在の外宇)を移転(元八日市T家所有)また、原郷東部・木之本の天神社の境内社の伊奈利神社および同所富士浅間神社の境内社の富士守稲荷神社を合祀(元Y家所有)さらに字城西の手長神社の境内社・地神社を合祀〉
《主》豊受毘売命
《合》大地主命 埴山毘咩命
・知々夫神社
〈幕末のころ字木之本と根岸の境の妙見山古墳に勧請。もと木之本のY家所有〉
《主》八意思兼神 知々夫彦命
・招魂社 平成10年12月吉日再建
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 楡山神社
[ふ り が な ](にれやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nireyama no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「楡山神社」の社名由来について
社名の由来は 御神域一帯に楡の木が多かったことによると伝わります
境内にも 大ニレの切り株が残っています
楡山(にれやま)神社大ニレ
埼玉県指定天然記念物
昭和24年2月22日指定楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約3.6・六メートル、樹高約10メートル、樹令は約600年と推定されています。
ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレは皮を剥ぐと脂状(やに)にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は、関東地方の平地部にあるという点で貴重です。
楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。
「楡山(にれやま)」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。平成6年3月
埼玉県教育委員会・深谷市教育委員会境内の案内板より
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「武蔵國 播羅郡 榆山神社」の論社について
『特選神名牒』『神社覈録』『武蔵国式内四十四座神社命附』などは いずれも楡山神社(深谷市原郷)を式内社としています
なお『式社考』が 妻沼の聖天社を『巡礼旧神詞記』が久保島村の山神大権現を それぞれ式内社楡山神社としています
・楡山神社(深谷市)
・久保島大神社(熊谷市)
・大我井神社(妻沼)
・妻沼聖天山歓喜院(妻沼)〈大我井神社の旧 鎮座地〉
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
深谷駅から R17号 県道127号経由 北東方向へ約3km 車10分程度
境内は東に向いています 北側にも入口があります
東側の表参道には 社号標には「縣社 楡山神社」と刻まれて 木製の鳥居が建っています
楡山神社(Nireyama Shrine)に参着
鳥居の横には 年中行事の案内板があります 2月の年越祭は大正12年(1923)に復活した祭りです 延喜式内 楡山神社と記されています
一礼をして 木製の一ノ鳥居をくぐります 屋根付きの立派な鋳物の扁額があり「延喜式内 八大區總社 楡山神社」と鋳造されています
参道を進むと 右手には神楽殿が建っています 左手には手水舎があります
玉垣に囲まれた神域の入口には 二ノ鳥居が建ちます その先には社殿が見えています
一礼をして 二ノ鳥居をくぐります 拝殿の前 両脇には狛犬が座しています
拝殿にすすみます 正面左軒下に大正5年(1916) 斎藤半次郎さんが奉納した算額が掲げられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 御垣に囲まれた本殿が鎮座しています
本殿には彩色彫刻があり見事です
本殿の周りを取り囲むように鎮守の杜〈かつては 人の立ち入れない 入らずの森〉 その森との境に 境内社が鎮座しています
社殿の向かって右手には 北側からの裏参道があり かつての拝殿の鬼瓦が展示されています
再度 社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社の論社の所在として 妻沼の聖天宮 もしくは 幡羅村にあると記しています
【意訳】
楡山(ニレヤマ)神社
字鏡 楡
式考 女沼村 聖天宮 サルタヒコ 御朱印 50石 或いは云う 幡羅村
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』〈文政13年(1830)完成〉 に記される伝承
熊野社と呼ばれているが 里人は 楡山神社と呼んでいる 相当な古社で 楡の木の古木も多く 延喜式内社の楡山神社であろうと記しています
【意訳】
巻之228 幡羅郡之2 原ノ郷 の条
熊野社
この社を土人 楡山神社と唱え 郡の惣鎮守なり 社地は松杉繁茂せる内に 楡の木あり 又 社の南に続き 二段計の御林にも 楡の古木多く その内 周径1状56尺に及ぶあり 社地の様いと旧ければ 土人の唱える如くにて 延喜式神名帳に載る所の楡山神社なりや 外に據はなし
末社 稲荷社
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
式内社の論社の所在として 幡羅村の原郷八日町に在るとしながらも 妻沼の聖天宮との説も記しています
【意訳】
楡山神社
楡山は 爾禮夜萬と訓ずべし 和名鈔・草木部 楡・夜仁禮 新撰字鏡 木部 楡
〇祭神 伊弉冉尊 地名記
〇原郷八日町に座椅子地名記式社考に 女沼村 聖天宮 祭神 猿田彦大神と云えり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社の論社の所在として 幡羅村の原郷に在ると記しています
【意訳】
楡山神社 称 熊野神
社格 郷社
所在 原郷羅(大里郡幡羅村 大字 原郷)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
江戸期までは 熊野社と称していた 式内社の論社の所在として 幡羅村の原郷八日町に在るとしながらも 妻沼の聖天宮との説も記しています
大正12年(1923)には 縣社に昇格しています
【意訳】
埼玉県 武蔵國 大里郡幡羅村大字原郷
郷社 楡山(ニレヤマノ)神社
祭神 伊邪那美(イザナミノ)命
本社は 元と熊野社と称す 創立年代詳らかならず
但し 延喜式内社 楡山神社なりと
新編武蔵風土記に云く
「この社を 土人 楡山神と唱え 郡の惣鎮守なり 社地は松杉繁茂せる内に 楡の木あり 又 社の南に続き 二段計の御林にも 楡の古木多く その内 周径1状56尺に及ぶあり 社地の様いと旧ければ 土人の唱える如くにて 延喜式神名帳に載る所の楡山神社なりや 外に據はなし」と見えり郷名 幡羅 及び 原 は社名 楡より出づと
楡山神社の所在に就いては 学者各見る所ありて 説を異にせるが如し
式社考は 女沼村 聖天宮を以ってこれに擬し
神社覈録 及び 特選神名牒 当社を以って 楡山神社とせり明治5年 郷社に列す
本殿は 拝殿 神門 社務所等にして 境内は2505坪あり境内神社
八阪神社 天満天神社 金刀比羅神社 怡母神社
伊奈利神社 手長神社 大物主神社 塞神社
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2
楡山神社(Nireyama Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)