二宮神社跡は 伊波乃比咩命神社の 旧鎮座地です 三宅島では 度重なる火山活動によって 多くの神社で遷座が繰り返されています 当神社も 当初の鎮座地「坪田観音(Tsubota kannon)」から 坪田村小倉山「当地〈二宮神社跡〉」に遷座して 現在は 二宮神社(三宅島 坪田)に合祀されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
(Ninomiya Shrine Ruins)
(Iwanohime no Mikoto Shrine Former location)
(にのみやじんじゃあと)(いわのひめのみことじんじゃきゅうちんざち)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
不詳
※現在は 二宮神社(三宅島 坪田)に合祀されています
【由 緒 (history)】
不詳
※現在 二宮神社(坪田)に合祀されている「伊波比咩命神社(Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)」の当初の鎮座地は「坪田観音(Tsubota kannon)」で そこから坪田村小倉山「当地」に遷ったと云われいています
三宅村指定文化財 天然記念物 坪田観音
所在地 東京都三宅島 三宅村坪田
指定日 平成26年11月7日坪田観音の溶岩トンネルは、奥行きは2メートルほど、高さ1メートルほどである。観音像として信仰の対象となった石筍は、高さ50センチ゜ほどで、唐金の色を帯び光沢があり、そのそばにいくつか短い石筍が並ぶ。
『伊豆七島学術調査報告書(昭和32年/1957年:東京都刊行)』によれば、「天上にはラーヴェ・スタラクライトが鋭く尖って、大きい鋸歯を並べたように垂れ下がり、これまた赤銅色に光っている。」とある。
また、『伊豆七島志(明治34年/1901年:刊行)』によると、
二宮神社は、はじめ坪田村の北2町ほどの此山岩窟に鎮座したが、のちに坪田村小倉山に遷り、跡には 観音堂が置かれたとしている。
そして、「洞窟中ニ鍾乳石ノ垂下セルヲ本尊トシテ崇敬シ、遠近来賓スル者少ナカラズ」とある。
観音像のある溶岩トンネルの前庭には、同じく明治34年に坪田村氏子中が奉納した水盤が1基現存しており、少なくとも同時期までには、坪田観音として島民の信仰を集めていたことがわかる。
三宅村教育委員会
坪田観音 現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 伊波比咩命神社
[ふ り が な ](いはひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の論社について
三宅島は 活火山島のため 噴火による遷座が繰り返されています
伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
伊波比咩命神社(Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)の論社
・【当初】坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】
・【次に】二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)〈当社〉
・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)
・【論社】雲見浅間神社(松崎町雲見)
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
坪田の二宮神社から 三宅一周道路を南下 約2.4km 車5分程度
道路沿いに 森の中に鳥居が建っています
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
(Ninomiya Shrine Ruins)
(Iwanohime no Mikoto Shrine Former location)に参着
現在は 森の中に鳥居が建っていて 一部石垣が残っているのみです
一礼して 鳥居をくぐります
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
振り返れば 鬱蒼とした森に建つ鳥居の先には 日差しのある三宅一周道路があります 鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『三宅記(miyakeki)』に記される伝承
三島大明神の遺言として 島を4つに分けて 末の代に后や王子たちにの宮処を定めるくだりがあります
三姉妹の次女が「伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)」です
「次女は 坪田の水乃海(湖)「古澪(フルミオ)池(大路池)」の並びに峰があるのでそこにお祀り」と記されているのが「伊波乃比咩命神社(Iwanohime no mikoto no kaminoyashiro)」の旧鎮座地です
「古澪(フルミオ)池」・古澪(フルミオ)・新澪(シンミオ)池跡は 現在の「大路池」です 「爆裂火口地形(マール)」で 地質学では「古澪マール」と呼ばれて 2000年以上の昔に水蒸気爆発によって形成された火口湖とされています
例えば『三宅記(miyakeki)』で 三島大明神が3人の后に等しく 宮処を定めたのだとすれば
次女は「坪田の水乃海(湖)」を授けるとなっており この湖が「古澪(フルミオ)池」と呼ばれていて 「澪(みお)」の意味は《河川や海で船が航行する水路(航路)》を指すので
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
(Ninomiya Shrine Ruins)
(Iwanohime no Mikoto Shrine Former location)は 現在の「大路池」から海へと通る途中にあります
溶岩流に閉ざされる前 かつては海に通じる湖であったのであろうと推測をしてみました
長女は 伊豆に入海《海が陸地に入り込んだ入り江》
三女は 神着に浦《海や湖の 波が静かな入江》
文中の3人の后には それぞれ港に相応しい地を授けていることになります
均等遺産の分配の遺言になっていますし どの風向きにも島の港として対応する機能を持ちます
意訳
又 三島大明神は 若宮 見目 壬生の館に
「この島を4つに分けて 末の代に后や王子たちにの宮処を定めようと思いますがいかがでしょう」とお尋ねがありました「どのようにでもお計らいください」とお答えになりました
4つに分けられて
一つを 神着(カミツキ)とする二つを 伊豆(イズ)と号す
三つを 阿古(アコ)と号す
四つを 坪田(ツボタ)と号す嫡女(長女)は 伊豆に入海があるのでここにお祀りし
また 次女 は 坪田の水乃海(湖)の並びに峰があるのでそこにお祀りし
また 三女 は 神着に浦があって「シトリ」と名付けるので ここに祀り
また 阿古 は 末の代になってから 私の宮殿を造りなさい
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
『三宅記(miyakeki)』に記される伝承
三宅大明神と壬生実成が 「島焼」(火山による造島)をする為に下田の白浜神社に行くと告げて 壬生実成が三宅島に戻ったところ
度重なる火山活動により 三宅島の内部では 溶岩の流出によって 地形の変化などがあって 村々の境界線が不明となったのでしょうか 后同士の間で境界線で争いがあり 「二宮の母」三姉妹の次女が「伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)」は のんびりとされている方で 境界線で損をしたと書かれています
意訳
さて 翌年に実成が島に帰って 見回りをすると 后たちは立腹されて この島を崩そうとしていらっしゃいます
実成は「これは いかなる事でしょうか?」と申されると
ゐかへ(イカイ)の后がおしゃりました
「八王子の母(三女)と二宮の母(次女)が境界争いをされているのです
八王子の母御前は 最愛の后で 気性が荒くいらっしゃる」とおしゃる実成は 八王子の母御前の前に参られて
「これはいかなる御事で」と申されるたところ 逆鱗に触れ 恐れ申し上げて白浜に参り この事情を〈大明神に〉 ご報告なさいました「わたくしも その解決にあたろう」と 御嶽(三宅島)にお帰りになり 后たち 王子たちをお呼びになられて
明神は
「実成 謹んで聞くがよい
阿古は 私の寝所である
その境界は 東は 桜わたりの川 北は あねまつ川としよう坪田と神着の境界は 后たちの考えがあるだろう
あちらから こちらから 出逢われた所を境と定めたらよい」とおしゃりました「今は それぞれに異論があってはいけません
今後は 何事も 実成が申すことをお聞きになってください 彼が申すことは 私が申すことです」とおしゃって 大島へといらっしゃいましたさて
八王子の母御前 と 二宮の母御前が 境界線を定めようと 日を約束されました
八王子の母御前は 計略にたけた方なので 夜のうちに出発されました
二 宮の母御前は 頼りない 夜が明けてから出発されたので 坪田の東 すた川で出逢われました
それ以来 すた川 を境と定めました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
(Ninomiya Shrine Ruins)
(Iwanohime no Mikoto Shrine Former location)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)