鹿島神社(かしまじんじゃ)は 瀬戸内海の海防の要衝 北条の鹿島に鎮座します その創建は 神功皇后が三韓征討の途次 風早の浦鹿島に投錨し 武甕槌神 経津主神を勧請奉斎し 戦勝と道中の安全を祈願し出陣したと伝承があり その折 里人が神功皇后に 米の上に真鯛をのせて炊いたもの〈北条鯛めし〉を献上したとされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島神社(Kashima shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
愛媛県松山市北条辻1595 鹿島
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
《合》事代主神(ことしろぬしのかみ)
〈明治44年(1911)合祀 美穂神社(土手浜)鹿島の対岸〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神社由緒
当社は神功皇后が三韓征討の途次、風早の浦鹿島に投錨し、武甕槌神、経津主神を勧請奉斎した神社で戦勝と道中の安全を祈願して出陣したと伝えられている。
武家の深く尊崇するところで、安政5年2月16日松山藩主松平隠岐守が参拝以来、例年初穂米を献上されていた。
明治9年9月20日に村社に列し、同44年に事代主神を合祀した。
愛媛県神社庁HPより
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=5194
【由 緒 (History)】
神功皇后の伝説
仲哀天皇の后、神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止められ、軍備を整えられた。このとき島の東部中腹、二の平に仮宮を設けられたといわれ、この所を今も皇后の局と呼んでいる。
島の東北海岸一帯は大津地と呼ばれ、昔港のあったところといわれている。神功皇后は髪洗磯に立たれ、御姿を整え、旅装をなさると鹿島山頂の御野立の厳に立たれ、弓に矢をつかえ、沖へ放たれて戦勝を祈願し、大津地の湊を出発したと伝えられている。
御野立の 巌や薫風 二千年
村上 露月現地案内板より
鹿島神社 ご案内
当社は武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りした神社で、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征討(さんかんせいばつ)の途中、風早の浦(かぜはやのうら)、鹿島にとめて、戦勝(せんしょう)と道中の安全を祈願(きがん)して出陣(しゅつじん)したと伝えられている。その後、事代主神(ことしろぬしのかみ)をあわせて祀(まつ)った。
例祭日は四月十五日と十月十二日の二回あり、海上 神輿渡御(みこしとぎょ)には往時(おうじ)を偲ぶ勇壮な櫂練(かいね)り船が登場する。
櫂練(かいね)り
櫂練りは治承(じしょう)年問(一一七七 ~ 一一八〇)河野水軍が、出陣に際し鹿島の神前に集まって、戦勝の祈願(きがん)、或いは凱旋(がいせん)の時の祝勝(しゅくしょう)行事を行なった。このことが鹿島神社の神事となったと伝えられる。
往時(おうじ)、河野水軍の出陣再現にも似て囃(はや)しの鐘(かね)や太鼓(たいこ)の響(ひび)きも勇ましく、櫂練り船を先頭に伝馬船(でんません)に乗り移った二隻の神輿が続き、お供船(ともふね)が大漁旗(たいりょうき)笹幡(ささはた)をなびかせて続く。
櫂練り船の設備・装置、奉仕者の扮装、舸子(かこ)の漕法(そうほう)、樽上(たるしょう)で剣櫂(けんかい)を操り舞う動作、ホーランエーの掛け声など絢爛たる海上絵巻がくりひろげられる。
現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・鹿島案内図
・鹿島全貌
・鹿島神社 本殿
・鹿島神社 幣殿 本殿
・鹿島神社 拝殿
・龍神社《主》高龗神・闇龗神
〈塞戸島に祀った龍神を1955年に本宮の右に遷座〉
・三穂神社
・要石
要石の伝説
この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。
ゆるぐとも
よもやぬけじな要石
鹿島の神のおわすかぎりは現地案内板より
・狛犬
・鹿島登山口
・厳島神社《主》市杵島比売命
・注連柱
・鳥居
・対岸の鹿島神社 大鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈塞戸島〉龍神社《主》高龗神・闇龗神
・鹿島神社 大鳥居(北条港)
・鹿島神社御旅所(松山市北条辻1603〈北条港〉)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天智天皇 即位2年〈663年〉大和朝廷軍は 百済救援に向かったが 白村江で唐・新羅連合軍に大敗した その後 我が国への反撃侵攻を恐れ 対馬嶋・壱岐嶋・筑紫國に防(サキモリ)と烽(ススミ)を置き 筑紫に大堤で水城を築いた〈大宰府〉と記しています
【抜粋意訳】
天智天皇 即位3年(664年)
この年 対馬嶋(ツシマ)・壱岐嶋(イキノシマ)・筑紫国(ツクシノクニ)などに防(サキモリ)と烽(ススミ)〈狼煙 ノロシ〉を置きました
また 筑紫に大堤(オオツツミ)を築いて 水を蓄えました 名付けて 水城(ミズキ)と言います
【原文参照】
天智天皇の10年(671)大和朝廷が築いた 瀬戸内海の゛上中下3門島の海防城゛について
『日本城郭大系』(にほんじょうかくたいけい)によれば 白村江の決戦の大敗による 唐軍の脅威に備えて・瀬戸内海の海防城を築いたと云う
- 甘崎城を『上門島海防城』
- 来島海峡の築城を『中門島海防城』
- 鹿島の城を『下門島海防城』
と記しています
鹿島の歴史(鹿島城)
北条の300m沖に浮かぶ鹿島の海城、鹿島城はいつ頃、誰によって築かれたのかははっきりしていませんが、越智郡上浦町甘埼の荒神社に、同神社創立史並びに甘埼城創立史を明らかにするために、これと関連した風早の歴史にも説き及んだ「伊予風早志」があります。
同書の中に「天智天皇の10年(671)辛末秋8月7日勅ありて海防城を此の上中下3門島に築き給う。云々」として三つの海防城の拠点となる島を次のように挙げており、第三の下門島海防城が風早の鹿島であるとされています。
しかし一説によれば、建武年間(1334年~1336年)になって風早郡那賀郡の地頭職、今岡四郎通任が、頂上からの風早郡を一望できる要害に島全体を城郭と見立てて階段式連郭構造の鹿島海城構築を完成したと言われています。
「萩藩閥録」によると四国征伐を前にして天正11年(1583年)小早川隆景が鹿島城の得居半右衛門の動静を戦国末期として、その立地条件、社会条件から大いに重要性を帯びていたことを示すものと言えます。
こうして天正13年(1585年)小早川隆景を総大将とする四国征伐は断行されました。このとき先鋒として活躍した来島通総は風早一万四千石を領有し、鹿島城主に任ぜられました。この来島氏も反徳川軍であったため、豊後に転封され自然廃墟となりました。
松山市役所 観光・国際交流課HPより
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/shitestukoen/kashima/rekisi.html
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
神功皇后にまつわる゛北条鯛めしの起源゛言い伝え
瀬戸内海に浮かぶ鹿島(かしま)は 北条鯛めしゆかりの地
瀬戸内海に面した松山市北条は、市街地から近いリゾートエリアとして人気の地区。近年は穏やかな海景色に魅力を感じて、移住してくる人も多い。この地区の象徴ともいえるのが、北条港の沖合400mに浮かぶ鹿島だ。その名の通りに、県の天然記念物に指定された鹿が生息しており、海水浴場やキャンプ場も整備されている。島内にひっそりと佇(たたず)んでいるのは、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主神(ふつぬしのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭った鹿島神社だ。
この鹿島神社と深い関わりがあるのが、松山市の郷土料理として知られる「北条鯛めし」。米の上に真鯛を丸ごとのせて炊き込み、炊き上がったら真鯛の身をほぐして飯に混ぜ込んだものだ。鯛めしについて地元に伝えられている逸話を教えてくれたのは、太田屋旅館七代目の岩渕貴之(いわぶちたかゆき)さん。
「弥生時代(3世紀)、三韓征伐に向かっていた神功(じんぐう)皇后が鹿島に寄港し、鹿島神社に戦勝と道中の安全を祈願したといわれています。その際、地元の人たちが、米の上に真鯛をのせて炊いたものを献上しました。それが鯛めしの始まりとされています」。
醤油の原形とされる醤(ひしお)が生まれたのは奈良時代(8世紀)とされる。当然のことながら、その当時は現代の炊き込みご飯に付き物である醤油は使われず、海水で炊いたと考えられる。以降、北条地区では、祝いの席の料理として鯛めしが受け継がれてきた。
『ライト&ライフ』四国電力株式会社が発行する広報誌HPより
https://www.yonden.co.jp/cnt_landl/2404/special.html
文中の太田屋旅館 鹿島店は 写真にある鹿島の右手に見える赤屋根の建物
愛媛県指定無形民族文化財指定「鹿島の櫂練り」について
河野水軍時代の名残を伝える「北条鹿島まつり」 毎年5月3日・4日に行われます
昔 河野水軍が出陣に際し 戦勝祈願や凱旋時の祝勝奉賛を鹿島の神前で演じて奉納したのが始まりと云う 勇士絢爛な海上絵巻「鹿島の櫂練り」が 海の男たちによって鹿島周辺で繰り広げられます
又 年に1度 鹿島海上の伊予二見で「大注連縄の張替え」が行われます
「鹿島(かしま)の櫂練(かいねり)」について
解説
櫂練(かいねり)の起源は遠く河野水軍の昔、治承年間(1177年~1181年)にさかのぼるといわれ、水軍の出陣に際し、鹿島の神前に終結して戦勝を祈願し、凱旋の時の祝勝奉賛が鹿島神社の神事となったものと伝えられる。
水軍は近世にいたり、衰微絶滅したが北条辻浜、土手浜一帯の住民は先祖の武勇をたたえ、昔の遺風をしのぶため毎秋重陽(ちょうよう)の節句に漁船の競漕を試み、櫂練りを演じる風習が伝承されていた。江戸末期にいたってこれを鹿島神社の祭礼に奉賛するようになり、さらに、神輿渡御(とぎょ)の御乗船に供奉警護にあたることになって今日に及んだものである。
祭神、武甕槌命(たけみかずちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)武勇の神であり、海の守護神でもあって男性的で勇壮な櫂練りは神意にかなったものと言えよう。また、櫂練船の艤装奉仕者(ぎそうほうししゃ)のみなり、漕ぎ方、舳先へさきの樽の上で櫂をあやつっている動作、掛け声、鉦鼓(かねたいこ)の囃(はやし)など、すべて古式にのっとる独特の伝承行事で、地元少年、青年、壮年が奉仕するのが慣例となっている。
松山市役所文化財課(文化財保護担当)HPより
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/ken/kasimano_kaineri.html
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR予讃線 伊予北条駅から西へ約550mで 鹿島への渡船の乗り場があり
乗船して 鹿島に渡れば すぐです
北条港の南岸を進みます
正面に北条港に建つ 鹿島神社 大鳥居が見えてきます
大鳥居の扁額には゛鹿島神社゛とあります
鳥居をくぐり抜けると その先が鹿島への渡船駐車場となっています
鳥居の後ろに見えているのが 海上400m先にある鹿島です
渡し船の船着き場です
北条港から見た 鹿島になります
鹿島の案内図です
現在版
昭和25年(1950)頃の観光パンフレットが張り出されています
鹿島での主な行事も張り出されています
鹿島渡船の時刻表です
渡船は20分間隔で出航しています 待ち時間の時 海を見ると 瀬戸内海ですので 潮の流れはありますが波はありません
岸壁には 無数の小魚が群れています
漁船も行き来しています
対岸の鹿島の船着き場にいる 渡船がこちらに渡ってきます
船が着岸しましたので 乗り込みます
出航です
北条港に建つ 鹿島神社 大鳥居が見えます
鹿島に渡りました 鹿島は 神鹿がいたとのことで 鹿は 当日は見かけませんでした
船の屋根には かざりの鹿があります
鹿島の案内図にあるように 渡船発着場のすぐそばに鹿島神社はあります
渡船の桟橋正面には 鹿島山頂の展望台への登山道があります
登山道入口の脇には 境内社 厳島神社が祀られています
厳島神社から見た 渡船の桟橋です
対岸の北条港に建つ 鹿島神社 大鳥居が見えます
海岸線を歩くと鹿島神社の正面に出ます
鹿島神社(松山市北条辻 鹿島)に参着
一礼をして鳥居をくぐると 芝生の境内に゛鹿嶋宮゛と社号標があり 石燈籠の先に二本の松が対に植えられていて その先に社殿が見えます
石燈籠の脇には 神鹿の石像があり 歌碑
神功皇后の伝説
注連柱をくぐり抜けて
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の向かって右には 境内社が並んで祀られていますので お詣りをします
社殿に一礼をして 参道を戻ります
境内が開放的で 海邊でもあり 歩き回ってしまいます
海岸線を渡船乗り場へと向かいます
渡船に乗船をして鹿島を離れます
鹿島に一礼をします
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『愛媛面影(えひめおもかげ)』巻3-5 〈1869(明治2)年に刊行〉に記される内容
【抜粋意訳】
愛媛面影 巻三 風早郡(かぜはやのこほり)
鹿嶋(かしま)
北條の海上に在る小島是也 此島に鹿島明神の社あり 因(より)て名(なづ)く 島中に鹿多し 久留嶌出雲守(くるしまいつものもり)の砦(とりで)にして 二神豊前守相義(ふたかみぶぜんのかみ すけよし)と云人住(すみ)たる由(よし)二名集に見(みえ)たり
此外野(このほかの)忽那(くつな)無須喜(むすき)等(など)の嶋々 皆 風早郡に属せり
【原文参照】
『四国』〈昭和12年(1937)鉄道省 編〉に記される内容
【抜粋意訳】
伊豫 豫讃線に沿うて(松山以北) 北條町
鹿島(かしま)
伊豫北條驛から渡船場まで約五〇〇米、それから海上約四〇〇米
島は周圍一粁半、高さ一一五米、花崗岩と安山岩より成り南北西の三面は絶壁をなし、東側のみ稍々緩傾斜をなし その麓に鹿島神社があり 十数頭の神鹿がゐる。
小さい島であるが全島に樹木が繁茂し、海岸一帶の地には松が、中腹一帶には樟が多く保安林になってゐる、島の頂に立てば内海の島々の間を走る帆かけ船が美しい眺めを展開し、目の前には袖ヶ浦の白砂青松が横はる。
春は男波女波の汀に汐干狩が樂め、夏は納凉避暑に、秋は岩上に釣を垂れるによく、又小船に棹して碧い波靜かな黑磯、梅ノ木谷、江屋ノ口、犬戻り、水晶ケ濱、石内、夫婦松、横汐、瀬谷、神洗礒等の奇巌を見て廻るのも面白い。鹿島神社の祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)及び經津主命(ふつぬしのみこと)で 神功皇后が三韓征伐にあたり、伊豫大領 越智宿禰髙縄(をちすくねたかなわ)を總船司として 引率し給うたとき、風早浦(かざはやうら)に投錨、戦勝祈願のためここに臨幸して 常陸國 鹿島明神、下總國 香取明神を勧請して鎭座したまうたものと傅へてゐる。頂上に神功皇后の御観望地といふ遺蹟がある。
山頂の鹿島城阯は 久留島氏の属城で二神豊前守を城代とした。天正年中 久留島通總が秀吉に内通して 近郷を侵掠した時は こゝを本據としたといはれてゐる、島には旅館料亭が軒を並べ、名物鯛飯がある。
【原文参照】
鹿島神社(松山市北条辻 鹿島)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
伊豫國 風早郡の延喜式内社について
國津比古命神社(くにつひこのみこと かみのやしろ)
・國津比古命神社(松山市八反地)
櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)
・櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)