丹生川上神社〈下社〉(にうかわかみじんじゃ しもしゃ)は 天武天皇白鳳四年(六七六)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば 天下のために甘雨を降らし 霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建と伝わり 朝廷の尊崇篤く 天平宝字七年(七六三)幣帛の外 特に黒毛の馬を奉献され その後 祈雨には黒馬 祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
丹生川上神社〈下社〉(Niukawakami shrine shimosha)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県吉野郡下市町長谷1の1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》闇龗神 (くらおかみのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
丹生川上神社下社由緒
御祭神 闇龗神(クラオカミノカミ)
いざなぎ、いざなみ 二尊の御子神
御創建 天武天皇白鳳四年(六七六)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建された古社である。
御例祭 六月一日
御神格 延喜式の名神大社二十二社の一社
元官幣大社 明治四年列格御鎮座地 丹生川の川上丹生山
神武天皇御東征の途御親祭遊ばされた地である。朝廷の尊崇 天平宝字七年(七六三)幣帛の外、特に黒毛の馬を奉献される。その後、祈雨には黒馬、祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた。 孝明天皇安政元年(一八五四)に「外患惧服国家清平」の祈祷を仰付けられた。
御神徳 大気を浄化し、万物生成化育の根源たる水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象の上に、はかり知れない恩恵を垂れ給い、守護あらせられるいのちの神様である。
境内石碑文より
【由 緒 (History)】
由緒
御神徳 万物生成化育の根源たる、水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象の上に、はかり知れない恩恵を垂れ給い守護あらせられる。
御例祭 6月の1日(秋の大祭は10月14日)
御社格 延喜式の名神大社、元官幣大社。
御本殿 総桧の流れ造り、屋根銅板葺きで建坪7.31坪。
御神域 約5千坪樹令五百年の老杉をはじめ、槻、樫、椎等の巨樹を以て覆われ森厳そのもので身心共に浄まる。
由緒沿革の概要
御祭神は、いざなぎ、いざなみの大神のみ子神であらせられ、天武天皇の白鳳四年に「人聲ノ聞エザル深山ニ吾ガ宮柱ヲ立テテ敬祀セバ天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨を止メム」との御神誨に因り創立された古社であるから、歴朝の御尊崇極めて篤く、續日本紀に「天平宝字7年5月夷午丹生川上ノ神ニハ帛幣(へいはく)ノ外特ニ黒毛ノ馬ヲ奉ル」と見え、この後は祈雨には黒馬を、祈晴には白馬を幣帛に添えて献ずることを恒例と遊ばされて居り、醍醐天皇の延喜の制では名神(ミョウジン)大社として案上の官幣に預かり、ついで二十二社の一(全国の大社中の特別尊貴な神社)に列し給い明治の新政に及ぶ。また別に神階正一位に進ませられ、爾後たびたびの奉幣をお続けになり、孝明天皇は安政元年に「外患恨服、国家清平」の御祈祷を仰せつけられ(御綸旨現存)文久2年には晨くも銀20枚、米30石を御下賜相成り(御沙汰書現存)続いて明治天皇もその四年に官幣大社に御治定仰せ出だされ、初代大宮司に松岡尚嘉を小宮司に江藤正澄を補佐せられて以来昭和21年までお使いとして高官を参向せしめて、大祭、臨時大祭を厳重に斎行されて来たが、その後神社制度の変革に依り宗教法人の神社となって今日に及んでいる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・稲荷神社《主》宇賀御霊神
・八幡神社《主》応神天皇
・祖霊社《主》氏子の祖霊
・大山祇祠《主》大山祇神
・稲荷祠《主》稲荷神
・産霊石
産霊石(むすびいし)
産霊石には、男根と女陰のご神体が重なり合っています。この石の底には径十センチ位の深い穴があいています。
いつのことか神社にお参りして子宝に恵まれた信者が禊ぎをした丹生川の底にあったものを奉納したもので、今も遠方から参詣者が集まって来ています。
産霊(むすび)は生産・生成を意味する言葉で、進化三神のうちの女神である神皇産霊神(カミムスビ)と、男神の「高皇産霊神」のことを言います。一対の神であり、この二神は一心同体だとする説が唱えられ、「創造」を神格化した神であり、男女の「むすび」を象徴する神でもあると考えられます。この「むすび」の神には衰えようとする魂を奮い立たせる働き(すなわち生命力の象徴)があるとされています。
よって子宝に恵まれるよう静かに参拝をしてほしいものです。
現地立札より
・牛石・蛙石
牛石に思う
この石は形が牛の寝ているように見えるところから、誰となく牛石と呼ぶようになった。この石は大正天皇御大典の奉祝を記念して丹生区より奉納されたものです。当時これと言った道具もない時代に、これだけの石を人力だけで、そり台に乗せて川より引き上げ、若者の心意気と辛抱強さの象徴として此処まで持ち込んで下さった労苦に頭の下がる思いがします。
それから約一世紀に亘り辛抱強くここに座ったままの石である。だから世の移り変わりの色々を知っている、ロマンに満ちた石である。今改めて当時の人々の労苦に感謝しながら、いつの世にあっても辛抱の大切さを教えてくれているこの石を愛しく思い真心込めて優しく三回撫でてあげましょう。思いがけない幸運に恵まれるかも。
蛙石
牛石の傍の石、この石が、なぜ牛石の傍に建っているのか現在の氏子中で誰も知らず不思議に思っていた。
だが、最近その理由がわかった。
この石をじっと眺めているとカエルが立ち上がった姿に見える、そこでこの石を蛙石と名付けることにした。牛は、じっくりと物事を見極めて粘り強く歩むことから、人生も商売も牛歩のようにあれと言われている。
一方蛙は瞬時に物を捕らえる。瞬発力を持っている、すなわち、静と動の対照的な性格を持つ石を並べて置いたのは、人生にも物事を決めるとき、熟慮すべきか、即決すべきか、判断に迷うときがある、そんなとき、この二つの石に触れながら心静かに考えてみよう、そのとき二つの石の精がきっと良い決断を与えてくれるでしょう。
牛の粘り強さと蛙の瞬発力を兼ね備えた人生であるために何事も原典に帰る(蛙)気持ちこそが大切だとこの石が教えてくれている。
現地立札より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『六国史(りっこくし)』に載る 官幣の奉り について
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
゛丹生河上神者゛として 文献に 歴史上に初めてあらわれたものです
【抜粋意訳】
天平寶字七年(七六三)五月庚午〈廿八〉
○庚午 奉幣帛于 四畿内群神 其丹生河上神者 加黒毛馬 旱(ひでり)也
〈旱続きのため 幣帛を畿内四か国の神々に奉り そのうち丹生川上には幣帛に加えて 黒馬を奉った〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天平神護二年(七六六)五月辛未〈十七〉
○辛未 奉に幣帛於 大和国 丹生川上神 及五畿内群神 以祈に澍雨(そそぐあめ)也
【原文参照】
『續日本紀』には 官幣として〈旱(ひでり)に黒馬・霖雨(ながあめ)に白馬〉の記述が数多く記されています 下記に列記します
【抜粋意訳】
寶亀二年二年(七七一)六月乙丑〈丙辰朔十〉
○六月乙丑 奉に黒毛馬 於丹生川上神 旱(ひでり)也 」参議治部卿従四位上多治比真人土作卒
寶亀三年(七七二)二月乙亥〈廿四〉
○乙亥 奉に黒毛馬 於丹生川上神 旱(ひでり)也
寶亀五年(七七四)四月庚寅〈廿二〉
○庚寅 奉に黒毛馬 於丹生川上神 旱(ひでり)也
寶亀五年(七七四)六月壬申〈五〉
○壬申 奉に幣於山背国乙訓郡乙訓社 以犲狼之怪也。」
奉に黒毛馬 於丹生川上神 旱(ひでり)也寶亀六年(七七五)六月丁亥〈廿五〉
○丁亥 奉に黒毛馬 於丹生川上神 旱(ひでり)也 其畿内諸国界 有神社能興に雲雨者 亦遣使奉幣
寶亀六年(七七五)九月辛亥〈二十〉
○辛亥 遣使 奉に白馬 及 幣於丹生川上 畿内群神 霖雨(ながあめ)也
寶亀七年(七七六)六月甲戌〈十八〉
○甲戌 大祓京師及畿内諸国 奉に黒毛馬 丹生川上神 旱(ひでり)也
寶亀八年(七七七)八月丙戌〈八〉
○丙戌 奉に白馬 於丹生川上神 霖雨(ながあめ)也
雨乞い 雨止めの官幣については それ以後の文献にも数多くあり 略します
『六国史』に載る 神位の奉授について
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
卷廿六 逸文(『日本紀略』)弘仁九年(八一八)四月丁丑〈廿四〉
〇丁丑 河内國飢 遣使賑給 」
大和國 吉野郡 雨師神に 奉授に從五位下を 祈雨也
【原文参照】
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷九 承和七年(八四〇)十月己酉〈七〉
○己酉 奉授に正五位下 丹生川上雨師神に 正五位上を 无位水分神從五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十 承和八年(八四一)閏九月戊戌〈二〉
○閏九月丁酉朔戊戌 奉授に正五位上 丹生川上雨師神に從四位下を 勳八等垂水神從五位下 餘如故
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十三 承和十年(八四三)九月戊戌〈十三〉
○戊戌 奉授に從四位下 丹生川上雨師神に從四位上を
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷二 嘉祥三年(八五〇)七月丙戌〈十一〉
○丙戌
進に 山城國 火雷神に階を授くに從五位上を 遠江國 任事(コトノママ) 鹿苑(カソノ)兩神 並授に從五位下
進に 大和國 丹生川上雨師神 階を授に正四位下を
龍田天御柱命神 國御柱命神 若宇加乃賣命神 並に加に從五位上策命に曰 天皇(スヘラミコト)〈我〉詔旨〈仁〉坐。天御柱國御柱神等〈乃〉廣前〈爾〉申賜〈倍止〉申〈久〉。國家〈乎〉鎭護賜〈布爾〉依〈天〉。御位奉授〈天乃〉後。年月久成〈多利〉。因茲。神祇少副正六位上大中臣朝臣久世主〈乎〉差使〈天〉。御位上奉〈利〉稱奉〈留〉。今〈毛〉今〈毛〉風雨隨時〈比〉五穀豐登〈之女〉。天下平安〈爾〉。天皇朝庭〈乎〉堅磐〈爾〉常磐〈爾〉。護賜〈比〉助賜〈倍止〉申賜〈波久止〉申
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申 京畿七道諸神 進 階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
神祇官 无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足 嶋神並從四位上。
宮内省 從三位園神。韓神並正三位。大膳職正四位下御食津神從三位。左 京職從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下。大膳職從五位下火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下。
山城國 正二位勳二等松尾神從一位。葛野月讀神。平野 今木神並正二位。正四位下稻荷神三前並正四位上。正四位下大若子神。小若子神。酒解神。 酒解子神並正四位上。平野從四位下久度古開神從四位上。正五位上貴布禰神。正五位下乙 訓火雷神。從五位上水主神等並從四位下。正五位下合殿比咩神正五位上。從五 位下樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神並正五位下。從五位下祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神等並從五位上。正六位上與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久 我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神並從五位下。
大和國
從一位大己貴神正一位
正二位葛木御歳神
從二位勳八等高鴨阿治須岐宅比古尼神 從二位高市御縣鴨八重事代主神。從二位勳二等大神大物主神。從二位勳三等大和大國魂神。正三位勳六等石上神。正三位高鴨神並從一位。正三位勳二等葛木一言主神。高天彦神。葛木火雷神 並從二位
從三位廣瀬神。龍田神。從三位勳八等多坐彌志理都比古神。金峰神 並正三位
正四位下丹生川上雨師神 從三位
從五位下賀夜奈流美神 正四位下
從五位下勳八等穴師兵主神。片岡神。夜岐布山口神 並正五位上
從五位下都祁水分神。都祁山口神。石寸山 口神。耳成山口神。飛鳥山口神。畝火山口神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。吉 野水分神。吉野山口神。巨勢山口神。葛木水分神。鴨山口神。當麻山口神。大坂山口神。 伊古麻山口神並正五位下。從五位下和爾赤坂彦神。山邊御縣神。村屋禰富都比賣神。池坐朝霧黄幡比賣神。鏡作天照御魂神。十市御縣神。目原高御魂神。畝尾建土安神。子部神。 天香山大麻等野知神。宗我都比古神。甘樫神。稔代神。牟佐坐神。高市御縣神。輕樹村神。 天高市神。太玉命神。櫛玉命神。川俣神。波多井神。坐日向神。卷向若御魂神。他田天 照御魂神。志貴御懸神。忍坂生根神。葛木倭文天羽雷命神。長尾神。石園多久 豆玉神。調田一事尼古神。金村神葛木御縣神。火幡神。往馬伊古麻都比古神。平群石床神。 矢田久志玉比古神。添御縣神。伊射奈岐神。葛木二上神 並從五位上
无位水越神從五位下
・・・・
・・・・
・・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷卅一 元慶元年(八七七)六月廿三日壬辰
○廿三日壬辰 詔め授に大和國 從三位 丹生川上雨師神に正三位を 即便奉幣に黒馬 以て祈雨を 告文〈云々〉
散位正六位上大中臣朝臣岑雄〈乎〉差使〈天〉。正三位〈乃〉御位記〈爾〉。禮代〈乃〉大幣〈乎〉令副捧〈天〉奉出〈須〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ 春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「祈雨神祭八十五座〈並大〉」の条
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 祈雨神祭八十五座〈並大〉
賀茂別雷社一座 賀茂御祖社二座 松尾社二座 稲荷社三座 水主社十座 樺井社一座 木嶋社一座 羽束石社一座 乙訓社一座 和岐社一座 貴布祢社一座〈已上山城国〉
大和社三座 大神社一座 石上社一座 太社二座〈或作多社、〉 一言主社一座 片岡社一座 広瀬社一座 龍田社二座 巨勢山口社一座 葛木水分社一座 賀茂山口社一座 当麻山口社一座 大坂山口社一座 膽駒山口社一座 瞻駒社一座 石村山口社一座 耳成山口社一座 養父山口社一座 都祁山口社一座 都祁水分社一座 長谷山口社一座 忍坂山口社一座 宇陀水分社一座 飛鳥社四座 飛鳥山口社一座 畝火山口社一座 吉野山口社一座 吉野水分社一座 丹生川上社一座〈已上大和国〉
枚岡社四座 恩智社二座〈已上河内国〉
大鳥社一座〈和泉国〉
住吉社四座 大依羅社四座 難波大社二座 広田社一座 生田社一座 長田社一座 新屋社三座 垂水社一座 名次社一座〈已上摂津国〉
座別絹五尺、五色薄絁各一尺、絲一絇、綿一屯、木綿二両、麻五両、裹薦半枚、毎社調布二端、〈軾料、〉夫一人、丹生川上社、貴布祢社各加黒毛馬一疋、自余社加庸布一段、其霖雨不止祭料亦同、但馬用白毛、
巻3神祇 臨時祭 凡奉幣 丹生川上神者、大和社神主随使向社奉之、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省、〉
賀茂別雷神社一座 賀茂御祖神社二座 松尾神社二座 稲荷神社三座 貴布祢神社一座 鴨川合神社一座 御井神社一座 葛野月読神社一座 木嶋坐天照御魂神社一座 平野神社四座 梅宮神社四座 乙訓神社一座 酒解神社一座〈亦号山崎神、已上山城国、〉
春日神社四座 大和神社三座 石上神社一座 多坐神社二座〈或号大社、〉 飛鳥神社四座 高市御県神社一座 気吹雷神社二座 大神神社一座 太玉神社四座 穴師神社一座 高屋安倍神社三座 大名持御魂神社一座 丹生川上神社一座 金峯神社一座 鴨神社二座 葛木御歳神社一座 葛木一言主神社一座 高鴨神社四座 高天彦神社一座 葛木火雷神社二座 片岡神社一座 火幡神社一座 広瀬神社一座 龍田神社二座 平群坐紀氏神社一座〈已上大和国〉
恩智神社二座 枚岡神社四座 杜本神社二座 飛鳥戸神社一座〈已上河内国〉
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)吉野郡 10座(大5座・小5座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 丹生川上神社(貞 名神大 月次新嘗)
[ふ り が な ](にふのかはかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nifunokahakami no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 大和國 吉野郡 丹生川上神社(貞・名神大 月次 新嘗)(にふの かはすみの かみのやしろ)の論社
第40代天武天皇白鳳4年(675)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により 創祀されました
雨師明神・水神宗社として゛雨乞いには黒馬を 雨止めには白馬又は赤馬が献上された゛との記録が残ります
この丹生川上神社の奉幣祈願は 『続日本紀』天平宝字7年(763)5月28日「旱続きのため 幣帛を畿内四か国の神々に奉り そのうち丹生川上には幣帛に加えて黒馬を奉った」に初めてあらわれ 以後 応仁の乱の頃までに 九十六度もの祈雨奉幣祈願があったとの記録があります
『延喜式』(927)には名神大社として 延喜式内社 大和國 吉野郡 丹生川上神社(貞・名神大 月次 新嘗)(にふの かはすみの かみのやしろ)とされました
都が京都に遷った後も 平安時代中期以降は 祈雨の神として「二十二社」の一社に数えられていましたが 応仁の乱があった戦乱の時代以降は 奉幣祈願も中断され やがて所在不明とされていました 明治以降 研究調査が行われ 下社・上社・中社の順に比定され 現在は 三つの論社をあわせて「丹生川上神社」とされています
・丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)
・丹生川上神社〈上社〉(吉野郡川上村迫)
・丹生川上神社〈中社〉(吉野郡東吉野村小)
・丹生神社〈中社の旧跡〉(吉野郡東吉野村小)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄吉野線 吉野神宮駅から 県道39号を吉野川に沿って下り R307号を南下します 約19km 車て30分程度
丹生川に沿うように走る県道138号線沿いに 一の鳥居が建ちます
丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)に参着
参拝日は 八月でしたが 物凄い雨が降ったり止んだりしていました
駐車場に車を止めると「日本最古 水の神様」とあり 天の歓迎でこの雨模様なのだろうか と内心喜んでいました
驚いたのは このような雨天で しかも山深いこの地に 参拝者がかなりいたことです
崇敬者が多いことがわかります
一礼をして 一の鳥居をくぐり抜けて 手水舎で清めます
手水舎の脇には 古い社号標が置かれています
拝殿は石垣が組まれた一段高い社地に建てられていて その前には 二の鳥居が建てられています
二の鳥居に一礼をして くぐり抜けて 拝殿にすすみます
写真では ちょっとわかり難いのですが 拝殿のはるか上にある屋根が 本殿となります
拝殿にすすみ
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿に奉献酒の樽酒があり 銘柄は「丹生」
拝殿の裏手に周ります 屋根のようなものが山へと伸びています
驚きました 先程 見えていた山中の本殿へと 拝殿と本殿を繋ぐ石垣が築かれていて その上に木の階段が造作され さらに屋根が付けられています
まるで 天階(あまのきざはし)の様です
反対側へとまわるには 一度拝殿の前に出て向かって左側へ進むと
御神水がありました
奥まった場所には 御神木もあります
欅に願いをこめて
昔から大木に神宿ると伝えられていますが、正にこの欅、神宿るに相応しい大木、樹齢五百年(推定)株回り、四、五メートル、樹高約三十メートル余、大昔より涸れたことのない御神水の恩恵を受け四方に伸びた枝に繁る若葉は、神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、秋の紅葉はさながら錦絵のようで、見る人のこころを捕らえて離さない、今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、何か一つだけ願いをかけてみよう、思わぬ御利益に預かることができるかも。
現地立札より
御神木の脇から 拝殿と本殿を繋ぐ 屋根付の階段を眺めます
本殿に一礼をして 境内を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 丹生川上神社 名神大月次新嘗について 所在は゛丹生荘丹生村に在す、雨師社と称す、゛〈現 丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)〉と記しています
※丹生川上神社〈下社〉の鎮座地てある下市町は 昭和31年には秋野村 丹生村と合併して現在に至っています
【抜粋意訳】
丹生川上神社 名神大月次新嘗
丹生は爾布、』川上は加波加美と訓べし、
○祭神 罔象女神、或云高龗、〔頭注〕
○丹生荘丹生村に在す、雨師社と称す、
○式三〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、大和國 丹生川上神社一座、』祈雨祭神八十五座〔並大〕云々、丹生川上社一座、
○江家次第〔祈年穀奉幣〕丹生、〔令神祇官進差文〕
廿二社注式云、〔下八社〕丹生、〔使神祇六位官一人、幣一前、〕〇日本紀 神代巻上、一書曰、伊弊册尊 且神退之時、則生に水神 罔象女云々、又一書曰、小便、化に為神名曰に罔象女、」
同紀、神武天皇 戊午年九月甲子朔戊辰、陟に于丹生川上、用祭に天神地祇、」
舊事紀、〔皇孫本祀〕援に取丹生川上之五百箇真坂樹、以祭に諸神、類社
當國 宇陀郡 丹生神社、〔鍬靫〕伊勢國 飯高郡、若狭国 遠敷郡、同國 三方郡、越前國 敦賀郡、但馬國 美含郡 丹生神社〔各一座〕近江國 伊香郡 丹生神社二座、鎭坐 社地
廿二社注式云、天武天皇白鳳四年 御垂跡、當社為に大和之別社、事見に延喜格云々、○類聚三代格一、寛平七年六月二十六日、太政官符、応禁に制大和國丹生川上雨師神社界地事、四至、東限に鹽匀、南限に大山峯、西限に板波瀧、北限に猪鼻瀧云々、〔下の文雑事に出す〕
〔連胤〕云、當社を雨師神といふ事、弘仁以後はじめて見えたり、抑雨師神と称ふ事を、伴信友が考に云、晋干實が捜神記に、赤松子者神農時ノ雨師也、服に泳玉散以教に神農、能入火不焼、至に崑崙山常入に西王母石室中、随に風雨上下、炎帝少女追之、亦得僊倶去、至に高辛時復為に雨師遊に人間、今雨師本是、」
又四に、風伯雨師是也、風伯者箕星也、雨師畢星也、鄭玄謂、司中ノ司命文星第四第五星也、雨師一曰に屏扇、一曰に號屏、一曰に玄冥、」
又抱朴子に、辰日雨師者龍也とあり、此川上神を雨師と称ふも、漢風の称なるべし、名神本紀の傳 併せ考ぶべしと云り、然るべし、
續日本後紀、承和七年六月癸丑、比來亢陽渉句、陰雨不下、不に預祈祷、恐損に國家、宜奉に幣於貴布禰丹生川上雨師諸社、祈需澤於名山大川、庚午、公卿論奏曰、運鐘に季俗、道謝に潜通、内求に諸己、政術多昧、去年炎旱鳴蝉之稔不昇、今夏審陽封蟻之微欲決、而上天反累、惟神降休、雨師俄奔に於四冥、甘澤終遍に於八極、〔下略〕三代實録、元慶二年六月三日丁卯、自に去年至此、亢陽不雨、名山大川能興雲致雨、班幣祈雨、〔中略〕丹生川上云々、是也、
仁和元年五月十四日戊戌、祈に止雨、告文曰、丹生河上仁坐雨師大神乃廣前爾云々、
著聞集、〔神祇部〕に、保延五年五月朔日祈雨の奉幣ありけり、大宮の大夫師頼卿奉行せられけるに、大内記儒弁さはりありて参らざりければ、宣命をつくるべき人なかりければ、上卿志のびて宣命を作りて、少内記相永作りたりとぞ號せられける、此宣命かならず神感あるべきよし自賛せられけるに、はたして三日雨おびただしくふりたりけるとなん、
裏書云、彼宣命嗣、天皇我詔旨、〔中略〕大神曰 域爾垂迹〔多末倍留〕遂窟雨師傳名〔多末倍留〕霊祠〔奈利〕、然則名山大澤〔與利〕、興雲〔志〕致雨〔之天〕云々、
史官記に、仁平三年七月二十日、祈雨奉幣の時の宣命にも、就中大神者曰域爾垂跡禮、爾師爾通名須、遂窟乃霊祠與雲仁有便利、名山乃幽場降雨仁無煩之云々など見えたり、もとより彼 漢神の雨師には座しまさねども、習合の説おこりてより以來、かくは申す事なりかし、神位
日本紀略、弘仁九年四月丁丑、大和國 吉野郡 雨師神 奉授に從五位下、以祈雨也、續日本後紀、承和七年十月己酉、奉授に正五位下 丹生川上雨師神 正五位上、同八年閏九月戊戌、奉授に正五位上 丹生川上雨師神 從四位下、同十年九月戊戌、奉授に從四位下 丹生川上雨師神 從四位上、
文徳實録、嘉祥三年七月丙戌、進に大和國 丹生川上雨師神 階授に正四位下、
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授に大和國 正四位下 丹生川上雨師從三位、
元慶元年六月二十三日壬辰、詔授に大和國 從三位 丹生川上雨師神 正三位、官幣
續日本紀、天平寶字七年五月庚午、奉に幣帛干四畿内群神、其丹生河上神者加に黒毛馬、旱(ひでり)也、
天平神護二年五月辛未、奉に幣帛於大和國丹生川上神、及五畿内群神、以祈に澍雨、
寶亀二年六月乙丑、奉に黒毛馬於丹生川上神、旱(ひでり)也、
同三年二月乙亥、奉に黒毛馬於丹生川上神、旱也、
同五年四月庚寅、奉に黒毛馬於丹生川上神、旱也、
同年六月壬申、奉に黒毛馬於丹生川上神、旱也、
同年六月丁亥、奉に黒毛馬於丹生川上神、旱也、其畿内諸國界、有神社能興に雲雨者亦遺使奉幣、
同年九月辛亥、遣使奉に白馬及幣於丹生川上、畿内群神、霖雨(ながあめ)也、
同七年六月甲戌、奉に黒馬於丹生川上神、旱也、
同八年八月丙戌、奉に白馬於丹生川上神、霖雨也、〔續後紀以後 所見頗多し、今比保古に譲りて略す、〕○式三〔臨時祭〕祈雨祭〔幣物〕條に、丹生川上社加に黒毛馬一匹、其霖雨不止祭料亦同、但馬用に白毛、」凡奉に幣丹生川上神者、大和社神主随使向社奉之、
神戸
續日本紀、寶亀四年五月丙子、充に丹生川上神戸四烟、以得に嘉樹也、雑事
類聚三代格一、寛平七年六月二十六日、太政官符、応禁制大和國丹生川上雨師神社界地事、〔中略〕右得に神祇官解称、大和神社神主大和人成解状称、別社丹生川上雨師神祝禰宜等解状称、謹検に名神本紀云、不聞に人声之深山吉野丹生川上、立に我宮柱以敬祀者、為に天下降に甘雨止に霖雨者、依に神宣造に件社、自昔至今奉幣奉馬、仍四至之内放に牧神馬禁に制狩猟、而國栖戸百姓並浪人等寄に事供御奪に妨神地、屡触に汚穢れ動致に咎祟、爰祝禰宜等依称に供御不に敢相論、既犯に神禁何謂に如在、経に言上嚴被に禁制者、所陳有実仍送者、官依に解状謹請に官裁者、大納言正三位兼行左近衛大將皇太子伝陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、宜下に知彼國令加に禁制、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 丹生川上神社 名神大月次新嘗について 所在は゛諸書、本社を以て 丹生村に在とす、然れども・・・丹生川上と云ふにも合へれば、迫村の神社即式社なるへしと云り、姑附て考備ふ、゛〈諸書は 現 丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)としているが 迫村の神社〔現 丹生川上神社〈上社〉(吉野郡川上村迫)〕であろう〉と記しています
【抜粋意訳】
丹生川上(ニフノカハカミノ)神社
〇按 大和舊跡幽考、大和志以下諸書、本社を以て 丹生村に在とす、然れども一説に本村古老の傳に、當社は丹生の鳥居の洪水に流れ來りて、此に止りしを、神躰として祭れる由なれば、古社ならぬ事、著明なるか上に、
三代格に、丹生川上社の四至を挙て、東限に鹽匀、南限に大山峯、西限に板波瀧、北限に猪鼻瀧と云る文に合ざれば、疑はしきを、迫村なるは粗此四至に符ひ、丹生川上と云ふにも合へれば、迫村の神社即式社なるへしと云り、姑附て考備ふ、水神 彌都波能賣(ミツハノメノ)神を祀る、〔廿二社注式、廿二社本録〕
伊邪那岐(イザナギノ)命の御子神也、〔古事記、日本書紀、〕
此神よく天下蒼生の為に、甘雨を降し給ふを以て、其徳を稱て雨師神と申す、〔参取類聚三代格、日本紀略大要〕
昔此神教(サト)し給はく、人聾(ヒトコエ)の聞えぬ深山(ミヤマ)、吉野ノ丹生川上(ニフカハカミ)に我宮柱(ミヤハシラ)を建(タテ)て敬奉(イツキマツ)らば、甘雨(アマキアメ)を降(フラ)して、霖雨(ナガメ)を止(トトメ)給はむ、と教給ひき、故宮社を造りて仕奉りき、〔類聚三代格、〕之を大和神社の別社とす、〔類聚三代格、大倭社注進状、〕
大炊天皇天平寶字七年五月庚午皐するを以て、幣帛及黑毛馬を奉り、〔續日本紀〕
光仁天皇 寶龜四年五月丙子、大利丹波四戸を神封に充しむ、嘉澍あるを以て也、〔續日本紀、新抄格勅符〕六年九月辛亥、霖雨祈の爲に、白馬幣帛を奉る、〔續日本紀〕
是後此神を祭るもの、旱には必黑馬を奉り、霖雨には必白馬を奉りき、〔續日本紀、續日本後紀、三代実録、日本紀略、延喜式〕
其祷祈ある每に、神驗靈應尤顯る、〔左經記、古今著聞集、新葉集、吉野拾遺、〕桓武天皇延曆十九年十月壬辰、月次祭に預り、〔類聚国史〕〔〇按本書、此條缺文あり、前後の例に依て之を訂す、〕
嵯峨天皇弘仁九年四月丁丑、雨を祈るを以て雨師神に從五位下を授け奉り、〔日本紀略、大倭社注進状、〕〔〇按雨師神と云事、始て此に見えたり、〕
仁明天皇承和五年八月甲辰、白馬を奉て晴を祈り七年十月已酉、正五位下より正五位上に叙され、八年九月戊戌、從四位上を加へ、〔續日本後紀、〕〔〇按 正五位下に進れし年月、詳かならず、〕
文德天皇 嘉祥三年七月丙戌、正四位下に進め、〔文徳実録、〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、從三位を賜ひ、九月庚申、幣使を差して雨風を祈り、
陽成天皇 元慶元年六月壬辰、祈雨の為に宣命を捧け、正三位を加奉る、〔三代実録〕宇多天皇 寛平七年六月壬子、勅して百姓浪人等神地を妨け穢奉る事を禁しむ、是よりさき、大和社 神主 大和人成儞(ヤマトノヒト ナリマサ)さく、別社丹生川上雨師神の祝等云く、名神本紀を考ふるに、昔神宣に依て社を建しより、今に至るまて幣を奉り馬を奉るに依て、東は鹽匀(シホアヒ)、南は大山ノ峯、西は板波(イタナミノ)瀧、北は猪鼻(イノハナノ)瀧を神社の界とし、神馬を放牧ひ、狩猟を禁めらる、然るに國栖戸(クスベノ)百姓浪人等事を供御に寄せ、神地を妨け、動すれば神崇あり、と云ふ由を奏せるに依て也、〔類聚三代格、帝王編年記、〕
九年十二月甲辰、從二位を授け、〔大倭社注進状、〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣、及祈雨の祭に預る、凡其祈雨幣は、大和社神主をして、之を奉らしむ、〔延喜式〕
村上天皇 天曆二年五月丙辰、殿上人を遣して競馬を奉り、〔日本紀略〕後一條天皇 長元四年八月戊子、神祇官人をして、止雨の幣を奉る、〔日本紀略、小右記、〕
崇德天皇 保延五年五月庚辰朔、旱雲に依て宣命を奉り之を祈るに、三日の間大に雨ふりき、〔古今著聞集、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 丹生川上神社 名神大月次新嘗について 所在は゛丹生村(吉野郡上社川上村 中社小川村大字小 下社南芳野村大字丹生゛〈現 丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)・現 丹生川上神社〈上社〉(吉野郡川上村迫)・丹生川上神社 中社(吉野郡東吉野村大字小)〉と記しています
【抜粋意訳】
丹生川上(ニフノカハカミノ)神社 名神大月次新嘗
祭神 龗(オカミノ)神
今按 日本紀略 績日本後紀 以下の書に本社のことをば みな丹生川上雨師神とみえたる丹生は 地名川上は丹生川の上なる由にて 雨師は類聚三代格引名神本記に この神の神宣を挙て 爲に天下降に甘雨止に霖雨を とのり玉ひしことみえて 世々に祈雨止雨の幣を奉りしなとを合せ考るに龗神におはすこと明らか也 されど抱朴子に辰日雨師者龍也ともあるに依て 漢神を祭れるならんと思ふべけれど 本朝世紀仁平三年七月二十日の宣命に就て中に大神は者日域に爾垂跡を禮雨師爾通名を須(ズ)と雨師爾通名を須(ス)の語あるにて漢神ならぬことも著ければ 今決めて龗神と記せり
神位
聖武天皇 天平寶字七年四月庚午 奉に幣帛于四幾内群神其丹生河上ノ神者加に黑毛馬早也
嵯峨天皇 弘仁九年四月丁丑大和國 吉野郡雨師神 奉授に從五位下以に祈雨一也〔日本紀略〕
仁明天皇 承和七年十月巳酉 奉授に正五位下 丹生川上雨帥神に正五位上 八年九月戊戍 奉授に正五位上 丹生川上雨師神に從四位下 十年九月戊戍年 奉授に從四位下 丹生川上雨師神に從四位上
文徳天皇 嘉祥二年七月丙成 進に大和國 丹生川上雨師神に正四位下
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申奉授に大和國 正四位下 丹生川上雨師神 從三位 元慶元年八月二十三日壬辰 詔授に大和國從三位 丹生川上雨師神に正三位祭日 九月三日
社格 官幣大社所在 丹生村(吉野郡上社川上村 中社小川村大字小 下社南芳野村大字丹生)
今按 本社所在 一は丹生莊丹生村なりと云ひ 一は川上郷迫村なりと云て 一定せざるが如しと雖も丹生村古老の傳へに 何の頃にや丹生社の烏居 浩水に流れて此村に止りしを拾ひ挙て神體とし 社を建立したるが 即丹生村の神社なりと云へば古社ならぬこと明けく 萬葉集〔巻十三〕の歌に「おのとりて丹生の檜山の木こりきて をぶ子に作りまかぢぬき磯こぎたみつつ島傳へ見れとも飽(アカ)ず三吉野の瀧もとどろに落る白浪とあるを略解に吉野の丹生なり 吉野の大瀧なるべしと云るに 今丹生莊丹生川としては中々磯こぎ回(タミ)つつ烏傳など云へき大河にあらず 又この丹生川に筏を流すことは近年に始りしなりとも云ふを思ふに其地理にも違ひ 旦類聚三代格 寬平七年の太政官符にも打合ねば 此は式社にはある可らず 然らば何れ式社ならんと云に 迫村の方確證ありて聞ゆるを下に云べし 其は格文に丹生川上神社の四至を挙て 東は限り鹽匀(シホアヒ)、南は限り大山ノ峯、西は限り板波(イタナミノ)瀧、とある 鹽匀は今 川上郷鹽葉村にあたり 大山峰は今の大峯山にあたり〔板波瀧は詳ならず〕
猪鼻(イノハナノ)瀧は 小川郷萩原村の下に猪鼻と云山あり 此山の上の山續きに高さ三丈程の瀧あるを里人はーノ龍と云ふ 是即 猪鼻瀧なるべく 又迫村なる社より件の四至を計るに 或は三里或四里許づつ隔りて格文によく合ひ同郷の西 河東川の両村と國栖郷の南國栖野々口の両村接境にて これも上文のつヾきに國栖戸百姓並浪人等寄に事を供御に奪妨に神地を とあるにも符合ひ 又この社より十町許川上に鹽谷村あり 其十町許下に丹生山と云あり 其山に上丹生中丹生下丹生と云もありて 其前なる川を丹生瀬と云り 名寄に五月雨を丹生の川せの柚下しひかぬによするきさの山際とある 象の山際は丹生山の下二里許にて川傍に象谷村あり 又 新葉集吉野の行宮にて 雨師の社へ止雨の奉幣使など立られける云々 後醍醐天皇この里は丹生の川上ほと近し祈らば晴よ五月雨の空との玉へる丹生の川上ほと近しと云も 象の山も丹生の村にては叶はざれば 迫村の神社式内なるに似たり猶よく考べし
【原文参照】