根倉神社跡地・國之御神社跡地(ねぐらじんじゃ・くにのみじんじゃあとち)は 明治41年中村の畠田神社に合祀された延喜式内社の跡地で 根倉神社は 佐々牟江宮or八握穂社とする説 八握穂社(根倉神社)を荻原神社とする説があり 3つの式内社〈竹佐々夫江神社・櫃倉神社・荻原神社〉の論社 國之御神社は式内社 國乃御神社の論社です

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目次

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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(Negura Shrine/Kuninomi Shrine Former location)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県多気郡明和町根倉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
根倉神社
《主》宇賀魂神(うかのみたまのかみ)
国之御神社
《主》土之御祖神(つちのみおやのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
根倉神社(式内社)は 豆垣内にあり 祭神は宇賀魂神
国之御神社(くにのみ)(式内社)は 東川にあり 祭神は土之御祖神
両社とも明治41年8月中村の畠田神社に合祀された現地案内板より

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【由 緒 (History)】
『伊勢参宮名所図会』巻之上に記される内容
【抜粋意訳】
▲根倉(ネグラ)
佐々夫江の神社、式内にて祭所 大歳神 云云。
【遷幸要略】には佐々牟江とあり。西大淀村と行部村の間、大淀の内に入江あり、是を佐々夫江といふ。七八間計の板橋を篠笛といふ
▲根倉神社(ネグラノジンジャ)
所祭 宇賀御魂神。國御祖神社(クニミヲヤノジンジャ)。所祭 土御祖神〔根倉村に有〕
【儀式帳】には大土御祖神社 根倉甕皇御神と有。
月夜には ねぐらの森もくらからず、まして しらいの濱いかならん
【原文参照】

蔀関月 著『伊勢参宮名所図会』巻之上,大日本地誌大系刊行会,大正4-5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/952764
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・古社殿地 祠

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・鳥居

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・社頭

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・畠田神社(明和町中村)
明治41年4月に下御系地区11ヵ字に鎮座していた神社を すべて北藤原の畠田神社に合祀
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈竹佐々夫江神社の論社〉〉
〈畠田神社に合祀 國之御神社(明和町根倉)〈國之御神社の論社〉〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
根倉神社については 三つの式内社の論社になっています
①(伊勢國多気郡 櫃倉神社)
②(伊勢國多気郡 竹佐々夫江神社)〈佐々牟江宮or八握穂社とする説あり〉
③(伊勢國度會郡 荻原神社)〈八握穂社(根倉神社)を荻原神社とする説あり〉
國之御神社については 一つの式内社の論社になっています
④(伊勢國多気郡 國乃御神社)
②(伊勢國多気郡 竹佐々夫江神社)〈佐々牟江宮or八握穂社とする説あり〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[旧 神社 名称 ] 竹佐々夫江神社
[ふ り が な ](たけささふえの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takesasafue no kaminoyashiro)
④(伊勢國多気郡 國乃御神社)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)[旧 神社 名称 ] 國乃御神社
[ふ り が な ](くにのみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kuninomi no kaminoyashiro)
①(伊勢國多気郡 櫃倉神社)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)[旧 神社 名称 ] 櫃倉神社
[ふ り が な ](ひつくらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hitsukura no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
③(伊勢國度會郡 荻原神社)〈八握穂社(根倉神社)を荻原神社とする説あり〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小44座)[旧 神社 名称 ] 荻原神社
[ふ り が な ](をきはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Okihara no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『倭姫命世紀(Yamatohime no mikoto seiki)』〈平安初期806~906年頃の成立〉に記される伝承
延喜式内社 伊勢國 多気郡 竹佐佐夫江神社(たけささふえの かみのやしろ)について
垂仁天皇二十二年 皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉り 飯野の高宮より五十鈴川上に行幸された時 佐々牟江に船を留め その所に佐々牟江宮を造営したと記されます
その他 飯野高宮・櫛田社・魚見社・眞名胡神社・佐々牟江社・大與度社・礒ノ宮の創建について記されています
【抜粋意訳】
二十二年 癸丑
飯野の高宮に遷りて 四箇年奉斎す この時 飯高ノ縣造(サトツクリ)の祖 乙加豆知(ヲトカツチノ)命に「汝が国の名は何そと」と問ふ賜ふと「意須比(イスヒ)飯高國」と申上げて 神田と並び神戸を進る 倭姫命は「飯高 志止(シト)白す事 貴(キイナリ)し」と悦び賜われた
次に、佐奈(佐那)縣造(サトツクリ)の祖 弥志呂(ミシロノ)宿祢命に「汝が國の名は何そと」問ひ賜ふと 曰く「許母理(コモリ)國 志多備(シタヒ)之国 眞久佐牟(マクサム)毛久佐(ケクサ)向國(ムカウクニ)」と申上げて 神田 又 神戸を進る
又 大若子命に「汝が國の名は何そと」問ひ賜ふと 曰く「百張蘇我(モモハルソカ)乃国 五百枝刺(イホエサス)竹田之國」と申上げた その所に御櫛(オクシ)を落(オトシ)給(タマ)われたので その所を櫛田(クシタ)と号(ヨバレ)給(タマ)われたので 櫛田社を定め賜れた
その所から御船に乗り給い幸行(ミユキナリタマフ)と 河後の江に到り坐(マシマス)る時に 魚(マナ)が自然に集り出て 御船に参乗(トヒノリ)ました 倭姫命は それを見て悦び給い その所に魚見社を定め賜れた
その幸行に従うと 御饗(ミアヘ)を奉(タテマツル)神(カミ)が参(マヒ)り 相支(アヒタテマツリ)「汝が國の名は何そと」問ひ賜ふと 曰く「白濱(シラハマ)眞名胡(マナコノ)國」と申された その所に眞名胡神社を定め賜れた
又 乙若子(ヲトワカコノ)命を以て 麻神草霊(ヌサクサ ヒトカタ)等を進に 倭姫命が祓解(ハラヘ)を令(メイジ)及に 陪従之人(シタカヘノヒト)に弓剱(ユミ ツルギ)を留めるに 兵器を共に入り座(マシマス)に 飯野高宮を遂に得たまへり 五十鈴宮に向かう それ以来 天皇之太子(ミカドノミコ)は 斎宮(イツキミヤ)驛使(ムマノツカヒ)國司人等に至るまで 川辺で祓解(ハラヘ)をし 鈴声を止む これその儀の所縁
その幸行に従うと 佐々牟江(ササムエ)に御船を泊め給い その所に 佐々牟江宮を造(ツクリ)令(シメ)坐(マシマ)し給われた 大若子命は「白鳥之眞野國」と國保伎(クニホギ)〈寿き〉曰く その所に佐々牟江社を定め賜れた
その幸行に従う間に 風浪は無く 海盬(ウミノシオ)は 大與度(ヲヲヨト)〈大淀〉に淀み 御船が幸行できた その時 倭姫命は 悦び給い その濱に大與度社を定め賜れた
〔天照太神 誨を〈教へ賜い〉倭姫命に曰く「これ神風 伊勢国は 即ち常世の浪の重浪(シキナミ)帰(ヨスル)國なり 傍国(カタヘノクニ)可怜(ウマシ)國なり この國に居(ヲラント)と欲ふ」と 太神の教への其の祠を伊勢國に因って立てるに 斎宮を五十鈴河上に興す これを礒ノ宮といふ 天照太神の始めて天より降りし處なり〕
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

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〈垂仁天皇二十八年秋〉竹佐々夫江神社に合祀される八握穂神社について 真名鶴が北より皇太神宮に飛来し 鳴き止まないので 倭姫命は鶴の行方を探させると 佐々牟江宮前の葦原の中へ帰り行き 八百穂に茂る稲を咥えて鳴いていた 倭姫命はこれを喜び 稲を刈り取り懸税とし 鶴の住む所に八握穂社を造営したと記されています
皇太神の摂宮 伊雑宮 八握穂(ヤツカホ)社について 創建の由来を記しています
【抜粋意訳】
二十七年戊午 秋九月
鳥の鳴く声が高く聞えて 晝夜(ヒルモ ヨルモ)止(ヤ)まず 囂(カマヒスシ)かったので「此(コレ)異(アヤシ)」と宣(ノタマフ)て 大幡主命と舎人(ミヤツコ)紀麻良(キノアサヨシ)を 使(ツカヒ)に遣って 彼(カ)の鳥の鳴く所を罷(マカリ)見に行かせて見ると 島國の伊雑方(イサワノカタ)上(カミノ)葦原(アシハラ)の中に 根本は一基で 末は千穂に茂ってゐた稲一基があった その稲を白き眞名鶴(マナツル)が咋(クイ)て廻(メグリ)ながら鳴(ナキ)これを見顕(ミアラハス)すと その鳥の鳴く声は止(ヤミ)かく返事を申された
この時 倭姫命が宣(ノタマフ)て「恐(ヲソロシ)し 事不問(コトトハヌ)鳥すら田(ミタソ)を作りて 皇太神に奉(タテマツ)れる物を」と詔して 物忌(モノイミ)を始められました 彼の稲を伊佐波登美神(イサハツミノカミ)抜穂に抜かしめて 皇太神の御前に懸久眞(カケクマ)に懸け奉(タテマツリ)始(ハシメ)すなわち その穂を大幡主の女子(ムスメ)乙姫に清酒(カカミキ)に作らせ 御饌津(ミケツ)に奉(タテマツリ)始(ハシメ)千税(チクラ)を奉(タテマツリ)始(ハシメ)る事 茲に因る也 彼の稲の生(ウメル)地(トコロ)は 千田(チモトタ)となづけ 島國の伊雑方(イサワノカタ)上(カミノ)に在る その所に伊佐波登美之神宮を造り奉り 皇太神の摂宮 伊雑宮がこれである 彼の鶴眞鳥を名づけて称すに大歳神と同じ所に税宛(オオナカラト)奉(ツカマツル)なり 又 その神は 皇太神の朝熊の河の後(モリヘノ)の葦原の中に 石に坐(マシマス)彼の神を小朝熊山嶺に社を造(タテ)り祝奉(イハイタテマツル)て坐す 大歳神と称するは是なり
又 明る年秋のころ〈垂仁天皇二十八年秋〉
眞名鶴は 皇太神宮に當(アタリテ)天翔(アマカケリ)北より来て 日夜(ヒルヨル)止(ヤマズ)に翔鳴(タケリナキ)時に當(アタリテ)昼の始め 倭姫命は 異(アヤシミ)給(タマヒテ)足速男命(アシハヤヲノミコト)を使(ツカヒ)として罷(マカリ)見に行かせて見ると 使が到(ユキテ)見ると その鶴は佐々牟江宮(ササムエノミヤ)の前の葦原の中に還(カヘリ)行きて鳴いてゐた 使が到(ユキテ)見ると 葦原の中を稲本は一基で 末は八百穂(ヤホホ)に茂り生(ハヘ)ていた 咋(クワヘ)捧(ササゲテ)持鳴(アラケナキ) 使が到(ユキテ)見て顕(アラハス)時 鳴声は止みて 天翔(ソラニカケル)事も止めた この時 かく返事を曰く申上げた
この時 倭姫命は 歓び詔ふに「恐し 皇太神入り坐(マシマス)鳥禽(トリケモノ)相(トモニ)悦び 草木(クサキ)共(トモ)相随(シナヒナビキ)奉(タテマツル)稲一本は千穂八百穂(チホヤホホ)に茂れり」と詔して 竹連(タケノムラジ)吉比古(ヨシヒコ)等に仰せて 先穂(ハツホ)を抜穂(ヌイホ)に半分(ナカラ)を抜くに 大税(オオチカラ)に苅られて 皇太神の御前に懸け奉り 抜穂は細税といひ 大苅は太半といひ 御前に懸け奉り よって 天都告刀(アマツノト)に「千税(チカラ)餘 八百税餘(ヤホチカラアマリ)」と称白(ホメモウシ)仕奉(チカエタテマツル)なり 因って その鶴の住所に八握穂(ヤツカホ)社を造(ツクリ)祠(マツル)なり
又「伊鈴(イスズ)の御河(ミカハ)の漑水道田(ミスナカラミタ)には 苗草敷かずして 作り養へ」と詔られた
又「朝の御饌(ミケ)夕のの御饌(ミケ)の御田作る家田の堰水の道の田には 田蛭(タヒル)穢(ケガハラシ)ければ 我田には住まはせじ」と宣られた・・・・〔略〕
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用
根倉神社を『倭姫命世記』等により式内論社とする説について
①〈式内社・竹佐々夫江神社〉佐々牟江宮or八握穂社を根倉神社とする説
②〈式内社・荻原神社〉葦原の中に祀られた八握穂社を根倉神社とする説
③〈式内社・櫃倉神社〉櫃倉は根倉の誤記とする説
延喜式内社 伊勢國 多気郡 竹佐佐夫江神社(たけささふえの かみのやしろ)の論社について
・竹佐々夫江神社(明和町山大淀)
・根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈竹佐々夫江神社の論社〉の旧鎮座地〉
・畠田神社(明和町中村)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈竹佐々夫江神社の論社〉〉
延喜式内社 伊勢國 多気郡 國乃御神社(くにのみの かみのやしろ)の論社について
・根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)
〈畠田神社に合祀 國之御神社(明和町根倉)〈國之御神社の論社〉の旧鎮座地〉
・畠田神社(明和町中村)
〈畠田神社に合祀 國之御神社(明和町根倉)〈國之御神社の論社〉〉
延喜式内社 伊勢國 多気郡 櫃倉神社(ひつくらの かみのやしろ)の論社について
・根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈櫃倉神社の論社〉の旧鎮座地〉
・畠田神社(明和町中村)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈櫃倉神社の論社〉〉
・津田神社(多気町井内林)
〈津田神社に合祀 菅原神社(鍬形村)〈櫃倉神社の論社〉〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 荻原神社(貞)(をきはらの かみのやしろ)の論社について
・葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉
・定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)
〈定神社の前身は 奥定(榎村神社)・中定(中の宮)・口定(定古清宮・萩原神社)の三神社からなり この内の・口定(定古清宮・萩原神社)が論社〉
・根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈萩原神社の論社〉の旧鎮座地〉
・畠田神社(明和町中村)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈萩原神社の論社〉〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄山田線 斎宮駅から北上して約6.5km 車での所要時間は12~15分程度
根倉集落は 東側に笹笛川 西側に祓川が流れていて その中間に在ります
その根倉集落の西側にあります
根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)に参着

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小砂利の敷詰められた参道を進むと 白木の鳥居が建てられています

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鳥居の左手前には 山神の石祠が集められていて その脇に 明和町教育委員会・郷土文化を守る会が設置した案内柱が二本あつて それぞれに「式内 根倉神社跡 根倉」「國之御神社跡 根倉」と記されています

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一礼をしてから鳥居をくぐり 古殿地にすすみます

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古殿地の前には 社号標が二本建てられています
゛延喜式内 根倉神社゛
゛延喜式内 國之御神社゛と刻字があります

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その脇には案内板があります

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古殿地は石壇で一段高くなっていて 敷地には白玉石が敷き詰められています

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古殿地の中央に細い参道のような敷居のようなコンクリートがあり まるで根倉神社と國之御神社の敷地を分けているようにも見えます
ちょうど 参道の正中に当る位置です
松阪市櫛田町の櫛田神社には この位置を「神の道」と記していましたので 参考に載せておきます

櫛田神社の「神の道」
小さな賽銭箱も置かれていて
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 竹佐々夫江神社について 所在は゛祭神在所等詳ならず゛〈所在不明〉と記しています
【抜粋意訳】
竹佐々夫江神社
竹は前に同じ、佐々夫江は假字也、
○祭神在所等詳ならず
○倭姫世記云、遂向に五十鈴宮、〔中略〕從其幸行弖、佐々牟江御船泊給比、其処爾佐々牟江宮造令坐給支、大若子命白鳥之真野國止 國保伎白天、其処爾佐々牟江社定給支、又云、垂仁天皇廿六年秋之比、真名鶴皇太神宮當、天翔從北來天、日夜不止、〔中略〕彼鶴佐々牟江宮前之葦原中還行鳴、使到見、葦原中生稻、本波一基為天、末八百穂茂也、〔中略〕同其鶴住処、入握穗社造祠也、
考證云、按八握穂社者佐々夫江神社歟、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
式内社 國乃御神社について 所在は゛土古呂村に在す゛と記しています
【抜粋意訳】
國乃御神社
国乃御神は久爾能美加美と訓べし
〇祭神 土之御祖神、〔考證、俚諺〕
〇土古呂村に在す、〔同上〕
〇考證云、儀式帳 根倉社、二所神殿其一乎、
〔連胤〕按るに、齋宮式祈年祭小社九十八座、多氣郡の中に當社を戴せずして相鹿社といふあり、此疑らくは同社異名歟、猶考ふべし、
式内社 根倉神社について 所在は゛根倉村に在す゛〈現 根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)〈畠田神社に合祀 國之御神社(明和町根倉)〈國之御神社の論社〉の旧鎮座地〉〉と記しています
【抜粋意訳】
根倉神社
根倉は禰久良と訓べし
〇祭神 根倉甕星神
○根倉村に在す、〔考證、俚諺〕
○御鎮座本紀云、以に大土祖宇賀魂神為に根倉甕星神、
〇儀式帳、〔神宮院行事事條〕多氣佐々牟延宮坐支、彼時竹首吉此古乎、汝國名何問賜支、即櫛田根倉神御田進支、」
外宮儀式帳〔職掌事條〕根倉物忌父、根倉社、二所神殿造理掃浄奉、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
式内社 葭原神社〈荻原神社〉について 所在は 月読宮南に在す宇加屋社〈現 葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉〉とし
文徳実録 天安2年にすでに官社に預っているのに 延喜の伊勢大神宮式には載せていない これは疎漏である と記しています
【抜粋意訳】
葭原神社
葭原は與之波良と訓べし
○祭神 佐々津比古命、宇加乃御玉御祖命、伊加利比女命、
○月読宮南に在す、宇加屋社此乎、神名略記
○儀式帳云、未官帳社十五処の中に載す 大歳神兒佐々津比古命、形石坐、又宇加乃御玉御祖命、形無、又伊加利比女、形無、
官社
文徳実録、天安2年2月丙戌、在伊勢國正六位上葭原神預官社、〔連胤〕按るに、當社既に官社に預れり、然れば延喜の伊勢大神宮式には、大神宮所摂官社の中に入べきを、延暦の儀式帳に官社廿四処、とあるままを執て、後に當社の官社に加はる事の沙汰なきは疎漏也といふべし、往昔もかかる不調子の事ある、恐るべし、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 竹佐々夫江神社について 所在は゛今 大淀西に小入江ありて、其處に佐佐夫江橋といふあり、盖 舊地なり゛〈現 竹佐々夫江神社(明和町山大淀)〉と記しています
【抜粋意訳】
竹佐々夫江(タケササフエノ)神社
〔〇按 神名帳考証、今 大淀西に小入江ありて、其處に佐佐夫江橋といふあり、盖 舊地なり、姑附て考備ふ〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
式内社 國乃御神社について 所在は゛相鹿社と云を載て、此社 疑らくは本社を指に似たり゛と記しています
【抜粋意訳】
國乃御神(クニノミカミノ)社
〔〇按 齋宮式、本郡の神五十二座を挙て、斎宮 祈年祭に預ると云り、然るに、相鹿社と云を載て、此社 疑らくは本社を指に似たり、姑く附て考に備ふ、〕
式内社 櫃倉神社について 所在は゛鍬方村の北方 河副に當れば、其 天神と稱する産神社‘〈現 津田神社(多気町井内林)〈津田神社に合祀 菅原神社(鍬形村)〈櫃倉神社の論社〉〉〉と記しています
【抜粋意訳】
櫃倉(ネクラ)神社
〔〇按 式内社検録に、近長谷寺資財帳云、多氣郡相可郷十六條一當惠里十二十三坪 同六反四至、東限ニ横倉ノ社 並岡ヲとあるを條里の制にて、推考ふるに、鍬方村の北方 河副に當れば、其 天神と稱する産神社 即當社なるへしと云り、附て考に備ふ、〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
式内社 葭原神社〈荻原神社〉について 所在について多氣郡根倉村 御玉社〈現 定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)〉としつつ
文徳実録には 〈現 葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
荻原(ヲギハラノ)神社
〇按 延暦儀式帳、文徳実録、に萩原を葭原に作る、
今 多氣郡根倉村 御玉社 蓋是也、伊勢式内社険録
大歳神兒 佐佐津比古命、加乃御玉御祖命、伊加利比女を祭る、佐佐津比古命形石に坐す、倭姫命 祝並 御刀代田を充奉りき、延暦儀式帳、
文徳天皇 天安二年二月丙戌、正六位上 葭原神官就に預る、即是也、文徳実録、
凡 本郡伊佐奈伎宮、伊佐奈彌宮、月讀宮坐荒御魂命三座 及 朝熊社以下 四十六座、並に齋宮祈年祭に預り坐神也、延喜式
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 竹佐々夫江神社について 所在は゛三重縣 (多氣郡大淀村大字山大淀 )山大淀村゛〈現 竹佐々夫江神社(明和町山大淀)〉と記しています
【抜粋意訳】
竹佐々夫江神社
祭神
今按 倭姫命世記に從其幸行弖、佐々牟江御船泊給比、其處爾 佐々牟江宮ヲ造リ令レ坐給支、其處爾佐々牟江ノ社ヲ定給支とあるを思ふに こも亦 天照大御神の御魂を祭れる御社なるべし
祭日 五月晦日 十一月十九日
社格 村社所在 三重縣 (多氣郡大淀村大字山大淀 )山大淀村
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
式内社 國乃御神社について 所在は゛(多氣郡下御絲村大字北藤原畠田神社に合併 )゛〈現 根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)〈畠田神社に合祀 國之御神社(明和町根倉)〈國之御神社の論社〉の旧鎮座地〉〉とするが証拠はない と記しています
【抜粋意訳】
國乃御神社
祭神
祭日
社格所在 (多氣郡下御絲村大字北藤原畠田神社に合併 )
今按るに 根掠村土古路村等に在りといへど證なし 檢錄に齋宮式相鹿社に作るを以て按るに相可郷の中間北側にありて上町の氏神 上(ウヘノ)宮と稱する産神社ぞ當社なるべき 下宮伊蘇上社に對せるなり 然るに其社を相鹿上社とするは荒凉なりとみえたり 猶よく考へ定むべきなり
式内社 櫃倉神社について 所在は゛三重縣 (多氣郡津田村大字鍬形 )今 飯高郡鍬形村゛〈現 津田神社(多気町井内林)〈津田神社に合祀 菅原神社(鍬形村)〈櫃倉神社の論社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
櫃倉神社
祭神
祭日
社格 (村社)(明細帳 飯高郡に鍬形村なし 多気郡根倉村に根倉神社あれども 彼は葭原神社なりと由緒中にありて 當社に一定せず 兎に角 判明せず)
所在 三重縣 (多氣郡津田村大字鍬形 )今 飯高郡鍬形村
今按 檢錄に近長長谷寺資財帳云 多氣郡相可郷十六條一當惠里十二十三坪同六反 四至東限 櫃倉社並岡南峯 西限 公田 北限 櫛田河とあるを 條里の制にて 推按ずるに相可郷の西極 北牧より東一里の内 十二十三坪の地は鍬方村の北方河副にあたるべければ 其處に在る天神と稱する神社即 當社なるべきこと明亮なり 然るを神名帳考證に横を根の誤字として根倉村に當社を配するは疎忽なり迷ふべからずと云るはまさりて聞ゆ
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
式内社 葭原神社〈荻原神社〉について 所在は 度會郡北中村〈現 葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉〉とし その他の説を紹介しています
多気郡久豆村 荻原神社あり口定社と云〈現 定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)〉
又 根倉村と云〈現 根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)〉
【抜粋意訳】
荻原神社
祭神 佐々津比古命 大歳神兒
今按
荻原を大神宮儀式帳には葭原とあり 葭と萩と通はして用たるにや 儀式解に葭原はヲギハラとよむべしアシハラとよむはわろしと云り 姑附て考を俟つ
官社 文德天皇天安二年二月丙戌在 伊勢國 正六位上 葭原神 預官社
祭日
社格 (明細帳 葭原神社 皇大神宮末社とせり 度會郡北中村)(内宮末社)所在 (度會郡四郷村大字北中)
今按
度會縣注進狀に 多気郡久豆村 荻原神社あり口定社と云 祭神 須佐之男命とあり 式社調帳には矢野村川邊社の南にイカリノモリあり 積良村の地なり此地にやと云り
檢錄には儀式帳に祭神を佐々津比古命とす 佐々津葦原の所由を以て多氣郡根倉村の御玉社と云ふや當社なるべきとあり 大神宮儀式解には社地は奧定村 熊野と伊勢の界 大杉谷の邉 より九里はかりせまりにあり 深山中にて九里の間人家なしとあるは 奥定社を謂ふなり
又 同書に宇治中村月夜見宮の南にー小社あり これならんと云へど 此邊イカヒと云ひイカヒの森と云より 葭原神社にます伊加利比女より思ひよせたるにて從ひがたしとみえたれば 積良中村に處のイカリノモリと云もうけがたく
又 口定奥定二處も深山幽遼の地にて式社はあるましく
又 根倉村と云も 祭神の名より推當たる説なれば據がたし猶考べし
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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